メッセージ - マナの性質(出エジプト記16:31-36)
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『イスラエルの家では、それをマナと名付けた。それは、コエンドロの種に似て白く、蜜の入ったウェファースのような味がした。』(出エジプト記16:31 新共同訳)
このマナは、まことのパンであるキリストの性質をよく表している。
マナはコエンドロ(コリアンダー)の実のように小さく、丸く、大人でも子供でも誰の口にも入る。
キリストのご性質もマナと同じように、丸く小さく、棘が無い。
全宇宙はこの御方によって成ったというのに、小さな人間の赤ちゃんとして降りてこられ、誰の口にも入るマナのように、大人でも子供でも誰もが受け入れる事が出来る。
マナが白いように、キリストのご性質も雪よりも白く潔白である。
マナが甘いように、キリストの人柄に触れた人は全て、甘く柔らかな感覚に満ち足りる。
イスラエルの民はそれをマナ(「これは何」という意味)と名付けたが、主が日々与えて下さる恵みとは、実に「これは何」の連続だ。
空気は当たり前のようにそこにある。もし明日、いつも吸っている空気が無くなったらどうしよう、などとは、誰も心配しない。
人は文字通り、空気を吸うように、その存在を当たり前の事としているが、そもそも、人に必要な空気も光も、主が力ある御腕によって日々整えておられるのだ
もし、高度な知性を持った地球外生命体が突然現れ、地球の有様や、そこに満ちる生き物たちの有様を見たなら、きっと「これは何」と驚くに違いない。
地球の質量や重力定数、地軸や太陽との距離などが少しでも狂ったなら、人は存続できない。この地は、驚くべき主の不思議によって支えられているのである。
それなのに、人はなんと、荒野の民のように主の恵みを覚えず、ないがしろにしているだろうか。
『モーセは言った、「主の命じられることはこうである、『それを一オメルあなたがたの子孫のためにたくわえておきなさい。それはわたしが、あなたがたをエジプトの地から導き出した時、荒野であなたがたに食べさせたパンを彼らに見させるためである』と」。』(出エジプト記16:32)
主は、それを子孫たちも見れるように、蓄えるよう命じ、アロンはそれをあかしの箱の前に安置した。
イスラエルの子孫達が、その何世代もの長い間腐りもせず壺の中に保たれていたマナを見た時、驚きをもって主の御業をほめたたえた事だろう。
私達もまた、主が与えて下さる日々の恵みと不思議を覚え、それを後々の子孫にも告げ知らせ、証拠として残しておくべきなのだ。
神の箱の中には、マナの入ったつぼの他、芽を出したアロンのつえと、契約の石板とが入れてあった。(ヘブル9:1-5)
マナは神の恵み、神による不思議な養いである。アロンのつえは、死からの復活のしるしであり、神が認証された祭司のしるしである。そして契約の石版は、神のおきてであり、御言葉である。
これらは「あかしの箱」の中に納められ、その箱は旧約時代、最も神聖な場所である至聖所に安置されていた。
至聖所は、主の臨在で満ちている聖なる領域であり、旧約の時代は、大祭司が年に一度、犠牲の血を携えてしか入れなかったが、キリストは十字架上で尊い血を流し、真の身代わりの犠牲となって下さった事によって、父なる御神は完全になだめられ、神殿の幕は裂け、人類全てに、神の聖所への道が開かれたのだ。
それで今や、私達も、キリストによって大胆に恵みの御座へと、近づく事が出来るようになった。
この世を生きていく人生は、荒野を旅しているようなものかもしれない。
しかし日々、天から注がれる恵みは与えられている。
すなわち、まことのパンである御言葉なるキリストによって、日々養われている。
毎日御言葉に養われ、毎日キリストをいただきつつ、主が約束して下さった祝福の地へと一歩一歩向かって行く皆さんでありますように!