メッセージ - 来て、そして見なさい(ヨハネ1:35-51)
来て、そして見なさい(ヨハネ1:35-51)
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バプテスマのヨハネは、人々をメシヤであるキリストの元へと導くために神から遣わされた。ヨハネがイエス様を指して「見よ、神の小羊」と言った時、二人の弟子は、ヨハネの元を去って、イエス様の方へと行った。
ヨハネは自分の元を去ってイエスの方へと向かった二人の弟子達を引き止めなかったし、弟子達も、それまで師であったヨハネの所から離れ、ヨハネが常々示していたお方・キリストに、ためらいなくついて行った。キリスト教会の目的も、教会が栄える事ではなく、キリストが栄える事である。
二人はイエス様に、どこに「泊まって(メノー:とどまる、つながる)」おられるのかを、真っ先に聞いた。
イエス様に真っ先に尋ねるべきは、イエス様がどこに行き、どこに留まられるかであり、イエス様が行かれる所、留まられる所へ、私達もついて行き、イエス様の元に留まるべきである。
イエス様は自分が留まっている所を教えたのではなく、来て、そして、見るようにと言った。(39節、46節)
彼らのうちの一人は、後の十二弟子の一人、アンデレである。彼はイエス様の所に行って共に泊り、イエス様の素晴らしさを体験した。そして彼は、真っ先に兄弟であるシモンに伝え、キリストの元へ連れて行った。
アンデレは五千人の給食の時、五つのパンと二匹の魚を持っている少年を、イエス様の所へと導いた人で、彼は人に伝える賜物の持ち主で、人をイエス様の元へ連れて来る人だった。
主は、ヨハネの子「シモン(受け入れながら聞く、軽薄)」と出会った時、名前を「ケパ(岩)」と呼ぶ事にした。
主は、彼が将来どのようになって行くのかを、既に見ておられた。彼は確かに、名前の通り軽薄な所もあって、軽々しい言動をしては失敗する事も幾度かあったが、後に彼は、教会の重要人物となる。
教会とは、イエス様に「あなたは、生ける神の御子キリストです。」と告白する所から始まり、主はその「信仰告白」という岩の上に、教会を立てられる。そして教会は、ハデスの門も勝てない。(マタイ16:15-18)
『その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされたが、ピリポに出会って言われた、「わたしに従ってきなさい」。』(ヨハネ1:43) ピリポは五千人の給食の時、この五千人のお腹を満たすには二百デナリ程のパンが必要だと計算し、また、最後の晩さんの時には、イエス様に「わたしたちに父を見せて下さい。そうすれば満足します」と言った事を、イエス様にたしなめられた。(14:8)
彼は理系人間だったようであるが、彼もまたイエス様を人に伝える人で、ナタナエルにイエス様を伝えた。
ナタナエルは御言葉を調べ求める人で、最初は「ナザレから、なんのよいものが出ようか」と、パリサイ人と同じ理屈を言ったが、ピリポはそこを理屈では返さず、「来て、そして見なさい」と言い、ナタナエルはそれに従って行って、そしてイエス様と出会った。
「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」。(48節)
イエス様は、ナタナエルがいちじくの木の下にいた事も、御言葉を思い巡らしたり祈ったりして来た事も、全てご存知であった。イエス様はペテロやナタナエルを見ていたように、私達の事もすっかりご存知である。
ナタナエルもイエス様を見、経験して、イエス様こそ神の子であり、イスラエルの王であると告白した。
このように、主は、色々なタイプの、色々な賜物を持った人達を、実に豊かな方法で導かれる。
この一年、主は、実に不思議な導きで皆さんを導かれたのではないだろうか。
教会もこの一年、とても魅力的な人達が多く加えられ、実にバラエティ豊かになったが、主を慕い求めて来た人は、一人も漏れる事なく、主の素晴らしさを知り、味わったのではなかろうか。
主へと導かれる最良の方法は「来て、そして見なさい」という言葉にシンプルに従い主の元に行く事である。
主の元に来て、主が留まられる所へ行き、主が留まる所に留まり、 主の素晴らしさを間近で仰ぎ見るなら、ここに出てきた色々な弟子達のように、ますます主の魅力にはまって行き、誰かに伝えずにはおれなくなって行くのだ。
来年はさらに主の御元へ近づき、主を間近で見、主の恵みをさらに深く、多く頂き、さらに多くの人達に主の素晴らしさを伝えて行く皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!