メッセージ - 贖いと洗い(出エジプト記30:11-21)
礼拝説教メッセージ音声:贖いと洗い(出エジプト記30:11-21):右クリックで保存
人口調査でイスラエル人を登録する際は、「贖い銀」を支払う事を主は命じている。
『これは、彼らの登録によって、彼らにわざわいが起こらないためである。登録される者はみな、聖所のシェケルで半シェケルを払わなければならない。一シェケルは二十ゲラであって、おのおの半シェケルを主への奉納物とする。』(出エジプト記30:12-13)
イスラエル人として登録された成人男性は皆、銀半シェケル(1シェケルは11.4g)を支払う事になっており、金額は富んだ人も貧しい人も、同じ「半シェケル」である。
その銀は、会見の天幕の用として、もちいられる。(同14−16節)
つまり、イスラエル人として登録された成人男性は、皆、神に贖われた者であり、皆が神の幕屋の奉仕へ参加した者とされているのだ。
私達については、イエス・キリストが、贖いの銀を支払って下さった。
ルカ10:30-37の「良きサマリヤ人のたとえ」の中に、サタンに身ぐるみ剥がされ、傷つけられ、動けなかった私達の有様と、一方的に助けて下さった、良きサマリヤ人としてのキリストの姿を、見る事が出来る。
この世という旅路の中、サタンに襲われ、何もかも奪われ、身動きできなくなっていた私達に対し、人間の祭司や働き人は何もしてくれなかったが、イエス様はサマリヤ人として身をやつし、近づいてきて、聖霊の油を塗り、ぶどう酒(イエスの血)で洗い清め、贖いの衣で包帯をして傷を覆って下さり、イエス様の乗り物である「ろば」に私達を乗せ、世の旅路において安全な宿屋(教会)へと運んでくださり、しかも介抱できるようにと、宿屋に必要な銀二枚まで支払って下さった。
「行ってあなたも同じようにしなさい」
キリストが私達に為して下さったように、私達も同じように傷ついた人の隣人となるよう命じられている。
イスラエルの民は全員、贖いの銀を払う事によって自らを主に対して買い戻し、その銀は天幕の用に用いられ全員が主の働きに参加したように、私達も、主が贖って下さったからには、奉仕や献金などを通して、神の働きに参加すべきである。
出エジプト記18−21節には、祭司が務めをする際の、水の洗いについての指示がある。
祭司が祭壇での務めをする前には、手足を水で洗わなければならず、聖所での務めをする前に水を浴びなければならない事が、永遠のおきてとして定められている。
それをする理由は、死なないためである。(20節)
それ程までに、祭壇や幕屋での奉仕は、聖なる務めであり、水で洗い清めない事は主怒りを招く事である。
今、私達は、主の務めを為すにあたり、キリストが語られた御言葉によって洗われていなければならない。(ヨハネ15:3-5)
すなわち、私達は御言葉なるキリストに繋がっていなければ、主の御前に何もしてはならないし、する事は出来ない。
『キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。』(エペソ5:26)
私達は世という旅路を渡り歩く時、どうしても、世や人々から罪と汚れを受けてしまう。
その汚れをも、主は清めて下さった。
『夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。』(ヨハネ13:4-10)
足を洗うのは、何もイエス様だけがする事ではない。イエス様は、私達もそうするようにと、模範を示されたのだ。
私達もまた、イエス様にならい、兄弟姉妹の足を洗い合うべきである。
すなわち、兄弟姉妹が世を通して罪や汚れを受けている時は、それを断罪するのではなく、御言葉の洗いによって、兄弟姉妹の罪や悪いところを戒め、良き方向へと立ち返るようにしてやる事によって「足を洗う」のである。