メッセージ - 主の命令を守り行った事の報告(申命記26:12-15)
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前回の箇所では、主の側が、私達にどんなに良くして下さったのを告白し、報告すべき事を学んだ。
今回の箇所では、私達の側が、主から与えられた命令をどのように守り行ったかを報告するべき事が、示されている。
『第三年すなわち十分の一を納める年に、あなたがすべての産物の十分の一を納め終って、それをレビびとと寄留の他国人と孤児と寡婦とに与え、町のうちで彼らに飽きるほど食べさせた時、あなたの神、主の前で言わなければならない、『わたしはその聖なる物を家から取り出し、またレビびとと寄留の他国人と孤児と寡婦とにそれを与え、すべてあなたが命じられた命令のとおりにいたしました。わたしはあなたの命令にそむかず、またそれを忘れませんでした。』(申命記26:12-13)
この「十分の一を納める第三年」については、申命記14章で示されている。
その時には、十分の一を町の中に蓄え、それを町の中の在留異国人や孤児など弱い立場の人や、主の働き人であるレビ人に食べさせ、彼らを満足させなければならない、と命じられている。
「そうすれば、あなたの神、主はあなたが手で行うすべての事にあなたを祝福されるであろう。」(申命記14:28-29)
私達は何かと、主から命じられた事を守り行う以前に「祝福を下さい」と祈りがちであるが、祝福が与えられるためには、まず、私達の側が主に敬意を払って、主から命じられた事を守り行う必要がある。
行いの無い信仰は、虚しく、死んだも同然である。
『ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。』(ヤコブ2:15-16)
働いてもいないのに、給料を「くれ」と求めても、無視されたり、怒られたりするのは当然であるように、主から「こうするならば祝福される」という言葉を無視し、実践しないままに、ただ祝福を「くれ、くれ」と求めても、主から無視されたり、怒られたりするのは、当然である。
しかし、働いたのであれば、給料は当然のように求める事が出来る。
だから私達も、主から命じられた事を、守り行ったのであれば、次のように求める事も正当である。
『わたしはその聖なる物を喪のうちで食べたことがなく、また汚れた身でそれを取り出したことがなく、また死人にそれを供えたことがありませんでした。わたしはわたしの神、主の声に聞き従い、すべてあなたがわたしに命じられたとおりにいたしました。あなたの聖なるすみかである天からみそなわして、あなたの民イスラエルと、あなたがわれわれに与えられた地とを祝福してください。これはあなたがわれわれの先祖に誓われた乳と蜜の流れる地です。』(申命記26:14-15)
主の命令を守り行う事、それは、律法の膨大な「こうせよ/するな」の集大成を記憶して、一つ一つ行ったか・行わなかったに注意する事ではなく、律法を成就して下さったお方・イエス・キリストを、愛をもって信じる事であり(ガラテヤ5:1-6)、この主イエス・キリストに日々導かれて歩む事である。
例えば、「うそをつくな」という御言葉が、特に最近主から示されているのであれば、そのように守り、「憐れみなさい」という御言葉が特に主から示されているのであれば、主にあって努めて憐れむ事。
そのように、都度、御言葉に導かれている通りに歩んで行けば良いのである。
『キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。』(ガラテヤ5:6)