メッセージ - 御言葉はあなたの遠くには無く間近にある(申命記30:11-14)
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『わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、むずかしいものではなく、また遠いものでもない。』(申命記30:11)
モーセが命じた”戒め”は、「**しなさい」「**してはならない」という単純明快なもので、それは本来、守る・守らないの二つに一つしかないのに、御言葉をそのままいただくという事をしない人、自己主張が大好きな人は、パリサイ人や律法学者のように、単純明快な主の戒めに身勝手な解釈を付け足したり、あるいは差し引いたりして、複雑怪奇なものにしてしまい、神の国に入ろうとしないばかりか、入ろうとしている人の邪魔さえしている。(マタイ23章)
彼らは、「解釈」という隠れ蓑に隠れて、一見、御言葉を守っているかのように見えるが、実は、守っていなかったりするのである。
『パリサイ人とサドカイ人とが近寄ってきて、イエスを試み、天からのしるしを見せてもらいたいと言った。イエスは彼らに言われた、「あなたがたは夕方になると、『空がまっかだから、晴だ』と言い、また明け方には『空が曇ってまっかだから、きょうは荒れだ』と言う。あなたがたは空の模様を見分けることを知りながら、時のしるしを見分けることができないのか。邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう」。そして、イエスは彼らをあとに残して立ち去られた。』(マタイ16:1-4)
主が私達に何を求めておられるのかを知るために、また、神のみわざを見るために、なにも、天からのしるしを求める必要はない。
それらは、空模様の見分け方と同じである。
夕焼けが真っ赤であるなら、明日は晴れると容易に予想できるように、主イエスを信じるなら、あなたもあなたの家族も救われると、容易に予想できるはずだし、空が曇っているなら天気は荒れると予想できるように、与えない者や物惜しみする者には、押入れゆすり入れして与えられる恵みにはあずかれないと、容易に予想できるはずだ。
御言葉を実践する事は、大掛かりな、非日常的な、仰々しいものではなく、空模様の見分けと同じくらいに、日常的・身近なものなのだ。
むしろ、私達が主イエスに期待するべきしるしは、ヨナのしるし、すなわち、死と復活である。
つまり、「自己主張」や「身勝手」は、十字架の死へと渡して、キリストにあるいのちの祝福に息吹かれる事を求めるべきである。
『これは天にあるのではないから、『だれがわれわれのために天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。またこれは海のかなたにあるのではないから、『だれがわれわれのために海を渡って行き、それをわれわれのところへ携えてきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。』(申命記30:12-13)
神の御言葉を得るために、何も、海の彼方へと船を乗り出さなくても良いし、ロケットに乗って天に行く必要も無い。
なぜなら、神ご自身が人となって、天を押し曲げて降りて来て下さり、私達の身近に来て、御言葉を示して下さったからだ。
『言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。』(ヨハネ1:14)
肉として私達の間に宿って下さった、御言葉ご自身なるキリスト。
私達はこの御方にあって、神の栄光を見る事が出来るのだ。
『この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。』(申命記30:14)
今やキリストにあって、神の言葉は石の板にではなく、私達の心に直接刻みつけられる。
『すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない。』(エレミヤ31:33-34)
だから私達は、御声を聞くために、大層な事をしでかす必要な無い。
いつも私達の内に生き、いつも共にいて下さるキリストに聞き、手元にある聖書にたずね、示された御言葉に従って行けば良いのである。