メッセージ - 全てをあらかじめ知っておられる主(申命記31:19-30)
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主は、全てをご存知である。
自分達を戒めてくれる指導者がいなくなったら、「うるさいのがやっといなくなった」とばかりに、主の教えを軽んじ、約束した事を平気で裏切ろうとする、その心の機微さえも。
『それであなたがたは今、この歌を書きしるし、イスラエルの人々に教えてその口に唱えさせ、この歌をイスラエルの人々に対するわたしのあかしとならせなさい。』(申命記31:19)主の御声に聞き従わずにそむき続けるなら、必ず災いが振りかかる。
それで、実際に災いが降りかかった時、イスラエルは「これらの災がわれわれに臨むのは、われわれの神がわれわれのうちにおられないからではないか。」と言う事さえ、主は予め知っておられた。
そこで将来、彼らがそのように言ったとしても、主はそのような事は予めご存知だった事、そして、悪かったのは主ではなく自分達だった、と、示す証拠を、主はあらかじめ「歌」という形で備えられたのだ。
『わたしが彼らの先祖たちに誓った、乳と蜜の流れる地に彼らを導き入れる時、彼らは食べて飽き、肥え太るに及んで、ほかの神々に帰し、それに仕えて、わたしを軽んじ、わたしの契約を破るであろう。こうして多くの災と悩みとが彼らに臨む時、この歌は彼らに対して、あかしとなるであろう。(それはこの歌が彼らの子孫の口にあって、彼らはそれを忘れないからである。)わたしが誓った地に彼らを導き入れる前、すでに彼らが思いはかっている事をわたしは知っているからである」。モーセはその日、この歌を書いてイスラエルの人々に教えた。』(申命記31:20-22)
モーセは、32章にて記される歌を、子々孫々に伝えるよう命じた。
歌は不思議である。
歌詞には全く気にかけずに、ただメロディだけを口ずさんでいた歌が、ある時、ふとその歌詞に気づき、その内容が今の自分の姿をありありと言い当てているのに驚く、という事が、よくある。
特に、何世紀も歌い込まれた賛美歌や、何世紀にも聖徒たちに親しまれてきた詩篇は、そうである。
主が私達人間に為して下さった、恵みと憐れみの素晴らしさは、昔も今も、遠い国であろうと近い国であろうと、変わらないからだ。
『主はヌンの子ヨシュアに命じて言われた、「あなたはイスラエルの人々をわたしが彼らに誓った地に導き入れなければならない。それゆえ強くかつ勇ましくあれ。わたしはあなたと共にいるであろう」。』(申命記31:23)
ヨシュアも、モーセと共に、イスラエルが近い将来、主を裏切る事を聞いていた。
しかし主は、ヨシュアには、強く勇ましくあるように命じられた。
たとえ将来、自分が導く人達がどうなるかが、分かり切っていても、それで虚しくなったりする事なく、主から与えられた使命を、しっかり果たすべきなのだ。
実際パウロもそうだった。自分が夜昼となく手塩にかけて面倒を見てきたエペソの聖徒たちが、将来どうなるか、あらかじめ示されていたが、パウロは彼らを、神と、その恵みの御言葉とに委ね、次の働きへと邁進して行った。(使徒20章)
主は確かに、人が将来裏切る事、失敗する事をご存知であり、あらかじめ伝えられる。
それで実際、その人が、あらかじめ言われていた通りに、裏切ったり、失敗したりしたら、「それ見た事か、お前のような者なぞ、もう知らん」と言うような主ではない。
主は、失敗したり裏切ったりしたの後のフォローさえ、予めしておられるのだ。
父なる神様は、放蕩息子が失敗する事を承知しておきながら、その子の言いなりのまま、送り出すのである。(ルカ15章)
そして、送り出した後は、その子が戻ってくるのを、待つのである。その子が出て行ったその方向を、いつも気にかけながら。
そして、その子がさんざんな目に遭って戻ってきた時には、遠くからその姿を見て、走り寄って来て、くちづけして迎えて下さるのである。
父なる神様は、我に返って悔い改め、戻ってきた聖徒を、そのように歓迎し、そして元の地位に戻して下さるのである。
イエス様も、ペテロの失敗を予めご存知だった。
『シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」』(ルカ22:31-32)
主はペテロの失敗をあらかじめご存知だったが、ちゃんと立ち直るように、そして、兄弟姉妹達全体が力づけられるように、あらかじめ、祈っておられたのだ。
主は、そのようなご性質の持ち主なのだ。