メッセージ - 福音を伝えよ(マルコ16:15-20)
昨年7月以来、マルコ福音書を中心に解き明かしてきたが、本日でマルコ福音書は最後である。
明日以降は、使徒の働きに移りたい。
礼拝説教メッセージ音声:福音を伝えよ(マルコ16:15-20):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
マルコ福音書は、主イエス様による全被造物に対する福音宣教の命令で終わる。
全ての「人に」ではなく全ての「被造物に」と言う所がミソである。
全被造物は、切実な思いで御国の子達の表れを待ち望んでいる(ローマ8:18-23)とあるため、福音を信じて神の子とされた者が増える事、その事が、被造物にとって福音である。
そして人に対しては、言葉による宣教が定められている。
福音(エウアンゲリオン)とは元々、ギリシャ語で「良い(エウ)知らせ(アンゲリオン)」という意味で、戦いの勝利の伝令のような、喜ばしいことを伝えるたよりの事である。
戦勝地から伝令が自国に向かって行く先々で「我々が勝利したぞ!」と伝え、それを聞いた自国の者達は喜び湧き上がったが、我々にとっては何に対する勝利であろうか?
私達の軍の最高司令官・イエス様は、サタンに対して、死に対して、罪に対して勝利した。
それまで罪の断罪下にあり、死に対する恐怖につきまとわれ、サタンの圧政下に奴隷状態でいいように搾取され、こき使われてきたが、もはやその必要はないのである!
単に勝利したというだけでなく、勝利された私達の新しい王様は愛なるお方、すばらしいお方である事も、私達に良い知らせである。
私達はイエス様の愛の統治の内に入れられ、永遠の御国の支配下にいるのだ。
イエス様の事を聞いていながら、信じない者は、既に、裁かれている。(ヨハネ3:16-21)
なぜ「既に」なのか。
それはその人が光よりもむしろ暗闇を愛し、元々が暗闇であった事が明らかとされたからである。
神は光であって暗いところは全く無いが、私達は世にある限り、所々にぽつぽつと闇がある。
所々に闇がある事を望まない者は光を愛する者であり、さらに光に照らされて闇が無くなっていく事を望み、ますます主の元に行く。
しかし闇を愛する者は、自分の中にある闇が光に照らされる事を望まないため、光の元に来ない。
イエス様を信じる者には、数々の良い徴が現れる。
まずイエス様の名によって悪霊を追い出す権威が与えられる。
悪の頭・サタンに対して勝利しているため、権威的には私達が上だからである。
また、新しい異言(言葉)を語る。
この新しい言葉は、異国語であるかもしれないし自国語であるかもしれないが、それまでの自分とは「異なる」源、聖霊から来る言葉であり、福音を語る必要のある場面において、人間自身の知識や経験に基づくのではなく、神様からの知識による言葉を、語る事が出来るのである。
また、手で蛇をも掴みむ事が出来、毒を受けても害を受けない。
パウロは火の中から蛇が出てきて、それを何の害も受けず火の中へ払い落とす事が出来た。
パウロが手で蛇を払ったのと同じように、私達もサタンや悪霊を火の中に払い落とし、毒を受けても害される事は無い。
映画の中で、サタンや悪霊は絶望的な力で人間を屈服させる様子をたまに見るが、イエスにあって勝利者の側にいる我々は、権威的に奴らのはるか上におり、私達を主のゆるし無しに出来る事は何も無く、むしろ、私達が命じる事が出来るのである。
また、病んだ者達に手を置けば、彼らは元気になる。
正しい人の信仰に基づく祈りは病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださる。(ヤコブ5:15)
事実、教会においても手を置いて癒されている事例がある。
信じる者には、これら数々の良きしるしが伴われるのである。
イエス様は天に上げられていった時、祝福しているその姿勢のまま離れていった。(ルカ24:51)
そこで彼らは喜びを持って、至る所で福音をのべ伝え、信じた者達の中には数々の良き徴が現れ、使徒の働きに多く記されている。
使徒達の働きは今の時代にも、我々主を信じる者達を通して成されており、イエス様は今も天において私達を祝福し続けておられる。
イエス様を信じる事によって、その名による数々の徴を成し、良き働きを行う皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福します!
横浜天声キリスト教会 copyright 2011