メッセージ - エルサレム使徒会議2 - 神は人を自由にする(使徒15:12-21)
エルサレム使徒会議2 - 神は人を自由にする(使徒15:12-21)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » 使徒の働き
- 執筆 :
- pastor 2011-5-14 19:17
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韓国語通訳有 한국어예배
信仰によって救われた異邦人に「割礼を受けなければ救われない」と主張した者達は、自分達はこれこれに従って歩んできた、だからあなたも、、、という、自分の価値観を押し付ける考え方だった。
そもそも律法は、当のユダヤ人達も先祖達も追いきれなかった、重いくびきだった。
にもかかわらず、自分達は律法を持っていると言って誇るものだから、彼らは頭が固く主張の強い、あまり係わり合いを持ちたくない種類の人達だった。
会議という場で、そのような人達が操作や駆け引きによって支配すると、他の人々を束縛する諸々の規定が定められてしまう。
しかしこのエルサレム使徒会議は逆で、人の野心や主張ではなく、神の御心に沿って行われ、人を束縛する事ではなく人を自由にする事が決定された。
真理のある所には自由があるのである。(ヨハネ8:32)
ペテロやパウロ、ヤコブは、神は何をなされ、御心はどこにあり、御言葉には何と書かれてあるか、という、神の価値観を主張した。
この事から私達が学ぶべきは、教会の運営は、人の習慣や知恵、経験を押し付けるのではなく、神がどういう御心を持っておられるのか、神はどういうことをされて来たのか、御言葉には何と書いてあるのか等、神中心に運営されるべきである。
真理は自由だと言って何でもかんでもOKというものではなく、主が嫌われ、呪いを招くものは、避けるべきである。
「ただ、偶像に供えた穢れたものと、不品行と、絞め殺したものと、血とを避けるようにと、彼らに手紙を書くべきです。」(20節)
ペルガモンにある教会(黙示録2:12-17)は、邪悪な場所の真っ只中にある教会で、殉教者が出た時さえ信仰を捨てなかったにもかかわらず、バラムの教えを奉ずる者がいる事を非難されている。
バラムの教えとは神の民を神から逸らしてしまうための罠、すなわち、偶像に備えた肉と不品行である。
まことの神以外を拠り所とする「偶像」にも、ニコライ派という「人間中心の教え」にも、「まぁいいんじゃない」と言って妥協したり譲歩してはならない。
教会は信仰による自由や開放は確かにあるが、何でもかんでも受け入れてよいというものではない。
神以外のものに逸れて行ってしまうものについては、力の限り見張っていなくてはならない。
イエス様を信じた者は彼と一つ霊とされた者、それに相応しく、ますます純粋・純真な皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!