メッセージ - 搾取がはびこる世界でも栄えさせて下さる主(創世記30:25-43)
ベエル・シェバを獲得するために メッセンジャー:小林師
第一礼拝 Youtube動画
※ 本日、成田礼拝からの移動中の道路混雑により、一部礼拝のメッセージは急遽、小林師によるメッセージに変更させて頂きました。
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
搾取がはびこる世界でも栄えさせて下さる主(創世記30:25-43) メッセンジャー:林師
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
世の人々は、いかに富を我が物として囲い込もうかという、「あれも、これも、わたしのもの」という欲求で動いている所がある。このような「わたしのものメンタリティ」は、サタン由来である。ヤコブがイスラエルに名前が変わる前、彼は兄エサウを逃れ、一時期メソポタミヤのラバンの所に身を寄せていたが、ラバンはまさにそういう人だ。『ラバンは答えてヤコブに言った、「娘達はわたしの娘、子ども達はわたしの孫です。また群れはわたしの群れ、あなたの見るものは皆わたしのものです』(創世記31:43) イエス様を信じて神の子となった私達は、いかに、このメンタリティに満ちている世から守られ、栄えて行くか。ヤコブから学びたい。
ヤコブは、ラバンの娘・ラケルとレアと結婚するために14年、タダ働きをさせられて来たが、その14年という契約期間は満了する時、ヤコブはもう妻子を連れて出ていっても良いはずなのに、ラバンはヤコブ達が出ていくのを渋った。『ラバンは彼に言った、「もし、あなたの心にかなうなら、とどまってください。わたしは主があなたのゆえに、わたしを恵まれるしるしを見ました(ナハシュ)。』(27節) ラバンはナハシュ(まじない)によって、ヤコブが主エホバから祝福されているのを見たが、ナハシュは、発音が転じて「蛇(ナハァシュ:創世記3:1)」となる。蛇、すなわちサタンは、神と共に歩む神の子を利用し搾取しようとする。
ラバンがヤコブを引き止めたいのは、ヤコブの神・主を知りたいからでも、聖なる交わりに加わりたいからでもない。ヤコブが受ける主の祝福と富が欲しいからに他ならない。主に忠実なキリスト者は、その手の技は祝福されるし、謙虚で誠実で文句を言わない事が多いので、世の雇用者は、彼らを手放したくないのだ。
『「何をあなたにあげようか」。ヤコブは言った、「なにもわたしにくださるに及びません。』(創世記30:31)
ヤコブは、ラバンから何かを受け取ってしまったら、後で恩着せがましく執着され、逆に剥ぎ取られてしまう事を経験的に知っていた。私達も、ラバンのように貪欲で悪企みをするような人からは、何か報酬を望んではならない。ヤコブは彼に、非常に明確な条件の報酬を申し出る。すなわち、羊ややぎの中で、ぶち毛やまだら毛のものをわたしの報酬として下さい、もし自分の群れの中にそうでないものが混じっていたら、それは私が盗んだものとなるでしょう(31-33節)、と。ラバンはきっと日常的に難癖をつけていたのだろう。
ところがラバンはその日、ヤコブの報酬となる特徴を持った羊ややぎを、ラバンの子達に渡し、ヤコブとの間に三日の隔たりを設けた。ヤコブは、それでも平和に、文句も言わず、残りの群れを飼った。(35-36節)
このように、騙し上手な者が栄え、正直者が馬鹿を見る世界がメソポタミアであり、ラバンはその世界でうまく渡り合って富を築いたずる賢い者だった。そのようなサタンの流儀がはびこるのが、この世の有様でもある。果たしてヤコブは、そんな世界で生きて栄えて行けるのだろうか?実際生きて栄えたのである!
果たしてキリスト者は、このような世界で生きて栄え、富を増し加えて行けるのだろうか?行けるのである!
神の民に、搾取されっぱなし、やられっぱなしは無く、必ず全部ぶんどり返す時が来る。(出3:21-22)
その条件は、世に勝利した主イエスキリストを助けとし、彼と共に歩んでいる事、である。ヤコブは自分に残された家畜の飲む水槽に木を入れた。すると家畜達は産んで増えて行き、ラバンのものとは分離した。
『こうして弱いものはラバンのものとなり、強いものはヤコブのものとなったので、この人は大いに富み、多くの群れと、男女の奴隷、およびらくだ、ろばを持つようになった。』(42-43節) 私達も仕事をする時、いのちをつなぐその水溜めに、キリストの十字架の木を入れ、世の者達と分離し、主と共に復活した者として生きるなら、世の者達の中にあって、ますます栄え、悪者達は、もみがらのようにますます衰えて行くのである。
ヤコブは当初、僅かな元手しか無く、不利な条件でのスタートであったが、わずか6年で資産はますます祝福され、ラバンの資産は先細りになっていった。ずる賢い世の権力者の、不当な圧迫の中でも勝利し祝福されるコツは十字架、すなわち、今までの自分に死ぬ事と、キリストのいのちにあって復活し、その新しい価値観、すなわち御言葉によって生きる、神と共に歩む事である。最初は搾取されているように見えても、十字架に望みを置いている限り、その人はやがて世から、サタンから多くを分捕り、持ち物も命もますます増えていくのである。 私達にとっていのちをつないでいる水溜とは何だろう。そこはいのちを生み出さないままだろうか。苦々しさを放っているだろうか(出エジプト記15:22-26)。あるいはそこに、大切なものを落としてしまっただろうか(2列王記6:1-7)。主は私達に一本の木、すなわち十字架の木を示され、そこに投げ込むなら、いのちを生み出すようになり、苦さは甘さへと変えられ、無くしていたものを得るのである。