メッセージ - 説教において必要なもの:聖霊の促しと、御言葉と、イエスのあかし(使徒2:14-36)
説教において必要なもの:聖霊の促しと、御言葉と、イエスのあかし(使徒2:14-36)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2018-5-22 7:43
説教において必要なもの:聖霊の促しと、御言葉と、イエスのあかし(使徒2:14-36)
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メッセージ音声
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弟子達は「異なる舌(ヘテロス・グロッサ)」が与えられ、口が全く変わってしまった。
彼らは確かに、他国人にも分かる言葉が与えられたが、彼らの言葉を聞いた、複数の言語を話す人達が一様にその言葉を聞いた時の感想は、彼らは「神の大きなみわざを語った」という事だった。
弟子達120名が、それぞれ別の言葉で話したのに、一致している事は、神の大きなみわざを語った事である。
これらの事は、人間技では有り得ない。
しかし、そのようなしるしが見せられても、自分になっとくの行く説明を自分でつけようとして、しかも、けちをつける者も出てくる。
使徒2:13 しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。
そこでペテロは、十一人の者と共に、聖霊に「押し出され(ヒステミー)」、駆り立てられて、語り出す。
聖霊のわざは、いかんともしがたい衝動に駆られて語り、また行動するものだが、聖霊に押し出された言葉には、必ず、イエス・キリストの証があり、イエス・キリストを栄光化する言葉であう。
またそのわざには、必ず、イエス・キリストのご性質が現れる。
次のように書かれてあるからである。
ヨハネ16:13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
Joh 16:14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。
Joh 16:15 父がお持ちになっているものはみな、わたしのものである。御霊はわたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるのだと、わたしが言ったのは、そのためである。
1ヨハネ4:1 愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、ためしなさい。多くのにせ預言者が世に出てきているからである。
1Jn 4:2 あなたがたは、こうして神の霊を知るのである。すなわち、イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白する霊は、すべて神から出ているものであり、
1Jn 4:3 イエスを告白しない霊は、すべて神から出ているものではない。これは、反キリストの霊である。あなたがたは、それが来るとかねて聞いていたが、今やすでに世にきている。
ペテロは言った。
使徒2:15 今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。
そもそも、起こった出来事を見れば酒を飲んでではない事は明らかである。
彼らは風の大音響のために集まったのだし、色々な国の言葉を一瞬で身に付ける事も出来ないし、神様のおおいなるみわざは酔っ払って話せる事ではない。
ペテロはこの大きな奇跡よりも、むしろ、ナザレ人イエスというお方について、時間を割いて丁寧にメッセージし出す。
聖霊の特徴、それは、イエスのあかしである。
ペテロは、ヨエル書の言葉を引用し、この出来事は預言の成就であると宣言する。(16-21節)
それに続き、ペテロは、ナザレ人イエス・キリストについての説教に入る。
教会の説教には必ず、御言葉の引用とイエスのあかしが必要だが、その力の根源は、聖霊が促すものである。
2:22 イスラエルの人たちよ、今わたしの語ることを聞きなさい。あなたがたがよく知っているとおり、ナザレ人イエスは、神が彼をとおして、あなたがたの中で行われた数々の力あるわざ(デュナミス)と奇跡(テラス)としるし(セメイオン)とにより、神からつかわされた者であることを、あなたがたに示されたかたであった。
ペテロが語っている相手の人達は、祭りに集っていた人達である。
彼らが前回エルサレムに来た時は、過越祭であり、ちょうどその最中にイエス様は十字架につけられたので、彼らは、イエス様見ていたのだ。
イエス様は、数々の力あるわざ(デュナミス)と奇跡(テラス)としるし(セメイオン)、これら三つを通し、神から遣わされたお方である事を、示された。
2:23 このイエスが渡されたのは神の定めた計画と予知とによるのであるが、あなたがたは彼を不法の人々の手で十字架につけて殺した。
2:24 神はこのイエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせたのである。イエスが死に支配されているはずはなかったからである。
そのイエス様を、あなた方が、十字架につけたのだとペテロは歯に衣着せずに宣言し、そして、その復活された事を宣言する。
2:25 ダビデはイエスについてこう言っている、/『わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、/わたしの右にいて下さるからである。
2:26 それゆえ、わたしの心は楽しみ、/わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。
2:27 あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、/あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならない/であろう。
2:28 あなたは、いのちの道をわたしに示し、/み前にあって、わたしを喜びで満たして下さるであ/ろう』。
2:29 兄弟たちよ、族長ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。
2:30 彼は預言者であって、『その子孫のひとりを王位につかせよう』と、神が堅く彼に誓われたことを認めていたので、
2:31 キリストの復活をあらかじめ知って、『彼は黄泉に捨ておかれることがなく、またその肉体が朽ち果てることもない』と語ったのである。
すなわち、ダビデが言っていた「あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、/あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならない/であろう。」という言葉は、ダビデ自身がダビデの事を語ったのではない、事実彼は死んだ、だからこの事は、ダビデが「主」と告白したお方、すなわち、イエス様の事を語ったのだ、と論破したのだ。
2:32 このイエスを、神はよみがえらせた。そして、わたしたちは皆その証人なのである。
2:33 それで、イエスは神の右に上げられ、父から約束の聖霊を受けて、それをわたしたちに注がれたのである。このことは、あなたがたが現に見聞きしているとおりである。
ペテロは「あなたがたが現に見聞きしているとおり」と言った。
現に見ている出来事なのだから、彼らには弁解の余地は無い。
ヨエル書からこの出来事の説明がつき、ダビデの詩編から主キリストの復活を論破し、そして目の前に起きたこのしるし、それらをつきつけて、そしてダメ押しをする。
2:36 だから、イスラエルの全家は、この事をしかと知っておくがよい。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は、主またキリストとしてお立てになったのである」。
あなた方が、十字架につけた。
確かに、これを聞いていた群衆の中には、イエス様を十字架につけろと叫んだ人達もいただろう。
しかし実は、21世紀を生きる「わたしたち」も、イエス様を十字架につけたのだ。
私達人間には全て罪があり、そして彼は、私達の罪のゆえに刺し通されたからだ。(イザヤ53章)
2:37 人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言った。
聖霊に押し出された人のメッセージは、人の心を刺す。
そして悔い改めへと導く。
伝道とは、メッセージとは、人が良く考えだして語るものにあらず、聖霊に押し出されて語るからこそ、力があり、人をゆり動かし、心を刺し、そして造り変えるパワー(デュナミス)があるのだ。
私達も、主の働きのために、聖霊を求めるべきである。