メッセージ - 真の美しさ—内面の品性と神への誠実
真の美しさ—内面の品性と神への誠実
メッセージ音声
【概要】
ワシティ王妃とエステルの「美しさ」の違いを通して、神に喜ばれる真の美しさとは何かを学びます。それは外見的なものではなく、悲しみや痛みを知り、神の言葉によって整えられた内面からにじみ出る品格です。
【聖書箇所】
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エステル2:1-11
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エステル2:7
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エステル2:15
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第一ペテロ3:3-4
【慰めの言葉】
あなたが人知れず耐えてきたこと、傷ついてもなお優しくあろうとしたこと、忠実に祈り続けてきたこと、そのすべてを神様は見ておられ、それを「美しい」と見なしてくださっています。
【励ましの言葉】
今はまだ世のスポットライトを浴びていなくても、神の言葉によって内面を整えられ、誠実に歩むなら、神様はあなたを見出し、やがて時が来ればエステルのように大きく用いてくださいます。
【勧めの言葉】
人の評価や流行に惑わされず、外見の美しさを追い求めるのではなく、神の御言葉を中心とした内面の美しさ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのない品性を飾りとしましょう。
***詳細***
エステルといえば「美しい」という言葉が真っ先に思い浮かびます。では、聖書が語るエステルの真の美しさとは何でしょうか。今日は、エステル記の冒頭からその秘訣を読み解いていきたいと思います。
エステル記の最初には、二人の美しい女性が登場します。一人は王妃ワシティ、そしてもう一人がエステルです。二人とも美しいと書かれていますが、ヘブライ語の原語を見ると、その「美しさ」には違いがあります。
まず、ワシティの美しさについて、1章11節にはこう書かれています。王様が王妃ワシティを人々の前に呼び出そうとしたのは、「彼女の容姿が素晴らしかったので、その美しさを民と諸侯たちに見せるためであった」とあります。ここで使われている「容姿が素晴らしかった」「その美しさ」という言葉は、「見る姿が美しい」、つまり外見的な美しさを意味します。王は、自分の権力を飾り、宴会を彩るために、人々に誇示するものとしてワシティの美しさを用いようとしました。彼女の人格よりも、見た目が重視されていたのです。しかし、ワシティはその人格のゆえに、王の命令に従わず、結果として退けられてしまいました。
いつの時代も、人は見られることを強く意識します。特に現代では、SNSなどで自分の美しい姿を見せたいという欲求が強くあります。しかし、人に見せるための美しさを追い求め続けると、「SNS疲れ」という言葉があるように、疲弊してしまいます。無理が生じると、その無理は隠しきれないものです。
では、エステルの美しさはどうだったのでしょうか。2章7節を読んでみましょう。
「モルデカイは叔父の娘ハダサ、すなわちエステルを養育していた。彼女には父も母もいなかったからである。この娘は姿も美しく、顔立ちも良かった。モルデカイは彼女の父と母が死んだとき、彼女を引き取って自分の娘としていた。」(エステル2:7)
ここでエステルの美しさを表す言葉は、ワシティのそれとは異なります。「姿も美しく」という言葉には「整えられた」という意味合いが含まれています。そして「顔立ちも良かった」というのは「見るによい」ということです。つまり、エステルの美しさは、単なる外見の美しさだけではありませんでした。それは、全体の雰囲気、にじみ出る品格、柔らかさ、柔和さといった、人格から来る「整えられた美しさ」だったのです。
聖書は、宮殿の華やかさから視点を移し、一人のユダヤ人モルデカイと、彼に引き取られた孤児エステルに焦点を当てます。エステルの物語は、美しさからではなく、両親を失った悲しみから始まります。捕囚の地で、叔父に引き取られた一人の少女の物語です。聖書は、彼女が美しいということよりも先に、彼女が悲しみを経験したことを記しています。エステルの美しさは、何不自由なく育った華やかなものではなく、悲しみや涙、孤独を知っている美しさ、痛みを通って練られた品性、練られた美しさだったのです。
モルデカイは、彼女を自分の娘として、神を恐れ敬うユダヤ人としての教育を施しました。その中で、エステルは外見だけでなく、人の痛みを理解し、思いやることができる内面の美しさを育んでいきました。彼女には、人を安心させる柔らかさがありました。15節を見ると、「彼女を見るすべての者の好意を得た」とあります。彼女といると誰もが安心し、彼女を助けたいと思うような、そんな魅力があったのです。この「好意」という言葉は、「恵み」とも訳され、「愛される柔らかさ」というニュアンスを持っています。
テレビをつければ、見た目の美しさや若さばかりがもてはやされます。しかし、外見の美しさは永遠には続きません。「美人は三日で見飽きる」ということわざもありますし、英語にも "Beauty is but skin deep"(美しさは皮一枚にすぎない)という言葉があります。外見は文字通り皮一枚のものですが、内面の美しさは違います。むしろ、主と共に歩む中で、その美しさは年を重ねるごとに深まっていきます。
使徒ペテロはこう語っています。
「あなたがたの飾りは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、服を着飾ったりする外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人柄を飾りとしなさい。それこそ神の御前で価値あるものです。」(第一ペテロ3:3-4)
エステルはまさにこのような女性でした。心の中の隠れた人柄が美しかったからこそ、外面的な飾りが加わったとき、さらにその美しさが輝いたのです。
この時点では、エステル自身は、自分が後に王妃となり、民族を救う器になるとは夢にも思っていませんでした。孤児として育てられ、王宮に召され、与えられた場所で誠実に生きていただけです。私たちも今はまだ、世の中からスポットライトを浴びていないかもしれません。しかし、人目のつかないところでの誠実さ、忠実さ、御言葉を大切にする姿を、神様はすべて見ておられます。主は心を見られるのです。
神様は、羊飼いの少年であったダビデの、神を信頼し敬う心を見抜かれました。同じように、神様はエステルの心に目を留めておられました。皆さんが人知れず耐えたこと、傷ついてもなお優しくあろうとしたこと、忠実に祈り続けたこと、そのすべてを主は見ておられ、その忠実さを「美しい」と見ておられるのです。
ワシティの美しさは「人に見せる」美しさでした。しかし、エステルの美しさは「神に見出される」美しさでした。それは、忠実で誠実な、御言葉に沿った美しさです。私たちも、神様への誠実さを最高の飾りとして、この時代に用いられるエステルのような、またモルデカイのような真の美しさを培っていきましょう。
【結論】
神様が価値あるものとされる真の美しさは、外見ではなく、試練や痛みを通して練られ、神の言葉によって整えられた内なる品性です。人に見せるための飾りではなく、神様の前での誠実さを飾りとし、人々の好意を得るような、柔和で穏やかな心を育てていきましょう。そうすれば、時が来たときに、神は私たちをエステルのように用いてくださいます。
