メッセージ - 口を塵につけよ(哀歌3章22−39節)
口を塵につけよ(哀歌3章22−39節)
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哀歌は、エルサレムがバビロンによって滅ぼされたのを目撃したエレミヤが歌った、聖書の中で最も悲しみに溢れている歌で、陥落後のエルサレムの、とても悲惨な状況が記されている。
人は、悲しみに共感する。乳飲み子が衰え果て、母の懐で息絶えようとしている様には、心を動かされる。
しかし、どうしたらそういう結果となってしまったのか、という所を、おろそかにしてはならない。
「エルサレムは罪に罪を重ね笑いものになった。・・・衣の裾には汚れが付いている。彼女は行く末を心に留めなかったのだ。」(哀歌1:8,9)
エルサレムはこうなる事を、十分避けられた。それも、どうしたらこうなるのかは、既に何世紀も前からモーセによって示されていた(申命記4:25-31)し、主は、早くからしきりに使者を遣わし、民が立ち返るよう呼びかけてきたが、民は彼らを笑いものにし、侮った(2歴代36:15,16)ため、そのようになってしまったのだ。
私達は災いに遭った時、自分に起こった災いばかりに目を留め、こんな災いに遭うのは不当だと主張し、自分は選ばれ民だと高慢に振る舞いつつ、それでも罪は依然として持ち続けながら生きてしまいがちだ。
私達が懲らしめを受けるならば、それは幸いな事だ。 なぜなら、神は私達を子として扱っておられ、それによって訓練された私達は、主の聖さにあずかり、平安な義の実を結ぶからである。(ヘブ12:5-11)
もし私達が罪を犯しても何の罰も受けずに来るなら、高慢になり、兄弟姉妹を傷つけ、自分が迷惑をかけている事も分からないまま罪に罪を重ねる、という事になってしまう。
だから、懲らしめのくびきを負わされるのは良い事で、それによって、へりくだる事、そして従順を学ぶのだ。
「軛を負わされたなら黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。
打つ者に頬を向けよ十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。」
(哀歌3:28-30)
主から懲らしめを受けた時、怒りたいかもしれない。不当だ、と叫びたいかもしれない。
しかし、そのような時は、不平不満を言うより、むしろ口を塵につけて、黙って懲らしめを受けるほうが良い。
「生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか。」(哀3:39)
もしつぶやきが出るなら高慢になっており、自分の罪をまだ認めていない証拠である。
人は元々、ちりである。高慢になっているのであれば、口をちりにつけ、ちりを味わい、ちりの成り立ち、すなわち人間の成り立ちを、そして、ちりである自分自身の成り立ちを、じっくり味わい、思い起こす時である。
御言葉の前に、身も心も低くしているなら、主はいつまでも捨て置かれはしない。
哀歌5章は民の祈りとなっており、1-14節は自分の身に降りかかった災いを申し述べているが、15-17節で、それは自分達の側に非があったから、と認めている。
「ああ、私たちにわざわいあれ。私たちが罪を犯したからです。私たちの心が病んでいるのはこのためです。私たちの目が暗くなったのもこのためです。」(哀5:16,17)
もし、心が病んでいるなら、また、世界が暗くなっているなら、まず自分の口からつぶやきを除き、黙ってちりに口をつけ、自分の成り立ち、人の成り立ちをじっくり味わう所から始めるのである。
「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17) ダビデは自分の罪を認め、神に憐れみを求めたからサウルのように滅ぼされなかった。
「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」(哀3:22)
戦争によって滅んでしまった民族は幾多にものぼるが、イスラエルが何度も滅亡の危機から守られたのは、彼らは主に選ばれた民であり、その民への憐れみは尽きないからだ。それは、私達も同様である。
捕囚から70年が満ちた時、主が憐みを示して下さったように、私達にも、憐れみが示される時が必ず来る。
「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ・・・私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。主は暁の光のように、確かに現われ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」(ホセア6:1-3)