メッセージ - 主に捧げられる良き実となるために(ルカ3:16-17)
主に捧げられる良き実となるために(ルカ3:16-17)
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「ヨハネはみなに答えて言った。私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。 また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(ルカ3:16-17)
バプテスマを授けていたヨハネは、自分よりも、自分の後に来られるお方こそが重要であると強調した。
パウロも同様の事を1コリント1:10-18で述べており、バプテスマを授けた人や、知者や指導者などの人間が重要なのではなく、十字架につけられたキリストこそ、私達が拠り所とするお方である、と言っている。
このお方は、私達に聖霊と火とのバプテスマを授け、また、もみがらと実とをふるい分けられる。
本日捧げられた野菜や木の実、種などの収穫物は、見ての通り、美しく麗しく良いものである。
見た目が鮮やかで、香りもかぐわしく、祭壇に並んでいるのを見ると、幸せな気持ちになってくる。
これらのものは、全て天の写しであり、地上の物は影にすぎない。
天の倉に納められる、真の「良い実」とは、御国の子達である私達であるが、しかし、この世という「畑」には、悪魔が蒔いた毒麦も同時に育っていると書かれてある。(マタイ13:36-43)
しかし世の終りの時、つまずきを与える者や不法を行なう者達はみな、御国から取り集められ火の燃える炉に投げ込まれ、正しい者達は天の御国で太陽のように輝く。
キリストにつながる私達こそ、良き実を結ぶ者達であり、結んだ良き実は主の倉への奉納物となる。
また同時に、私達自身が、主に捧げられる、生きた供え物として捧げられなくてはならない。
「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」(ロマ12:1)
主の倉へ入れられる有用な供え物となるには、私達の肉という、余分な殻は、脱穀されなくてはならない。
例えば栗は、イガがついたままでは、当然口には入らない。まず、とげとげしたイガを取り、煮詰められ、種の堅い殻も、渋い皮も剥ぎ落とされて、やっと食用になる。
そのように私達も、主の御前にとげとげした外側も、内にある堅い部分も、内にある渋い部分も、全て除かれ、焼き尽くされなくては、主の入用にはならない。
ヨシュア記においても、まず割礼を施して余計な部分を取り除き、過越の小羊を祝った時、マナが降るのが止み、その時から、地の産物を豊かに得る事が出来るようになり、そしてそこから、勝利につぐ勝利の生活へと転じた。(ヨシュア5:1-12)
過越祭でほふられる小羊は、まことの小羊キリストをあらわし、その裂かれた肉を共に食す事は聖餐のパンを予表し、流された血潮のしるしは、十字架の血である杯を予表している。
土地の収穫を得るには、自分の手で働く事が必要で、それは、今までのように受け身で食物を受けるのではなく、主に信頼しつつ自らの手で働き収穫するという、一日一日が主とのコラボレーションの生活である。
これからは、分捕られてきた物を主と共に分捕り返し、世に対して、サタンに対して勝利を重ねる時である。
もちろん主を心の王座から引きずり降ろし、逆らってしまったら、敗北に転じてしまう事を忘れてはならない。
「ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。」(ヨシュア1:7,8)
日々、御言葉を宣言して実行し、勝利に勝利を重ねる皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!