メッセージ - 迷子の羊を捜す主(ルカ15章1-7節)
迷子の羊を捜す主(ルカ15章1-7節)
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イエス様は、群集の頂点で安穏としているお方ではなく、むしろ、迷っている人や弱っている人、見捨てられている人々を探し訪ね、声をかけ、悔い改めに導き、天の王国へと連れ戻して下さるお方である。
パリサイ派や律法学者達がイエス様に、「罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と、なじった時語られたのは、見失った羊の譬えと無くした銀貨の譬え、そして、放蕩息子の譬えだった。
この3つの譬えを通して、御子キリストも聖霊も御父も、失われた者を探し、悔い改める者を喜ぶ事を、語られた。今回は、羊飼いと見失った羊の譬えを見ていきたい。(ルカ15章1-7節)
譬えの中では当然、主が羊飼いであり、私達がその羊である。(詩篇23篇、100篇)
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原(原意:荒野)に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(ルカ15:4)
羊は近視眼で迷子になりやすく、草を食べるのに夢中になって、気がついたらどこかへ行ってしまっていた、という事は良くありがちで、そして、迷い出た羊は、大変危険な状態に陥る。
羊は、臆病で弱い。攻撃する角や牙は無いし、身を守る甲羅も、俊敏な足も無い。
群れにくっついて行動するしかなく、一度群れから離れてしまうと自力で元の所に戻ってくる事はできない。
もし羊を一頭だけを群れから離すと、パニック状態になってしまい、捕まえるのも難しくなるため、「一頭の羊を捕まえるよりも、百頭の羊を捕まえるほうがたやすい」と言われているそうである。
主は私達をよく羊にたとえているが、確かに私達は近視眼で、主の御元を離れては好き勝手な方向へ行き、迷子になってはパニックになって、ますます危ない方向へと暴走してしまう事は、ありがちな事だ。
ヨハネ10章を見ると、良き羊飼いなるイエス様と、私達・羊との関係が、詳しく書いてある。(ヨハ10:1-6)
羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出して先頭を行き、羊は羊飼いの声を聞き分け、ついて行く。
この時に羊が迷子になるとしたら、先頭を歩く羊飼いに従わない、あるいは、羊飼いの声を聞いても、名前を呼ばれても、ついて行かない場合である。
また、羊の囲いは、石垣の上にイバラを載せ、有刺鉄線のように外部の侵入や脱走を防ぎ、羊飼いはその囲いの中に羊を入れ、羊飼いは入口の所で寝ていた。
だから囲いから迷い出るとしたら、茨の囲いを強行突破するか、門にいる羊飼いを越えて行くしか無い。
私達は時に、イバラの囲いを窮屈に思って強行突破したくなったり、主に先んじたり、時には主を飛び越えて行ってしまうかもしれないが、主の囲いの外は、命がけで守ってくれる羊飼いはおらず、牧草もいのちも見出せない。(ヨハネ10:7-11)
主が私達の牧者である時、私たちは緑の牧場に導かれ、憩いの水辺に連れられ、死の陰の谷も恐れなく導かれ、敵の前で宴を用意され、杯は溢れ、慈しみと恵みが追ってくる事が、約束されている。(詩篇23)
主は、迷い出た一匹を見つけ出すまで捜して下さるが、 99匹を野原(荒野)に残して行かれる。
羊99匹を荒野に残していくのは、危険な気もするが、荒野といえば、悔い改めのバプテスマを受ける所(マタイ3:1-3)であり、悔い改めた人は、「悔い改める必要のない正しい人」(ルカ15:7)なのだ。
あるいは、この話は、自分を義としているパリサイ人達に語っているため、「自分を悔い改める必要の無い義人だと自認するような者は、荒野に放置して、良き羊飼いであるわたしは、失われた羊を探しに行く」と、皮肉も言っているのかもしれない。
この譬えの主人公は、迷子になった哀れな羊ではなく、喜んで下さる主であり、罪人が悔い改めたのなら、天で大きな喜びが沸き起こる事が、譬えの趣旨である。失われた羊を見つけた時、羊飼いは大喜びで、肩にかついで、しかも友達や近所の人達をわざわざ呼んで、と、大げさな気がするかもしれないが、それほどに、私達・羊を気にかけ、愛し、高らかに喜んで下さるのだ。(ゼパニヤ3:17)
まことの羊飼いなる主、イエス様の名前によって、祝福します!