メッセージ - 気違い預言者と話すロバ(民数記22章)
気違い預言者と話すロバ(民数記22章)
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ロバは、馬に比べればスピードも力も無いが、温厚で扱いやすいため、馬よりも古くから人や荷物を乗せるために用いられ、寓話の中では、鈍重さや柔和さを表す動物として描かれて来た。
主も、ロバを用いられた事があった。エルサレム入城の時(マタイ21:1-11)、そして、神の言葉を預かる者バラムが、気違い沙汰に走ろうとした時である。(民数記22章)
バラムは、モアブの王にイスラエルを呪うよう、金でお願いされた時、神からそれを止めるよう言われた。
それは、イスラエルは神に愛され、祝福されているからである。(民22:12)
しかし、もっと位の高い者達が送られ説得された時、彼の心に迷いが生じ、「たとえバラクが、家に満ちる金銀を贈ってくれても、わたしの神、主の言葉に逆らうことは、事の大小を問わず何もできません。」(18節)などと口先では綺麗事を言った直後に、「あなたがたも、今夜はここにとどまって、主がわたしに、この上何とお告げになるか、確かめさせてください。」などと、既にはっきり示された御心なのに、もう一度伺うような事をした。(同19節)
バラムの道とはすなわち不義の報酬を愛する道(2ペテロ2:15)であり、預言者としては気違い沙汰である。
主は、どのようにして、この気違い沙汰を止めるか。それは、ロバの口を通してである。
神の使いが抜き身の剣を持ってバラムに敵対して立った時、預言者である彼にはそれが見えなかったのに、彼を運ぶロバには神の使いが見えた。ロバは3度も身を翻したが、バラムは怒ってロバを3度も打った。
主はろばの口を開かれ、人間語で物を言ったが、バラムは何の不思議とも無く、普通にろばと会話した。
「バラムは不義のもうけを好み、それで、その過ちに対するとがめを受けました。ものを言えないろばが人間の声で話して、この預言者の気違い沙汰をやめさせたのです。」(2ペテロ2:16)
第二ペテロ2章には、偽預言者の特徴が描かれてある。
偽預言者の特徴は、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを贖ってくださった主を拒否し、自分の身に速やかな滅びを招く事である。(1節)
そして、彼らのために真理の道はそしられ(2節)、彼らは欲が深く、偽りで聖徒達を食い物にする。(3節)
バラムの道を歩む者、偽預言者の行き着く先は、剣による滅びである。(民数記31:8、ヨシュア13:22)
「バラムは、イスラエルの子らの前につまずきとなるものを置くようにバラクに教えた。それは、彼らに偶像に献げた肉を食べさせ、みだらなことをさせるためだった。だから、悔い改めよ。さもなければ、すぐにあなたのところへ行って、わたしの口の剣でその者どもと戦おう。」(黙示2:14,16)
私達はバラムがした事とその行き着いた先をよくよく思い、私達の中のバラムを取り扱わなくてはならない。
バラムは、欲望がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生んだ。(ヤコブ1:15)
しかし、私達はイエス様にあって、祝福の民である。イエス様に名指しされ、呼び出され、彼を乗せて歩んだロバが、彼と共に栄光を受けたように、私達もイエス様をお乗せして歩むなら、共に栄光を受ける。
イエス様をお乗せして運んでいる限り、私達は祝福された者であり、たとい力ある著名なニセ預言者が、呪おうとしても呪う事はできず(申命記23:5)、たとい彼らが打っても、主が弁護して下さる。
私たちが担ぐべきお方は、預言者ではなくイエス様であるべきであるが、もし、仕えて運んでいる預言者が、誤った道に行こうとし、主が抜き身の剣で立ちふさがっているのを見たなら、ロバがしたように、留まって止めさせるべきであり、たとい叩かれたとしても、私達自身の口からことばの剣を出して戦うべきである。
「心の清い(単一な)人々は、幸いである、その人たちは神を見る。」(マタイ5:8)
たといロバのようであっても、常にキリストを運んでいる者として心を清く保ち、欲に目をくらまされる事無くキリストを見続けて歩み、いかに力あるニセ預言者の呪いの言葉でさえも、祝福に変えていただく皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!