メッセージ - 主の山に登る時は(創世記22章)
主の山に登る時は(創世記22章)
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神様に何かを捧げようとする時、考えても頑張っても、捧げるべきものに自信が無くなって行く事がある。
それは神様を敬う人、最善のものを捧げようとする人であるならあるほど経験する事であるが、そういう時は自分でやりくりしたり頑張ったりする事を止め、主の前に身を横たえ、全てを委ねた時、主が示しを与える。
主はアブラハムに主が示された山モリヤに行き、自分の愛する子イサクを捧げるよう命じられた。(創22章)
彼が主の言葉に口答えしたり、つぶやいたりした記録は一切無く、ただ言われた通り、翌朝早く準備を整え、その場所へ行き、イサクを縛り、ほふろうとして刀を取った。主は、恐らく慌てて、止めるように命じた。
「アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。アブラハムはその場所をヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に、備えあり(イエラエ)」と言っている。」(創世記22:13-14)
私達も、3日の従順を経て主の山に登り、主の祭壇に身を横たえ、御言葉の剣の前に服すなら、主は私達を3日目に死から救い出し、捧げるべき良き物さえも、主が備えて下さるのだ。
皆さんが主の山に登る時、すなわち礼拝に来る時、何を期待して行くだろうか?主に出会う事だろうか?主が「備え」て下さる何かを、頂く事だろうか? 主の山での礼拝においては、優先すべき順序がある。
まず、私達の側が、主の御前に自らを横たえ、御言葉の前に自らを下ろすなら、主が備えて下さるのだ。
「何よりもまず神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらの物はみな加えて与えられる。」(マタ6:33)
主が備えて下さるものは欲しいの、でも主の山に登らない者、登っても御言葉の前に身を置かない者、食べ物や着る物ばかりを求め、神の国と義を求めない者は、何も与えられず、それら全てに逃げられてしまう。
アブラハムがイサクを捧げたこのモリヤ山は、後の時代、エルサレム神殿となった場所である。(2歴代3:1)
そこはエブス人オルナンの打ち場で、ダビデが人口を数える事で主に罪を犯し、その災いとして、御使が3日間、抜き身の剣を差し伸べ、イスラエルの民を打っていた場所だった。(1歴21章,2サム24章)
数を数える事そのものは罪ではない。民数記では神がモーセに「民を数えよ」と言われたし、アブラハムにも「星を数えることができるなら、数えてみよ」と言われた。いずれも、神の恵みを悟らせるためである。
神が与えた祝福であるのに、ダビデは自分の欲のため、自分が誇るため、勝手に数えたから、罪とされた。
ネブカデネザル王も、バビロンの栄華を「私がしたのだ」と驕り高ぶった時、地位を落とされた。(ダニ4章)
神の恵みを忘れ、祝福を自分のおかげとし、自分の誇りとするために数える時、主は災いをもたらす。
イスカリオテのユダは、聖徒の捧げ物を値積もり、自分で打算する事を最後まで続け、滅びに至った。
ベオルの子バラムは、イスラエルを呪うよう雇われた時、御心は「行くな」だったのに、不義の報酬が並べられるとそれを愛し、行こうとしたので、御使いが抜き身の剣を持って彼に立ちふさがった。(民数記22章)
肉欲に魅せられ、数え、我が物にしようと、主の御言葉を超えて行く者には、主は剣を持って立ちはだかる。
ダビデはヨアブの制止にもかかわらず、強引に数えたため、主の使いがエブス人オルナンの打ち場に現れ、抜き身の剣がイスラエルに及んだ。
オルナンは滅ぼされるべきエブス人で、主の使いが自分の打ち場に現れているのに、全く恐れず、小麦を粉々に砕くため打穀していた。彼には全てを捧げる心の用意があったから恐れが無かったのかもしれない。
礼拝とは主の前に自らを砕く事で、主に喜ばれる捧げ物とは、砕かれた魂、悔いた心である。(詩篇51:17)
主は、モリヤの山、すなわちエブス人オルナンの打ち場に祭壇を築くよう、ダビデに指示された。
ダビデはそこへ登って行った時、オルナンはひれ伏して全て差し上げると言ったが、ダビデは、自分の財布を痛めずに礼拝を捧げたくない、と、相当の代価で買取り、礼拝を捧げ、そこを神殿の場所と定めた。
主はこの山で、アブラハムに御言葉の前に砕かれる事を迫り、ダビデにも迫った。私達も、主の山に登る時、御言葉の前に自分を砕き、御言葉に切り分けて頂くのである。
御言葉の前に身を横たえ、砕かれ、3日の後に主からいのちをいただき、新しいいのちにおいて、主から豊かに備えられ、祝福される皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!