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メッセージ - 礼拝メッセージ説教音声配信カテゴリのエントリ

主日礼拝

助け主が来るなら、私達も癒しの奇跡ができる!(マルコ9:23)

第一礼拝 Youtube動画

賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 ペンテコステ前、マルコの部屋に集った聖徒達は、イエス様が約束して下さった助け主・聖霊がすぐ来る事を期待し、来たなら、自分達もイエス様がしたわざをする事ができる、いや、それ以上の事ができる!と、ありありと思い巡らし、待ち望み続けた結果、実際にペンテコステの日に与えられ、実際にわざを行った。
これは今の私達にも起きる事である。むしろ、今の時代の日本こそ、聖霊によるしるしや奇跡が必要である。
なぜなら、そのわざによって、神を知らなかった人が、神を知るようになり、信じなかった人が信じて、救われるようになるためである。だから今、私達も、あの時代の使徒にならい、イエス様の奇跡をありありと自分のものとするため、聖書を開いて、イエス様がなされた奇跡を一つ一つ確認し、助け主が来るならば、これらは2020年を生きる今のわたしにも起きる!と、信仰を混ぜつつ思い巡らし、自分のものとして行きたい。
 
 福音書でイエス様がなされた奇跡の内、最も多かったのが、癒しの奇跡である。イエス様が行かれた所では大勢の病や、悪霊憑きや、てんかんが、癒された。(マタイ4:23、8:14、マルコ1:29、ルカ4:38、6:17)
らい病を患っている人は、それが清められ(マルコ1:40、ルカ17:11)、皮膚の病は癒された。 (ルカ14:1)
また、手や足が萎えた人など、完全でなかった体が、完全にされた。 (マタイ12:9、マルコ3:1、ルカ6:6)。
また、弟子が勝手に切り落としてしまった耳を癒やし、弟子の不始末の責任を取られた(ルカ 22:50)。
 また主は、御言葉の宣言によって遠隔地の人を癒された。主は、「お言葉さえ頂ければ(たとえ面と面を向かっていなくても)癒やされる」、という百人隊長の信仰通り、彼のしもべを癒され(マタイ8:5、ルカ7:1)、また、王室の役人の息子も、遠隔地から癒しを宣言したちょうどその時、息子は癒やされた。(ヨハネ4:43)
 また、第三者の執り成しを聞き入れて癒やされた事も多々あった。(マタイ14:34、9:1、マルコ6:53)
 主は個人個人に、その癒す相手に応じ、それぞれ個別の対応をされた。主は、ベテスダの池で38年、病で苦しんでいる人を癒し(ヨハネ5:1)、耳が聞こえず舌の回らない人の耳には、指を差し入れ、唾をつけて舌に触れ、「エパタ」と言って耳を開き、舌のもつれを解かれた(マルコ7:32)。また、見えない人の目に唾をつけて癒し、さらに人が木のように見えてしまう目を、はっきり見える目へと癒した (マルコ8:22)
 生まれつきの盲人の目に泥を塗って、シロアムの池で洗うようにと指示し、彼がその通りすると、見えるようになった(ヨハネ9:1)。また、盲人バルティマイの「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」という叫びに応じ、癒して下さった(マタイ20:29、マルコ10:46、ルカ18:35)。このケースのように、主は癒やされた時、「あなたの信仰があなたを救った」と、よく言われた(マタイ9:22、マルコ5:34、ルカ7:50、8:48)。
 また、自分自身の信仰一つで、主から癒しを引き出してしまったケースもあった。十二年間長血を患っていた女は後ろから主の衣の房に触れて癒しを引き出し(マタイ9:18、マルコ5:25、ルカ8:40)、また、ツロ・フェニキヤの女は、主の言葉を掴んだ信仰告白によって、娘の癒しを主から引き出した。(マルコ7:26)
 
 私達も助け主が来て、聖霊に満たされるなら、これら全てのわざを行い、またそれ以上の事をするのだ!
悪霊やてんかんによって悩まされているだろうか?助け主が来るなら、それらをイエスの名によって癒す事ができる! 皮膚の病や、人から「汚れている」と言われる病を持っているだろうか?助け主が来るなら、それらを清められる! 手足など肢体の完全さを失ってしまっているだろうか?それらも癒す事ができる!
 目がはっきり見えないだろうか?人が人として見えず、木が歩いているかのように見えてしまうだろうか?助け主が来るなら、そのような人を癒やす事ができる! 助け主が来るなら、12年来でも38年来の病でも、長年治らなかった病が癒せる! 助け主が来るなら、耳や目が塞がれている人に「エパタ!」と言って開く事ができる! 舌がもつれてうまく言えない舌も、解ける! 弟子が犯した不始末の責任を、癒しによって補償できる!そうして癒しのわざを人々が見るなら、主が確かに生きて働かれる事を知り、衣の房を触れるだけで癒しを引き出したり、あるいはパウロのように、前掛け布をかざすだけで、癒やす事も、起こるだろう。
 
 今まで、こう言うのは「おこがましい」、癒しはイエス様の専売特許で、イエス様なら出来ても自分には出来ない、と言って来たのは、私達・信じる者にも与えられていた特権を制限する事だったと反省しなくてはならない。聖書に書いてある内容で、「まさかここまではできないだろう」と思えていた事は、どんどん「聖霊が来るなら自分にもできる!」と塗りつぶして行き、主のわざを実際に行っていく皆さんでありますように!

早天礼拝

自分の罪の報いを受けている最中でも、何度でも主に泣きついたダビデ(詩篇61-62篇)

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詩篇63篇表題『ユダの野にあったときによんだダビデの歌』
 
これは、アブシャロムがダビデにクーデターを起こし、ダビデがユダの荒野へ逃げざるを得なくなった時に詠んだ詩である(2サムエル記16:2)。
 
ダビデは、彼自身が犯した姦淫と殺人の罪の故、彼の子たちもまた、子供たち同士で姦淫や殺人を犯すようになり、父ダビデの煮え切らない態度の結果、息子アブシャロムはクーデターを起こしてしまった。
いわば、自分の身から出た錆である。
 
しかし、ダビデは、「自分はもう罪を犯したので、主に合わせる顔がない」などと、主から離れる事はせず、かえって、熱烈に主に泣きつき、主に助けを求めた。
あたかも、泥だらけになって汚れた子供が、親に泣きつくように。
親を慕っている子は、自分が泥だらけになった時、「自分はもう汚れてしまったから、親に合わせる顔が無い」などとは言わず、逆に、親に泣きついて行くものだ。
まことの父なる神様も、それを願っておられる。
だから私達は、どんな罪を犯し裏切ったとしても、何度でも神に立ち返るべきなのだ。
 
詩篇63:1 神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる。
 
ダビデは、は、岩砂漠の荒野にて、水に渇く以上に、主に対して渇いており、神に「あなたはわたしの神」と呼んだ。
主は、それほどまでに主を慕い求め、積極的に関って行こうとする人を、ご自身のものとし助けてくださる。
 
詩篇63:2 それでわたしはあなたの力と栄えとを見ようと、聖所にあって目をあなたに注いだ。
 
彼は、ユダの荒野にいるはずで、そこには聖所は無いはずである。
ではなぜ、彼は「聖所にあって目をあなたに注いだ。」と言ったのか?
もし、主を「わたしの主」とし、砂漠で水を求めるように、主を慕い求めるなら、そこが聖所と化すのである。
ダビデは、この荒野の聖所で、素晴らしい賛美を捧げる。
 
詩篇63:3 あなたのいつくしみは、いのちにもまさるゆえ、わがくちびるはあなたをほめたたえる。
63:4 わたしは生きながらえる間、あなたをほめ、手をあげて、み名を呼びまつる。
 
心の底からの賛美は、「あなたのいつくしみは、いのちにもまさる」という実感から出て来る。
そして、その慕い求める心からの賛美を捧げる時、主は、甘く麗しい感覚をもって答えてくださる。
 
賛美や礼拝が「お勤め」になっている人にとっては、永遠に賛美をささげる天国は、つまらない所に思えるかもしれない。
しかし、こんなにも罪深い自分を、こんなにも素晴らしい天国へ入れてくれたという心の底からの感謝と賛美を、永遠に捧げられる天国は、じつに甘く麗しい、喜びに満ちた所なのだ。
天国にて、24人の長老たちが、冠を自分の頭から外して、主の御前に投げ出したのは、自分の頭なんかに冠があるなど、とてももったいない、一刻も早く、主こそが冠を受けるに相応しいお方だ、と表現したいのではないだろうか。(黙示録4:10)
 
天国でも、自分は罪を犯して生きてきた、という記憶がある。
なぜなら、
罪を犯した記憶、そして、そんな自分さえ赦されたという記憶なしには、感謝は生まれないからである。
だから、今私達の罪の記憶が消えていない理由は、自分は罪深いのだと自分に言い聞かせて苦しむためではなく、むしろ、こんな自分を赦して下さった事を、主に感謝するためである。
 
詩篇63:5 わたしが床の上であなたを思いだし、夜のふけるままにあなたを深く思うとき、わたしの魂は髄とあぶらとをもって/もてなされるように飽き足り、わたしの口は喜びのくちびるをもって/あなたをほめたたえる。
63:7 あなたはわたしの助けとなられたゆえ、わたしはあなたの翼の陰で喜び歌う。
63:8 わたしの魂はあなたにすがりつき、あなたの右の手はわたしをささえられる。
 
ダビデは、息子アブシャロムが起こしたクーデターのゆえに、逃げている最中である。
状況からして、到底眠るどころではないはずなのに、彼は床の上で横にり、しかも魂は豊かにもてなされるかのように満ち足りていて、彼の口は、喜びをもって主をほめたたえている。
 
それは、彼が主を思い、主の御言葉を思い巡らした故に、そこが御翼の陰、平安に満ちた所となり、いかに荒野で敵に追い回されている最中であっても、安らかな眠りが与えられたからだ。
もし私達が、過去や現在、将来起こるであろうあの事この事や、あるいはあの人・この人の言葉を思い巡らすなら、どんなにそこがセキュリティの確保されたホテルであっても、不眠症になってしまう。
 
63:9 しかしわたしの魂を滅ぼそうとたずね求める者は/地の深き所に行き、
63:10 つるぎの力にわたされ、山犬のえじき(メナート:分前、相続)となる。
 
この時、ダビデの魂を滅ぼそうとする者はアブシャロムであったが、彼はダビデはずかしめるために、公然と父ダビデの側女と寝たり、策略を巡らして父親を殺そうと追い回したり、と、律法では死に値する事を平気で行った。
その結果、彼は木に吊るされた状態、すなわち、呪われた状態のまま、なぶり殺されてしまった。
主に憎まれる事をあえてするような者は、山犬のえじき(相続分)となってしまうのだ。
 
63:11 しかし王は神にあって喜び、神によって誓う者はみな誇ることができる。偽りを言う者の口はふさがれるからである。
 
神からの約束に従って忠実に歩もうとする人は、真理の内に歩み、つまづく事なく、その道は確かである。
しかし、偽りを言う者は、その口が塞がれてしまうのだ。
 
続く詩篇64篇は、口達者な悪者に対抗する詩篇である。
もし自分は言葉巧みではない、けれども相手は悪辣な言葉を朗々と操るのに長けていて、言葉では勝ち目がない、という場合は、この詩篇を宣言すると良い。
 
詩篇64篇表題『指揮者のために。ダビデの賛歌』
64:1 神よ。私の嘆くとき、その声を聞いてください。恐るべき敵から、私のいのちを守ってください。
64:2 悪を行なう者どものはかりごとから、不法を行なう者らの騒ぎから、私をかくまってください。
 
この詩も、神への訴えで始まる。
 
64:3 彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、苦いことばの矢を放っています。
64:4 全き人に向けて、隠れた所から射掛け、不意に射て恐れません。
 
ダビデを攻める者達は、舌が達者で、苦い言葉をダビデにめぐらして、彼を苦しめている。
実際、アブシャロムは口達者な者だった。
彼は長年、ダビデを貶めるうわさ話を周到に巡らす事によって人々をダビデに敵対させ、また、甘い言葉で人心を買い、そうして長年の準備が整った時、彼はクーデターを起こした。
 
64:5 彼らは悪事に凝っています。語り合ってひそかにわなをかけ、「だれに、見破ることができよう。」と言っています。
64:6 彼らは不正をたくらみ、「たくらんだ策略がうまくいった。」と言っています。人の内側のものと心とは、深いものです。
 
彼らは、悪において長けている。
互いに談合し合意の上で、ひそかに罠を仕掛け、それを「だれに、見破ることができよう。」「たくらんだ策略がうまくいった。」と言っている、いわば、確信犯である。
意図して悪いたくらみをし、そうして成り上がって行こうとする事において、長けた者達である。
 
そのような者が、悪い力を駆使して攻め寄せて来る時、私達も、詩篇64篇の内容で、主に訴えるのだ。
特に、相手が主に忌み嫌われるような偽りや不正で立ち向かって来るなら、主の軍配は私達の側に上がり、以下のように扱って下さる。
 
64:7 しかし神は、矢を彼らに射掛けられるので、彼らは、不意に傷つきましょう。
64:8 彼らは、おのれの舌を、みずからのつまずきとしたのです。彼らを見る者はみな、頭を振ってあざけります。
 
そう、彼らが不正をする時、その不正が、彼らを攻め立てる口実となる。
偽りを言うなら、その偽りを言った口が、彼らを攻め立てる材料となる。
だから私達は、悪者の道に足を踏み入れるべきではない。
 
箴言1:19 利得をむさぼる者の道はすべてこのようだ。こうして、持ち主のいのちを取り去ってしまう。
1:20 知恵は、ちまたで大声で叫び、広場でその声をあげ、
 
詩篇64:9 こうして、すべての人は恐れ、神のみわざを告げ知らせ、そのなさったことを悟ります。
64:10 正しい者は主にあって喜び、主に身を避けます。心の直ぐな人はみな、誇ることができましょう。
 
主は、悪者が報いを受ける事によっても、栄光を受けられる。
その報いを人々が見る時、義なる神が生きておられ、悪人は必ず滅びるのだ、と、世界は知るようになる。
事実、ダビデをあなどったアブシャロムは、誰が見ても呪われた死に方をして、主がダビデに軍配を上げて下さった事を、全国民は知った。
 
確かに私達も、罪を犯した者達で、主から守られるに値しないように見えるかもしれない。
しかしたとえ罪を犯した者であったとしても、悔い改めて何度でも主に立ち返り、主に泣きつき、主により頼む人を、主は弁護し、保護してくださる。

詩篇 講解説教

人から来る圧迫のただ中でも平安と喜びを湧き上がらせる方法(詩篇61-62篇)

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詩篇61-64篇の背景は、アブシャロムがダビデに対してクーデターを起こし、ダビデはユダの荒野に逃げざるを得なくなった時のものと思われる。(63篇表題)
強い敵が追い迫って来た時、人から圧迫され続けている時、私達はどのように乗り切るか。その術を、この一連の詩篇から学びたい。
 
詩篇61篇表題『聖歌隊の指揮者によって琴にあわせてうたわせたダビデの歌』
61:1 神よ、わたしの「叫び(リナー)」を聞いてください。わたしの祈に耳を傾けてください。
 
「叫び(リナー)」とは、金切り声、甲高い叫びである。
ダビデは、金切り声を上げざるを得ないほどの圧迫に瀕していたが、その金切り声を単に響かせるのではなく、主に向かって、叫んだ。
何事も、金切り声さえも、主に向かう事。それこそダビデの道である。
 
詩篇61:2 わが心のくずおれるとき、わたしは地のはてからあなたに呼ばわります。わたしを導いて/わたしの及びがたいほどの高い岩に/のぼらせてください。
61:3 あなたはわたしの避け所、敵に対する堅固なやぐらです。
61:4 わたしをとこしえにあなたの幕屋に住まわせ、あなたの翼の陰にのがれさせてください。〔セラ
 
アブシャロムに追われて、ユダの荒野にいる彼は、まさに、地の果てにいる心地だったろう。
私達も、圧迫するようなもの、事、状況を前にした時、ダビデのように主に叫び、全ての重荷を主に委ねるなら、そこがたとえ地の果てであろうと、あるいは、いつもの職場や家庭であろうと、そこは主の幕屋となり、また、主の翼の陰となる。
 
詩篇61:5 神よ、あなたはわたしのもろもろの誓いを聞き、み名を恐れる者に賜わる嗣業を/わたしに与えられました。
 
ダビデは宣言した。嗣業は既に与えられました、と。
まだ実体として得ていないのに、主の御言葉を盾にとって、信仰を混ぜて「得た」と宣言する。すると、実際にすぐ与えられた、という証を、信仰者はよくする。
それは確かな事である。次のように書いてある。
『信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。』(ヘブル11:1)
 
詩篇61:6 どうか王のいのちを延ばし、そのよわいをよろずよに至らせてください。
61:7 彼をとこしえに神の前に王たらしめ、いつくしみとまこととに命じて/彼を守らせてください。
 
ダビデは、王のいのちを伸ばしてくださいと祈ったが、神の国に生きる王は、世の王とは全く違う。
世の王は、人々の上に立って権力をふるい、好き勝手に支配できるため、誰もが王様になりたがる。
しかし、神の国の王たる者は、そうであってはならない。
イエス様は言う。神の国における王たる者は、皆に仕える者、しもべになりなさい、と。
『人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。』(マタイ20:28)
 
私達・主イエスを信じる者は、事実、王である。
王として、民を良い政治を行って幸いにし、神の敵と戦い、悪い者から支配権を奪還し、神の統治をもたらさなくてはならない。
 
ダビデは彼の告白を主に申し上げ、訴えた結果、平安が与えられ、賛美が生まれた。
 
詩篇61:8 そうすればわたしはとこしえにみ名をほめうたい、日ごとにわたしのもろもろの誓いを果すでしょう。
 
彼は告白した。とこしえに神と共に住まい、いつまでも永遠に主をほめたたえる、と。
それだけでなく、地上における残された日々も、いつも主に対しての誓い(ネデル:約束)を果たしていく、と。
これは、うるわしい主に対する私達の告白でもあるべきである。
 
そして、力強い信仰宣言に満ちた62篇へと続く。
 
詩篇62篇表題『聖歌隊の指揮者によってエドトンのしらべにしたがってうたわせたダビデの歌』
62:1 わが魂はもだして「ただ(アク)」神をまつ。わが救は神から来る。
 
62篇の1,2,4,5,6節は、「アク」というヘブライ語で始まる。
「アク」は肯定の助詞で、日本語では「ただ」「こそ」「まことに」など、強い肯定を表現する。
 
詩篇62:2 神「こそ(アク)」わが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしはいたく動かされることはない。
 
神を「わが岩、わが救、わが高きやぐら」と呼ぶのは、ダビデに特徴的な宣言だが、これを、ダビデだけの宣言で終わらせてはならない。
私達自身の宣言にするべきだ。
詩篇は、全人類が直面するあらゆる問題に対処できる祈りが、記されているからだ。
 
詩篇62:3 あなたがたは、いつまで人に押し迫るのか。あなたがたは皆、傾いた石がきのように、揺り動くまがきのように人を倒そうとするのか。
62:4 彼らは人を尊い地位から落そうと「のみ(アク)」はかり、偽りを喜び、その口では祝福し、心のうちではのろうのである。〔セラ
 
ダビデは、このような者によって、苦しめられていた。
人を、尊い地位から落そうとはかり、偽りを喜び、その口では祝福しても心のうちではのろうような者達に。
 
神を恐れぬ者や良心が麻痺している者は、今にも倒れそうな石垣を見ると、倒したい衝動に駆られる。
いじめられっ子がいじめられているのを見たら、嬉しくなって、一緒にいじめに参加するのだ。
それら、破壊したい、殺したい、倒したいという衝動、は、サタンから来る。
 
私達は、忘れてはならない。
主はそのような弱者が虐げられているのを黙って見ておらず、特に、ダビデのように、主に叫び求める者の声を、主は聞いて下さるのだ、と。
ダビデに敵対した者達の末路を見れば、その者達が最後はどうなるかがわかる。
 
詩篇62:5 わが魂はもだして「ただ(アク)」神をまつ。わが望みは神から来るからである。
62:6 神「こそ(アク)」わが岩、わが救、わが高きやぐらである。わたしは動かされることはない。
62:7 わが救とわが誉とは神にある。神はわが力の岩、わが避け所である。
 
この世の中で、最も敵に回してはならない人とは、力ある人でも、お金持ちでもない。
ダビデのように、何かあったらすぐに主に走って行き、泣きつき、訴え、御言葉を宣言する人だ。
ダビデはその事を、人々に模範として示すために詩篇を書いている。
 
詩篇62:8 民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。〔セラ
 
これが、真の王が宣言すべき言葉である。
真の王とは、人々の心を、まことの神である主へと向けるようにと、支配する王である。
 
詩篇62:9 低い人はむなしく、高い人は偽りである。彼らをはかりにおけば、彼らは共に息よりも軽い。
 
ダビデは宣言した。
人は、むなしい。身分が低い人も、高い人も、ともどもに。彼らを全部まとめても、息よりも軽い、と。
そうであるからには、「息よりも軽い」人間による「息よりも軽い」いじめ言葉や、「息よりも軽い」者の嫌がらせに、目を留めても仕方ない。
私達は、永遠に土台として残るイエス・キリストの言葉にこそ目を留め、そこに土台を据えるのだ。
その土台に立つ時、私達は、そうした「軽い」物事は一切、問題ではなくなる。
 
詩篇62:10 あなたがたは、しえたげにたよってはならない。かすめ奪うことに、むなしい望みをおいてはならない。富の増し加わるとき、これに心をかけてはならない。
 
しいたげも、かすめ奪う事も、力づくで人を圧迫する事であり、そこに生活基盤を置いてはならない。
圧迫された人が、主に叫ぶ時、主が、その者達に敵対されるからだ。
 
富は、使ってしまえばなくなってしまう。
そのようなものにも、人生の基盤を置いてはならない。
人生の基盤は、永遠のいのちの源である主にこそ置くべきだ。
 
62:11 神はひとたび言われた、わたしはふたたびこれを聞いた、力は神に属することを。
 
話すための口はひとつ、聞くための耳は2つである。
タルムードによれば、神は人を、口を使うよりも神の言葉を耳で二倍聞くように、そのように創造されたという。
私達はただ一つ、神の口から出る言葉をこそ、この二つの耳をよくかたむけて聞くべきである。
最後にダビデは願う。
 
詩篇62:12 主よ、いつくしみもまたあなたに属することを。あなたは人おのおののわざにしたがって/報いられるからである。
 
もし主が、人のおのおののわざに従って報いていたなら、誰一人、生きながらえる者はいない。
しかし、主イエス様の贖いによって、赦しと救いを得た。
だから私達もダビデのように、ほめたたえるのである。
 
詩篇61:8 そうすればわたしはとこしえにみ名をほめうたい、日ごとにわたしのもろもろの誓いを果すでしょう。
 
主のあわれみ、主の素晴らしさを体験し、味わい、実感し、そうして感動した心をもって、人々に主の素晴らしさ伝え、そして王として、人々に憐れみの統治をしていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!

主日礼拝

期待し望む者に与えられる聖霊(ヨハネ 14:11-21)

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週報/メッセージ(説教)概要 

 本日はペンテコステ(聖霊降誕日)。主が弟子達に約束しておられた通り、聖霊が与えられ、その日を境に、彼らはイエスを大胆に証する強力な働き人へと変えられた。今の日本ほど、聖霊によるしるしや奇跡が必要な時代はない。世の人々は、教会が世に媚びて発信する知識や哲学めいた事、エンターテインメントなどでは、釣られない。そうしたものは幾らでも世にあって、そちらのほうが魅力的だからだ。しかしもし、有り得ないような奇跡や癒し、しるしが起きるなら、彼らは、そのわざによって信じるようになる。(ヨハネ14:11)
 奇跡やしるしが起きる理由は、それによって人々が驚き怪しみ(5:20)、神が栄光を受け、また神の子が栄光を受けるためであり(11:4)、神を知らなかった人が知るようになり、信じようとしない人が信じて救われるためである。私達は、この聖霊の働きが実際に起こる!と、どれほど具体的に信じ、期待しているだろう。
 聖霊充満にあずかれる人とは、主から言われた事を思い巡らし、そうなる、と期待し続ける人である。
復活の主が昇天される時、500人以上の人々が集まっていたが、五旬節の日に聖霊充満を体験したのは、たった120人だった。残りの380人は、期待し続けられず、去ってしまったのだ。具体的に期待し、望み続ける事こそ、聖霊を受ける条件である。では、私達がその「期待」の度合いを高めるには、どうしたらいいか。
 
 当時、弟子達は共に集い、共に賛美(テヒラー)し、祈り(テフィラー)に専念していた。当時ユダヤ人の賛美は、詩篇にメロディをつけて歌うというもので、当時の祈りは、聖書の言葉をそのまま暗唱する事だった。
 それを反復するのが、我々がしている「テフィリン」である。主の言葉をじっくり思い巡らし、宣言し続けていくと、矢のように飛んで来る言葉や、感動する言葉、心について離れない言葉が現れる。それをさらに思い巡らし続けて行くと、どんどん清められ、内側に聖なる領域がどんどん広まり、また、罪や肉欲の領域がどんどん縮小されて行く。そうしてどんどん、主のわざを為すのに適した器となって行く。そして、ついに主のタイミングが来た時、聖霊が爆発的に働き、もの事、人、状況に対して、圧倒的な主の御業が遂行される。
 だから私達も、弟子達がしたように、主の言葉を喜びつつ期待するのだ。聖霊が来るなら、主がしていたわざが自分達にもできる、今までイエス様に関心が無かったあの人が、俄然聞くようになる、今まで山のように動かなかった状況が動き、癒されなかった病が癒され、出ていかなかった悪いくせが出ていく、と。
 
 異邦人が集団で聖霊充満するきっかけを作った、百人隊長のコルネリオは、元々、ユダヤ人の信仰を見て、自分もそうなりたいと「期待」し、ユダヤ人のように祈り(御言葉を黙想し)、断食し、施しをしていた。
 彼がペテロを招いた時、家族や多くの友人達も、そこに招き寄せていた(使徒10章)。カイザリヤという娯楽や誘惑が多い町で、ローマの百人隊長が、被支配国の一般人から宗教的な指導をいただく集会…。
人数を集めるのはとても難しそうだが、彼はどうして多くのローマ人を集められたのか。それは、彼はいつも「期待」していた故だ。それで、彼の祈りや施しにはいつも祝福がついて回り、彼がいつも良い方向へ変わっているのを、家族や友人達が見て、彼が信じる神は本当にいるかもしれない、と思われていたのだろう。
 果たして私達は、御言葉に期待して良い方向に変わった姿を、家族や友人から評価されているだろうか。
もし自分が変わらないまま、福音を伝えたり、教えても、聞きはしないだろうし、集会に来てもらえないだろう。
だからまず、御言葉に期待し自分が変わる必要がある。祈りや賛美を「ルーチンワーク」にしてはならない。
祈りと賛美に真心を込め、主のうめきを共に感じ、切に祈るのだ。イエス様、この事は一体どうしたらいいですか?このままではわたしは潰れてしまいます。このままではあの人は滅んでしまいます。このままでは国に将来はありません。ああ主よ!と。偉大な王・ダビデがいつもそのようだった事は、詩篇を読めば分かる。
ルーチンワーク的な礼拝を、主は嫌う。ルーチンワーク化されたパリサイ人の礼拝より、胸を叩いて涙を流した取税人の礼拝のほうを、主は選ばれた。主はうめき、痛み、喜びの余韻を持っている人を求める。
 だから、いつも「神の国の余韻」を持っているべきだ。この余韻を習慣的に持っているなら、町を歩いていて、全く知らない人をぱっと見ても、なんであの人はあんな事するんだろう、主よ!といううめきが出てくる。
 普段からのうめきが無いなら、たとえ御言葉を宣言しても、あるいはその人を前に祈っても、上っ面の祈りしか出てこない。いつも人に対し、時代に国に対し、イエス様、なんとかしてください、とうめきを持つべきだ。
 今、私達は期待しつつ、聖霊を求めるべきである。助け主が来るなら、主のわざを行う事ができる。物事が変わっていく。それをありありと望み、実際に得て、多くの人をイエス様へと導く皆さんでありますように!
 

金曜徹夜祈祷会

家族や友人を福音へと導ける理由・導けない理由(使徒10:1-11:18)

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ホセア書 講解説教 水曜夕礼拝

買い戻された姦淫の妻(ホセア2:16-3:5)

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エゼキエル書 講解説教 水曜昼礼拝

エゼキエルに与えられた使命:見張り人として警告を発する(エゼキエル3:16-27)

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他の引用箇所:
ルカ24:49-53
1テモテ4:13-16
 

早天礼拝

御言葉が「謎」でなはなく、はっきり分かるようになるために(ヨハネ16:25-33)

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16:25 わたしはこれらのことを「比喩(パロイミア:真意を隠した表現、謎)」で話したが、もはや比喩では話さないで、「あからさまに(パレースィア:自由に、大胆に、あからさまに、公然と)」、父のことをあなたがたに話してきかせる(カナゲロー:表明する、マニフェストする)」時が来るであろう。
 
15:14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
15:15 わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ。わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。

 

ルカ24:45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて

24:46 言われた・・・

24:52 彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、

24:53 絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。

 

 

ヨハネ16:33 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

1ヨハネ4:4 子たちよ。あなたがたは神から出た者であって、彼らにうち勝ったのである。あなたがたのうちにいますのは、世にある者よりも大いなる者なのである。

4:5 彼らは世から出たものである。だから、彼らは世のことを語り、世も彼らの言うことを聞くのである。

 

詩篇 講解説教

ダビデの連戦連勝の陰にあった、彼の葛藤の祈り(詩篇60篇)

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詩篇60篇表題『聖歌隊の指揮者によって、「あかしのゆり」というしらべにあわせて教のためにうたわせたダビデのミクタムの歌。これはダビデが、アラムナハライムおよびアラムゾバと戦ったとき、ヨアブがその帰りに、塩の谷でエドムびと一万二千人を殺したときによんだもの』
 
この表題の出来事は、第2サムエル記8章、1歴代誌18章で示されている。
それらの記事を見ると、「ダビデは**と戦った、勝った」と、結果だけが淡々と記されていて、途中どんな葛藤やドラマがあったのかは記されていないので、その箇所だけを見るなら、あたかもダビデは、何の苦労も無く連戦連勝したかのように見えるかもしれない。
しかし、詩篇60篇の内容を見ると、決してそうではなかったのだという事が伺える。
 
詩篇60:1 神よ、あなたはわれらを捨て、われらを打ち破られました。あなたは憤られました。再びわれらをかえしてください。
60:2 あなたは国を震わせ、これを裂かれました。その破れをいやしてください。国が揺れ動くのです。
60:3 あなたはその民に耐えがたい事をさせ、人をよろめかす酒をわれらに飲ませられました。
 
ダビデはその時、北のアラム・ナハライム(アラム軍)や、アラム・ツォバ(ダマスコの北東の国)と戦っているさ中で、しかもその時、南からはエドムが蜂起して戦いを仕掛けて来た。
強敵が次から次へとイスラエルに襲いかかって来る。
その時、ダビデは、あたかも神が憤ってダビデを捨てたかのように感じたのだ。
ダビデがここまで弱気な事を書いたからには、この時のイスラエルは、普通の人が見るなら、誰が見ても絶望、と見られる程の、危機的状況だったのだろう。
しかしダビデは、信仰を奮い立たせて、宣言する。
 
詩篇60:4 あなたは弓の前からのがれた者を再び集めようと/あなたを恐れる者のために/一つの旗を立てられました。〔セラ
 
ここは、訳し方が分かれる節である。
原文は以下である。
ナタター(あなたは与えた) リレエイカ(恐れる、打つ) ネス(旗) レヒトノーセス(ひらめく、逃れる) ミペネイ(顔に、〜前に、のために) コシェット(ヘブライ語:真理、アラム語:弓) セラ
 
口語訳や新改訳は、コシェットをアラム語の「弓」と訳したが、KJVや新共同訳は、ヘブライ語の「真理」と訳している。
主は、主をおそれ敬う人達、すなわち主を避け所として、主の御旗の元に集う人の前には、真理(あるいは弓)をもって、偉大な御力をあらわしてくださるのだ。
 
旗には、自分の所属のしるしが記されている。
私達も、自分の所属は、天地を創られた主である、という事を表明するために、主の御旗を掲げるべきである。
どのようにしたら、主の御旗を掲げる事が出来るのだろう。
出エジプト記に、主の旗をかかげて勝利をもたらした記事がある。
 
『モーセはヨシュアに言った、「われわれのために人を選び、出てアマレクと戦いなさい。わたしはあす神のつえを手に取って、丘の頂に立つであろう」。ヨシュアはモーセが彼に言ったようにし、アマレクと戦った。モーセとアロンおよびホルは丘の頂に登った。』(出エジプト記17:9-10)
 
手を上げて主に祈る事が、すなわち、主の旗を掲げる事である!
 
『モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。』(11節)
モーセが背後で祝福の手を上げて祈る、その手が「主の旗」となり、それが戦いを左右した。
教会と、世の組織との違いは、祈るか、祈らないか、であり、祈る教会と祈らない教会とでは、大きな違いが出てくる。
世の人は、肉弾戦で戦おうとするが、私達・教会は、主の御名によって祈る事によって、天の扉を開けたり閉めたりする権威をもって、戦うのである。
 
出エジプト記17:12 しかしモーセの手が重くなったので、アロンとホルが石を取って、モーセの足もとに置くと、彼はその上に座した。そしてひとりはこちらに、ひとりはあちらにいて、モーセの手をささえたので、彼の手は日没までさがらなかった。
 
このように、霊的指導者の祈りの手が下りないように支える働きは、実戦部隊より重要である。
教会も、牧会者が祈りと御言葉の奉仕に専念できるよう、事務作業において、経済において、支える働き人が必要である。
もし牧会者ひとりが、祈りと御言葉の奉仕をし、その上で事務作業をしたり、日銭を稼いだりしていたら、疲れ果てて、祈りの手が萎えてしまう。
 
出エジプト記17:13 ヨシュアは、つるぎにかけてアマレクとその民を打ち敗った。
 
祈りに専念したら、ヨシュアが戦って勝利してくれた。
ヨシュア、ヘブライ語でイエシュア、その意味は「主は救い」。すなわちヨシュアは、イエス様の名と同じである。
私達も、祈りの手を上げて主の旗をかかげるなら、まことのヨシュアであられるイエス様が戦って、勝利をもたらしてくださるのだ。
 
出エジプト記17:15 モーセは一つの祭壇を築いてその名を「主はわが旗」と呼んだ。
17:16 そしてモーセは言った、/「主の旗にむかって手を上げる、/主は世々アマレクと戦われる」。
 
「主は世々、戦われる」と書いてある。世々に、という事は、今も、である。
現代の私達も、手を上げて祈る時、主の旗が掲げられ、そうして主は、今も、主の民に敵対する者と戦われるのだ。
 
詩篇60篇は、4節で、セラ(モードチェンジ)が宣言されている。
恐れおののいていたダビデは、主の御旗を掲げた信仰宣言によって、その雰囲気をチェンジする。
 
詩篇60:5 あなたの愛される者が助けを得るために、右の手をもって勝利を与え、われらに答えてください。
 
ダビデは、主の右の手をもって勝利を与えてください、と願った。
主の旗は、世々に渡って勝利を与えて下さる主の手である。
そしてダビデは、主の聖所に入り、主の言葉を聞いた。
 
詩篇60:6 神はその聖所で言われた、「わたしは大いなる喜びをもってシケムを分かち、スコテの谷を分かち与えよう。
60:7 ギレアデはわたしのもの、マナセもわたしのものである。エフライムはわたしのかぶと、ユダはわたしのつえである。
 
シェケムとエフライムはヨルダンの西側、スコテとギルアデはヨルダンの東側の地で、それらの地は元々、創世記15章において、主が「与える」と約束された相続地である。
私達も、祈りの内に主の聖所に行って、主の約束の御言葉を盾にとって祈るなら、それは実現する。
 
詩篇60:8 モアブはわたしの足だらい、エドムにはわたしのくつを投げる。ペリシテについては、かちどきをあげる」と。
 
モアブ、エドム、ペリシテは、神の民に敵対して来た者達であるが、主は、それを足の下に踏みつける、と言われる。
私達も、御言葉を宣言するのだ。
「平和の神は、サタンをすみやかにあなたがたの足の下に踏み砕くであろう。」(ローマ16:20)
 
詩篇60:9 だれがわたしを堅固な町に至らせるでしょうか。だれがわたしをエドムに導くでしょうか。
60:10 神よ、あなたはわれらを捨てられたではありませんか。神よ、あなたはわれらの軍勢と共に出て行かれません。
60:11 われらに助けを与えて、あだにむかわせてください。人の助けはむなしいのです。
 
ダビデは、北から南からイスラエルを引き裂こうとして来た強敵を前に一度は恐れおののいたが、しかし信仰告白によって奮い立つ。
 
詩篇60:12 われらは神によって勇ましく働きます。われらのあだを踏みにじる者は神だからです。
 
ダビデは「神によって」と宣言した。
そう、人の力や助けは虚しいが、神にあって私達は強い。
 
ダビデはこの宣言をもって、戦った結果、あっさりと勝利した。
 
サムエル記や歴代誌の記述だけを見ると、あたかもダビデは何の葛藤もなく、あっさりと勝ったかのような印象を受けるが、そうではない。
ダビデにも戦いの毎に恐れがあり、そして主への祈りと信頼があり、そして勝利する度に、主への感謝と賛美があったのだ。
 
この詩篇の表題にある「あかしのゆり」の原語は、シュシャン・エイドゥース。
シュシャンはゆり、エイドゥースは「あかし」で、新共同訳では「定め」「教え」と訳されている。
つまりこの詩は、教えのために作られたものであると考えられる。
 
この詩は、現代の私達にも、教える。
戦いを前に、あるいはコロナウイルスが蔓延る現状に、恐れがあるだろうか。葛藤があるだろうか。
しかし主は、今も、祈りの手を上げて御旗を掲げる人には、イエシュアであられるイエス様が戦ってくださり、勝利をもたらしてくれるのだ。

主日礼拝

力を着せられるまで、都にとどまっていなさい(ルカ24:49-53)

第一礼拝 Youtube動画

賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画

週報/メッセージ(説教)概要

 次週は聖霊降誕日である。聖霊が来ると主の力強い証人となり、罪について、義について、さばきについて、世にその過ちを認めさせるようになる。また、人や物事に対する識別力が与えられ、言葉や人間関係でつまづいたり、失敗したりしなくなっていく。五旬節をもうじき迎える今、私達はいかに備えたら良いか。
 
 『見よ、わたしの父が約束されたものを、あなた方に贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなた方は「都(ポリス:城壁がある大きな町)」に留まっていなさい。』(ルカ24:49) 主は、「力を着せられるまで留まりなさい」と言われた。だからそれまで、勝手にあれこれするべきではない。しかし聖霊が与えられる時、内から込み上がってくる聖なる衝動に突き動かされ、聖なる行いをし、聖霊が語らせてくださるままを語る。
聖霊が働く時、失敗は無いが、聖霊抜きに、自分で編み出した力で神の国を立てあげようとすると、必ず失敗する。サラは、約束の子が与えられるのを待ちきれず、ハガルを通して苦い根を残し(創世記16章)、サウルは、サムエルが来るのを待ち切れず儀式を行い、王国が立つ事を逃してしまった(1サムエル13章)。
 
 初代教会の聖徒達は、力を着せられるまで待ったが、その間、エルサレムに留まって何をしていたか。
彼らは、非常な喜びをいただき、いつも神を褒め称え(テヒラーתהלה)て(49-53節)、また共に心を合わせて祈り(テフィラーתפלה)に専念していた(使徒1:13)。これは聖霊を待ち望む私達もするべき事である。
 私達も、聖徒の交わりという城壁の町の中に留まり、共に賛美し、祈り続けるのだ。祈り(テフィラー)は本来、主の御言葉を暗唱する事で、それを反復すると「テフィリンתפלין」となる。そうして御言葉を思い巡らし続けていると、やがて、非常な喜びが沸き起こり、それにメロディがついて賛美(テヒラー)となる。
 マリヤのように、主の言葉を繰り返し思い巡らしていると、矢のように飛んで来て刺さるような言葉が現れ、また、感動し涙する言葉、心から離れない言葉が現れ、大いにアーメンし、賛美したくなる。この人知を超えた経験をするのは、神の言葉は霊であり、生きており、その霊が、私達の霊と共鳴するからだ。
 こうして賛美、祈り、テフィリンを繰り返して行くと、その感動と喜びが、確信となり、アーメンとなり、それが貯まりに溜まってデュナミス(力)となり、それが見える世界で実体化し、力強く神をあかしするようになる。
 だから、御言葉を昼も夜も口ずさめば口ずさむほど、その言葉の高さ、広さ、深さを理解し、知恵と啓示の霊で満ち溢れる。そして、目の前にある人が来た時、または何かの事象が起きた時、それまで思い巡らして来た、エネルギーを帯びた言葉に、主がエンジンをかけて下さり、主のタイミングにより溜まっていた聖なるエネルギーがほとばしり出て、目の前の人、モノ、状況に対して、主の御業が”ばんっ”と遂行される。
 
 言葉には、3種類ある。思いの中の言葉と、態度という言葉と、口から出て人に聞かせる言葉であるが、思いの中の言葉が、一番大事である。人は、言葉を蓄えた器のようで、その器の中に蓄えて来た言葉を源とした言葉が、思いの中に、電光掲示板のごとく流れ、そうして思い巡らしている言葉が顔の筋肉を動かし、表情に現れ、または態度に現れ、それが定着して、顔立ちや言動パターンが、そして人生が出来上がる。
悪い言葉を蓄えて思い巡らしているなら、人相が悪くなり、健全な言葉を蓄えているなら、顔立ちが良くなる。せっかくエステに通っていても、もし内に蓄えている言葉が悪いなら、人相の悪さは治りようが無い。
 良くない言葉を内に溜めていると、良くない事を引き寄せ、嫌な思いをするので、内なる言葉を入れ替える必要がある。良くない言葉は、健全で積極的な「主の言葉」によって打ち消す以外には無い。
 もし主の言葉を思い巡らし、豊かに蓄え、その健全な言葉を豊かに自分に染み込ませているなら、その人の平安と健全さは、決して状況や気分によって左右されないし、一発屋的に終わるのでもない。
御言葉を思い巡らし、反復して宣言し、霊に染み込んだ御言葉には、腹の奥底からの確信があるからだ。
 
 今、コロナの危険がある現代、私達は悪者のはかりごとに歩んだり、罪人の道に立ったり、あざける者の座に着いてはならない。主の守りの保証から外れてはならない。むしろ聖徒の交わりの城壁の内にこもり、主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむべきだ。そうすれば、時が来れば実がなり、その葉は枯れず、何をしても栄える保証が得られる(詩篇1篇)。この時代、留まるべき御言葉に留まり、やがて聖霊の力が着せられ、大いに主の働きをする皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
 
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