メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ
礼拝説教メッセージ音声:奪われてしまった力(士師記16:18-22):右クリックで保存
『デリラはサムソンがその心をことごとく打ち明けたのを見、人をつかわしてペリシテびとの君たちを呼んで言った、「サムソンはその心をことごとくわたしに打ち明けましたから、今度こそ上っておいでなさい」。そこでペリシテびとの君たちは、銀を携えて女のもとに上ってきた。』(士師記16:18)
今まで彼女は、サムソンを起こす時、ペリシテ人は奥の部屋に隠して、安全を図っていた。つまり彼女は今まで、サムソンを完全には信用していなかったのだ。
しかし今回、彼女はペリシテ人の領主達を呼び寄せ、領主たちもまた銀を持って来た。彼が本心を打ち明けたと、それほど確信したのだ。
サムソンが本心を打ち明けるやいなや、銀を求める。それが彼女の本性だった。
彼女は最初からサムソンを愛してなどいなかったし、サムソンにあれだけの力を与えて下さった主を恐れる心も無かったし、そんな事よりも、目先に入る大金のほうが大事だったのだ。
同じように、滅ぼす者、サタンに属する者は、皆そのようなもので、はじめから人に何の益ももたらそうとはしないものだ。
『女は自分のひざの上にサムソンを眠らせ、人を呼んで髪の毛、七ふさをそり落させ、彼を苦しめ始めたが、その力は彼を去っていた。』(士師記16:19)
サムソンは、女の膝枕で眠らされている間に、力の源を削ぎ落とされてしまった。
私達も、罪の誘惑の中に眠らされてしまう時、大切なものを奪われてしまう。
サムソンは、自ら髪を剃ったのではなく、眠らされている間に他人に剃られてしまったように、私達もたとえ心は燃えていても、罪や誘惑に眠らされてしまうなら、いつの間にか他人に奪われてしまうのだ。
『わが子よ、どうして遊女に迷い、みだらな女の胸をいだくのか。』(箴言5:20)
『子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。』(箴言5:7-10)
彼は、大切な尊厳を、無慈悲な者に渡してしまい、その資産は奪われてしまった。
遊女に限らず、あらゆる誘惑から自分自身を守るには、そこに近づかない事、身を遠くする事に限る。
『そして女が「サムソンよ、ペリシテびとがあなたに迫っています」と言ったので、彼は目をさまして言った、「わたしはいつものように出て行って、からだをゆすろう」。彼は主が自分を去られたことを知らなかった。』(士師記16:20)
彼は「いつものように」出来ると思っていた。
彼は、彼女は秘密を誰にも打ち明けないと思っていたのだろうか。あるいは、たとえ髪を剃られてしまっても、この力は奪われないのではないか、今までどおりではないか、と思っていたのだろうか。
現実は、力は去ってしまった。
罪を犯し続けても、いつまでも罰せられない、と思っているだろうか。
いや、罪の秤目が満ちた時、必ず報いを受けてしまうのだ。
『そこでペリシテびとは彼を捕えて、両眼をえぐり、ガザに引いて行って、青銅の足かせをかけて彼をつないだ。こうしてサムソンは獄屋の中で、うすをひいていたが、その髪の毛はそり落された後、ふたたび伸び始めた。』(士師記16:21)
目をえぐられ、足かせをつけられ、臼を引くという女の仕事をさせられている。それは実に屈辱的な事である。
バビロン捕囚直前のユダの王・ゼデキヤも、全く同じように、家臣たちには逃げられ、子供たちは目の前で殺され、彼自身は目をえぐられ、青銅の足かせをかけられて、バビロンへ引いて行かれた。(2列王記25:1-7)
ゼデキヤにもサムソンにも共通している事は、罪に罪を重ね、両親や預言者の諭す言葉を聞いても無視し、主の言葉をないがしろにし続けた事であり、その末路は、目を見えなくされ、捕縛され、無慈悲な者達の只中へ連行され、辱めを受ける事である。
『それゆえ、公平は遠くわれわれを離れ、正義はわれわれに追いつかない。われわれは光を望んでも、暗きを見、輝きを望んでも、やみを行く。われわれは盲人のように、かきを手さぐりゆき、目のない者のように手さぐりゆき、真昼でも、たそがれのようにつまずき、強壮な者の中にあっても死人のようだ。・・・公平を望んでも、きたらず、救を望んでも、遠くわれわれを離れ去る。われわれのとがは、あなたの前に多く、罪は、われわれを訴えて、あかしをなし、とがは、われわれと共にあり、不義は、われわれがこれを知る。』(イザヤ59:9-12)
しかし、主のあわれみは尽きない。
バビロン捕囚には70年が定められていたように、サムソンにも、再び髪の毛が生えて来るのだ。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
愛する方の腕の中に(雅歌2:1-7):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:露わにしてしまった秘密(士師記16:15-17):右クリックで保存
『そこで女はサムソンに言った、「あなたの心がわたしを離れているのに、どうして『おまえを愛する』と言うことができますか。あなたはすでに三度もわたしを欺き、あなたの大力がどこにあるかをわたしに告げませんでした」。』(士師記16:15)
デリラは以前にも増して彼を陥れようと誘惑して来るのに、サムソンは何も言い返せない。
彼は嫌われたくないがために、既に三度もウソをついた負い目があるからだ。
相手が自分を陥れようと来るなら、なにもウソを言わずとも、真理の言葉て叱りつければ良いのに、嫌われたくないからと言って適当にあしらっているなら、その不誠実を掴まれてしまい、何もできなくなってしまうのだ。
多くのキリスト者も、信仰の無い人から嫌われたくないがために、同じ罠に陥っている。
『女は毎日その言葉をもって彼に迫り促したので、彼の魂は死ぬばかりに苦しんだ。』(士師記16:16)
水の絶え間ない滴りを用いた拷問もあるが、女性からの雨漏りの滴りにも似た毎日の言葉責めは、男性にとっては死ぬばかりに辛い。(箴言27:15)
かつてのサムソンの妻も、同じ方法によって、彼から秘密を聞き出したために、彼はペリシテ人との賭けに負けてしまった。
箴言に記されている。
『賢い妻はその夫の冠である、恥をこうむらせる妻は/夫の骨に生じた腐れのようなものである。』(箴言12:4)
妻は、夫にとって、骨の中の骨である。だから、妻が腐れた言葉で毎日迫って来るなら、夫は骨に神経痛の元を抱えているようなものであり、夫がたとえ、屈強なペリシテ人千人をもってしても苦しめる事が出来ない程、力があるとしても、たった一人の腐れた妻によって、死ぬほど苦しい目に遭うのだ。
『彼はついにその心をことごとく打ち明けて女に言った、「わたしの頭にはかみそりを当てたことがありません。わたしは生れた時から神にささげられたナジルびとだからです。もし髪をそり落されたなら、わたしの力は去って弱くなり、ほかの人のようになるでしょう」。』(士師記16:17)
頭、それは、栄光をあらわす重要な部位である。
預言者エリシャのはげ頭をあざけった四十二人の子供は、呪われ、熊にかき裂かれてしまった。(2列王記2:23-24)
『すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。』(1コリント11:3)
女のかしらは夫であり、女が長い髪をしているのは女の栄光(同15節)、ひいては、その夫にとっても栄光であるように、ナジル人として神に捧げられていたサムソンのかしらは、神であり、彼の髪の長さは、神の栄光のあらわれなのだ。
その髪を剃る事は、彼から神の栄光を取り上げるものである。
私達はキリストにあるなら、男も女も、全てキリストの花嫁であり、私達のかしらなるキリストの栄光をあらわす者だ。そのアイデンティティは、誰にも奪われてはならない。
『あなたは自分の水ためから水を飲み、自分の井戸から、わき出す水を飲むがよい。あなたの泉を、外にまきちらし、水の流れを、ちまたに流してよかろうか。それを自分だけのものとし、他人を共にあずからせてはならない。』(箴言5:15-17)
サムソンは、決して露わにしてはならない力の泉の源を、ペリシテ女に撒き散らしてしまった。
私達も、決して露わにしてはならない泉、独り占めにしなくてはならない泉がある。
それは、いのちの泉の源、イエス・キリストである。
『わが子よ、どうして遊女に迷い、みだらな女の胸をいだくのか。人の道は主の目の前にあり、主はすべて、その行いを見守られる。悪しき者は自分のとがに捕えられ、自分の罪のなわにつながれる。彼は、教訓がないために死に、その愚かさの大きいことによって滅びる。』(同20-23節)
サムソンは両親の教訓にも聞かずに遊女に迷い、みだらな女に捕らえられ、その愚かさの故に、滅ぼす者へ自分の首を差し出してしまった。
私達はこの事に戒めを受け、守るべきものは決してあらわにする事なく、平和と尊厳の内に生るものでありたい。
礼拝説教メッセージ音声:いのちを担保に罪を楽しむ性質(士師記16:10-14):右クリックで保存
サムソンの力の秘密を聞き出す事に失敗したデリラは、サムソンに訴える。
『あなたはわたしを欺いて、うそを言いました。どうしたらあなたを縛ることができるか、どうぞ今わたしに聞かせてください。』(士師記16:10)
悪魔に属する誘惑者は、神の民を誘惑する事に失敗すると、「お前は欺いた」「ウソを言った」などと、自分は棚に上げて訴えるものである。
彼女は、サムソンを陥れようという実績を、一度積んだのだから、彼は彼女にこたえる必要は一切無いし、むしろ、「誘惑するな!」と一喝するべきなのに、彼は彼女に嫌われたくないがう故に、あやふやな返事をする。
私達も、本来ハッキリ言うべき場面で、嫌われたくないがために、箸にも棒にもかからない返事をして、あやふやな関係を引き伸ばす所があるとしたら、正さなくてはならない。
『サムソンは女に言った、「もし人々がまだ用いたことのない新しい綱をもって、わたしを縛るなら、弱くなってほかの人のようになるでしょう」。そこでデリラは新しい綱をとり、それをもって彼を縛り、そして彼に言った、「サムソンよ、ペリシテびとがあなたに迫っています」。時に人々は奥のへやに忍んでいたが、サムソンはその綱を糸のように腕から断ち落した。』(士師記16:11-12)
サムソンは「もし人々が・・・わたしを縛るなら」と言ったが、その「人々」とは、ペリシテの人々を除いて、一体誰だろう。
やはり彼は、ぎりぎりの所で彼女との駆け引きを楽しんでいるようである。
異性に限らず、酒や煙草、ギャンブルなど、摂り過ぎると滅びてしまう事は分かっていても、やめられない。
あっちも手放さず、こちらも手放さず、滅びに至らないぎりぎり所を楽しもう、という人は、ほぼ、それで滅びると言っていいだろう。
『そこでデリラはサムソンに言った、「あなたは今まで、わたしを欺いて、うそを言いましたが、どうしたらあなたを縛ることができるか、わたしに聞かせてください」。彼は女に言った、「あなたがもし、わたしの髪の毛七ふさを機の縦糸と一緒に織って、くぎでそれを留めておくならば、わたしは弱くなってほかの人のようになるでしょう」。
そこで彼が眠ったとき、デリラはサムソンの髪の毛、七ふさをとって、それを機の縦糸に織り込み、くぎでそれを留めておいて、彼に言った、「サムソンよ、ペリシテびとがあなたに迫っています」。しかしサムソンは目をさまして、くぎと機と縦糸とを引き抜いた。』(士師記16:13-14)
サムソンはついに、彼の力の源、すなわち、神様に捧げられた「ナジル人」のしるしである「髪の毛」に言及した。
彼はナジル人としての戒めを既に色々破ってはいるが、かろうじて力が保たれているのは、この、ナジル人のしるしである「髪の毛」だけは決して手放さなかったからだ。
私達も、「主に捧げられた者」である事のアイデンティティだけは、決して、悪しき者へ手放してはならない。
その譲ってはならないアイデンティティとは、「イエス・キリストを主とする」事である。
私達の心の王座には、ただ主イエスに座していただく事。その王の座に、デリラのような、他のものに譲ってはならないし、肉薄させてもならない。
ヒゼキヤ王は、一難去って油断が生じた時、バビロンからの使者の挨拶に気を良くしてしまい、宮殿や神殿の宝物倉や武器庫を全て彼らに晒してしまった。
それでイザヤは、それらの大切な宝物は全部バビロンへ運び去られてしまう事を預言した。(イザヤ39章)
サムソンのように、いのちを担保にして罪を楽しむ者は多く、そのパターンにひと度はまってしまったら、抜け出すのは中々大変である。
私達はどのようにして、そこから身を守れば良いだろうか?
パウロは勧めている。
『だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。』(同17-18節)
まずは、誘惑になるような人や物から離れる事である。
ヨセフは、ポティファルの妻が性的誘惑を仕掛けて来た時、そんな言葉は聞き入れず、一緒にいる事もしなかったし、二人きりの時に強引に迫ってきたら、彼は上着を捨てて逃げた。そのように、逃げるが勝ちである。(創世記39章)
人は、外的な攻撃にはよく抵抗できるものだが、気持ち良くさせる誘惑に対しては、弱いものであり、誘惑に身を晒してギリギリ一線を超えない程度に楽しむ人は、滅びのパターンに陥っている。
たばこや酒、ドラッグなどにはまってしまった人は、皆、そうだった。
だから、誘惑するものには近づかない事。それが最善である。
女性で失敗したソロモンも、言っている。
『遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。その足は死に下り、その歩みは陰府(よみ)の道におもむく。彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。』(箴言5:3-6)
姦淫の誘惑は、蜜のように甘く、それはどんな勇者でも、簡単に陰府に送り込んでしまう諸刃の剣であり、その最後は、苦よもぎのように苦い。
サムソンも、ペリシテの屈強な男たち千人がかりでも屈服させられなかったのに、たった一人の女によって、いとも簡単に屈服させられ、そして、苦々しい最後を遂げてる事になってしまう。
『わが子よ、何を言おうか。わが胎の子よ、何を言おうか。わたしが願をかけて得た子よ、何をいおうか。あなたの力を女についやすな、王をも滅ぼすものに、あなたの道を任せるな。』(箴言31:2-3)
いつまでも罰せられない事につけあがるサムソン(士師記16:1-9)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 士師記
- 執筆 :
- pastor 2014-11-19 23:08
礼拝説教メッセージ音声:いつまでも罰せられない事につけあがるサムソン(士師記16:1-9):右クリックで保存
『サムソンはガザへ行って、そこでひとりの遊女を見、その女のところにはいった。』(士師記16:1)
ガザは、ペリシテの領地の南端にある町である。
前回の所で、主は、彼の罪深い素行に見合わないほどの救いを与えて下さった、にもかかわらず、彼はまだ懲りずにペリシテの地に女を求めに行っている。
パウロは言う。
『あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。それとも、遊女につく者はそれと一つのからだになることを、知らないのか。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。しかし主につく者は、主と一つの霊になるのである。
不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。』(1コリント6:15-20)
サムソンは、幾度も主の霊が激しく降っているというのに、その与えられた力を、神の栄光をあらわすために用いず、かえって、そのからだを取って異邦の遊女と交わり、主と、その聖なる霊とに、罪を行っている。
それでもなお、彼からその力は取り上げられない。
『「サムソンがここにきた」と、ガザの人々に告げるものがあったので、ガザの人々はその所を取り囲み、夜通し町の門で待ち伏せし、「われわれは朝まで待って彼を殺そう」と言って、夜通し静かにしていた。』(士師記16:2)
サムソンはもはやペリシテ人の間では有名なお尋ね者であり、長髪でガタイが大きい彼は、とても目立つはずなのだが、それでも堂々と、女を買うためにペリシテの領地に来て、堂々と遊女と遊んでいる。
彼の慢心のつけ上がりさ加減は、ますます大きくなっている事がわかる。
『サムソンは夜中まで寝たが、夜中に起きて、町の門のとびらと二つの門柱に手をかけて、貫の木もろともに引き抜き、肩に載せて、ヘブロンの向かいにある山の頂に運んで行った。』(士師記16:3)
ガザからヘブロンまでは六十キロ以上はある。
町の門を素手でひっこ抜いただけでも驚きだが、それを六十キロ以上も担いで運ぶのは、相当の怪力である。
きっと待ちぶせしていたペリシテ人は、そんなサムソンを見て、とてもかなわないと、戦う気も失せてしまったのだろう。
世の人は、これを見て痛快に思うし、男の中の男だ、と思う人もいる。彼が為した事どもは、絵画や映画でも、好んで取り上げられる面白いストーリーである。
しかし、御言葉の見地に立つならば、彼はとんでもない事を続けており、主の憐れみによって、かろうじて首の皮一枚で命がつながっているものである事がわかるはずだ。
それでもなお、彼から力が取り上げられないのは、彼が、ナジル人としての誓願の「頭にかみそりを当てない」というきまりを、かろうじて守っているからである。
しかし、いつまでも罰せられない事に慢心し、図に乗り続けていると、自分がどんなにとんでもない事をしているか、どんなに主を悲しませているのかという感覚がマヒして行き、どんどん自分を滅びへと導いて行ってしまうのだ。
『この後、サムソンはソレクの谷にいるデリラという女を愛した。ペリシテびとの君たちはその女のところにきて言った、「あなたはサムソンを説きすすめて、彼の大力はどこにあるのか、またわれわれはどうすれば彼に勝って、彼を縛り苦しめることができるかを見つけなさい。そうすればわれわれはおのおの銀千百枚ずつをあなたにさしあげましょう」。』(士師記16:4-5)
彼を決定的な滅びへ突き落とすのが、この女性・デリラである。
彼女の名前の意味は「上品な」「思わせぶり」であり、彼女はもしかしたら高級娼婦だったのかもしれない。
彼女は大金を積まれ、サムソンを色仕掛けで陥れる機会を狙う。
『そこでデリラはサムソンに言った、「あなたの大力はどこにあるのか、またどうすればあなたを縛って苦しめることができるか、どうぞわたしに聞かせてください」。サムソンは女に言った、「人々がもし、かわいたことのない七本の新しい弓弦をもってわたしを縛るなら、わたしは弱くなってほかの人のようになるでしょう」。』(士師記16:6)
普通なら、「どうすればあなたを縛って苦しめることができるか」などという質問に、おかしい、何か陰謀がありそうだ、と思うはずであろう。
しかし、女の色気に目が眩んでいるためか、それとも、知っていてわざと楽しんでいるためか、彼は彼女に追求せず、どうでもいい事を言って、答えをかわす。
『そこでペリシテびとの君たちが、かわいたことのない七本の新しい弓弦を女に持ってきたので、女はそれをもってサムソンを縛った。女はかねて奥のへやに人を忍ばせておいて、サムソンに言った、「サムソンよ、ペリシテびとがあなたに迫っています」。しかしサムソンはその弓弦を、あたかも亜麻糸が火にあって断たれるように断ち切った。こうして彼の力の秘密は知れなかった。』(士師記16:8-9)
彼女は実際に、彼を縛った。いかに愛している女性とはいえ、こうすれば自分は弱くなる、と言った、その方法をして来るような女性を、どう思うであろうか。
それでも彼は、彼女との付き合いを続けてしまう。よほど自信があったのであろう。
しかしその慢心が、20年の間守られてきた彼を滅びへと突き落とす事になる。
私達は、いつまでも罰せられない事に慢心し、図に乗り続けて罪を犯し続けてはならない。
その慢心が私達自身も、滅びへと導くからだ。
礼拝説教メッセージ音声:ろばのあご骨(士師記15:9-20):右クリックで保存
『そこでペリシテびとは上ってきて、ユダに陣を取り、レヒを攻めたので、ユダの人々は言った、「あなたがたはどうしてわれわれのところに攻めのぼってきたのですか」。彼らは言った、「われわれはサムソンを縛り、彼がわれわれにしたように、彼にするために上ってきたのです」。』(士師記15:9-10)
最初は、サムソンとペリシテ女との個人的な結婚騒動だったが、事は大きくなり、部族的な抗争にまで発展した。
『そこでユダの人々三千人がエタムの岩の裂け目に下って行って、サムソンに言った、「ペリシテびとはわれわれの支配者であることをあなたは知らないのですか。あなたはどうしてわれわれにこんな事をしたのですか」。サムソンは彼らに言った、「彼らがわたしにしたように、わたしは彼らにしたのです」。』(士師記15:11)
サムソンの言い分も、ペリシテ人の言い分も、相手がやったから自分も同じようにしてやるのだ、というものである。
今でも世界中で行われている抗争は、大体そのようなものであるが、そもそも今回の事は、サムソンが律法に反する事をしなければ起こらなかったものだ。
彼が両親の戒めに聞き従い、異邦の女をめとろうとしなければ、そして、一度苦い経験をしたのだから、それに懲りて、女の所に戻らなかったなら、このような事にはならなかったはずだ。
ユダ族は、士師の時代の初期はまだ健全な信仰を保っていたのに、「自分よかれ」の時代が長びくにつれ、彼らの信仰も地に落ちてしまった。
もし初期のユダ族だったなら、カレブやオテニエルにならって、自ら進んで敵地に攻めこんで行ったであろうし、あるいはサムソンと力を合わせてペリシテに戦いを仕掛けていたであろう。
それなのに彼らは、今はペリシテ人が自分達の支配者だ、なぜ彼らの機嫌を損ねたのか、と、サムソンを責めている。
彼らのやり取りには、主への言及は一切無く、信仰が地に落ちてしまったのが分かる。
ともかく、ユダ族はサムソンには手を出さない事を合意の上で、サムソンは強固に縛られた状態でペリシテ人の元へと連れて行かれた。
『サムソンがレヒにきたとき、ペリシテびとは声をあげて、彼に近づいた。その時、主の霊が激しく彼に臨んだので、彼の腕にかかっていた綱は火に焼けた亜麻のようになって、そのなわめが手から解けて落ちた。彼はろばの新しいあご骨一つを見つけたので、手を伸べて取り、それをもって一千人を打ち殺した。』(士師記15:14-15)
実に、すさまじい力である。それは「主の霊が激しく彼に臨んだ」ためだ。
主は確かに、一人が一千人の敵を追い払う事が出来る、と言われたが、しかしそれは御言葉を固く守って右にも左にも逸れず、異邦の者と結婚しない事が条件だった。(ヨシュア記23:6-11)
それにもかかわらず、彼がそのように出来たのは、ただ主の一方的なイスラエルに対する憐れみによる。
『そしてサムソンは言った、/「ろばのあご骨をもって山また山を築き、/ろばのあご骨をもって一千人を打ち殺した」。彼は言い終ると、その手からあご骨を投げすてた。これがためにその所は「あご骨の丘」と呼ばれた。』(士師記15:16-17)
「ろば」のヘブライ語「ハモル」には、「ひと山」の意味もあり、この個所は「ハモルのあご骨でハモルを築いた」と、韻を踏んだ詩のようになっている。
ちなみに、ろばは、聖書の他の個所を見ると、イエス様をエルサレムへ運ぶ事ために選ばれたり、また、気違いの預言者バラムを滅びから救ったりと、主のしもべのような形で用いられている。
『時に彼はひどくかわきを覚えたので、主に呼ばわって言った、「あなたはしもべの手をもって、この大きな救を施されたのに、わたしは今、かわいて死に、割礼をうけないものの手に陥ろうとしています」。そこで神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれたので、そこから水が流れ出た。サムソンがそれを飲むと彼の霊はもとにかえって元気づいた。それでその名を「呼ばわった者の泉」と呼んだ。これは今日までレヒにある。』(士師記15:18-19)
彼が主に呼び求めた記述は、ここが、初めてである。
普段、主を全く呼び求めていなかった者が、危機に陥った時、思い出したかのように主に助けを求めると、主は答えて下さって助け、潤いを与えて下さった。
私達にも、身に覚えが無いだろうか。
普段から主を軽んじ、何度も主を裏切り、行いにおいても心においても、憐れみを受けるに相応しくない者なのに、わずかばかりの信仰をもって主を呼び求めると、主は応えて下さり、助けて下さり、潤いを与えて下さった。
死んで、骨となり果てたろば(主のしもべ)のようであっても、主はそのあごを大きく用い、強力な敵を討ち取らせて下さった。
全くもって、主は憐れみ深いお方であり、私達はただ、その御前にひれ伏すしか無いのだ。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
よく訓練された王の雌馬(雅歌1:9-17):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:壮大で手間暇のかかるいたずら(士師記15:1-8):右クリックで保存
サムソンは、ペリシテ人の女がらみで散々な目に遭ったというのに、それでも懲りず、自分をだました女の所に贈り物を持って戻って行った。
それが発端で、彼は再び、苦々しい経験へと入っていく。
『日がたって後、麦刈の時にサムソンは子やぎを携えて妻をおとずれ、「へやにはいって、妻に会いましょう」と言ったが、妻の父ははいることを許さなかった。そして父は言った、「あなたが確かに彼女をきらったに相違ないと思ったので、わたしは彼女をあなたの客であった者にやりました。彼女の妹は彼女よりもきれいではありませんか。どうぞ、彼女の代りに妹をめとってください」。サムソンは彼らに言った、「今度はわたしがペリシテびとに害を加えても、彼らのことでは、わたしに罪がない」。』(士師記15:1-3)
ペリシテ人の女をめとる事がそもそも罪であり、災いの元であるのに、彼はその事に目を向けず、自分の思い通りに行かない事で怒り、次のような事をする。
『そこでサムソンは行って、きつね三百匹を捕え、たいまつをとり、尾と尾をあわせて、その二つの尾の間に一つのたいまつを結びつけ、たいまつに火をつけて、そのきつねをペリシテびとのまだ刈らない麦の中に放し入れ、そのたばね積んだものと、まだ刈らないものとを焼き、オリブ畑をも焼いた。』(士師記15:4-5)
三百という数字と、たいまつという言葉から、ギデオンの三百人の勇士を思い起こさせるが、ギデオンのそれと比べれば、なんと稚拙ないたずらまがいの事を彼はしているだろうか。
ようは、ペリシテ人の畑に火を放つだけの話なのだが、その準備のために、狐を三百匹も野で捕らえ、それぞれのしっぽを合わせてたいまつを縛り、火をつけて畑に解き放つ、という、非常に手間暇のかかる「仕返し」を行った。
何メートルもの巨大な落とし穴を一日がかりで掘るような”盛大ないたずら”は、せいぜい血気盛んな若い時分しかしようとは思わないものだが、このような盛大で下らない事を、手間暇を厭わずやってのける所に、彼の幼稚さと、怒りの執念深さが垣間見られる。
『ペリシテびとは言った、「これはだれのしわざか」。人々は言った、「テムナびとの婿サムソンだ。そのしゅうとがサムソンの妻を取り返して、その客であった者に与えたからだ」。そこでペリシテびとは上ってきて彼女とその父の家を火で焼き払った。』(士師記15:6)
ペリシテ人はこのようにされても、サムソンに直接の仕返しが出来ないため、その矛先を、サムソンが愛した女性へと向けた。
ペリシテ人達は元々、彼女に、サムソンのなぞを聞き出さなければ、おまえも父の家も火で焼くぞ、と脅し、彼女はそれを恐れて夫を裏切ったのだが、結局、彼女はペリシテ人に言われた通りしても、自分も父の家も焼かれてしまった。
サムソンを裏切った彼女自身の身から出た錆、とも言えるかもしれないが、約束を守っても破っても結局焼き討ちにしてしまう所に、ペリシテ人の邪悪さがよく分かる。
サムソンはさらに怒った。
『サムソンは彼らに言った、「あなたがたがそんなことをするならば、わたしはあなたがたに仕返しせずにはおかない」。そしてサムソンは彼らを、さんざんに撃って大ぜい殺した。こうしてサムソンは下って行って、エタムの岩の裂け目に住んでいた。』(士師記15:7-8)
悪人は、悪人どうしで悪を重ね、互い食い合い、互いに滅びへと落ち込んで行くものである。
そもそも全ての発端は、サムソンだった。
彼が律法をしっかり守って、異邦の女をめとらず、父母の言う事を聞いていれば、そんな事はそもそも起きなかった。
そしてひと度苦い思いをして、それに懲りて、ペリシテの女の所に戻りさえしなければ、このようなことは無かった。
しかしその背後で、多くのペリシテ人がサムソンによって苦しめられ、結果、イスラエルは恩恵を受けており、神様の御旨はしっかりと進んでいる。
私達は、こんなややこしい形で用いられないために、最初から主に聞き従い、幸いを得ていくものでありたい。
礼拝説教メッセージ音声:サムソンの出した”なぞ”(士師記14:10-20):右クリックで保存
『そこで父が下って、女のもとに行ったので、サムソンはそこにふるまいを設けた。そうすることは花婿のならわしであったからである。人々はサムソンを見ると、三十人の客を連れてきて、同席させた。』(士師記14:10-11)
サムソンは、主の霊に満たされ獅子をほふり、危機から救い出されたにもかかわらず、ペリシテ人の女と結婚するという堕落の方向性は変えず、その女との結婚手続きに入ったばかりか、祝宴の席で、かの獅子との出来事をネタにして、なぞかけをする。
『サムソンは彼らに言った、「わたしはあなたがたに一つのなぞを出しましょう。あなたがたがもし七日のふるまいのうちにそれを解いて、わたしに告げることができたなら、わたしはあなたがたに亜麻の着物三十と、晴れ着三十をさしあげましょう。しかしあなたがたが、それをわたしに告げることができなければ、亜麻の着物三十と晴れ着三十をわたしにくれなければなりません」。彼らはサムソンに言った、「なぞを出しなさい。わたしたちはそれを聞きましょう」。』(士師記14:12-13)
サムソンも、ペリシテ人も、賭け事が好きだったようである。
サムソンがなぞなぞで賭るものは、亜麻の着物三十と晴れ着三十。
サムソン一人には高額であるが、勝てれば一獲千金できるような、また、ペリシテ人にしてみれば一見おいしく見えるような賭けである。
というより、彼は元々、亜麻の着物三十と晴れ着三十など持っていなかった。それなのに賭けたのは、このなぞは絶対に解けない、と思っていたのだろう。
『サムソンは彼らに言った、/「食らう者から食い物が出、/強い者から甘い物が出た」。彼らは三日のあいだなぞを解くことができなかった。』(士師記14:14)
確かに、獅子がいとも簡単にほふられて、そのほふられた獅子から蜜が取れるなど、人の心に思い浮かぶような事ではない。
まことにキリストも、人の心に思い浮かんだ事のない方法で、人に救いを与えられた。
預言者イザヤは言っている。
『彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。』(イザヤ53:7-8)
一体誰が思い浮かんだだろうか。
神の御子キリストを砕く事が父なる神様の御心であり、その従順と死によって死と悪魔に勝利し、彼を信じる信仰によって多くの人が救いを勝ち取る事が出来るなどと。
そのような”なぞ”は、誰にも解けるものではない。
キリストは、ユダの獅子であられるお方なのに、ほふられた小羊となって下さり、そしてほふられた小羊は、人類の誰も解くことのできなかった七つの封印を、一つづつ解いて行って下さるのだ。
三日経ってもサムソンのなぞが解けなかったペリシテ人は、姑息な手段を用いる。
『四日目になって、彼らはサムソンの妻に言った、「あなたの夫を説きすすめて、なぞをわたしたちに明かすようにしてください。そうしなければ、わたしたちは火をつけてあなたとあなたの父の家を焼いてしまいます。あなたはわたしたちの物を取るために、わたしたちを招いたのですか」。』(士師記14:15)
彼らは、晴れ着三十着を惜しむが故に、あるいは、欲しいがために、同族である彼女と、その父の家とを、火で焼いてしまう、というのだ。
それほど人の命を軽んじ、そして欲深いのが、ペリシテ人である。
そのような民族と結婚し、一つになろうとしていた事の愚かさに、サムソンは気づいて離れるべきだったが、残念ながら彼はその後もペリシテの女から離れようとはしない。
『そこでサムソンの妻はサムソンの前に泣いて言った、「あなたはただわたしを憎むだけで、愛してくれません。あなたはわたしの国の人々になぞを出して、それをわたしに解き明かしませんでした」。サムソンは彼女に言った、「わたしは自分の父にも母にも解き明かさなかった。どうしてあなたに解き明かせよう」。彼女は七日のふるまいの間、彼の前に泣いていたが、七日目になって、サムソンはついに彼女に解き明かした。ひどく彼に迫ったからである。そこで彼女はなぞを自分の国の人々にあかした。』(士師記14:16-17)
男性は、女性のこのような怒涛の”泣き落とし攻撃”に弱いものである。
『賢い妻はその夫の冠である、恥をこうむらせる妻は/夫の骨に生じた腐れのようなものである。』(箴言12:4)
『雨の降る日に雨漏りの絶えないのと、争い好きな女とは同じだ。この女を制するのは風を制するのとおなじく、右の手に油をつかむのとおなじだ。』(箴言27:15)
『七日目になって、日の没する前に町の人々はサムソンに言った、/「蜜より甘いものに何があろう。ししより強いものに何があろう」。サムソンは彼らに言った、/「わたしの若い雌牛で耕さなかったなら、/わたしのなぞは解けなかった」。この時、主の霊が激しくサムソンに臨んだので、サムソンはアシケロンに下って行って、その町の者三十人を殺し、彼らからはぎ取って、かのなぞを解いた人々に、その晴れ着を与え、激しく怒って父の家に帰った。サムソンの妻は花婿付添人であった客の妻となった。』(士師記14:18-20)
このように、ペリシテ人の女との結婚をしようという試みは、苦々しい結果となるサムソンだが、彼は懲りておらず、また改めてもいない。
彼は、与えられた力と賜物を、イスラエルのため、あるいは主のために用いるではなく、相変わらず自分の欲望のために用いた。
それ故、彼はさらに苦々しい思いをして行くのだが、しかし、彼の意図していない所で、実は主の御胸が為されている。
彼が自分の好むようにしようとして、もがけばもがくほど、多くのペリシテ人は倒されて行き、その結果、イスラエルの益となっているのだ。
私達は、そのようなややこしい用いられ方ではなく、正当に御言葉に従って歩み、正当に祝福を受けるものでありたい。
礼拝説教メッセージ音声:死んだ獅子から蜜が出る(士師記14:5-9):右クリックで保存
サムソンは、異邦の女と結婚したいと言い出したり、それをたしなめる父母に従わなかったりと、色々と問題のある士師だったにもかかわらず、主は彼を士師として用いられた。それはまことに、主の憐れみである。
私達も神に選ばれ、キリストにあって召しだされた者であるというのに、サムソンに負けず劣らず、色々問題を起こす事もあるが、それにも関わらず、主の霊が取り上げられず、主の御用に用いられているのは、まことに主の憐れみである。
サムソンの特徴は、主の霊が激しく臨んだ時、尋常ならざる力を発揮する所である。
『かくてサムソンは父母と共にテムナに下って行った。彼がテムナのぶどう畑に着くと、一頭の若いししがほえたけって彼に向かってきた。時に主の霊が激しく彼に臨んだので、彼はあたかも子やぎを裂くようにそのししを裂いたが、手にはなんの武器も持っていなかった。しかしサムソンはそのしたことを父にも母にも告げなかった。』(士師記14:5-6)
ライオンが吼え猛りながら迫ってくる。普通の人は死ぬしか無い状況だが、彼に主の霊が激しく臨む時、あたかも子やぎを裂くように、素手で獅子を裂いた。
このような事が初めてなら、彼自身、驚いたであろうし、主に感謝して悪い行いを改めるべき所であろうが、彼はその直後、どうしたか。
『サムソンは下って行って女と話し合ったが、女はサムソンの心にかなった。』(士師記14:7)
せっかく主からの特別な賜物が与えられ、いのちの危機からも救い出されたというのに、彼は異邦の女から離れず、かえって、彼女をめとろうとするようになる。
『日がたって後、サムソンは彼女をめとろうとして帰ったが、道を転じて、かのししのしかばねを見ると、ししのからだに、はちの群れと、蜜があった。彼はそれをかきあつめ、手にとって歩きながら食べ、父母のもとに帰って、彼らに与えたので、彼らもそれを食べた。しかし、ししのからだからその蜜をかきあつめたことは彼らに告げなかった。』(士師記14:8-9)
獅子を手で引き裂いた事も尋常ではないが、その裂かれた獅子の体に、なんと、蜂が集まっていて、そこには沢山の蜜があった。
一体これらの出来事は、どう捉えて良いのだろうか。
御言葉の解き明かしは、御言葉から、である。
獅子は、聖書の他の箇所ではユダ族を、あるいは、ユダ族から出たキリストを意味している。
『すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を受けとった。』(黙示録5:5-7)
このユダ族の獅子、ダビデの若枝であるキリストは、人類の誰も解くことの出来ない七つの封印を解き、封じられていたなぞを一つ一つ解いて行く事が出来るお方である。
彼は勝利した。
何によってか? それはなんと「ほふられる事によって」である。(黙示録5章)
サムソンに向かってきた獅子は、本来、彼を食いつくすはずだった。
しかしサムソンによって、いとも簡単に引き裂かれてしまった。
人を食いつくすはずの獅子が、人によって、いとも簡単にほふられる。
私達の主・キリストも、本来なら、罪を犯した人間を裁き滅ぼすはずお方なのに、人のところに来た時、なんと、人によっていとも簡単に十字架でほふられてしまった。
そして、サムソンによってほふられた獅子の死体には、蜜蜂がそこを住み家とし、蜜を大量に集めている。
蜂たちは、花の所に行って蜜を集め、巣に戻って蜜を溜めて行くが、キリスト者もまた蜂のようなところがある。
それぞれ使わされている場所において、シャロンの花であるキリスト(雅歌2:1)から甘い御言葉の蜜を集め、十字架上でほふられた小羊キリストの御体(教会)に持ち帰り、共に御言葉の甘さを分かち合い、その麗しさを溜めて行く。
この、サムソンにほふられた獅子は、まさにキリストを現していないだろうか。
サムソンは、死んだ獅子から蜜をかき集めて食べ、父母にも分与した。
父母は、その蜜がどこから来たのかを知らなかったが、私達もキリストを信じたなら御言葉の蜜によって養われ、家族にもその甘さは伝わる。
家族の人は、なぜその人が甘い蜜を持っているのか、その由来を知らないが、本人はキリストが由来であると知っている。
聖書は、旧約も新約も全てキリストを現し、彼の栄光で満ちている。
『それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。』(ルカ24:44)
日々、十字架のキリストの元に巣作りし、聖徒と共に御言葉の蜜を集め、歩んでいく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!