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礼拝説教メッセージ音声:ベニヤミン族との決裂(士師記20:12-18):右クリックで保存
『イスラエルのもろもろの部族は人々をあまねくベニヤミンの部族のうちにつかわして言わせた、「あなたがたのうちに起ったこの事は、なんたる悪事でしょうか。それで今ギベアにいるあの悪い人々をわたしなさい。われわれは彼らを殺して、イスラエルから悪を除き去りましょう。』(士師記20:12-13)
全イスラエルは、かの邪悪な事をしたベニヤミンの者達に報復しようと共に集ったが、いきなり戦いを仕掛ける事はせず、まずは話し合いで解決しようと、使者を遣わした。
主にある兄弟姉妹が、何か罪を犯したという事であるなら、いきなり制裁を加えたり、除名したりするのではなく、まずは事実関係を正確に知り、二人また三人で忠告するべき事が主から命じられている。(マタイ18:17-20)
二人でも三人でも、主の名の元に集まるなら、そこには主がおられ、彼らが地上で心を合わせて祈るなら、それは天においても繋がれ、あるいは解かれたりするという権威を、主は、教会にお与えになった。
私達教会は、その偉大な権威を正しく行使しなくてはならない。
『イスラエルのもろもろの部族は人々をあまねくベニヤミンの部族のうちにつかわして言わせた、「あなたがたのうちに起ったこの事は、なんたる悪事でしょうか。それで今ギベアにいるあの悪い人々をわたしなさい。われわれは彼らを殺して、イスラエルから悪を除き去りましょう」。しかしベニヤミンの人々はその兄弟であるイスラエルの人々の言葉を聞きいれなかった。
かえってベニヤミンの人々は町々からギベアに集まり、出てイスラエルの人々と戦おうとした。その日、町々から集まったベニヤミンの人々はつるぎを帯びている者二万六千人あり、ほかにギベアの住民で集まった精兵が七百人あった。このすべての民のうちに左ききの精兵が七百人あって、いずれも一本の毛すじをねらって石を投げても、はずれることがなかった。イスラエルの人々の集まった者はベニヤミンを除いて、つるぎを帯びている者四十万人あり、いずれも軍人であった。』(士師記20:12-17)
ベニヤミン族は、ソドム以下の蛮行に及んだ者が、自部族の中から出てしまったというのに、それを自分達の中から除き去ろうとはせず、かえって、彼等をかばう行動に出て、徹底抗戦の構えを見せた。
他のイスラエル全体を敵に回して戦うには、数としては圧倒的不利だというのに、それでも彼等は心頑なになってしまった。
もはや意地の張り合いになってしまったのかもしれないが、いずれにせよ彼らは、自分達はソドム以下の蛮行をする者であっても命がけで守り、彼らの行動に同意します、と、公に表明してしまったようなものだ。
主は侮られるようなお方ではない。その報いは、非常に高くついてしまう。
『イスラエルの人々は立ちあがってベテルにのぼり、神に尋ねた、「われわれのうち、いずれがさきにのぼって、ベニヤミンの人々と戦いましょうか」。主は言われた、「ユダがさきに」。』(士師記20:18)
ここに来て、イスラエル側は主に伺いを立てている。
主に伺う事は「良い事」であるのに変わりはないが、問題なのは、そのタイミングである。
彼らは、自分達が何をするかを既に決定してしまった後で、後付けのように主に伺いを立てており、自分達の意志のほうが主の御心よりも優先させてしまっている。
普段は主に伺う事をせず、自分で何もかも計画し、立案し、決定してから、取ってつけたかのように主に祈る人は多いが、そのような人は、やがて大失敗するものだ。
ヨシュアは、強敵エリコを攻略する前は、主の軍の将から必勝法を伝授してもらった。
その内容は、人の知恵では実に愚かに見えるものだったのに、それでも彼らが御言葉に従順したら、あっさりと勝利できた。
しかし、その後のアイの攻略の時は、主に伺う事をしなかった。
彼らはその時、決して戦ってはならない状態、すなわち、聖絶のものを抱え持った状態であるのに、それに気づかず、人間の見た目や判断に従って戦いに出て行ってしまったため、惨敗してしまった。
そこでヨシュアは、すぐに主に伺いを立てた所、自分達の中に聖絶のものがある事を示され、それを取り除いた時、再び勝利できる状態に戻った。
私達も、主に伺う事をせしないで、自分達の「良かれ」で進んでいってしまうと、災いをもたらしてしまう事になる。
この後、イスラエルは散々な目に遭う事になる。
しかしそれは、彼らが真に主に立ち返るための主の懲らしめであり、訓練なのだ。
主に打ち叩かれて強制的に修正されるのではなく、細書から主の御旨を求め、御言葉から外れて災いの道へと遠回りする事なく、安全に主の道を歩む皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
花婿に迎えられる花嫁(雅歌3:5-11):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:内戦へと突き進む高揚した集団心理(士師記20:1-11):右クリックで保存
前回の個所は、聖書の内容とはとても思えないほどの凶行が行われたが、その事がきっかけで、士師記時代の中では、かつて無かった事が始まる。
『そこでイスラエルの人々は、ダンからベエルシバまで、またギレアデの地からもみな出てきて、その会衆はひとりのようにミヅパで主のもとに集まった。』(士師記20:1)
ダンからベエルシバまで、とは、イスラエルの最北端から最南端まで、すなわち、イスラエルの全地域をあらわす言葉である。
それまでの士師記の時代は、全体を一つにまとめる王が無く、それぞれが良いと思う事を行い、てんでバラバラに動いていたため、イスラエルはまとまりが無く、霊的にも軍事的にも全く力を失ってしまい、モラルも地に堕ちて、ソドムよりも非道い堕落へと陥ってしまった。
ところが、この、最低最悪の出来事がきっかけとなり、全地域から「主のもとに」「ひとりの人のように」集まって、この問題を真剣に取り組もうという機運が起きた。
『民の首領たち、すなわちイスラエルのすべての部族の首領たちは、みずから神の民の集合に出た。つるぎを帯びている歩兵が四十万人あった。』(士師記20:2)
剣を帯びている男達が40万。この集団の故に、一日だけで、かなりの食料や物資、人員が、この近辺で動いただろう。
ミツパは一気にものものしい雰囲気となり、ベニヤミン族にも、その事が耳に入った。
『イスラエルの人々は言った、「どうして、この悪事が起ったのか、われわれに話してください」。』(士師記20:3)
集まった人々に促されて、レビ人は話し出すのだが、自分に都合の悪い事は伏せ、相手に対しては都合悪く言う。
『殺された女の夫であるレビびとは答えて言った、「わたしは、めかけと一緒にベニヤミンに属するギベアへ行って宿りましたが、ギベアの人々は立ってわたしを攻め、夜の間に、わたしのおる家を取り囲んで、わたしを殺そうと企て、ついにわたしのめかけをはずかしめて、死なせました。それでわたしはめかけを捕えて断ち切り、それをイスラエルの嗣業のすべての地方にあまねく送りました。彼らがイスラエルにおいて憎むべきみだらなことを行ったからです。』(士師記20:4-6)
ベニヤミン族はもともと、彼を殺そうと企てたというより、性的に暴行しようとしたのであり、彼は自分がレイプされるのを避けるために、彼のめかけを彼らに突き放した事が、抜け落ちている。
それで彼女は朝まで暴行され、彼は彼女の死体をバラバラにし、それを全地に送って、これからどうするかを、全イスラエルに促したのである。
『イスラエルの人々よ、あなたがたは皆自分の意見と考えをここに述べてください。』(士師記20:7)
何か事件が起きた時は、本来、レビ人の祭司が、律法に基づいて主の道にそったさばきをすべきであり(申命記17:8)、律法から神の喜ばれる事・忌み嫌われる事の何たるかを、民に教えるのがレビ人務めであるのだが(申命記33:8-11)、彼は律法を持ち出す事も無く、主の御旨を示す事も無く、ただ、人の意見と考えを扇情的に求めている。
そうして人々は、神も律法も抜きにした、直情的な意見を叫び出す。
『民は皆ひとりのように立って言った、「われわれはだれも自分の天幕に行きません。まただれも自分の家に帰りません。われわれが今ギベアに対してしようとする事はこれです。われわれはくじを引いて、ギベアに攻めのぼりましょう。すなわちイスラエルのすべての部族から百人について十人、千人について百人、万人について千人を選んで、民の糧食をとらせ、民はベニヤミンのギベアに行って、ベニヤミンびとがイスラエルにおいておこなったすべてのみだらな事に対して、報復しましょう」。』(士師記20:8-10)
40万の群衆が、剣をかかげ、みだらな者達を討伐するぞ!と、気勢をあげて叫んでいる。そのただ中にいたなら、自分たちは官軍として、何でもやれる気になって奮い立っただろう。
しかし、まことの神の御心を除外し、自らを奮い立たせる事は、日本の戦前の軍国主義と同様、破壊欲や占有欲を正当化させる狂言に過ぎず、かのベニヤミン族と、なんら変わる所は無い。
『こうしてイスラエルの人々は皆集まり、一致結束して町を攻めようとした。』(士師記20:11)
このようにして、イスラエルは、国を上げての内戦状態へと進んで行く。
イスラエルはこれより、痛い所を通らされるが、主は、その向こう側を見ておられる。
ソドム以下に成り下がってしまったイスラエル(士師記19:22-30)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 士師記
- 執筆 :
- pastor 2014-12-11 23:50
礼拝説教メッセージ音声:ソドム以下に成り下がってしまったイスラエル(士師記19:22-30):右クリックで保存
かのレビ人達は、宿が与えられ、ほっと一息ついたのもつかの間、とんでもない事に陥る。
『彼らが楽しく過ごしていた時、町の人々の悪い者どもがその家を取り囲み、戸を打ちたたいて、家のあるじである老人に言った、「あなたの家にきた人を出しなさい。われわれはその者を知るであろう」。』(士師記19:22)
「知る」とは、性的関係を結ぶ、という事である。
そう、この町の男達は、旅客として訪れたレビ人の男性と、性行為がしたいために、暴力的に取り囲んでいるのだ。
もう、旅人をもてなすとか、神の奉仕者・レビ人を大事にするとかいったレベルの事ではなく、相手が旅人であろうが、レビ人であろうが、同性であろうが、とにかくただ性的に犯したいという、獣以下の本能で動いているのだ。
ここに、ソドムやゴモラと全く同じ事が、展開されている。
ソドムといえば、創世記19章で記されている通り、生きたまま地獄の炎が降ってきて神に直接裁かれた、不品行の象徴のような罪深い町であるが、それと全く同じ状況が、神の民イスラエルの中で起きてしまっている。
『しかし家のあるじは彼らのところに出ていって言った、「いいえ、兄弟たちよ、どうぞ、そんな悪いことをしないでください。この人はすでにわたしの家にはいったのだから、そんなつまらない事をしないでください。ここに処女であるわたしの娘と、この人のめかけがいます。今それを出しますから、それをはずかしめ、あなたがたの好きなようにしなさい。しかしこの人にはそのようなつまらない事をしないでください」。』(士師記19:23-24)
この町の者達の要求も、この老人の対応も、創世記19章で記されているロトとソドムの住人の対応に似てはいるが、違う点がいくつかある。
ロトの時は、客人を守るために、処女である自分の二人の娘を渡そうともちかけたが、今回この老人は、自分の娘だけでなく、客人のめかけも差し出そうと提案している。
それだけでも非道い話だが、レビ人は自分の身を守ろうと、次の事をする。
『しかし人々が聞きいれなかったので、その人は自分のめかけをとって彼らのところに出した。彼らはその女を犯して朝まで終夜はずかしめ、日ののぼるころになって放し帰らせた。朝になって女は自分の主人を宿してくれた人の家の戸口にきて倒れ伏し、夜のあけるまでに及んだ。』(士師記19:25-26)
ここでロトの時と決定的に違う事は、ロトの時は御使いによって助けられたが、今回は、助けはどこにも無く、レビ人は無情にも自分のめかけを暴漢どもへ投げやり、暴漢どもは彼女を朝になるまで好き放題に暴行した。
ロトは、信仰者アブラハムによって執り成し祈られていが、この時代、執り成し祈る者は誰もいなかった。
普通のストーリーなら、こういうピンチの時はヒーローが現れて必ず救ってくれる事を期待するが、御言葉を守る事も、執り成しの祈りも無い時代には、残念ながら救いのヒーローは現れず、ただ蹂躙され、やられてしまうだけなのだ。
もう一つ、ロトの時と違う事といえば、ソドムは天から火が降って来て裁かれたが、イスラエルはすぐには裁かれない事だ。
人は思う。なぜこのような事が神の民の中で起こるのか、と。
なぜこうなるまで、主は放って置かれたのかと。
逆に見れば、主は、そこまで神の民を”特別扱い”されているのだ。
主は、ソドムの罪悪がある点まで達した時、天から火を降し、滅ぼした。しかし、神の民イスラエルについては、特別扱いされる。
主は彼らが義に立ち返ることを願い、悔い改めるまで待たれ、さばきを先々まで先伸ばしにされるのだ。
しかし、人々は、その主の憐れみを悪用し、いつまでも赦されると思って、さらに悪をし放題してしまった。
神は侮られるようなお方ではない。必ず自分のした事の報いはその身に受ける事になる。
『彼女の主人は朝起きて家の戸を開き、出て旅立とうとすると、そのめかけである女が家の戸口に、手を敷居にかけて倒れていた。彼は女に向かって、「起きよ、行こう」と言ったけれども、なんの答もなかった。そこでその人は女をろばに乗せ、立って自分の家におもむいたが、その家に着いたとき、刀を執り、めかけを捕えて、そのからだを十二切れに断ち切り、それをイスラエルの全領域にあまねく送った。』(士師記19:27-29)
彼女を襲った暴漢も非道いが、このレビ人も、そうとう非道い。
レビ人は、彼女を暴漢どもにつきだしておきながら、彼女が襲われている間、彼自身はそのまま安全な所で睡眠したのだ。
そして起きあがると、彼女をその町に残したまま、自分だけ、旅立つつもりでいたのだ。
彼が旅立とうとして、扉を開けると、そこに彼女が倒れていたのを見たが、安否を気遣う事もなく、そのまま「起きよ、行こう」と言う。
ここまで見ると、このレビ人が彼女をわざわざ父の家に迎えに行ったのは、彼女の人格を愛していたからではなく、性的な快楽の”道具”として有用だったから取り戻しに行っただけだったのかもしれない。
そして、動かなくなった彼女を家に持ち帰ると、なんとその死体をバラバラに解体して、それぞれの部位を、イスラエル各地に送ったのだ。
少しでも共に過ごした女性の死体を、自分の手でバラバラに解体して、各地に送りつける。
現在日本も、死体をバラバラにしてしまう事件を聞く事には、ある程度の耐性がついてしまっているくらいに、異様な時代ではあるが、神に仕えるはずのレビ人がそのようにするというのは、深刻なまでに異常な事態である。
レビ人は、神の専任の働き人として身を清く保ち、汚れた行いからはほど遠い存在であるはずなのに、そのレビ人が率先して堕落し、汚れに身を投じてしまっている。
これら一連の状況を見るに、ソドムやゴモラのほうが、まだましに思えて来てしまう。
『それを見たものはみな言った、「イスラエルの人々がエジプトの地から上ってきた日から今日まで、このような事は起ったこともなく、また見たこともない。この事をよく考え、協議して言うことを決めよ」。』(士師記19:30)
この事によって、悔い改めの祈りが沸き起こったとか、神に立ち返ろうという運動が起こったとかは一切無く、「この事をよく考え、協議して言うことを決めよ」と、神抜きに言っている点が、いかにも士師記らしい。
しかし少なくとも、神の国と言われるイスラエルにおいて、このような事が起こった事については、イスラエル中に衝撃が巻き起こった。
堕落の究極の象徴とも言えるソドムよりも、さらに非道い状況へと落ちいってしまった事に対して、問題意識が本気に芽生えて来たのだ。
大きな前進とも言えるが、やはり、神に立ち返る事なく、互いや自分の意見や考えによって解決しようとしている内は、問題の解決は決して無い。
事態はもっと混乱していくばかりである。
今回の箇所は、聖書の中でも、トップレベルと言える程に非道い内容が記されている。
なぜこのような事が、聖書に記されているのか。
それは、神の民といえども、御言葉から離れて好き勝手を続けるなら、ソドムよりも非道いモラル低下へと陥る可能性が、十分にあると、私達は決して忘れてはならないからだ。
執り成しの祈りが無い所に、御言葉の戒めが無い所には、救いは無く、それを続けるなら、神の民といえどソドム以下になってしまうのだ。
私達はこの個所から戒めを受け、いつも主を意識する事を怠らず、霊的に目を覚まし、アブラハムのようにこの時代を執り成して祈り、神の裁きからこの時代を救う者でありますように!
礼拝説教メッセージ音声:寄留者によってもてなされた寄留者(士師記19:16-21):右クリックで保存
レビ人の旅人は、近くにある異邦人の町に滞在する事を避け、わざわざ遠くのギブアまで来たというのに、あいにく、彼らをもてなそうとする人は誰もいなかった。
ようやく彼らに声をかけたのは、この町の者ではなかった。
『時にひとりの老人が夕暮に畑の仕事から帰ってきた。この人はエフライムの山地の者で、ギベアに寄留していたのである。ただしこの所の人々はベニヤミンびとであった。彼は目をあげて、町の広場に旅人のおるのを見た。老人は言った、「あなたはどこへ行かれるのですか。どこからおいでになりましたか」。』(士師記19:16-17)
律法では、同族の人が困っている時には助けてやるべきことが命じられているのに、ベニヤミン族はそれをしなかった。
旅人をもてなす事は、パレスチナでは、何も律法を持っていない民であっても、当然のごとく行う事であり、それをしない事は品格を疑われるものであった
つまり彼らは、神の国の美徳どころか、世の美徳も全くもって意に介さなかったようである。
御言葉なしに生きていると、世の人よりも、モラルが低下してしまうのだ。
『その人は言った、「われわれはユダのベツレヘムから、エフライムの山地の奥へ行くものです。わたしはあそこの者で、ユダのベツレヘムへ行き、今わたしの家(原文:主(エホバ)の家に帰るところですが、だれもわたしを家に泊めてくれる者がありません。』(士師記19:16-18)
主(エホバ)の家は当時、エフライム山地の近くのシロにあった。
彼らはもしかしたら、自分の家に帰る途中、シロに寄ろうとしていたのかもしれない。
『われわれには、ろばのわらも飼葉もあり、またわたしと、はしためと、しもべと共にいる若者との食物も酒もあって、何も欠けているものはありません」。老人は言った、「安心しなさい。あなたの必要なものはなんでも備えましょう。ただ広場で夜を過ごしてはなりません」。そして彼を家に連れていって、ろばに飼葉を与えた。彼らは足を洗って飲み食いした。』(士師記19:19-21)
彼らは、主に仕えるレビ人であり、また、彼ら自身が食料や飼料も持っていたため、宿を貸すだけでも十分だったのに、誰もそれをしなかった。
しかし彼らは、寄留の人の家に寄留する形で、ようやく一息つくことが出来た。
この地上においては、私達は旅人であり、寄留者である。
神の国であるべき場が神の品性を捨てる時、神の国の中では”寄留者”と呼ばれるような人こそ、神の人をもてなすようである。
主イエス様は言っている。
『そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである。」
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか。」すると、王は答えて言うであろう、「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」』(マタイ25:34-40)
主は全てを見ておられる。
世が創造される以前から用意されている御国(マタイ25:34)を受け継ぐ事ができるのは、主にある兄弟姉妹をよくもてなす人、小さな事に忠実な人である。
王となられた主から誉められた人達は、自分がそれをしたのに、それを覚えていない程「当然に」その行動を行っており、また、永遠の呪いに定められる人も、自分たちがいつ主を軽んじたのかを知らないほど「当然に」その行動を行っている。
この、主に喜ばれる事を、当然のごとくに、無意識のうちにしてしまう性質は、主を意識し、天の御国を意識して過ごす日々の積み重ねによって、培われる。
私達は、いつもどこでも主がおられる事を意識し、無意識に主を喜ばせる特性を日々積み上げたい。
礼拝説教メッセージ音声:姦淫の裏切り女を引き戻すレビ人(士師記19:1-15):右クリックで保存
前章までの所では、イスラエルではいかに偶像礼拝が蔓延しているかを見た。
しかしこの19章以降、イスラエルの堕落はもっと深刻な事態になっている様を見る事になる。
『そのころ、イスラエルに王がなかった』(士師記19:1a)
イスラエルは本来、神である主こそが唯一の王であるはずなのに、そうではなく、ある者はあの神を、別の者はこの神を、別の者はあの人この人を、それぞれ好き勝手に王としている時代であった。
『エフライムの山地の奥にひとりのレビびとが寄留していた。彼はユダのベツレヘムからひとりの女を迎えて、めかけとしていたが、そのめかけは怒って、彼のところを去り、ユダのベツレヘムの父の家に帰って、そこに四か月ばかり過ごした。』(士師記19:1b-2)
前回は、ベツレヘム出身のレビ人が、エフライム山地のミカの家に行った。
今回は、エフライム山地のレビ人が、ベツレヘム出身の女性を「めかけ」としてめとっている。
ルツ記を見ても、ベツレヘム出身のエリメレク一家がモアブへと出て行ったように、このベツレヘムという地からは、出て行く人は多かったかもしれないが、この地はダビデ王の故郷であり、イエス・キリストの生まれた場所でもある。
ベツレヘム(パンの家)という地は、そこに留まる信仰者は、幸いを受けるが、そこから出て行く人には碌な事が起こらない。
このレビ人の「めかけ」の女性も同じである。
彼女は「怒って」彼のところを去ったとあるが、「怒る」と訳された後のヘブライ語「ザーナー」は、「姦淫を犯す」という意味である。
KJVでは、「his concubine played the whore against him」と記されており、明確に、彼女が姦淫を犯したためにこのレビ人の所を去ったと記されている。
律法に照らすなら、夫のある身でありながら姦淫の罪を犯した女は死刑であり(レビ記20:10)、もしこのレビ人が祭司であるなら、女は火で焼かれなければならない。(レビ記21:9)
しかしこのレビ人は、彼女を平和の内に連れ戻そうとした。
これを読む時、預言者ホセアを思い出す。
主はホセアに「姦淫の女をめとれ」と命じ、そして彼はその通りに実行したのだが、その女は夫に子を産んで愛されていながら、姦淫するために出て行ってしまった。
そこで主は、彼女を呼び戻せ、と言われる。
『主はわたしに言われた、「あなたは再び行って、イスラエルの人々が他の神々に転じて、干ぶどうの菓子を愛するにもかかわらず、主がこれを愛せられるように、姦夫に愛せられる女、姦淫を行う女を愛せよ」と。そこでわたしは銀十五シケルと大麦一ホメル半とをもって彼女を買い取った。わたしは彼女に言った、「あなたは長くわたしの所にとどまって、淫行をなさず、また他の人のものとなってはならない。わたしもまた、あなたにそうしよう」と。』(ホセア3:1-3)
本来なら死刑のはずの、姦淫の裏切り女にやさしく声をかけ、銀で買い戻し、「もう他の所に行くな、いつまでもわたしの所にとどまれ」と言う。
それはまさしく、イエス様と私達の関係と同じではなかろうか。
かのレビ人も、ねんごろに裏切り女に声をかけ、よりを戻そうとした。しかし残念ながら、このレビ人は、彼女を命がけで守ろうという気概は、さらさら無かった。(後述)
それに引き換え、私達の主イエス様は、平気で裏切った私達のために命を投げ出し、私達が受けるべき罪の刑罰を身代わりに受けくださり、そしてねんごろに声をかけ、主の元へと引き寄せて下さった。
『そこで夫は彼女をなだめて連れ帰ろうと、しもべと二頭のろばを従え、立って彼女のあとを追って行った。彼が女の父の家に着いた時、娘の父は彼を見て、喜んで迎えた。娘の父であるしゅうとが引き留めたので、彼は三日共におり、みな飲み食いしてそこに宿った。四日目に彼らは朝はやく起き、彼が立ち去ろうとしたので、娘の父は婿に言った、「少し食事をして元気をつけ、それから出かけなさい」。』(士師記19:3-5)
彼女の父はこのレビ人によほど好意を寄せたのだろう、何日も彼を引き止めて歓待した。
創世記でも学んだように、パレスチナ地方では、旅人を篤くもてなす事が美徳とされている。
しかし、何日も歓待が続くので、彼らは、実に悪いタイミングで出立してしまう。
『その人がついにめかけおよびしもべと共に去ろうとして立ちあがったとき、娘の父であるしゅうとは彼に言った、「日も暮れようとしている。どうぞもう一晩泊まりなさい。日は傾いた。ここに宿って楽しく過ごしなさい。そしてあしたの朝はやく起きて出立し、家に帰りなさい」。しかし、その人は泊まることを好まないので、立って去り、エブスすなわちエルサレムの向かいに着いた。くらをおいた二頭のろばと彼のめかけも一緒であった。』(士師記19:9-10)
あまりにずるずると引き止めてしまう事も、引き止められてしまう事も、共に良くない。
アブラハムのしもべは、わずか1日歓待を受けただけで、翌日に早速出立したが(創世記24章)、それはやはり賢かったのだ。
『彼らがエブスに近づいたとき、日はすでに没したので、しもべは主人に言った、「さあ、われわれは道を転じてエブスびとのこの町にはいって、そこに宿りましょう」。主人は彼に言った、「われわれは道を転じて、イスラエルの人々の町でない外国人の町に、はいってはならない。ギベアまで行こう」。
『彼はまたしもべに言った、「さあ、われわれはギベアかラマか、そのうちの一つに着いてそこに宿ろう」。彼らは進んで行ったが、ベニヤミンに属するギベアの近くで日が暮れたので、ギベアへ行って宿ろうと、そこに道を転じ、町にはいって、その広場に座した。だれも彼らを家に迎えて泊めてくれる者がなかったからである。』(士師記19:11-15)
ギベアはベニヤミン族の領地であり、イスラエルの初代王・サウル王の故郷であるが、どうも様子がおかしい事に、この町の住人は誰一人として、家に迎えようとはしない。
不信仰の異邦人の町に留まるよりは、イスラエル人の町に留まる、という判断は正しいはずなのに、実は、この判断は、後に災いの元となってしまう。
人から御言葉から離れ、おのおの、自分のよかれで動くような時代は、何が安全で確実であるのかも、分からない時代になってしまうのだ。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
夜、思い巡らせるは、愛する花婿イエスのみ(雅歌3:1-4):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:ダンは道のかたわらの蛇(士師記18:27-31):右クリックで保存
『さて彼らはミカが造った物と、ミカと共にいた祭司とを奪ってライシにおもむき、穏やかで、安らかな民のところへ行って、つるぎをもって彼らを撃ち、火をつけてその町を焼いたが、シドンを遠く離れており、ほかの民との交わりがなかったので、それを救うものがなかった。その町はベテレホブに属する谷にあった。彼らは町を建てなおしてそこに住み、
イスラエルに生れた先祖ダンの名にしたがって、その町の名をダンと名づけた。その町の名はもとはライシであった。』(士師記18:27-29)
こうしてダン族は定住後を得たが、そこは、ヨシュアが”くじ”で割り当てた地ではなかった。
本来なら、くじで割り当てられた自分本来の地を、信仰によって奪い返す事が先のはずなのに、彼らは信仰による戦いを回避し、弱そうな相手を選んで、楽にその地を勝ち取った。
そして彼らはその地に自分たちの名をつけたが、そこで何を行ったか。
『ダンの人々は刻んだ像を自分たちのために安置し、モーセの孫すなわちゲルショムの子ヨナタンとその子孫がダンびとの部族の祭司となって、国が捕囚となる日にまで及んだ。』(士師記18:30)
彼らはそこで、偶像礼拝を盛んに行ったのだ。
なお、かの雇われ祭司は、日本語聖書では「モーセ」の孫とあるが、ヘブル語本文では、モーセではなく「マナセ」となっている。
また、ここには「モーセの孫すなわちゲルショムの子ヨナタン」と記されているが、モーセの孫・ゲルショムの子は「シュブエル」のはずであり(1歴代誌23:16、26:24)、「ヨナタン」ではないはずだ
つまり、このヨナタンなる「レビ人の祭司」は、出生詐称の可能性もある。(もっとも、本当に彼がモーセの子孫・ゲルショム族の出だとしても、元々祭司職は得られないが。)
この時以降、ヨナタンの子孫がダン族の祭司となって、それは「国が捕囚となる日にまで及んだ。」(31節)
ヨナタンとその子孫は、いきなりイスラエル一部族の祭司となったので、棚からぼた餅的な立身出世であっただろう。
しかし、彼らにとっての「世的な成功」は、後のイスラエルに、大いに悪影響をもたらすことになる。
牧師や伝道者など、神の働き人の”世的な”立身出世は、神の国に成功をもたらすとは限らず、むしろ逆に、神の国を大いに損なってしまう事もあるのだ。
『神の家がシロにあったあいだ、常に彼らはミカが造ったその刻んだ像を飾って置いた。』(士師記18:30-31)
神の箱がシロにあったのは、サムエルの時代までであり、ダビデの時代以降はエルサレムに移された。
士師記の時代が終わった後、他の部族が正当な信仰に戻っても、ダン族だけは、シロやエルサレムに礼拝に行かず、このイスラエルの最北の地で、不当な礼拝をしていたのだろう。
ダビデの子ソロモンの時代が終わると、イスラエルは南北に分裂し、北イスラエル王国最初の王ヤロブアムは、ダンとベテルに金の子牛像を据え、そこを偶像礼拝の中心地とした。(1列王記12:26-30)
それ以降、「ヤロブアムの罪」と言えば偶像礼拝の代名詞となったが、その大元は、はるかさかのぼって、この士師時代のダン族にあったわけである。
つまり、この士師記の時代以降、北イスラエル王国がアッシリアへ捕囚された紀元前700年前半くらいまでずっと、偶像礼拝の中心地だった事になる。
父祖イスラエルは、死ぬ直前、預言している。
『ダンは道のかたわらのへび、/道のほとりのまむし。馬のかかとをかんで、/乗る者をうしろに落すであろう。主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。』(創世記49:17-18)
ダン族は道の傍らの蛇となって、ミカの家を噛み、ライシュを噛み、そして後々、北イスラエル王国の歩みを噛む事になった。
聖書の最後の書・黙示録には、神の印が押されるイスラエル十二部族が出てくるが、そこには、ダン族は外されてしまっている。(黙示録7:4-8)
他の兄弟姉妹が正当な礼拝に戻っても、自分勝手な礼拝を捨て去らず、かえって兄弟姉妹につまづきを与えてしまうような者は、神の民から除外されてしまうのだ。
間違った道に逸れる事なく、御言葉に従って正当に歩み、信仰と祝福の王道を歩んで行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:奪われてしまっても何も出来ない神(士師記18:21-26):右クリックで保存
『かくて彼らは身をめぐらして去り、その子供たちと家畜と貨財をさきにたてて進んだ。』(士師記18:21)
彼ら、すなわちダン族がそのようにしたのは、彼らが自身がミカの家の持ち物と祭司とを奪うという「やましい事」をしたためであり、ミカ達が武装して取り返しに来ても対抗できるよう備えるためだ。
『ミカの家をはるかに離れたとき、ミカは家に近い家の人々を集め、ダンの人々に追いつき、ダンの人々を呼んだので、彼らはふり向いてミカに言った、「あなたがそのように仲間を連れてきたのは、どうしたのですか」。』(士師記18:22-23)
人の資産を奪い、従業員もさらって置きながら、「あなたがそのように仲間を連れてきたのは、どうしたのですか」などと、とぼけた事を言ったが、ミカが奪われた資産とは、ミカにとっての「神」である。
『彼は言った、「あなたがたが、わたしの造った神々および祭司を奪い去ったので、わたしに何が残っていますか。しかるにあなたがたがわたしに向かって『どうしたのですか』と言われるとは何事ですか」。』(士師記18:24)
ミカは、自分の神が奪われた、わたしに何が残っているか、と訴えたが、ここに一つ、質問をさせていただく。
皆さんの神は、誰々に奪われてしまう神であろうか。
神の御子キリストは、誰かが暴力的に私達の所から奪って行ったら、もう手元には無くなってしまうようなお方だろうか。
世の神にはそのような事はあっても、私達の神に限っては、決してありえない事を、私達は感謝するのみである。
『だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。「わたしたちはあなたのために終日、/死に定められており、/ほふられる羊のように見られている」/と書いてあるとおりである。しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。』(ローマ8:35-39)
主は、たとえ私達が地の底に降っても、あるいは天のかなたに宿っても、決して離れる事なく、いつも共におられ、見ておられ、守っておられる生きたお方である。(詩篇139編)
『ダンの人々は彼に言った、「あなたは大きな声を出さないがよい。気の荒い連中があなたに撃ちかかって、あなたは自分の命と家族の命を失うようになるでしょう」。こうしてダンの人々は去って行ったが、ミカは彼らの強いのを見て、くびすをかえして自分の家に帰った。』(士師記18:25-26)
ミカからは神が奪われてしまったが、その神が守ってくれる事を信じて戦いに出る事も、命賭けで取り戻そうとする事も、しなかった。
ただ多勢に無勢で何も出来ず、すごすごと引き返しただけだった。
結局は、母の銀二百枚を用いて、自分の自由にできる「礼拝王国」を構築し、それで宗教ごっこの自己満足をしていたただけの事が、あらわにされたのだ。
士師記には、命の危険を賭しても主の御声に聞き従い、父の家のバアル像を切り倒して、まことの神である主にいけにえを捧げ、「自分の祭壇が打ちこわされたのだから、バアルみずからその人と言い争うべきだ」(士師記6:32)と言わしめた「エルバアル」がいたが、その全く逆である。
盗もうとしていた母の銀を使って「神」を作り、その神が、強い他人に奪われても、命おしさに何も出来ない。何と、情けない話だろうか。
士師記の時代、すなわち、人がそれぞれ自分の「よかれ」で生きる時期が長くなればなるほど、このように情けなく、御前に罪深い時代へと、落ち込んで行くのである。
『刻める像、鋳像および偽りを教える者は、その作者がこれを刻んだとてなんの益があろうか。その作者が物言わぬ偶像を造って、その造ったものに頼んでみても、なんの益があろうか。わざわいなるかな、木に向かって、さめよと言い、物言わぬ石に向かって、起きよと言う者よ。これは黙示を与え得ようか。見よ、これは金銀をきせたもので、その中には命の息は少しもない。しかし、主はその聖なる宮にいます、全地はそのみ前に沈黙せよ。』(ハバクク2:18-20)
その後のミカの行動については、記されていない。
これを機に目覚めて、まことの神に立ち返ってくれれば良いのだが、彼の性質を見るならば、残った母の銀九百枚を使って、また新たに神を作った可能性が高い。
決して誰にも奪われる事の無い神、そして、世の何者も引き離す事のない主であるキリストにのみ仕える皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:化けの皮が剥がされた礼拝者たち(士師記18:11-20):右クリックで保存
ダン族は予め派遣した斥候たちに促され、自分の地を離れてライシュを略奪すべく旅立った。
『そこでダンの氏族のもの六百人が武器を帯びて、ゾラとエシタオルを出発し、上って行ってユダのキリアテ・ヤリムに陣を張った。このゆえに、その所は今日までマハネダンと呼ばれる。それはキリアテ・ヤリムの西にある。』(士師記18:11-12)
マハネ・ダンとは、ダンの宿営、という意味である。
この部族は、土地によく自分の部隊の名をつけるようである。
『彼らはそこからエフライムの山地に進み、ミカの家に着いた。かのライシの国をうかがいに行った五人の者はその兄弟たちに言った、「あなたがたはこれらの家にエポデとテラピムと刻んだ像と鋳た像のあるのを知っていますか。それであなたがたは今、なすべきことを決めなさい」。そこで彼らはその方へ身をめぐらして、かのレビびとの若者の家すなわちミカの家に行って、彼に安否を問うた。しかし武器を帯びた六百人のダンの人々は門の入口に立っていた。』(士師記18:13-16)
彼らは「今、なすべきことを決めなさい」と言ったが、それはようするに、この家にあるエポデやテラピムや偶像などを奪って自分たちのものとしなさい、と言っているのである。
『かの土地をうかがいに行った五人の者は上って行って、そこにはいり、刻んだ像とエポデとテラピムと鋳た像とを取ったが、祭司は武器を帯びた六百人の者と共に門の入口に立っていた。』(士師記18:17)
これは「強奪」と言う行為に他ならない。
一体彼らの信じるその「神」は、その化身(?)たる像を「強奪」されても、おかまいなしに、新しいほうの持ち主を幸いにしてくれるとでも思っていたのだろうか。
もしそうだとしたら、「神の真実」とは、一体何だろう。そしてそれなら、人は、どうして真実へと導かれるというのだろう。
神の祝福が、他者から強奪できる者のものであるとしたら、また、「地獄の沙汰も金次第」という言葉のごとく、救いが金で何とかなるようであるとするなら、一体弱く貧しい人の救いは、どこにあるのだろう。
このように、人が好き勝手にこしらえた宗教のはびこる所には、救いは何も無い。
救いはただ、御言葉なるお方・イエス様の元にのみ、存在する。
御言葉こそ真理であり、人は、御言葉によってこそ正しく判断し、解釈できる。
この士師記17-18章に登場した人物達を、最も基本的な御言葉である「十戒」に照らし合わせるなら、次のように幾つも破って(あるいは未遂して)いる事がわかる。
「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」(第一戒)
「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。」(第二戒)
「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。」(第三戒)
「あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く生きるためである。」(第五戒)
「あなたは殺してはならない。」(第六戒)
「あなたは盗んではならない。」(第八戒)
「あなたは隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。」(第十戒)
結局、御言葉が無い所には罪のはびこりがあり、秩序の乱れがあり、この士師記の時代のように、神を恐れぬ人間による暴虐と不毛な争いが満ち満ちるのだ。
『彼らがミカの家にはいって刻んだ像とエポデとテラピムと鋳た像とを取った時、祭司は彼らに言った、「あなたがたは何をなさいますか」。彼らは言った、「黙りなさい。あなたの手を口にあてて、われわれと一緒にきて、われわれのために父とも祭司ともなりなさい。ひとりの家の祭司であるのと、イスラエルの一部族、一氏族の祭司であるのと、どちらがよいですか」。祭司は喜んで、エポデとテラピムと刻んだ像とを取り、民のなかに加わった。』(士師記18:18-20)
このレビ人が、神と人との間を取り持つ「祭司」の端くれでもあるなら、神の義を示し、人の罪を正すべきであるはずなのに、より条件の良い就職先が見つかるやいなや、目を輝かせ、喜んでそちらになびき、今までお世話になって来たミカを平気で捨て、しかも、ミカの資産であるはずのエポデとテラピムと刻んだ像とを持ち出して来て、その人々の中に加わっていく。
一体このような「神の国の働き人」を、どう思うだろうか。
しかし、そのような「主の働き人」は、どの時代でもいるし、そして現代にも、いる。
そのような者は、神の国と神の義の事は何とも思わず、自分に都合が良い条件が提示されるなら、その者達の不法には口をつぐみ、その勢力の中へと、喜んで入っていくものだ。
ダン族も、そのレビ人も、何も起きなければ、一見誠実な礼拝者に見えていたかもしれない。
しかしいざ、誘惑の試練をくぐらされると、実にあっさり化けの皮が剥がれてしまった。
私達も、試練の火をくぐらされる時、内側があらわにされ、主に対する姿勢が明らかにされる。
その時、ある者は化けの皮が剥がされてしまい、別の人は、本当に主に真実を尽くすまことの礼拝者である事が明らかにされるのだ。
イエス様は言われた。
『しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」』(ヨハネ4:23-24)
私達は日頃から、目に見えるものによってではなく、心を尽くし、力を尽くし、霊とまことによって主を礼拝するものでありたい。
