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メッセージ - 講解説教(旧約)カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
結婚できない人や貧しい人はただ虚しいだけなのか(伝道者の書9:9-12):右クリックで保存

【概要】

伝道者の書9章9-12節を基に、人生の意味と神の愛について語る説教。

【聖書箇所】

伝道者の書9章9-12節

【励ましの言葉】

主を愛し、主の戒めを守る人は、神に愛され、豊かな人生を送ることができます。

【戒めの言葉】

この世の価値観や自分の力に頼るのではなく、神の国とその義を第一に求めましょう。

【***詳細***】

今日の箇所は伝道者の書9章9節から12節です。水曜日の昼礼拝では伝道者の書を1章から順に学んでいます。

「日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが生きている間に日の下であなたがする労苦による。あなたの受ける分であるあなたの手元にあるなすべきことは、皆、自分の力でしなさい。あなたが行こうとしている黄泉には、働きも企ても知識も知恵もないからだ。」(伝道者の書9:9-10)

伝道者の書は聖書の中でも特異な書物です。「むなしい」という言葉が最も多く使われており、旧約聖書全体で「むなしい」という言葉が使われる回数よりも、この伝道者の書だけで使われる回数の方が多いのです。なぜ聖書の一部である伝道者の書にこれほど「むなしい」という言葉があるのでしょうか。それは、著者であるソロモンが神から離れ、人間の知恵を追求した結果だと考えられます。

ソロモンは人類史上最も知恵があり、IQの高い人物でした。しかし、神から離れて知恵や力を追求した結果、すべてが「むなしい」という結論に至ったのです。これは世の中の哲学や仏教の思想とも似ています。すべてのものは無常で、移り変わり、同じところに行き着くという考え方です。

しかし、キリストにある者の人生は全く異なります。聖書の他の箇所は希望に満ち、愛に満ち、喜びに満ちています。信仰者が目指すべきは、ソロモンのようなむなしさではなく、神の国です。

「日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。」(伝道者の書9:9)

ソロモンは人生の楽しみを妻との生活に見出していますが、実際には700人の妃と300人の側室、合計1000人もの妻を持っていました。その結果、彼は「女は死よりも苦々しい」と告白しています(伝道者の書7:26)。これは神から離れた生き方の結果です。

私たちクリスチャンは、エペソ人への手紙に記されている夫婦関係の模範を目指すべきです。「妻たちよ。主に従うように、自分の夫に従いなさい。」(エペソ5:22)「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自分を献げられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」(エペソ5:25)

「あなたの手元にあるなすべきことは、皆、自分の力でしなさい。」(伝道者の書9:10)

ソロモンは自分の力で物事を成し遂げることを勧めていますが、信仰者である私たちは違います。自分の力ではなく、イエス・キリストの知恵と力に頼るべきです。ある姉妹は、この箇所を次のように読み替えました。「あなたの手元にあるなすべきことは、イエス様の知恵と力でしなさい。あなたが行こうとしているところは、死も涙も痛みも傷も何一つない神の国の中にあるからです。」

私たちがなすべきことは、自分の力ではなく、イエス様に委ねることです。イエス様が羊飼いとなって私たちを導いてくださいます。たとえ死の陰の谷を歩むようなことがあっても、私たちには恐れる必要はありません。

「私は再び日の下を見たが、競争は足の速い人のものではなく、戦いは勇者のものではなく、またパンは賢い人のものではなく、富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものでもないことがわかった。」(伝道者の書9:11)

ソロモンはすべてのことを時と機会のせいにしていますが、信仰者である私たちは違います。戦いは主のものであり、パンは主から与えられ、富も主のものです。すべてはイエス・キリストのものなのです。

私たちは神の国とその義をまず第一に求めるべきです。「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

主に愛される人とは、イエス・キリストを愛し、その戒めを守る人です。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人は、わたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。」(ヨハネ14:21)

【結論】

私たちは、ソロモンのような罠に陥ることなく、世の価値観ではなく神の価値観に従って生きるべきです。すべての不条理を御言葉によって塗り替え、幸いと命へと人生を変えられていく者となりましょう。神の国とその義を第一に求め、イエス・キリストに愛され、導かれる人生を歩んでいきましょう。

礼拝説教メッセージ音声:移り行く世代、そして、決して移り変わりの無いお方(ヨシュア記24:29-33):右クリックで保存

『これらの事の後、主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ、人々は彼をその嗣業の地のうちのテムナテ・セラに葬った。テムナテ・セラは、エフライムの山地で、ガアシ山の北にある。イスラエルはヨシュアの世にある日の間、また主がイスラエルのために行われたもろもろのことを知っていて、ヨシュアのあとに生き残った長老たちが世にある日の間、つねに主に仕えた。』(ヨシュア記24:29-31)
偉大な指導者、ヨシュアも、いよいよ死んだ。
彼が生きていた間、また、彼と共に戦った長老の世代が生きていた間、イスラエルが主から離れず主に使えていたのは、ひとえに、ヨシュアが主に従順する事を徹底して指導していた事が大きいだろう。
偉大な指導者ヨシュアは死んだが、私達にとっての指導者・まことのイエシュアは、決して死ぬ事の無いお方・イエス様であり、どんな指導者よりも優れたお方である。

『イスラエルの人々が、エジプトから携え上ったヨセフの骨は、むかしヤコブが銀百枚で、シケムの父ハモルの子らから買い取ったシケムのうちの地所の一部に葬られた。これはヨセフの子孫の嗣業となった。』(ヨシュア記24:32)
このヨシュア記では、古く昔から定められていた、色々な約束の成就があった。
彼らの父祖、アブラハム、イサク、ヤクブに対する約束、すなわち、このカナンの地を与えるという、何百年も昔に主が約束された事の成就があり、ヨセフが子孫に約束させた事の成就があり、そして、この世代のイスラエルに定めて下さった敵に対する勝利と、この地を受け継ぐという約束も、ことごとく成就した。

イエス様もまた、世の始まる前から定められていた遠大なご計画を、私達に対して成就させて下さる。
すなわち私達は、天地の造られる前からキリストにあって選ばれ、御前できよく傷なき者となるために、神の子としての身分をいただけるという、途方も無く素晴らしいご計画を、今、キリストにあって私達に対し成就して下さるのだ。(エペソ1:3-5)
それを私達が引き出すためには、御言葉を信じ、その信仰に裏打ちされた行動を取る事が必要である。
ヨシュアの時代のイスラエルが、ヨシュアを通して与えられた御言葉を信じ、それに忠実に行動した結果、勝利と祝福を得たのと、全く同じである。

『アロンの子エレアザルも死んだ。人々は彼を、その子ピネハスに与えられた町で、エフライムの山地にあるギベアに葬った。』(ヨシュア記24:33)
大祭司エルアザルは、ヨシュア記の中ではあまり登場しなかったが、彼もまた、怒涛の時代を駆け抜けた立役者の一人だった。

大祭司アロンの三男であった彼は、その兄達は、聖所において不敬を犯したために主の火によって焼き滅ぼされたのを見ている。
また、コラがモーセに反逆した時、それに追従した二百五十人は、主の火によって焼き滅ぼされたが、エルアザルは主の命令を受け、まだ煙くすぶる二百五十もの焼死体の手から、二百五十の火皿を回収し、それを延べ板として、祭壇の着せ金を造った。(民数記16:38)
このような、強烈な経験をして来た彼は、きっと、大祭司の家系の子々孫々に、きびしく教育したに違いない。
主の前に出る時は、決して分を超えたり、思い上がったりしてはならない、と。
実際、エルアザルの子ピネハスは、素晴らしい信仰の行いをした。(民数記25章)

偉大な指導者ヨシュアも、大祭司エルアザルも死んだ。
人には寿命があり、そして、世代は交代していく。
しかしまことの指導者であり、まことの大祭司であるイエス様は、もはや決して死ぬ事はなく、眠る事もまどろむ事もなく、常に私達と共におられ、常に父なる神様の御前で私達のために執り成し、間違った指導は決してする事も無いお方。
まことに主の主、王の王、まことの大祭司であられる。

偉大な信仰の指導者がいなくなった途端に、信仰から落ちてしまうのは、ありがちな事であり、実際イスラエルは、この直後、信仰から落ちてしまう。
私達がそうならないためには、私達個人個人が、直接、まことのイエシュアであるイエス様を主とし、イエス様と直接関わり、直接導きを受け、聞き従う事である。
パウロも言っている。
『わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。
あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。』(ピリピ2:12-15)

人間はやがて死ぬし、間違った指導もする。
だからこそ私達は、まことの大祭司であり、まことの指導者であるイエス様につながる事こそ、何より大事なのだ。
私達は生ける限り、ヨシュア記の世代のように、主に服従し、多くを勝ち取り、分捕り、幸いな一生を送る者でありたい。

礼拝説教メッセージ音声:ヨシュアの最後のメッセージ(ヨシュア記24:1-28):右クリックで保存

『ヨシュアは、イスラエルのすべての部族をシケムに集め、イスラエルの長老、かしら、さばきびと、つかさたちを召し寄せて、共に神の前に進み出た。』(ヨシュア記24:1)
いよいよヨシュア記の最終章である。
ヨシュアは死を前にして民を御前に集め、最後のメッセージをした。

ヨシュアが民を呼び集めたシェケムという場所は、イスラエルの父祖達にとって、特別な地である。
アブラハムが主の召命を受けて、故郷を出てカナンに入った時、主が「あなたの子孫にこの地を与える」と言って最初に現れた場所であり、アブラハムはそこに祭壇を立てた。
また、アブラハムの孫ヤコブが、ベテルへと出立する際に、自分達の中から外国の神々を捨てた場所でもある。

2節から13節までは、主がヨシュアを通して語られたメッセージであり、アブラハムの父・テラの代から、何百年という単位でイスラエルが主と共に歩んで来た歴史である。
主は、一人の人アブラハムから、イスラエルという民族を起こしたが、元々、アブラハムの父の家は偶像崇拝をしている家であった。
主は、その偶像礼拝の家からアブラハムを導き出し、彼を祝福して子孫を増やし、敵から救い出し、敵に対しては災害を与え、勝利させ、その地を占領させ、あらゆる面で守り、多くの良きものを与えて下さった事を、ここで思い起こさせている。

そして、このメッセージで特徴的な事は、主がイスラエルの歴史を語る上で、民が主に不従順し反逆した点については、一切触れていない事であり、モーセの最後のメッセージとは対照的である。
このメッセージからは、主はいかにイスラエルに良くして下さったか、いかに主が素晴らしいお方であるのかがよく分かるが、しかしヨシュアは言う。
『いま、あなたがたは主を恐れ、まことと、まごころと、真実とをもって、主に仕え、あなたがたの先祖が、川の向こう、およびエジプトで仕えた他の神々を除き去って、主に仕えなさい。』(ヨシュア記24:14)

ヨシュア記を読んでいると、主を捨て去って外国の神々に向かう、などとは、とんでもない事と思えてくる。
なにしろ、アカンの失敗の時も、またルベン族やガド族達が祭壇を造った時も、イスラエルは非常に断固とした態度で臨んだからだ。
それなのに、ヨシュアはここで、「他の神々を除き去って、主に仕えなさい。」と言っているという事は、もしかしたら、イスラエルの心は慢心して、次第に偶像礼拝へと傾きつつあった事を、ヨシュアは察知していたのかもしれない。

『もしあなたがたが主に仕えることを、こころよしとしないのならば、あなたがたの先祖が、川の向こうで仕えた神々でも、または、いまあなたがたの住む地のアモリびとの神々でも、あなたがたの仕える者を、きょう、選びなさい。ただし、わたしとわたしの家とは共に主に仕えます。』(ヨシュア記24:15)
ここはヨシュアの、とても有名な宣言である。
ヨシュアは明確に、我が家と我は、主に仕える、と告白した。
それに対し、民は答えて言った。
「主を捨てて、他の神々に仕えるなど、われわれは決していたしません。われわれの神、主がみずからわれわれと、われわれの先祖とを、エジプトの地、奴隷の家から導き上り、またわれわれの目の前で、あの大いなるしるしを行い、われわれの行くすべての道で守り、われわれが通ったすべての国民の中でわれわれを守られたからです。主はまた、この地に住んでいたアモリびとなど、すべての民を、われわれの前から追い払われました。それゆえ、われわれも主に仕えます。主はわれわれの神だからです。」(ヨシュア記24:16-18)

それでもなお、ヨシュアは重ねて問いただす。
『「あなたがたは主に仕えることはできないであろう。主は聖なる神であり、ねたむ神であって、あなたがたの罪、あなたがたのとがを、ゆるされないからである。もしあなたがたが主を捨てて、異なる神々に仕えるならば、あなたがたにさいわいを下されたのちにも、ひるがえってあなたがたに災をくだし、あなたがたを滅ぼしつくされるであろう」。
民はヨシュアに言った、「いいえ、われわれは主に仕えます」。
そこでヨシュアは民に言った、「あなたがたは主を選んで、主に仕えると言った。あなたがたみずからその証人である」。彼らは言った、「われわれは証人です」。』(ヨシュア記24:19-22)
こうしてヨシュアは、民の口から三度、自分達は主に従う、という意向を引き出させ、そして確かにこの世代は主に従い通した。
私達も、兄弟姉妹を見た時に、信仰が弱りかけたり、誘惑に陥りかけている事に気づいたなら、本人の口から信仰告白を引き出させ、罪に陥る事から守らせる、という事も必要である。

人は、弱いものである。
ペテロも、イエス様がポンテオ・ピラトの元へ引き出される日の晩、自分は死んでもあなたについて行きます、と、イエス様に宣言しておきながら、その夜が明けない内に、三度もイエス様を知らないと人前で宣言してしまった。
ある瞬間は感情が燃えていたとしても、いざとなると、肉は弱いのだ。
イエス様は、そのような失敗をしたペテロに現れ、「あなたはわたしを愛するか」と三度、問いかけられ、フォローされた。
私達も、イエス様のように、またヨシュアのように、霊的に弱っている兄弟姉妹を、フォローするべきである。
主は、傷んだ葦を折る事をせず、くすぶる灯心を消す事のしないお方であり、私達もそれに習うべきなのだ。

『ヨシュアはまた言った、「それならば、あなたがたのうちにある、異なる神々を除き去り、イスラエルの神、主に、心を傾けなさい」。民はヨシュアに言った、「われわれの神、主に、われわれは仕え、その声に聞きしたがいます」。』(ヨシュア記24:23)
ヨシュアは重ねて言った。異なる神々を除き去りなさい、と。
もしかしたら、異なる神々への思いが、彼らの中に入り込んでいたのかもしれないが、少なくともこの世代は、ヨシュアのフォローによって守られた。

『こうしてヨシュアは、その日、民と契約をむすび、シケムにおいて、定めと、おきてを、彼らのために設けた。ヨシュアはこれらの言葉を神の律法の書にしるし、大きな石を取って、その所で、主の聖所にあるかしの木の下にそれを立て、ヨシュアは、すべての民に言った、「見よ、この石はわれわれのあかしとなるであろう。主がわれわれに語られたすべての言葉を、聞いたからである。それゆえ、あなたがたが自分の神を捨てることのないために、この石が、あなたがたのあかしとなるであろう」。
こうしてヨシュアは民を、おのおのその嗣業の地に帰し去らせた。』(ヨシュア記24:25-28)

このようにして、ヨシュアは最後のメッセージを終えた。
その最後は、偶像礼拝に気をつけるようにという事と、他の神々に行くのではなくただ主にのみ仕えなさいという事を、彼らの口で告白させ、そして証拠を残す事だった。
こうして、この世代は守られた。
私達も、兄弟姉妹に大事な事を伝えたい時は、本人の口から信仰告白を引き出す事が有効である。
その口の告白によって、彼らは守られるからだ。

礼拝説教メッセージ音声:数えてみよ、主の真実を(ヨシュア記23:12-16):右クリックで保存

主が共におられ、主ご自身が敵と戦って下さるならば、必ず勝利し、一人が千人を追い立てる事さえ可能である、と、ヨシュアは言った。

そしてその逆、もし、主が共におられないのなら、すなわち、人が主に忌み嫌われるような事をするなら、主は必ず災いを下す事も、宣言した。

味方であるはずの主は、一体どうしたら、敵対してしまうのか。ヨシュアは、以下のように言っている。
『あなたがたがもしひるがえって、これらの国民の、生き残って、あなたがたの中にとどまる者どもと親しくなり、これと婚姻し、ゆききするならば、あなたがたは、しかと知らなければならない。あなたがたの神、主は、もはや、これらの国民をあなたがたの前から、追い払うことをされないであろう。』(ヨシュア記23:12-13)
すなわち、交わってはならない邪悪な先住民と交わり、結婚し、滅ぼすべき者と混合してしまうなら、主はもはや共にはおられない。
今まで勝利をもたらして下さった主は、もはや、その人に勝利を与える事は無く、敵対してしまう。

ヨシュア記では、いまだ生き残っている滅ぼすべきカナン人を「あなたがたの中にとどまる者」と言っているが、現代を生きる私達の中にも、”滅ぼしてしまわなくてはならない者”が、私達の肉の中に、多少なりともうずめいている。
それは、旧来の不品行の性質や、罪深い性質など、神の民に相応しからぬ性質全般である。

私達は、主イエス様にあって救われた後、主と共に歩んで行く内に、どんどん開放され、自由となって行った領域がどんどん増え広がって行ったはずである。
イエス様と共に歩みつづけるキリスト者は、旧来の罪の性質はどんどん討ち滅ぼされていき、生来の生き方では、不可能と思えたような事が可能となり、今まで経験しなかったような事をどんどん経験し、心の中の自由な領域は、どんどん広がって行くものである。
まことのイエシュアであるイエス様と共に歩むなら、もっともっと、その領域は広がって行くが、滅ぼすべき旧来の性質を放置し続け、あるいは、それらと再び和合し、罪の性質と再び混合してしまうなら、どんどん心の束縛が増していき、ついには罪深い性質に飲み込まれてしまい、やがては滅ぼされてしまう。

『彼らは、かえって、あなたがたのわなとなり、網となり、あなたがたのわきに、むちとなり、あなたがたの目に、とげとなって、あなたがたはついに、あなたがたの神、主が賜わったこの良い地から、滅びうせるであろう。』(ヨシュア記23:13)
ヨシュアの時代は、まだ、「彼らの中にとどまる者達」を攻め滅ぼす事を保留しているだけで、婚姻したり交わったりしてはいなかった。
それで、かろうじて信仰をもって戦い出るなら、必ず勝利していた。
しかし、いつまでも為すべき事を保留し続け、それを長くし、どんどん先延ばしにして行くならば、それらはやがて罠となってしまうのだ。

『見よ、今日、わたしは世の人のみな行く道を行こうとする。あなたがたがみな、心のうちにまた、肝に銘じて知っているように、あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束されたもろもろの良いことで、一つも欠けたものはなかった。みなあなたがたに臨んで、一つも欠けたものはなかった。』(ヨシュア記23:14)
ヨシュアは、死を間近にして、大切な事を伝えた。
主は、約束された良い事の中で、何一つ成就しなかった事は無かった。
その事を、あなた方はしかと経験した、それをあなた方は、しっかりと覚えておきなさい、と。

『しかし、あなたがたの神、主があなたがたについて約束された、もろもろの良いことが、あなたがたに臨んだように、主はまた、もろもろの悪いことをあなたがたに下して、あなたがたの神、主が賜わったこの良い地から、ついに、あなたがたを滅ぼし断たれるであろう。もし、あなたがたの神、主が命じられたその契約を犯し、行って他の神々に仕え、それを拝むならば、主はあなたがたにむかって怒りを発し、あなたがたは、主が賜わった良い地から、すみやかに滅びうせるであろう」。』(ヨシュア記23:15-16)
主は、約束しておられた良き事を、必ず成就させた。それと同じように、もし主をないがしろにするなら、災いもまた必ず成就してしまう、という事も覚えておきなさい、と、ヨシュアは注意した。
主が為して下さった良き事の数々を数えなさい、覚えておきなさい、というメッセージはよく語られるが、同時に、その逆が起きる事も、忘れてはならない。
すなわち、主をないがしろにした事によって、ひどい目や、災いに遭った事どもも、私達はよく覚えておくべきなのだ。

礼拝説教メッセージ音声:現実を真実で飲み込め(ヨシュア記23:1-11):右クリックで保存 

主がイスラエル全部族に相続地を与えられてから、既に多くの日が経ち、ヨシュアも老人になった。
しかしヨシュアには、心配事が残っていた。
イスラエルの民には相続地が定められて久しいのだが、彼らは、その領地内に生き残っている先住民を滅ぼし尽くす事をせず、そのまま放置している所が、まだまだ多いからだ。
そこでヨシュアは長老や民の長達を呼び寄せて、言った。

『見よ、わたしはヨルダンから、日の入る方、大海までの、このもろもろの残っている国々と、すでにわたしが滅ぼし去ったすべての国々を、くじをもって、あなたがたに分け与え、あなたがたの各部族の嗣業とさせた。あなたがたの前から、その国民を打ち払い、あなたがたの目の前から追い払われるのは、あなたがたの神、主である。そしてあなたがたの神、主が約束されたように、あなたがたは彼らの地を獲るであろう。』(ヨシュア記23:4-5)

ヨシュアは確かに、くじによって、この地を彼らに与えた事を神と人との前で宣言したが、現実的には、その中の一部では、相変わらず、住んでいてはならない先住民が住んでいる状態である。
「真実」の上では、その地は既に彼らの所有となっている。なのに「現実」では、そこには相変わらず、罪深く手強い者達が、占拠している。
このように、「真実」と、「現実」とが敵対している時、「真実」を信じて、「現実」に戦いを挑むなら、必ず真実が現実を飲み込む事になっている。
しかし、現実に飲み込まれて真実をいつまでも実行しないなら、それまた、その人の信じた通りになってしまう。

これは、現代を生きる私達にも、同じである。
主に言われた通りに信じて実践するならば、真理の面において既に得たものが、現実の面へと引き出されて行くのだ。
ちょうど、通帳に記されている残高の数字を信じて疑わず、銀行に行き、現金を下ろす手続きをして、ハンコを押す、という「信仰の行動」に出る事によって、現実のお金が手元に渡るのと同じである。
御言葉に記されている真実を信じ、そこに記されている通りに行動するなら、望んでいる事柄が実体となって、自分の手元に引き下ろされるのだ。(ヘブル11:1)

私達の人生も、ヨシュア記の当時と同じパラドックスに陥ってはいないだろうか。
御言葉の真理の上では、既にそこは自分の手に渡されている。
なのに、恐れや無気力などによって、信仰の行動をしておらず、そこに住み着いている邪悪な者達を、相変わらず、のさばらせたままにしてはいないだろうか。

主が共におられ、主と共に行動に出るなら、必ず勝ち取る事ができる。
ただし、主が味方して下さるためには、以下の事が必要である。
『それゆえ、あなたがたは堅く立って、モーセの律法の書にしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。それを離れて右にも左にも曲ってはならない。あなたがたのうちに残っている、これらの国民と交じってはならない。彼らの神々の名を唱えてはならない。それをさして誓ってはならない。またそれに仕え、それを拝んではならない。』(ヨシュア記23:6-7)

まずは、御言葉に堅く立って守り行い、そこから離れない事。
そして、神の国のものではない者達と交じり合わない事である。それは思想においても、価値観においても、そうである。
彼らの価値観や、彼らが「神」としているものを取り入れてしまうなら、主から敵対されてしまうからだ。
そして、何よりもまず、主を第一として愛する事である。
『ただ、今日までしてきたように、あなたがたの神、主につき従わなければならない。・・・それゆえ、あなたがたは深く慎んで、あなたがたの神、主を愛さなければならない。』(ヨシュア記23:8-11)
これらは、十戒の第一戎と第二戎とにも通じる、霊的な最優先事項である。

『主が大いなる強き国民を、あなたがたの前から追い払われた。あなたがたには今日まで、立ち向かうことのできる者は、ひとりもなかった。あなたがたのひとりは、千人を追い払うことができるであろう。あなたがたの神、主が約束されたように、みずからあなたがたのために戦われるからである。』(ヨシュア記23:9)
今までのヨシュア記での戦闘では、信仰における失敗をした場合を除き、彼らの前に立ち向かった敵は一人もなく、ことごとく勝利して来た。
そればかりでなく、一人の人が千人を追い払うことが出来る、というのだ。
信仰の少数精鋭は、不信仰な大人数にはるかに勝るのだ。(レビ記26:8、士師記3:31, 7:19-22、15:15、1サムエル14章、2サムエル23:8)

私達の人生は、勝ち取っていない領域が沢山あり、生涯をかけて、それらを勝ち取って行くようなものである。
勝利の上で大事な事は、主が共におられるという事であり、主が共におられる状態でいるには、心を尽くして主を愛し、主にの御言葉を守り行う事である。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
生きている間に喜んで楽しめという考え方(伝道者の書9:1-8):右クリックで保存

【概要】

伝道者の書9章1節から8節を通して、人生の結末とキリストにある希望について説教します。

【聖書箇所】

伝道者の書9章1-8節

【慰めの言葉】

「すべて生きているものに連なっているものには希望がある。生きている犬は死んだ獅子に勝るからである。」

【励ましの言葉】

「キリストにある私たちは、永遠に受ける分があるこの恵みと望みを感謝いたします。」

【戒めの言葉】

「どうせ明日は死ぬのだからと言っている。そこで万軍の主は私の耳を開かれた。この罪はお前たちが死ぬまで決して許されない。」

【勧めの言葉】

「いつもあなたは白い着物を着、頭には油を絶やしてはならない。」

【悔い改めの促しの言葉】

「この地上の歩みは、永遠を決定づけるための査定期間と言っていいでしょう。」

【***詳細***】

今日の御言葉は、伝道者の書9章1節から8節です。この箇所では、人生の結末がすべての人に同じように訪れることが述べられています。正しい人も悪者も、善人も清い人も、すべての人に同じ結末が訪れます。しかし、キリストにある私たちは、永遠に受ける分があることを感謝します。黙示録20章11節からの白い御座の裁きにおいて、私たちはキリストにあって成したことの報いを受けます。

生きている者は自分が死ぬことを知っていますが、死んだ者は何も知りません。彼らにはもはや何の報いもなく、彼らの呼び名も忘れられます。しかし、キリストにある者は、永遠に受ける部分があり、信仰の試練は火を通して精錬されてもなお朽ちてゆく金よりも貴いのです。

イエス・キリストを信じる者は、命の書に名が記されており、第二の死は何の害もありません。私たちはこの地上で、キリストにあって白い衣を着て、精霊の油を絶やさずに歩むべきです。黙示録の1章17節でイエス様は言われました。「私は生きているものである。私は死んだがみよ、いつまでも生きている。」

伝道者の書の言葉は、キリストなしに生きている人たちに非常によく当てはまりますが、キリストにあって生きる人は、永遠の希望を持っています。私たちは、キリストという生きるお方につながっていることで、希望があります。生きている犬は死んだ獅子に勝るという言葉は、キリストにつながる私たちに当てはまります。

【結論】

キリストにある私たちは、永遠の希望を持ち、地上での歩みを通してその希望を確かなものとすることができます。私たちは、キリストにあって白い衣を着て、精霊の油を絶やさずに歩み、永遠の報いを受けることを目指しましょう。

礼拝説教メッセージ音声:誤解を与えてしまった時には(ヨシュア記22:21-34):右クリックで保存

ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、自分達が祭壇を築いた事が「主への反逆である」という誤解を、他の部族に与えてしまった事を知って、答えた。
『力ある者、神、主(エホバ)。力ある者、神、主(エホバ)。主は知ろしめす。イスラエルもまた知らなければならない。もしそれがそむくことであり、あるいは主(エホバ)に罪を犯すことであるならば、きょう、われわれをゆるさないでください。われわれが祭壇を築いたことが、もし主に従うことをやめるためであり、またその上に、燔祭、素祭をささげるためであり、あるいはまたその上に、酬恩祭の犠牲をささげるためであったならば、主みずから、その罪 を問いただしてください。』(ヨシュア記22:21-23)

彼らが真っ先にした事は、エホバなる主を、自分と相手との間に据えた事だった。
私達も、兄弟姉妹に誤解させてしまった時、ことに、誤解によって相手の感情を害させてしまったり、不愉快な思いをさせてしまったりした時には、先ず先に、主を彼我の間に据える事が、最優先させるべき事である。
そうする事で、相手が自分を誤解している事について、自分が動揺したり怒ったりする事を防げるし、また、相手が主を恐れる兄弟姉妹であるなら、ある程、全てをご存知であられる主にさばきを委ねる事は、正当な事だと、双方が確認できるからである。

主は、その人の真実も不信実もご存知であり、真実に対しては豊かに報い、不信実に対しても、正当にさばいて下さる。
ダビデも、自分が不当に責め立てられている時、全てのさばきを主に委ねた。
『わが神、主よ、もしわたしがこの事を行ったならば、もしわたしの手によこしまな事があるならば、もしわたしの友に悪をもって報いたことがあり、ゆえなく、敵のものを略奪したことがあるならば、敵にわたしを追い捕えさせ、わたしの命を地に踏みにじらせ、わたしの魂をちりにゆだねさせてください。』(詩篇7:3-5)

続いて彼らは、問題となっているこの祭壇をなぜ造ったのか、その理由を説明した。
すなわち、後の時代になった時、彼らの領土がヨルダン川の向こう側にある、という事で、ヨルダン川のこちら側に相続地を得ている人達に「主を礼拝する分はあなた方には無い」と言われてしまう事を心配したために、この祭壇を「しるし」として造り、自分達にも主を礼拝する分があるのだ、という事を、後の時代になっても思い起こさせるためだ、というわけである。

『のちの日に、われわれ、またわれわれの子孫が、もしそのようなことを言われるならば、その時、われわれは言おう、「われわれの先祖が造った主の祭壇の型をごらんなさい。これは燔祭のためではなく、また犠牲のためでもなく、あなたがたと、われわれとの間の証拠である」。主にそむき、ひるがえって今日、主に従うことをやめて、われわれの神、主の幕屋の前にある祭壇のほかに、燔祭、素祭、または犠牲をささげるための祭壇を築くようなことは、決していたしません。」』(ヨシュア記22:28-29)
この事を聞いた祭司ピネハスや、他の部族の長達は、彼らの言葉を良しとした。

『祭司エレアザルの子ピネハスは、ルベンの子孫、ガドの子孫、およびマナセの子孫に言った、「今日、われわれは、主がわれわれのうちにいますことを知った。あなたがたが、主にむかって、このとがを犯さなかったからである。あなたがたは今、イスラエルの人々を、主の手から救い出したのです」。』(ヨシュア記22:31)
この度、誤解を与えてしまった側も、誤解してしまった側も、全員、主が自分達と共におられるという事を知った。
主は、敵に勝利させて下さる神であるだけではなく、兄弟姉妹の間に平和を与えて下さる神でもあるのだ。

『イスラエルの人々はそれを良しとした。そしてイスラエルの人々は神をほめたたえ、ルベンの子孫、およびガドの子孫の住んでいる国を滅ぼすために攻め上ろうとは、もはや言わなかった。ルベンの子孫とガドの子孫は、その祭壇を「あかし」と名づけて言った、「これは、われわれの間にあって、主が神にいますというあかしをするものである」。』(ヨシュア記22:33-34)

私達も誤解してしまう時、あるいは、誤解を与えてしまう時、主をその間に立て、主に正しく裁いていただき、平和を保つ者でありたい。

礼拝説教メッセージ音声:主を怒らせる事柄については、戦いも辞さず(ヨシュア記22:10-20):右クリックで保存

『ルベンの子孫、ガドの子孫、およびマナセの部族の半ばが、カナンの地のヨルダンのほとりにきた時、その所で、ヨルダンの岸べに一つの祭壇を築いた。それは大きくて遠くから見える祭壇であった。イスラエルの人々は、「ルベンの子孫、ガドの子孫、およびマナセの部族の半ばが、カナンの地の国境、ヨルダンのほとりのイスラエルの人々に属する方で、一つの祭壇を築いた」といううわさを聞いた。イスラエルの人々が、それを聞くとひとしく、イスラエルの人々の全会衆はシロに集まって、彼らの所に攻め上ろうとした。』(ヨシュア記22:10-12)

今まで忠実に、一緒に戦ってきたルベン族、ガド族、マナセの半部族は、ヨシュアから祝福の内に送り出されたが、彼らは自分の領地に帰る途中、ヨルダン川沿いに、大きな祭壇を築いた。
それを聞いた全イスラエルは、彼らに対し戦いを仕掛けようとした。
これは一体、どういう事なのか。

申命記12章によると、主に捧げ物を捧げるべき祭壇が置かれるのは、ただ、主が選ばれた場所でのみ、許されており、それ以外の場所に祭壇を築いて、いけにえを捧げる事は、主以外のものにいけにえを捧げる主への反逆に等しい行為であったわけである。
実際、ヤロブアムの時代に、北イスラエル王国はエルサレム以外の場所に祭壇を築き、そこでいけにえを捧げるようになったため、主の怒りを買った。(1列王記12章)

モーセの命じる所によると、もし、イスラエルの中のある町で、主以外の神に仕えるような事を聞いたなら、よく調べ、真偽を問いただし、その事が本当だという事であるなら、その町を聖絶し、永遠に廃墟としなければならない。(申命記13章)
今回、このような事が部族レベルで行われた疑惑が沸き起こったため、他のイスラエル部族は、事の真偽を問いただすために、祭司ピネハスと部族長たちを遣わしたのである。

私達も、兄弟姉妹が何か主を怒らせるような事をしていると聞いた時、その人に対し、何のアクションもしないのは、良くない。
あるいは、単にうわさを聞いただけで真偽をよく確かめもせず、いきなり面と向かって怒りを燃やすのもいけない。
まずは、その事をよく問いただす所から始めるべきなのだ。
『もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。』(マタイ18:15-17)

日本人は、和をもって尊しとする文化であるので、そのように、面と向かって戒める事にやりづらさを覚える人は多いかもしれない。
しかし、主を怒らせている事に関しては、見てみぬふりをしたりせず、正面から対応して、交わりを清く保つべきなのだ。
ヨシュアの時代のイスラエルには、そのような真摯さが生きていた。

『「主の全会衆はこう言います、『あなたがたがイスラエルの神にむかって、とがを犯し、今日、ひるがえって主に従うことをやめ、自分のために一つの祭壇を築いて、今日、主にそむこうとするのは何事か。ペオルで犯した罪で、なお足りないとするのか。それがために主の会衆に災が下ったが、われわれは今日もなお、その罪から清められていない。
しかもあなたがたは、今日、ひるがえって主に従うことをやめようとするのか。あなたがたが、きょう、主にそむくならば、あす、主はイスラエルの全会衆にむかって怒られるであろう。』(ヨシュア記22:16-18)
このペオルでの事件、すなわち、イスラエルの男が異邦の女と不品行の罪を犯し、多くの人達が倒れた、あの事件からは、かなりの時が経っているはずであるが、イスラエルは未だにその影響を、何らかの形で引きずっていたようだ。

『ゼラの子アカンは、のろわれた物について、とがを犯し、それがためイスラエルの全会衆に、怒りが臨んだではないか。またその罪によって滅びた者は、彼ひとりではなかった』」。』(ヨシュア記22:20)
アカンが聖絶のものを残してイスラエル全体に災いを招いてしまった事件の時も、アカンの他の30数名が犠牲になってしまった。
ちょっとしたつまづきをイスラエルに持ち込み、それを野放しにする事は、イスラエル全体に災いを招く事になってしまうのだ。

新約において、パウロも同じ事を言っている。
『あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。』(1コリント5:6-8)

ルベン族、ガド族、マナセの半部族といえば、戦いの時には、他の部族に先立って一緒に戦ってくれた部族である。
そうではあっても、主の嫌われる事が行われている、という疑いが生じたならば、真偽を確かめに行き、もしそれが本当であるなら、戦闘をも辞さない、という気構え。
これは、ヨシュア達に与えられている祝福、すなわち、何をしても栄え、誰も立ちはだかるものは無く、主から決して見放される事も見捨てられることもないという祝福を受けるために、必要なものである。

礼拝説教メッセージ音声:約束を満了したルベン、ガド、マナセの半部族(ヨシュア記22:1-9):右クリックで保存

『時にヨシュアは、ルベンびと、ガドびと、およびマナセの部族の半ばを呼び集めて、言った、「あなたがたは主のしもべモーセが命じたことを、ことごとく守り、またわたしの命じたすべての事にも、わたしの言葉に聞きしたがいました。今日まで長い年月の間、あなたがたの兄弟たちを捨てず、あなたがたの神、主の命令を、よく守ってきました。
今はすでに、あなたがたの神、主が、あなたがたの兄弟たちに、先に約束されたとおり、安息を賜わるようになりました。それで、あなたがたは身を返して、主のしもべモーセが、あなたがたに与えたヨルダンの向こう側の所有の地に行き、自分たちの天幕に帰りなさい。』(ヨシュア記22:1-4)

ルベン族、ガド族、マナセの半部族は、イスラエルがまだヨルダン川東側にいて、カナンに攻め入っていなかった時、他の部族に先んじて、ヨルダン川東側に相続地をいち早く得た部族であるが、彼らは他に先んじて相続地を得る代わりに、ある約束を神と人との前でしていた。

ヨルダン川の東側地域をイスラエルが制圧した時、彼らはこの地を自分達に与えて下さい、そしてヨルダン川は渡らせないで下さい、と、モーセに願い出たのだが、その願いは、モーセを怒らせた。
これから他の兄弟姉妹がまだまだ戦おうとしている、というのに、あなた達はこの地を先に得て、そこで安穏とし、他の兄弟姉妹のやる気をくじくつもりなのか、と。(民数記32章)

それで彼らは、約束したのだ。
自分達は、この地を先に得る代わりに、他の兄弟姉妹達が出る戦いに一緒に進み行き、イスラエルの皆が、それぞれの相続地を得るまでは、自分達の所には帰らない、と。(民数記32:16-19)
モーセは、その事を神と人との前で公に約束させ、そしてそれ以降、彼らはその約束に忠実に従い、兄弟姉妹達と共に戦ってきたのだ。

そして今や、イスラエル全部族は、安住の地を得て、彼らの責任は、満了した。
だからヨシュアは彼らに、よくぞ今まで忠実に仕え、約束を守って来た、と、褒めたのだ。

『ただ主のしもべモーセが、あなたがたに命じた戒めと、律法とを慎んで行い、あなたがたの神、主を愛し、そのすべての道に歩み、その命令を守って、主につき従い、心をつくし、精神をつくして、主に仕えなさい」。そしてヨシュアが彼らを祝福して去らせたので、彼らはその天幕に帰った。』(ヨシュア記22:5)
ヨシュアは、彼らを送り出す前に、守るべき御言葉を与え、そして祝福した。
また、実体のあるものも彼らに与えた。

『「あなたがたは多くの貨財と、おびただしい数の家畜と、金、銀、青銅、鉄、および多くの衣服を持って天幕に帰り、敵から獲たぶんどり物を兄弟たちに分けなさい」。こうしてルベンの子孫、ガドの子孫、およびマナセの部族の半ばは、主がモーセによって命じられたように、すでに自分の所有地となっているギレアデの地に行こうと、カナンの地のシロで、イスラエルの人々と別れて帰って行った。』(ヨシュア記22:8-9)

労を負って、一緒によく働いて来た兄弟姉妹は、手ぶらで帰らせるものではない。
申命記にも記されている通りである。
『もしあなたの兄弟であるヘブルの男、またはヘブルの女が、あなたのところに売られてきて、六年仕えたならば、第七年には彼に自由を与えて去らせなければならない。彼に自由を与えて去らせる時は、から手で去らせてはならない。群れと、打ち場と、酒ぶねのうちから取って、惜しみなく彼に与えなければならない。すなわちあなたの神、主があなたを恵まれたように、彼に与えなければならない。』(申命記15:12-14)

もし兄弟姉妹が落ちぶれてしまい、奴隷として身売りするような事になったとしても、それは6年という期限付きであり、しかも、7年が満ちた時には、失業して路頭に迷うような事がなく、しっかりと自分の家庭を築いて、身を立てて行く事ができるように、何も持たせずに出て行かせてはならない、と、主は命じている。
現代日本では、非正規雇用の人達は、一ヶ月やっと暮らせる程の給料のまま、何十年も働かされ、30,40代になっても手に職を持てず、結婚も、マイホームも持てない状態で年老いていくような状況に陥りやすいが、それは、主の御心を大いに反している事であり、主の御怒りを引き起こすものである。

もし私達が、ルベン族やガド族のように、他の兄弟姉妹に先んじて幸いと安定が与えられたなら、それで他の兄弟姉妹を助けなくてはならない。
彼らをほったらかしにするのではなく、彼らが安定するまでは、しっかりと一緒に働き、共に戦うべきである。なぜなら、それは、自分の力で勝ち取ったのではなく、主から「与えられた」からだ。
そして、神と人との前に約束した事は、満了するまではしっかりと実行し続けるべきであり、また、忠実に働いた兄弟姉妹に対しては、祝福の御言葉と、実際的な助けを与えるべきである。
そのような正当な関係こそ、神の民であり、主にある兄弟姉妹である私達に相応しい形である。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
悪者が百度悪事を犯してもなお平気な事がある理由(伝道者の書8:9-17):右クリックで保存

【概要】

神の憐れみと裁きについての説教。悪者が栄えるように見える状況での正しい生き方を教える。

【聖書箇所】

伝道者の書8:9-17

黙示録20:11-15

第二ペテロ3:8-9

【慰めの言葉】

神は一人も滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられます。

【励ましの言葉】

イエス・キリストを信じ、招き入れるならば、そこは天の御国となります。

【戒めの言葉】

地上の人間の行いにばかり目を向けず、信仰の創始者であり完成者であるキリストに目を向けましょう。

【勧めの言葉】

御言葉を守り行い続けることで、人生から茨やアザミが取り除かれ、清められていきます。

【悔い改めの促しの言葉】

悪者が栄えているように見えても、その道に従わず、神の子として光の子どもとして歩みましょう。

【***詳細***】

今日の箇所は伝道者の書8章9節から17節までです。ここでソロモンは、この世で悪者が栄え、正しい者が苦しむという現実を目にして、そのむなしさを語っています。

「悪い行いに対する宣告がすぐ下されないので、人の子らの心は悪を行う思いで満ちている。」(伝道者の書8:11)

この状況は、私たちの周りでも見られることでしょう。しかし、これは地上での一時的な状況に過ぎません。聖書は、最終的な裁きが必ず来ることを教えています。

黙示録20章11-15節には、最後の白い御座の裁きについて記されています。

「また私は死んだ人々が、大きな者も小さな者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは命の書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」(黙示録20:12)

この箇所は、すべての人が最終的に自分の行いに応じて裁かれることを明確に示しています。では、なぜ神は今すぐに悪を裁かないのでしょうか?それは神の憐れみのゆえです。

第二ペテロ3章8-9節にこうあります。

「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」

神は、悪者たちが悔い改めて立ち返る機会を与えておられるのです。これは神の憐れみの表れです。しかし、多くの人々はこの憐れみを誤解し、「神は悪いことをしても許してくれる」と思い、さらに悪を重ねてしまいます。

私たちクリスチャンは、この世の状況に目を奪われるのではなく、イエス・キリストに目を向け続けるべきです。イエスを信じ、御言葉に従うことで、私たちの人生から罪という茨やアザミが取り除かれていきます。

「私は快楽を賛美する。日の下では食べて飲んで楽しむより、ほかに人にとって良いことはない。」(伝道者の書8:15)

ソロモンはここで、人生を楽しむことを勧めています。しかし、私たちクリスチャンにとっての真の喜びは、神との関係の中にあります。イエス・キリストを信じ、御言葉に従う生活こそが、最高の喜びをもたらすのです。

ソロモンは、人間の知恵や努力では神の御業を完全に理解することはできないと結論づけています。しかし、だからといって求めることをやめてはいけません。むしろ、御言葉に従い続け、聖霊の導きを求め続けることが大切です。

【結論】

この世では悪者が栄えているように見えても、最終的な裁きは必ず来ます。しかし、神は憐れみ深く、すべての人が悔い改めることを望んでおられます。私たちは地上の状況に惑わされず、イエス・キリストに目を向け、御言葉に従う生活を送りましょう。そうすることで、私たちの人生は清められ、神の栄光を現す器となるのです。

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