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メッセージ - 出エジプト記カテゴリのエントリ

礼拝説教メッセージ音声:主が命じられた通りに(出エジプト記40:16-38):右クリックで保存

『モーセはそのように行った。すなわち主が彼に命じられたように行った。』(出エジプト記40:16)
出エジプト記の終わりは、主が命じられていた事を民はことごとく忠実に実行し、その結果、主の臨在の雲が幕屋に満ちた事によって締めくくられている。

今回の短い箇所からも、「主がモーセに命じられたとおりである」という表現が8度も出てくるように、出エジプト記の後半は、主が命じられたあの事、この事を、その通りに行った、という表現が続くため、あたかも、同じ内容のコピーペーストを読んでいるような感じで、見ている側としては、つまらないかもしれない。
しかし、主が言われた事を、そのままコピーペーストのように実行する事こそ、主の祝福と、栄光の臨在を招くコツである事を私達は学んだ。

『彼はまたあかしの板をとって箱に納め、さおを箱につけ、贖罪所を箱の上に置き、箱を幕屋に携え入れ、隔ての垂幕をかけて、あかしの箱を隠した。主がモーセに命じられたとおりである。』(出エジプト記40:20-21)
この「あかしの板」は英語では「the testimony」、ヘブライ語では「アイドース」、すなわち「あかし」や「証人」を意味する「アイド」の、女性形である。

律法の石板が、女性形である事は、実に興味深い。
私達はキリストに対しては、男性も女性も、全て「女」の立場である。キリストこそ唯一の主人であり花婿であり、私達教会はその妻、花嫁である。
旧約においては、神のあかしは石板に神の指によって記されたが、新約の今、神のあかしは、私達の「心」に、神の指によって刻み込まれている。
『しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。』(エレミヤ31:33)
『わたしたちの推薦状は、あなたがたなのである。それは、わたしたちの心にしるされていて、すべての人に知られ、かつ読まれている。そして、あなたがたは自分自身が、わたしたちから送られたキリストの手紙であって、墨によらず生ける神の霊によって書かれ、石の板にではなく人の心の板に書かれたものであることを、はっきりとあらわしている。』(2コリント3:2-3)
新約の私達は、神の言葉が心に刻み込まれており、そして、新約の私達自身は聖霊が宿る神の宮であり、幕屋に置かれた一つ一つの祭具のようであり、キリストの花嫁、妻である。
自らをキリストの言葉によって清めるなら、聖なる祭具としてますます聖なる事に用いられる器となって行くのである。

私達が約束の地、安息の地にどうすれば入れるか。それは、日々、主の導き通りに歩んでいく事によって、である。そうするなら、必ず入れる。
『雲が幕屋の上からのぼる時、イスラエルの人々は道に進んだ。彼らはその旅路において常にそうした。』(出エジプト40:36)
この、昼は雲の柱、夜は火の柱によって導かれていく様は、民数記9章のほうに詳しく記されている。

『幕屋を建てた日に、雲は幕屋をおおった。それはすなわち、あかしの幕屋であって、夕には、幕屋の上に、雲は火のように見えて、朝にまで及んだ。常にそうであって、昼は雲がそれをおおい、夜は火のように見えた。雲が幕屋を離れてのぼる時は、イスラエルの人々は、ただちに道に進んだ。また雲がとどまる所に、イスラエルの人々は宿営した。
すなわち、イスラエルの人々は、主の命によって道に進み、主の命によって宿営し、幕屋の上に雲がとどまっている間は、宿営していた。幕屋の上に、日久しく雲のとどまる時は、イスラエルの人々は主の言いつけを守って、道に進まなかった。また幕屋の上に、雲のとどまる日の少ない時もあったが、彼らは、ただ主の命にしたがって宿営し、主の命にしたがって、道に進んだ。また雲は夕から朝まで、とどまることもあったが、朝になって、雲がのぼる時は、彼らは道に進んだ。また昼でも夜でも、雲がのぼる時は、彼らは道に進んだ。
ふつかでも、一か月でも、あるいはそれ以上でも、幕屋の上に、雲がとどまっている間は、イスラエルの人々は宿営していて、道に進まなかったが、それがのぼると道に進んだ。すなわち、彼らは主の命にしたがって宿営し、主の命にしたがって道に進み、モーセによって、主が命じられたとおりに、主の言いつけを守った。』(民数記9:15-23)

この、神の臨在の導きに従って進んだり留まったりする様は、現代この世界を生きる私達が、いかにして主に導かれていくべきかを示している。
主がおられる所なら、いかなる所であろうとも、いかなる働きであろうとも、そこに留まるべきであり、主の臨在がそこから無くなったならば、そこがいかなる所であろうとも、いかなる働きであろうとも、出て行くべきである。
主がおられる所へ私達がついて行くなら、誰でもやがて約束の地、安息の地に入るが、主の導きに反対し、身勝手に進む者は、やがて荒野で屍となって取り残されて行ってしまう。

この出エジプト記の終わりの時点、誰もが約束の地へと入れる可能性があったし、荒野で40年もさまよい歩く理由も、この時点では、無かった。
主の導きに従い、御言葉に従って歩むなら、必ず誰でも安息の地に入れるのだが、しかし、約束の地カナンへは、この世代では僅か二人しか入れなかった。御言葉に従って歩まなかったからである。それは、現代を生きる私達への警告であり、戒めである。

『また幕屋と祭壇の周囲に庭を設け、庭の門にとばりをかけた。このようにしてモーセはその工事を終えた。そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。』(出エジプト記40:33)
出エジプト記は、神の民がエジプトの圧政による奴隷状態であった所に始まり、神の顕現、敵の懲らしめ、奴隷状態からの脱出を経て、荒野での神の戒めの授与、そして、礼拝場所である幕屋が完成し、主の栄光の臨在が満ち溢れた所で終わる。
現代を生きる私達キリスト者も、出エジプトの民のように、はじめはサタンの圧政による奴隷状態であった所に、主イエスが現れ、彼を信じ、御言葉の通りに歩んだ結果、サタンの奴隷状態から脱出でき、礼拝場所である教会へと導かれ、戒め御言葉をいただき、キリスト者の交わりに加えられ、永遠のいのちの約束が与えられた。
そして、誰もが御国という約束の地へと入れる可能性を持っている。

『あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。』(ヘブル12:15-16)

礼拝説教メッセージ音声:幕屋建造の準備完了(出エジプト記40:1-15):右クリックで保存

エジプトを脱出した年が明け、荒野での生活は二年目に突入した。
『主はモーセに言われた。「正月の元日にあなたは会見の天幕なる幕屋を建てなければならない。』(出エジプト記40:1-2)
幕屋を建てるのに必要な部品や祭具類は、全て、前回の箇所までに造り終えているため、あとはそれを用いて組み立てるのみである。

これらの部品や祭具類は、どのくらいの期間で造られたのだろうか。
まず、エジプト脱出したのが、前の年の第一の月で、第三の月にシナイ山に到着し、そこで四十日間、モーセは主と共におり、幕屋建造の命を受け、律法の石板をいただいたが、イスラエルは金の子牛をつくって堕落してしまった。
しかしモーセの執り成しのお陰で、主は再びあかしの板を授けて下さる約束をして下さり、再び四十日を経て後、主からその板が授けられた。
これで半年ほどが既に経過している、という事は、幕屋の部品を集め初めてから建造し終わるまでの工期は、およそ半年間、という事になる。

元々、水も食料も材料も無いような岩砂漠である。
まず、民から必要な材料を募る所から始め、金を約一トン、銀を三トン半ほど、他にも、青銅や宝石類、アカシヤ材や多くの撚り糸、革を集め、それらの金銀を打ったり溶かしたり、木材を加工したり、布製品を織ったり、革製品を加工したり、それら全てを手作業で行なって、大小の精巧な細工の施された祭具を造ったのだから、半年という工期は、驚くべき短さである。
ネヘミヤも、七十年もの間がれきのままで誰も手を付けなかったエルサレムの城壁を、わずか五十二日という早さで再建した。
このように、主から志が与えられ、人々にやる気があるのなら、驚くべきような早さで、驚くべき事業をやってのけるものである。

これら、聖所で用いられる祭具は、それぞれ、私達キリスト者をあらわしている。
私達はキリストのからだの各器官、各部分であり、それぞれが主にあって適材適所に配置される。
そして、働くべき場所にただ配備されただけでは、主の用は為さない。

『注ぎ油をとって、幕屋とその中のすべてのものに注ぎ、それとそのもろもろの器とを聖別しなければならない、こうして、それは聖となるであろう。』(出エジプト記40:9)
私達も、聖霊の油が注がれて、はじめて、主にあって用意の整った状態とされ、大祭司に用いられて、はじめて主のご用を為すのである。

『アロンとその子たちを会見の幕屋の入口に連れてきて、水で彼らを洗い、アロンに聖なる服を着せ、これに油を注いで聖別し、祭司の務をさせなければならない。』(出エジプト記40:12-13)
まことに油注がれた大祭司は、イエスキリストである。(「キリスト」は元々、「油注がれた者」という意味。)

イエス様は、水のバプテスマによって「水の洗い」を受けた時、天から聖霊が鳩のように下ってきて、彼の上に留まり、天から声がした。
「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」(マタイ3:17)
こうしてキリストは、神と人との前で、公に聖霊の油が注がれ、大祭司として任職を受けたのである。

『大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。彼は自分自身、弱さを身に負うているので、無知な迷っている人々を、思いやることができると共に、その弱さのゆえに、民のためだけではなく自分自身のためにも、罪についてささげものをしなければならないのである。
かつ、だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。同様に、キリストもまた、大祭司の栄誉を自分で得たのではなく、/「あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ」/と言われたかたから、お受けになったのである。』(ヘブル5:1-5)

礼拝説教メッセージ音声:命じられたとおりに(出エジプト記39:32-43):右クリックで保存

『こうして会見の天幕なる幕屋の、もろもろの工事が終った。イスラエルの人々はすべて主がモーセに命じられたようにおこなった。』(出エジプト記39:32)
主から命じられていた奉仕を、イスラエルの民は全て守り行い、幕屋の工事はいよいよ終わる。

36章以降、主が山で「このように造りなさい」と命じられた事を、そのまま守り行った事がずっと記されて来たが、それはあたかも、前出した箇所のコピーペーストのような文章で、読み手としては「同じ事が書いてある」と、つまらなく思えたかもしれない。
しかしそこに、私達が学ぶべきとても重要な事柄がある。
それは、「主が命じられた事を、そのまま守り行う」事である。

「人々は、主が命じられた通りに全て行った」という表現は、39章では幾度も見られる。(1,5,7,21,26,29,31,32,42,43節)
主が命じられた事をそのまま守り行う・・・それは、自分で考え出して行動する事が好きな人には、つまらないかもしれない。
しかし、主から命じられた事を、コピーペーストかと思えるまでに正確に守り行う事は、主の御前に立派な行為であり、豊かに祝福を受けるコツである。
逆に言えば、主から命じられた事を自分で考え出した何かで上塗りしてしまう事は、呪いの元である。その典型的な事例が、1サムエル15章のサウル王の箇所である。

サウル王は、あらかじめ主から次のように命じられていた。
「今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ。彼らをゆるすな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも皆、殺せ』」(1サムエル15:3)
しかし彼は、その通り行わず、主の怒りを買ってしまった。
『サウルと民はアガグをゆるし、また羊と牛の最も良いもの、肥えたものならびに小羊と、すべての良いものを残し、それらを滅ぼし尽すことを好まず、ただ値うちのない、つまらない物を滅ぼし尽した。・・・「わたしはサウルを王としたことを悔いる。彼がそむいて、わたしに従わず、わたしの言葉を行わなかったからである」。サムエルは怒って、夜通し、主に呼ばわった。』(1サムエル15:9-11)

サウルとしては、主の命令を実行したつもりだったようだが、そうではなく、かえって主を怒らせていた。
私達も、主の命令どおりに実行した「つもり」になっていても、実は、主を怒らせている時があり、その時、表層意識には出なくとも、なんとなく主に対して「うしろめたさ」があるもので、わざわざ「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。」とオーバーに言ってみたり(13節)、「いいわけ」という形になって表層に出てくるものである。(19-21節)

『サムエルは言った、/「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、/主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。』(1サムエル15:22-23)

サウル王が主の御声に聞き従わなかったのは、主から滅ぼすように命じられたものを「惜しみ」、そうする事を「好まなかった」からである。(同9節)
主の言葉を、自分の「好み」「好まざる」で、聞き従わない事。それは、引きずり降ろされてしまう元である。
主が私達に求められておられる事、それは、御言葉をより好みしたり、加えたり減らしたりせず、出エジプトの民のように、主から命じられたままを、違わず守り行う事なのだ。

『イスラエルの人々は、すべて主がモーセに命じられたように、そのすべての工事をした。モーセがそのすべての工事を見ると、彼らは主が命じられたとおりに、それをなしとげていたので、モーセは彼らを祝福した。』(出エジプト記39:42-43)

主の言葉を違わずに全て行った時、私達も祝福を得るのである。

礼拝説教メッセージ音声:キリストをあらわす祭司服(出エジプト記39:1-31):右クリックで保存

今回の箇所は、祭司が身に帯びるものや、祭司が聖所で務めをする式服などについて、主が28章で命じられていた事を、その通りに実行した事の報告である。
大祭司が着る式服や、身に帯びるものは、全て、天の性質、神の栄光をあらわしており、また、頭の上から足に至るまで、人々を執り成すもので構成されている。

大祭司が身に付けるエポデ(2-5節)は、青、紫、緋色の撚り糸に加え、金の糸でも織り込まれ、天(青)、王(紫)、血(緋色)、そして、神の性質(金)を帯びているわけである。
これらは、キリストのご性質をあらわしている。キリストは、天にましますお方、王なるお方、血潮によって人類を清めたお方であり、人であると同時に、神であられる。

エポデにつける肩当て(6-7節)には、イスラエルを記念する石があり、大祭司が肩当てを身に付ける時、イスラエルの民は、大祭司の肩に担がれているわけである。
それは羊飼いなるキリストをあらわしており、まことの羊飼いである主は、私達が迷い出た時、探しだして私達を見つけ、肩にかついで、緑の牧場へと連れ戻して下さる。

胸当て(8-14節)には、イスラエルの名による12種類の石があり、金の環と青ひもによってずり落ちないようしっかりと結び付けられ(15-21節)ている。
胸は心の座であり、大祭司がそれを胸に置く事によって、彼はイスラエルを心に覚えつつ、執り成しの務めを為すのである。
キリストは天において、いつも私達を覚えつつ執り成しておられる。

エポデの下に着る青服(22-26節)のすそには、鈴がついており、大祭司が聖所で務めをする時、イスラエルのは外でその音を聞きつつ、大祭司の執り成しを覚えるのである。
27-29節には、アロンの子達(普通の祭司)のシンプルな祭服が造られている様が書いてあり、キリストにあって祭司とされた私達は、自らを派手に飾るのではなく、大祭司キリストにシンプルに仕えるべき事が示されている。

聖別の記章の札(30-31節)は、頭のかぶりものに青ひもで結び付けられている。
この記章は、聖別された者である事を表示するとともに、思いの座である頭につけられ、民はいつも大祭司に覚えられ執り成されている事をあらわしている。

このように、大祭司がその身に帯びるものは、いたる所に神の栄光や民を執り成すシンボルで満ちており、それらは大祭司であるキリストのご性質をよくあらわしている。

『さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。』(ヘブル4:14-16)
イエス様こそ、もろもろの天を通って行かれた大祭司である。
彼は、人となって来られた故に、私達の弱さを知っておられ、いつも、弱い私達を、思いの内で執り成し、心の内で執り成していて下さる。
このまことの大祭司に執り成されたからこそ、私達は大胆に恵みの御座に近づき、おりにかなった助けを得る事ができるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:金銀の捧げ物(出エジプト記38:21-31):右クリックで保存

今回の箇所では、幕屋の祭具を制作する全ての奉仕をベツァルエルが成した事の報告で、用いられた金や銀、青銅の総分量が記録されている。

『ユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレル(ベツァルエル)は、主がモーセに命じられた事をことごとくした。』(出エジプト記38:22)
彼は、主がモーセに命じられた事の、それ以上も、以下も、しなかった。
主から示された幕屋の庭は、とても質素な仕様だったが、それではあまりに質素過ぎてイスラエルの主の栄光にそぐわないだろう、などと、勝手に庭に築山を築いたり、鹿おどしを配置したり、といった、余計なものは造らなかった。
主が命じられた事が、あまりに拍子抜けだったりすると、人は何かとそれに手を加えたがるものだが、主に尊く用いられる人は、主が命じられた以上も、以下も、しないものである。

『聖所のもろもろの工作に用いたすべての金、すなわち、ささげ物なる金は聖所のシケルで、二十九タラント七百三十シケルであった。』(出エジプト記38:24)
聖徒達全体から、喜んで進んで捧げられた金の総重量は、およそ一トン。これだけの分量が、民の内から捧げられた。

ここで不思議なのは、民は自ら進んで、任意に捧げたのに、後になって計ってみれば、神の宮の用が足りる分に正確に足りていた、という事である。
普通なら、設計する段階で、これだけの物を制作するなら金はどれだけの分量が必要であるかを見積もり、計算し、イスラエルの人口ひとりに対して、いくらいくらの金を徴収する必要がある、などと、国家事業であるなら、そのような計画を立てる所だが、この神の国の奉仕には、そのような計算は一切無く、実際に必要を十分満たすだけの捧げ物が捧げられたのだ。

この金や貴金属類、宝石類は、元々は民のものであり、それらの元々は、エジプトから分捕ったものである。
世の全てのもの、および、全ての人々は、元々は主のものであるのに、サタンは不法にそれらを占拠し、我が物としてしまっている。それ故、私達神の民は、サタンの元から囚われたたましいを分捕り返し、サタンの不法占拠状態の富も分捕り返し、それらを携え、神の国へと凱旋する者達である。

『会衆のうちの数えられた者のささげた銀は聖所のシケルで、百タラント千七百七十五シケルであった。これはひとり当り一ベカ、すなわち聖所のシケルの半シケル(5.7グラム)であって、すべて二十歳以上で数えられた者が六十万三千五百五十人であったからである。』(出エジプト記38:25-26)

金や青銅は、民が自ら進んで捧げる捧げ物であったが、銀に関しては、自由に自ら進んで捧げる捧げ物の他、イスラエルの成人男性全てから、ひとりあたま半シェケルを強制的に徴収している。
それは、彼らの命のあがないのためであり、幕屋の用に当てられ、イスラエルの人々の記念となるためである。(出エジプト記30:12-16)

彼らの大部分は、不信仰の故に荒野で滅ぼされてしまったが、彼らが主に対して、どのような心持ちであったとしても、一人あたま5.7グラムの銀を捧げたその捧げものが、代々、幕屋の聖所の土台として使われ続けたわけである。
いかなる心であったとしても、神の国のために捧げる事は、永遠の務めに参加する事である。

この、一人あたま銀半シェケル、という税額は、イエス様の時代も続いていた。
『宮の納入金を集める人たちがペテロのところにきて言った、「あなたがたの先生は宮の納入金を納めないのか」。ペテロは「納めておられます」と言った。そして彼が家にはいると、イエスから先に話しかけて言われた、「シモン、あなたはどう思うか。この世の王たちは税や貢をだれから取るのか。自分の子からか、それとも、ほかの人たちからか」。ペテロが「ほかの人たちからです」と答えると、イエスは言われた、「それでは、子は納めなくてもよいわけである。
しかし、彼らをつまずかせないために、海に行って、つり針をたれなさい。そして最初につれた魚をとって、その口をあけると、銀貨一枚が見つかるであろう。それをとり出して、わたしとあなたのために納めなさい」。』(マタイ17:24-27)

イエス様は神の子であり、神の宮の主である。
それ故、天の王子であるイエス様も、そして私達も、本来、税を徴収されるように神の宮に払う事はしなくて良いはずであるが、しかし、彼等につまづきを与えない為にと、主はその銀を、魚の口に備えてくださり、「わたしとあなたのために」納めなさい、と指示して下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:自分の飾りを脱ぎ捨てて(出エジプト記38:1-20):右クリックで保存

今回の箇所は、主が27章にて幕屋の庭の敷地内にて用いられる祭具を造るよう命令された、その内容とほぼ一致している。
27章では「**としなければならない」という命令だったのに対し、ここ38章では、「**とした」と、主が命じられた通りに実行した事が、書かれてある。
この、幕屋の外庭にて用いられる特別な祭具も、主から特別に知恵が注がれた人・ベツァルエルの手を通して造られた。

『また庭を造った。その南側のために百キュビトの亜麻の撚糸の庭のあげばりを設けた。』(出エジプト記38:9)
「庭と造った」と言っても、庭園のようなものではなく、単に、庭の敷地を幕で区切っただけの質素なものである。

『またアカシヤ材で燔祭の祭壇を造った。長さ五キュビト、幅五キュビトの四角で、高さは三キュビトである。』(出エジプト記38:1)
祭壇は、民がこの幕屋の庭に入って最初に面する所で、民はそこで、焼き尽くすいけにえを、祭司を通して主に捧げる。
人はまず、自我が焼き尽くされ煙とならなければ、主の聖なる領域へは入れない。

『また洗盤と、その台を青銅で造った。すなわち会見の幕屋の入口で務をなす女たちの鏡をもって造った。』(出エジプト記38:8)
青銅の洗盤は、祭司が務めを為す前に、その身を水で清めるために用いるが、これは幕屋の入口で仕える女たちの鏡をもって造られた、というのは興味深い。

鏡は、女たちが自分を写し出し、自分を美しく整えるための道具だが、彼女たちはそれを主に捧げ、祭司の身を整えるためのものとしたのだ。
幕屋の入り口で仕える彼女たちは、鏡を捧げた事で、もう自分の身繕いが出来なくなって、外見を美しく飾れないのでは、と思うだろうか。
しかし、彼女たちこそ、鏡を捧げなかった誰よりも、主の御前で尊く美しいのだ。
『あなたがたは、髪を編み、金の飾りをつけ、服装をととのえるような外面の飾りではなく、かくれた内なる人、柔和で、しとやかな霊という朽ちることのない飾りを、身につけるべきである。これこそ、神のみまえに、きわめて尊いものである。』(1ペテロ3:3-4)

女性達に限らず、私達も、自分の外見や見栄を飾るものではなく、柔和でしとやかな霊という、決して朽ちることのない内面を飾りとし、主の御前に美しく整えられ、主の御そば近くで仕えるものでありたい。
主の宮にある祭壇や燭台、香壇や契約の箱などの尊い祭具は、人々のアクセサリーや布製品、女性の使う鏡など、全て人々の捧げ物によって造り出され、それが何世代にも渡って主の御用を成したのである。
私達も、自分の何かを主に捧げるのであれば、それは主の御前で永遠に残る記念となるのである。

礼拝説教メッセージ音声:尊い事に用いられる奉仕者(出エジプト記37:1-29):右クリックで保存

今回の箇所は、聖所や至聖所にて用いられる祭具を造るよう25章にて命令された内容とほぼ一致しており、25章では「**としなければならない」という命令だったのが、ここ37章では、「**とした」と、主が命じられた通りに実行した事が書かれてある。
前章の幕屋の幕や土台などは、主が知恵を授けられた、心に知恵のある者たちが造ったが、この、聖所や至聖所に安置される特別な祭具は、特別に知恵が注がれた人・ベツァルエルが直接造った。

契約の箱など祭具の内で最も聖なるものが、ベツァルエルという人によって造られた、というのは、クリスチャンの中では、あまり知られていないかもしれない。
そうした聖なるものは、人の手によるもの、というより、神の手によって造られた感じがするからだ。
実際、それを造られたのは神である。
確かにベツァルエルの手によって造られたが、それをデザインし、人の頭にイメージさせ、それを造るための手のわざをも与えられたのは、神であり、それを聖なるものとされたのも、神であるからだ。
それ故、神の国のわざを為す時は、ベツァルエルなど個人の栄光ではなく、神の栄光となるものである。

いつまでも残る永遠のわざ。それは、イエスキリストにあって為すわざである。
ベツァルエルは特別なことに用いられたように、聖徒達の中にも、ある人は尊いことに用いられ、別の人はそうでない事が、確かにある。

『大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり、そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる。もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり、すべての良いわざに間に合うようになる。』(2テモテ2:20)

私達も主にあって良い事に用いられたいのであるなら、自ら内から卑しいものを取り除き、きよめられた器となるべきである。
特に私達の内から取り除くべきは、俗悪なむだ話であるとパウロはこの箇所で言っている。

『あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。俗悪なむだ話を避けなさい。それによって人々は、ますます不信心に落ちていき、彼らの言葉は、がんのように腐れひろがるであろう。その中にはヒメナオとピレトとがいる。彼らは真理からはずれ、復活はすでに済んでしまったと言い、そして、ある人々の信仰をくつがえしている。
しかし、神のゆるがない土台はすえられていて、それに次の句が証印として、しるされている。「主は自分の者たちを知る」。また「主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ」。』(2テモテ2:15-19)

ここで言われているとおり、真理の御言葉を正しく教え、恥じるところのない錬達した働き人となって、自分を神にささげるのであれば、私達も尊い事に用いられる器とされ、さらに主にあって有用な者へと造り変えられて行くのである。。
口から俗悪な無駄話を取り除き、むしろ口からは真理の御言葉を正しく語り、ますます尊い事に用いられる器となっていく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:主が与えられる匠の技(出エジプト記36:8-38):右クリックで保存

今回の箇所は、内容的には26章の幕屋建造命令とほぼ一致している。
ただ、26章では「**としなければならない」という命令だったのに対し、ここ36章では、「**とした」と、主が命じられた通り一つ一つを実施した事が書かれてある。

私達は、26章のような設計書的な、仕様書的な文書を示されても、あまりピンと来ない。
たとえば、『あなたはまた十枚の幕をもって幕屋を造らなければならない。すなわち亜麻の撚糸、青糸、紫糸、緋糸で幕を作り、巧みなわざをもって、それにケルビムを織り出さなければならない。』(出エジプト記26:1)と言われても、ケルビムなど見たことは無いし、単に人のような形をうっすら表現すれば良いのか、それとも誰かをモデルにして表情まで細かに表現すべきか等、もう少し具体的に図解して頂かないと、一つも作業が進められない、と思うものだが、しかしこの工匠たちは、それだけで理解し、主からの知恵とイメージが与えられ、御心の通りに実際に造ったのだ。

主から示しが与えられるとは、そのような事である。
ある人達にとっては、さっぱりイメージが沸かない事でも、主が名指しされた働き人には、ありありとイメージが浮かび、しかも、喜びとやりがいを持って、その通りに実行するものである。
それは意匠に限らず、聖書のメッセージや賛美リード、集会の導きなど、主の導きに忠実に従ってリードする人は、人間業ではあり得ないような、素晴らしい働きを、やりがいと喜びを持って為すのだ。
それは人間の働きではなく、主の働きだからである。

主は、ある人にはこの賜物、ある人には別の賜物を与えられ、それぞれは違った働きをしていくが、それらを与えられたのは、同じ主であり、同じキリストのからだを建て上げるために、それぞれ与えられたのである。(エペソ4:11-16)
主の導きは、時に、人の思いを遥かに超えて、思いもよらぬ方向に導く事があるが、そのような時、主は必ず、どのようにすれば良いのかを教えて下さる。
『あなたがたは聖なる者に油を注がれているので、あなたがたすべてが、そのことを知っている。・・・あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。』(1ヨハネ 2:20,27)

ここで言われている油はクリスマ、注ぐ油ではなく軟膏のような塗り油である。
この、私達に留まっている聖霊の油が、私達に全ての事を教えて下さるのである。

普通の人には、さっぱりイメージが沸かない事を、主は「せよ」と言われる事があったとしても、主がそう言われたからには、必ず、必要な資材も、資金も、職人も、知恵も、力も、全て備えて下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:神の国の奉仕者(出エジプト記35:30-36:7):右クリックで保存

『モーセはイスラエルの人々に言った、「見よ、主はユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルを名ざして召し、彼に神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせ、また人を教えうる力を、彼の心に授けられた。彼とダンの部族に属するアヒサマクの子アホリアブとが、それである。』(出エジプト記35:30-34)

神はこの二人に、匠の技と知恵、人を教える力とを授けられた。
それは、神を礼拝する聖なる建物「幕屋」を建て上げ、礼拝に必要な祭具を造るためである。

現代、神が一人ひとりに異なった賜物(神から与えられた特別な才能)を与えられる理由は、聖なる神の建物、すなわち、教会というキリストのからだを建て上げるためである。
『わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。』(2コリント12:3-5)
それ故、ことさら人をある分野に長じさせ賜物を与えられるのは、その人を活躍させたり有名にさせたり気持よくさせるためではなく、キリストのからだを建て上げるためである。

例えば、世のミュージシャンは、いかに自分に注目が集めるか、いかにステージで目立つ所に長くいられるか、いかに自分が活躍して有名になるかを目指すもので、ステージの中央から外されたり、他の人が活躍したりし出すと、傷ついたり、怒ったりする。それは、自分の栄光のために行なっているからだ。

しかし、神を褒め讃える賛美の奉仕者は、そうであってはならない。なぜなら、賛美の奉仕は本来、主イエスの栄光のために行うものであるからだ。
自分がステージの中央にいようがいまいが関係無く、ただ主の御名が高められる事を喜ぶものであり、むしろ、主よりも自分に注目が集まったり、主の御名よりも自分の名が高められたりしたら、嫌がるのが、本来の神の国の奉仕者だからだ。(使徒14:8-15、黙示録22:9)

神の国の奉仕者がおごり高ぶり、神に栄光を捧げる事をやめて自分に栄光を捧げるようであれば、そこから引きずり降ろされ、泣いて歯ぎしりする事になる。
サタンは元々、神を褒め讃える音楽奉仕者だったが、自分が高ぶろうとし、ステージの中央に陣取って栄光を受けようとしたために、投げ落とされてしまった。(エゼキエル28:12-19、イザヤ14:12-15)
人々の注目を集めるタイプの奉仕者はことさら、サタンの道に陥らぬよう気をつけるべきである。

イスラエルの民は捧げたいという思いが突き動かされ、神の国の用に有り余るほどの捧げ物を喜んで持ってきたため、モーセをして「もう持って来なくても良い」と言わしめるほどだった。(出エジプト記36:3-7)
神の国の奉仕者は、「自分のため」という概念が無い。自分が何かを得る事ではなく、キリストのからだ全体が栄える事を喜びとするからであり、そして主は、そのように心から進んで捧げる人には、さらに豊かな恵みを与え、満ち足らせ、さらに全ての良きわざにおいて、富ませて下さるお方である。(2コリント9:8-9)
そうして捧げる事の喜びに味をしめた人は、ますます豊かにされ、ますます喜んで捧げるようになって行くのである。

礼拝説教メッセージ音声:自ら進んで捧げる奉仕(出エジプト記35:1-29):右クリックで保存

前回までは、主から「礼拝をこうしなさい」という、言葉による示しのみだったが、今回の箇所から、イスラエルはその礼拝の中心である幕屋建造の行動に入るが、それにあたり、主は再び、安息日の尊守を命じられた。(出エジプト記35:1-3)
主の働きにおいては、「主を覚えて安息する事」を、何より優先させなければならない。
奉仕にばかり気を取られて忙しくし、肝心の礼拝は寝てしまったり体調を崩したり、といった本末転倒を演じる人がいるが、奉仕の内に、しっかり主を覚え、安息する事こそ大事である。

『あなたがたの持ち物のうちから、主にささげる物を取りなさい。すべて、心から喜んでする者は、主にささげる物を持ってきなさい。』(出エジプト記35:5)
4節から9節では、幕屋建造において必要な資材を、心から進んで捧げる人から受け取るように、言われている。
捧げる時に大事な事は、「心から喜んで捧げる」事である。

『すべてあなたがたのうち、心に知恵ある者はきて、主の命じられたものをみな造りなさい。』(出エジプト記35:10)
幕屋の祭具や装飾を造るためには、特に知恵や技術が必要であり、10節から19節では、知恵や技術を捧げる事が勧められている。
礼拝においても、特別な知恵や技術が、主から賜物として与えられている人は、それぞれが力量に応じて主に捧げ、与えられているものを主のために用いるべきである。
パイロットの資質も訓練もしない者が、飛行機を操縦したら、大変な事になるのは容易に想像できるが、主にささげる礼拝の事柄は、飛行機の操縦よりも重要である。
知恵や技術を主から与えられられていない者が、身勝手にしゃしゃり出てはならないのだ。

『すべて心に感じた者、すべて心から喜んでする者は、会見の幕屋の作業と、そのもろもろの奉仕と、聖なる服とのために、主にささげる物を携えてきた。』(出エジプト記35:21)
ここは直訳的には「心が沸き立たされた人、霊(主の息吹)が促された人」が、作業や奉仕に携わり、捧げ物を持ってきた、という事である。
すなわち、心が感動し、喜んで「したい」という思いが与えられた人、また、霊において「せざるを得ない」衝動が湧いてきて、突き動かされた人が、奉仕を為したのである。

『すなわち、すべて心から喜んでする男女は、鼻輪、耳輪、指輪、首飾り、およびすべての金の飾りを携えてきた。すべて金のささげ物を主にささげる者はそのようにした。』(出エジプト記35:22)
ここで「男女」という言葉が使われているが、幕屋建造においては、男性ばかりでなく女性も、主への奉仕や、捧げ物、技術提供に参加し、特に、布や革製品を紡ぐ奉仕には、女性が活躍した。(25−26節)

アロンはかつて金の子牛を造る時、「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」と言って、それぞれの家庭の中から金を徴収したが、偶像をまつる異教徒は、必ずと言っていい程、家族の財産を持ち寄るよう強要し、家庭を犠牲にする。
主への奉仕は、それとは真逆であり、感謝と喜びに溢れて心から進んで為すもの、主もまた、そのように捧げた人を豊かに祝福して下さる。

主は、進んで捧げる人には、豊かに報いて下さる事を、第二コリント9章にて、パウロが示している。
『わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである。』(2コリント9:6-7)
そして、心から進んで捧げた人にはさらに豊かに恵みを与え、満ち足らせ、さらに全ての良きわざに富ませて下さるお方である。(同8-9節)

『種まく人に種と食べるためのパンとを備えて下さるかたは、あなたがたにも種を備え、それをふやし、そしてあなたがたの義の実を増して下さるのである。こうして、あなたがたはすべてのことに豊かになって、惜しみなく施し、その施しはわたしたちの手によって行われ、神に感謝するに至るのである。なぜなら、この援助の働きは、聖徒たちの欠乏を補うだけではなく、神に対する多くの感謝によってますます豊かになるからである。』(同10-12節)

永遠なる主に、喜んで奉仕し、捧げる人を、主は、あらゆる点で豊かにし、さらに惜しみなく与えるようにして下さり、そこからさらなる感謝が生み出され、そうして、聖徒全体の必要を主は満たし、余らせるのである。

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