メッセージ - 201105のエントリ
礼拝説教メッセージ音声:誰を夫とするか(ヨハネ4:3-42)
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ある女がサマリヤという町に住んでいた。
彼女は、自分の事をずっと変わらず愛し、いつでも守ってくれる男性と結婚さえすれば、自分の内側にある渇きを癒す事ができる、と、ささやかな夢を見つつ結婚した。
しかし結婚生活は彼女が夢見ていたようなものではなく、渇きはますますひどくなり、離婚する事となった。
すぐに別の男と結婚する事が出来たが、これまたうまく行かず、離婚する事となってしまった。
同じようにまた別の男と結婚し、うまく行かず離婚し、そうして5回も結婚と離婚を繰り返したものの、どの男も彼女のささやかな夢を満たす事は無く、6人目の男と同棲を始めた所であった。
人は、外見や自分の好みという計りによって物事を判断するなら、必ず失敗するものであり、また類は友を呼ぶもので、自分が失敗したのと似た境遇の者同士が惹かれ合ってしまう。
彼女は決して人前で堂々とできるような年月を過ごして来なかったため、人が出歩かないような昼の熱い時間を選んで、井戸まで行って水を汲み、汗しながら同棲相手のために運ぶ仕事が日課となってしまった。
人は、ささやかな夢を見る。「自分の事をずっと変わらず愛し、いつでも守ってくれる」者の存在を。
しかし、そんなささやかな夢さえ叶えてくれる人間は、実は地上にはいない。
人間関係とは都合が悪くなればすぐ壊れてしまうもので、そのはかない人間関係がひしめく世界の狭間で、ある者はそれを知らず奔放に出て行き取り返しの無い傷を負い、ある者は関係が壊れる事を恐れながら細々と生き、ある者は早々と諦め、関係を自分に有利な方向に利用し、騙し続けながら生きていく。
そもそも人の命には限りがあるため、ずっと愛し守る事は出来ないし、体はひとつしか無いため、四六時中いつでも付きっ切りで傍にいる事も不可能である。
サマリヤの女は期待する事に疲れ切り、心にますます渇きを覚えつつ日々を送っていた。
そんなある日、一人の男が彼女を待っていた。 毎日汗を流して往復していた、あの井戸の傍で。
その男こそ、今も生きておられる私達の救い主、イエスキリストである。
彼は、永遠の命へと至る水がわき出る「生ける水」を与えると言われたが、彼女は、もう井戸に汲みに来なくて良いように、すなわち、暑い思いや恥ずかしい思いをしないために、その水を求めた。(13-15節)
イエスの提供する水は、私達が罪の故に蒔いた実である苦々しい炎熱を、ほんの少し和らげるような程度のものではなく、炎熱の原因である罪を抜本から除き去り、愚かな判断の実である失敗さえも最善へと塗り替え、永遠のいのちへと導いて下さるお方である。
主イエスにある者は、男も女も皆等しく、イエスの「花嫁」であり、イエスは私達の夫である。(黙示録21章)
サマリヤの女は、7番目のまことの夫であるイエスを得、どんな人も叶える事の出来なかった彼女の夢を叶えられ、内側にあったどうしようもない空白を、テトリスのように気持ちよく合致して、渇きも消された。
以前の愚かな失敗も、むしろイエスを証するネタとして栄光の道具へと塗り替えられた。(28-30,39-42節)
私たちにも、彼によってしか潤されることの無い渇きがある。家庭や日常の職場、学校といった、私達の井戸のそばでイエスは待っておられ、そして、彼に潤して頂く事を、イエスは望んでおられる。
イエスを主とする者は、もはや不足は無くなり、再建して下さる主に愛され、喜びとされる者である。
「あなたは再び「捨てられた女」と呼ばれることなく/あなたの土地は再び「荒廃」と呼ばれることはない。あなたは「望まれるもの」と呼ばれ/あなたの土地は「夫を持つもの」と呼ばれる。主があなたを望まれ/あなたの土地は夫を得るからである。
若者がおとめをめとるように/あなたを再建される方があなたをめとり/花婿が花嫁を喜びとするように/あなたの神はあなたを喜びとされる。」(イザヤ62:4,5)
渇きが癒され、得るべきものを得、収まるべき所に収まったサマリヤの女のように、愛され、育まれ、建て直され、満たされる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
新潟から帰ってきました!
昨晩は疲れがたまっていたのか微熱が出ましたが、徹夜祈祷会で賛美したり祈ったり、会の後に兄弟姉妹と食べたり笑ったりするうちに体調が回復し、寝て起きたらすっかり元気になりました。
今も教会で寝泊りした兄弟姉妹とファミレスで交わりつつ日常を楽しんでいましたが、、、
教会の電話が鳴り、ある方がかなり切迫した状況でしたので、その方の所へ訪問しました。
その後、以前退院した方が再び容態が悪化し、私達が新潟へ行っている間に再入院いていたため、その方のお見舞いに行き、
そして最初の方と共に食事を取って、今帰ってきました。
主は全ての人、全ての状況において力と守りを与えてくださるお方です。
今日出会った全ての方々の守りを祈りつつ。
新潟グローリーチャペルでの3日間の聖会音声を配信します。
この聖会のテーマは「神と人との間に立つ」で、今の日本に対して、また、それぞれ置かれている場において、神と人との間に立つ祭司としての勤めを果たすための、呼びかけのメッセージをしました。
1日目(民数記16:1-35)
2日目(民数記16:41-50)
3日目(ダニエル5章)
礼拝説教メッセージ音声:その方向で大丈夫?(ヘブル6:4-12):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に”堕落(パラピプトー)”した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。」(ヘブル6:4-6新共同訳)
この箇所の「堕落」を狭義に捉え、救われた後にちょっとでも罪を犯してしまったら悔い改めの余地なく決して赦されない、と誤解する者もいるが、そういう意味では無く、むしろここは「歩む道の方向性」の問題を言っている。
日本語聖書の主要3訳はいずれも”パラピプトー”を「堕落する」と訳しているが、「パラピプトー」とは「脇にそれる」「脇に落ちる」「自ら教えを捨てる」というのが本来の意味である。
せっかく主の憐れみが示されて自分中心の道からイエス中心の道へと悔い改め(メタノイア:人生の方向転換)したのに、なお自分中心の道へと”脇にそれて”しまう者は、悔い改めを自らの意思で捨てているわけであるから、悔い改めの余地は無い、と、当然の事を言っているだけである。
人生の方向性を、再び自分中心にサタン中心へと敢えて向けてしまう者は、イエスを再び十字架にかけて辱める者である。
イエス様が十字架にかかり、血を流し、肉を引き裂かれたのは、私達が永遠の命を得るため、罪が赦されるためだ。
そこまで自らを捧げられたイエス様を、どうしてないがしろにする事が出来るだろう。
7節「地が自分の上にたびたび降って来る雨を吸い込み、自分を耕している人々のために有益な植物を産み出していれば、神からの祝福に与るが、茨やあざみをもたらし続けるなら、その地は無益なもので呪いに近づいており、その終りには焼かれてしまうことになる。」
ここで土地とは「自分」すなわち私達であり、土地を耕す者とは神である。
土地と実の主役は神であり、決して私達ではない。
土地の存在意義は、耕す者すなわち神に有益な実を実らせる事である。
主の恵みは良い者にも悪い者の上にも日々降り注いでいる。
もし私達が良い産物を実らせるのであれば、祝福をいただく事が出来るが、茨やアザミとのような、とげとげしい、苦々しいものばかり生み出すのであれば、呪いに向かって進んでおり、終わりには、永遠に焼かれてしまう。
耕される時は鍬が入れられ、痛いこともあるが、それによって良い実を豊かに実を結ばせるようになる。
私達は主のためにあらゆる良き実を結ばせる者でありたい。
9節「このように語ってはいても、愛する人々よ、私たちはあなたがたについて、もっとよいこと、救いに関わることがあると確信している。」
パウロはヘブル人にまず厳しい事を語った。それは「愛する人々」に滅んで欲しくないからであり、より良い者になって欲しいからである。
確かに神は、いつまでも愛を持って忍耐されている。しかし、敢えていのちの道から逸れてしまなら、その終わりは滅びである。
私達は主イエス様に向かって歩んでいるのであれば、ますます熱心に同じ道を歩んで行きたい。
もし世やサタンのほうに向きを変えつつあるのであれば、この恵みの時、猶予の時が与えられている今のうちに、イエス様に向きを変えなくてはならない。
ただイエスを見つめつつ歩んでいく皆さんでありますように。イエス様の名によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:恵みに留まる者と罵る者(使徒13:42-52):右クリックで保存
韓国語通訳有 한국어예배
パウロはメッセージを語り終えると、人々はなお残って話は尽きなかった。
主にある兄弟姉妹との別れが名残惜しくて、どこまでも見送り見送られたという経験は、皆さんにもあるだろう。
「二人は彼らと語り合い、神の恵みに留まっているようにと勧めた。」(43節)
救われる者達にとって、聖徒同士の交わりは楽しく、いつまでも尽きないものだが、別れ際は、名残惜しさだけでなく心配も湧いてくるものである。
パウロは色々な地方、色々な人々に「神の恵みに留まっているように」勧め、そして後に多くの手紙を書いたが、ある教会には、成長して恵みが増し加わった事への賞賛の手紙を書き、別の教会には、2度行ってもなお罪を犯し続けるなら3度目に行った時は容赦しないと叱責した手紙もある。
どの伝道者も働き人も、福音が蒔かれた聖徒達に、恵みに留まり続けなさいと言うその願いは切実であるが、残念ながら、恵みに留まらない者も出てくる。
さて、その次の安息日には、ほとんど町中が集まってパウロたちの話を聞きに来た。(44節)
前回来た人達が、普段来ない人達を誘って来たのだが、残念な事に、嫉妬に駆られたユダヤ人達、それも、真っ先に福音に与るべき彼らが、罵りながら邪魔をした。
「このよそ者は俺達より人気を集めてしまった」「俺達の立場はどうなるのか」といった、けちな自己満足を満たすために、聖なる福音を邪魔するのは、憤りを覚える事である。
「ところが、ユダヤ人たちは神を敬う貴婦人たちや町の有力者たちを扇動して、パウロとバルナバに対する迫害を起こし、二人をこの地方から追い出した。」(50節)
滅びが定められている者達のする事は、古今東西同じで、陰で動き回って根回しし、有力者や有名人を唆して味方につけ、神の立てた権威に反抗する。
そしてひとたび彼らが攻め立てると、群集の側からは、神の立てた権威さえも弱くていじめ放題のうっぷん晴らしキャラに見えてしまう。
モーセやアロンも、パウロも、そして、イエスがそうだったように。
しかし、そのように逆らう者達の側につく群衆の最後は、モーセの時代もイエスの時代も、実に悲惨なものであった。
世から流れてくる群集心理に扇動される事無く、いのちの御言葉に留まり続け、神の立てた権威すなわちイエスに留まり続ける皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:神の立てた権威に逆らう者(民数記16章)
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現代のキリスト教界では、人々に取り入ろうと福音に混ぜ物をし、救いに通じる道はいろいろあるとか、どんな宗教でも信仰深く生活してれば神に通じる等、御言葉とは違う風潮を流すようになり、全ての宗教を一つにまとめようとする時代の流れを感じる。
主イエスは明確に、御言葉に付け加える者があれば、神は書いてある災いをその者に加えられ、また、取り去る者があれば、その者が受ける分を取り除かれる(黙示録22:18)と言われている。
かつてエジプトから約束の地に向かう途中にも、神の立てた指導者に逆らった者がいた。(民数記16章)
イツハルの子コラは幕屋の奉仕を受け持つレビ族であったが、その地位を不服としていた。
また、エリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンは、イスラエルの長子ルベンの子孫だったため、会衆の上に立っていたレビ族のモーセとアロンが面白くなかった。
彼らは会衆の上に立つ名士250人を仲間につけ、モーセに立ち向かった。
逆らう者の特徴としては、裏で動き回り、耳障りの良い言葉で有名人や権威ある者達を仲間につけ、神が立てた権威であるモーセと、神によって油注がれた大祭司アロンに反抗して立つ事である。
彼らの言い分は「あなたがたは分を越えている」「全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられる」(3節)であるが、現代でも似た言葉を良く聞く。
キリストだけが救いに至るなどと言うのは傲慢である、キリストだけが救い主などとは分を超えている、人間皆残らず尊い者であって、神の性質を備えている、救いは色々あるべきだ、等など。
しかし御言葉が示す所は、神が立てた救い主とはイエスキリストであり、唯一彼を通してのみ救いに至る事が出来る。この福音には決して付け足してはならず、差し引いてもならない。
彼らは一見、全民衆の公平な権利を主張しているため民衆の耳に良く、主だった者達250人が支持しているため見た目も正しく見え、それらをバックに集団心理を操作するだけの威力も十分にあった。(19節)
民衆にはコラ達に分があったように見えたかもしれないが、主の栄光が現れた時、神はモーセとアロンに「あなたがたはこの会衆から離れよ。わたしはこの者どもをたちどころに絶滅してしまう」(16:21)と言った。
私達はこのような反逆に対して、どのように対応すれば良いだろう。モーセの姿勢から学びたい。
まず、絶対的な権威者である主の前にひれ伏す事(4節,22節)であって、弁論や群集心理操作ではない。
権威にひれ伏す姿勢は一見弱く見えるが、これこそ主の御前には最も尊く、敵が最も嫌う姿勢である。
第2に、その権威者なる主に執り成す事である。執り成すのは、主に逆らう者達が救われるためではなく、会衆全体が巻き添えを食らって滅ぼされないようにするためである。(22節)
そして、反逆する者達から離れるように警告する事である。
主と主の立てられた権威に逆らったコラ達には、地が口を開いて彼らと彼らに属する者たちとを飲みこみ、彼らは生きながらよみに下るという、恐ろしい最後が訪れた。(32,33節)
それによってコラ達こそ神に反逆した者であり、モーセとアロンこそ神の御心に叶う者だと民衆は知った。
今、神の立てられた唯一の指導者であり大祭司であるイエスキリストに反抗し、民衆を真理から引き離そうと耳障りの良い言葉で惑わす者達には、断じて同調すべきではなく、むしろひれ伏し、取り成し、彼らから離れるよう注意を促し、彼らが普通でない死に方をすると宣言するべきである。
モーセとアロンの側に立っているか、コラの側に立っているかよくよく注意し、真実の側に立って祈り、はびこってきた偽預言者の偽りを暴いて光へと導く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
明日から金曜まで、新潟に出張します。
水曜は豊栄教会の方々も祈祷会の時間にグローリーチャペルに来て下さるそうです。
交わり全体が主の栄光のために導かれるようお祈りいただければ幸いです。