メッセージ - 201106のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:証人(あかしびと)(使徒22:1-21):右クリックで保存
韓国語通訳有

殺意の群集の中で殺されそうな所を辛うじてローマ兵に助けられたパウロが、群集に向ってどうしても弁明したい事があると言って千人隊長に願い出、語った内容とは。
それは、命乞いでも言い訳でもなく、キリストの証(あかし)だった。
パウロの証は、?救われる以前の状態(3-5節)、?イエスに出会った出来事と信じたきっかけ(6-11節)、?神のパウロに対する目的(12-21節)の3部分に分けられる。

彼は以前、ガマリエルの元で厳格な教育を受けたパリサイ人で、キリスト者達を牢に渡し死に至らしめる者だった。
もし殺意の群集をなだめる事が目的なら、ここだけを強調して終わっておけば良かったかもしれないが、しかし彼は信仰の転換となった体験、天からの幻やナザレ人イエスの事を語らずにはいられなかった。
ダマスコの途上でまばゆい光に照らされ目からウロコが落ちた、使徒パウロの原点とも言える体験(使徒9章)は、22章だけでなく、26章でも異邦人アグリッパ王にほぼ同じ内容で証している。

その時パウロに同行していた者達は、9:7では「主の声を聞いた」、22:9では「主の声を聞かなかった」とあり、日本語だけ読み比べると矛盾しているかのように見える。
実は「声」のギリシア語では「音(noise,sound)」の意味も含み、また「聞く」のギリシア語では「理解する(reported, understand)」の意味も含まれている。
つまり、イエスの召命の声は、同行していた者に"ノイズ"としては聞こえていても、内容を"理解"できたのはパウロだけだったのである。

信じない者にとってはイエスの声はノイズだが、信じる者はその大いに重要な意味を悟り、内容を理解できるものである。
そして主の光に照らされた時、他の者は相変わらず目が見えていたのに、パウロだけは、生まれつきの目は見えなくされ、3日後に新たに見えるようにされたのだ。
このように主は召しだされた者を特別扱いされる。
そしてパウロはアナニヤと出会い、主イエスについて見た事、聞いた事の”証人”となるミッションを告げ知らされ、イエスを信じてバプテスマを受けるよう促された。

パウロは元々、エルサレムに多くの友人知人がおり、彼らに対して福音を伝えていくものと思っていたかもしれない。(19,20節)
しかし主の御心は、パウロはエルサレムから出て行く事、遠く異邦人に福音を伝えて行く事だったのである。(21節)
パウロは律法に精通し、なおかつギリシア語に堪能で、ローマ市民権も持っているという特殊な境遇だったため、彼の願いどおりエルサレムに留まっているのは、御心ではなかったのだ。

私達も一人ひとり、私達にしか出来ない特有の賜物とミッションが与えられている。
また、私達特有のキリストの証を、それぞれ持っているはずである。
それらを生かして主の御心を成し遂げて行く皆さんでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!

今日は一人で気ままに自宅でのんびりしたり、ぶらっと一人で外食したりして、主と二人きりの隠れ家タイムを楽しんでいます。

女性の中で、男性から「一人にしてほしい」と言われてショックを受けられる方は結構いるようですが、男はたまに一人になりたくなる生き物ですので、どうぞご安心下さい。

礼拝説教メッセージ音声:二人きりの隠れ家から(使徒21:27-40):右クリックで保存
韓国語通訳有

いよいよパウロはユダヤ人によって捕らえられた。
その時の騒乱状態はとてもひどく、「エルサレム中が騒乱状態に陥っている」との報告によってローマ兵が駆けつけてみると、パウロは殺意の群集にもみくちゃにされており、パウロがまさに殺されようとしていた時、ローマ兵が彼をかろうじて捕縛し、殺意の群集から守られた。
千人隊長は、パウロが何者で何をしたのかと尋ねても、各々違ったことを叫びたて、騒々しすぎて正確な事がわからず、パウロを連行する時は彼を担ぎ上げなくてはならないほど、群集は興奮していた。

そこまでの狂気の騒乱に遭ったなら、普通は声も震えて何も言えず、ローマ兵の陰で縮こまって群衆の前に二度と出たくなくなる所だが、パウロは落ち着いた声で千人隊長に「お願いです、あの民に話すことを許して下さい」と頼み、再び群集の前に出て、弁明する事を願い出た。
ステファノの時もそうであったように、主に満たされている者には、世のものならぬ平和がその人を支配し、その人の心も体も守られるのである。

「あなたがたの心が〔もうこれ以上〕かき乱されないように。神を信じ、また私を信じなさい。
私の父の家には住処(すみか)が多い。仮りにそうでなかったとすれば、あなたがたのために場所を準備しに行こうとしているなどとあなたがたに言ったりしただろうか。
そして、行ってあなたがたのために場所を準備したら、またやって来る。そして、あなたがたをこの私のもとに引き取ることになる。私のいるところにあなたがたもいるようになるために。」(ヨハネ14:1-3)

私達イエスを信じる者には、主が用意してくださった住処が確かに備えられているが、それは何も、死んだ後の天国の事ではない。
地上に生きる時でも、その隠れ部屋は確かに存在する。
いかに殺意の群集が押し迫り、死の危機の只中に入るとも、私と主・二人だけが知っている隠れ家の中で霊も体も匿われており、そしてそこから御言葉を伝える力と知恵が新たに湧き出て来るのである。
「王は私を奥の間に連れて行かれました。私たちはあなたによって楽しみ喜び、あなたの愛をぶどう酒にまさってほめたたえ、真心からあなたを愛しています。」(雅歌1:4)

愛する主が用意して下さった二人きりの隠れ家で匿われ、平安と尊厳の内に歩む皆さんでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:新しく創られた者として(使徒21:15-26):右クリックで保存
韓国語通訳有

人々は、断片的な情報から物事を誤解しやすいものである。
パウロは、イエスを信じた異邦人たちに割礼を強要してはならない、とは伝えたが、ユダヤ人はもはや割礼を受けてはならない、とは伝えていない。
事実、パウロはテモテを連れて行く時、しなくても良いはずの割礼をわざわざ施させたが、それは信仰が弱く知識の無いユダヤ人達の躓きとならぬよう配慮したからである。

「もしもあなたがたが割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに何の益をももたらされないであろう。私は割礼を受けているすべての人に再び証言するが、その人は律法のすべてを行なう義務がある。」(ガラテヤ5:1-6)

ここはユダヤ人に「割礼を施してはならない」と言っているのではなく、ガラテヤ(異邦人)のキリスト者達に蔓延している「私達も割礼を受ければ霊的に高い所へ登れる」といった誤解を解くためのものである。
何かの宗教儀式をすれば霊的高みに登れると思ったら、大間違いである。
「私にとっては、私たちの主イエス・キリストの十字架以外のものを誇ることは、断じてあってはならない。そのキリストをとおして、世界は私に対して、私も世界に対して、十字架につけられてしまっているのである。
まさに、割礼も無割礼も重要ではなく、むしろ新しく創造〔されることこそ〕が重要なのである。」(ガラテヤ6:14,15)

私達は世に対して、すなわちアダムにあって呪われた全ての物事、悪霊や堕天使、人間、権威、そうした世の諸々に対して、既に十字架につけられており、世の諸々も私達に対して十字架につけられている。
この十字架にあって私達は、決して超えることの出来ない死という断絶によって世の諸々からは完全に分離され、イエスキリストの側にいる者達とされた、新しく創られた者達である。

割礼といった宗教儀式による神に向っての歩みは捨て去り、キリストにあって新しく生まれ変わった者として、新しい創造として歩む皆さんでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!

今日は早天の後、午前中に韓国信徒の方と一緒に役所に行き、午後は水曜礼拝と聖書勉強会、そしてさっき夕礼拝が終わって、皆帰った所です。

今週に入ってから、この教会に初めて来られた方が3名になりました。

たまたまこの教会を見つけたので立ち寄った、あるいは、前からこの場所に教会があるのは知っていたけれど中々入れなかった等、いずれも人間によってではなく主によって導かれてきたかのようです。

今まで私達が知らなかった道を、主が先頭となり、しんがりとなって導いてくださっているかのようです。

主のなさる事に期待しつつ。

礼拝説教メッセージ音声:行くか行かぬか(使徒21:1-14):右クリックで保存
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パウロはエルサレムを目指して進んでいたが、行く道々の兄弟姉妹達は、パウロの苦難が聖霊によって示されていたため「行ってはならない」と涙ながらに懇願した。
しかしパウロは、頑なに人々の涙ながらの願いを振り払い、どうしてもエルサレムに行かねばならない、と言って聞かなかった。
「あなたたちは泣き、私の心をくじいて、どうしようというのですか。私は主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られるだけではなく、死ぬことさえも覚悟しているのです」。

(13節)

人々にとっては、パウロがいつも近くにいる事が願いだった。
もし彼らの忠告どおり、パウロが行かなかったならば、彼はもっと生き延びる事が出来、もっと各地の兄弟姉妹達と一緒に長く交われたかもしれない。
しかし、聖霊に導かれる者にとって「御心」は強烈な拘束力となり、人間的でセンチメンタルな愛着を振り払う。
行かず伝えずに生き延びるより、行って伝えて死ぬほうが、より福音といのちが増え広がる事であるからには、行かざるを得ないのである。

パウロにとっては、生きるにしても死ぬにしてもキリストが主体であり、そうして走るべき道のりを立派に走り終えたからこそ、義の栄冠を勝ち取った。
私達も「キリスト者」になればなるほど、そのようになって行き、主の故に自身の望まない所へ縛られ行かされる時も、もしかしたら来るかもしれない。
ペテロはその時「この人はどうなるのでしょうか」と問うたが(ヨハネ21:18)、他の兄弟姉妹の事は、私達には関係ない。(ヨハネ21:22)
私達は、あくまで、主イエスに付いて行く。
ただそれだけである。
それは、ペテロにもパウロにも、私達一人ひとりにも、主が示しておられる事である。

この人生という競技場にいる間、主イエスに忠実について行き、かの日には義の栄冠を勝ち取る皆さんでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!

鄭先生は昨日帰国し、今日からいつもの巡航モードに入りました。

今朝の早天は久しぶりにメッセージしたためか、多分今までで最長、31分くらいのメッセージとなってしまいました。

メッセージも、この原稿も、短く内容の濃いものにしたいと、いつも祈っている所です。
 

鄭先生が来て以来、朝は早天礼拝、昼の礼拝、夕方は先生を囲んでの会食、夜も礼拝、という日々が続いておりましたが、メッセージは全て鄭先生がして下さっておりましたので、私は御言葉を伝えるプレッシャーが無かったため精神的にラクでした。

昨日は久しぶりに休みを取ることが出来て、横須賀に最近オープンした温泉に連れてっていただき、楽しく過ごさせていただきました。

教会の柱となる(2歴代3:17)

カテゴリ : 
その他音声
執筆 : 
pastor 2011-6-19 18:11

礼拝説教メッセージ音声:教会の柱となる(2歴代3:17)
第一礼拝(日本語)礼拝全体音声:右クリックで保存

鄭先生による6/19主日礼拝音声。

今日の御言葉は、ソロモン王が造られた神殿の前に建てられた二つの象徴物である柱についてです。

神殿の右側ヤギンという柱の名前の意味は”私が立てるであろう”、左側に立てた柱ボアズは”彼に賜物がある”という意味で、主が力を持ち、主ご自身が立つ事こそ、国が堅く建て上げられるポイントである、という、ソロモン王の信仰の表現です。

私達は主の体の肢体として遣わされ、主の手足となって教会が建てられる者として立てあげられる”ヤギン”ような信徒になる事が望まれています。

教会は賜物のある聖徒たちによって堅く建てられ、賜物とは、愛の力、信仰の力、祈りの力、伝道の賜物、奉仕の賜物などです。


私たちは皆、御霊によって整えられ、有用な教会の柱となりましょう。

賜物を用いて主の来られるその日まで私たちの教会を立て上げていきましょう。

私たちは皆ヤキンやボアズのような柱がなり、かの日には賞賛と冠を受ける​​聖徒になりましょう。

イエスさまの名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:神とその恵みの言葉に委ねます(使徒20:32-38):右クリックで保存
韓国語通訳有

救いとは徹底的に自己責任で、大切なこの人を天国に行かせるために、私が代わりに信じます、私が代わりに地獄に行きます、といった取引は一切出来ない。
救いは確かに自己責任ではあるのだが、私はあなたに伝えました、はい、あとはあなたの責任です、と、投げっ放しでいてはならず、伝えた者達のために心砕いてケアするべきである。
パウロは昼も夜も涙を流しながらエペソの人達のために心砕き、教え、ケアして来た。
しかしある日突然、エペソの人達にパウロとの今生の別れが、ある日突然訪れたように、私達にとってのパウロとも、いずれ別れの時が来る。

私達にとってパウロのような人、すなわち、私達に救いの道を教えてくれて、日々霊的に面倒を見てくれ、時には涙を流して訓戒してくれてきた人が、ある日突然いなくなっても、皆さんは御言葉にしっかり留まり続ける事が出来るだろうか。
パウロの願いは自分がいなくなった後もしっかりと御言葉に留まり続ける事であったように、皆さんにとってのパウロの願いも、そうである。

「そして今、私はあなたたちを、神とその恵みの言葉とに委ねます。この言葉には、あなたたちを建て上げ、すべての聖徒と共に、あなたたちに遺産を与える力があるのです。」(32節)

私達が、大切な人達に最終的にできる事とは、結局「神と恵みの言葉に委ねる」という事である。
自分にとって大切な人、子供、親、友人について、自分のものとして握り締めている手を離し、神とその恵みの言葉に委ねるなら、自分の支配から離れ、神様の支配に移る。
神と恵みの御言葉にしっかりと繋がるなら、その言葉はパウロといった人間よりもはるかに力があり、自身を立て上げ、遺産が与えられ、多くの実を結ぶことが出来るのだ。

実を結ぶ者・結ばない者の違いは、御言葉であるイエスさまに繋がっているか、いないかである。
留まっている者は多くの実を結ばせるが、留まっていない者は切り倒され、投げ捨てられ、火で焼かれてしまう。
御言葉がその人の内に留まっているのなら、何でも望みを申し出る事が出来、望みが叶えられ、喜びに満たされ、その喜びによって御父は栄光をお受けになるのだ。(ヨハネ15:1-8)

まことの言葉なるイエス様にしっかりとつながり、豊かな実を結ばせる皆さんでありますように。
イエスさまの名前によって祝福します!

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