メッセージ - 201107のエントリ
これから新潟に行ってきます。
かの地においても、主がたくさん働いてくださいますように!
礼拝説教メッセージ音声:神の国の宴会(ルカ14:15-24)
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神の国の宴会に与る者は、どういう者か。イエス様は、ある主人の開く盛大な宴会のたとえ話をされた。
宴会が始まる時、招待しておいた客はことごとく何かしら理由をつけて断り(ルカ14:15-24)、主人は怒って、招待したけれど来ない人達は為すがままにさせておき、僕に命じて、町の広場や路地へ行って貧しい人や体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を家に連れて来させた。
神の国の宴会に与かれる者は、招かれた者ではなく、呼びかけに単純に応じて、宴会場に来る者である。
このたとえの宴会とは、義人の復活の時に行われる神の大宴会(イザヤ25:6-12)の事で、主は、空席が埋まるまでは誰彼関係なく無理にでも連れて来て、宴会場をいっぱいにするよう命じている。(ルカ14:23)
その宴会はどんな人にも広くオープンに開かれていて、主人の僕は誰でも参加するよう無理やりにでも呼びかけるし、どうやら無料で参加できるというのに、なぜか、断る者がいる。
宴会に招かれた人は、なぜ断るのか。それは、宴会を招いた主人より、自分の用事のほうが大事だからだ。
最初に断った者の口実は、畑を買ったので見に行く、だから宴会には参加出来ない、というものだ。
畑は生活の食を得る場所で仕事に相当するが、主を祝うべき日に仕事を優先させるなら実入りは少ない。
別の者が宴会を断った口実は、牛を二頭ずつ五組買ったのでそれを調べに行く、というものだ。
「牛がいなければ飼葉おけはきれいだ。しかし牛の力によって収穫は多くなる。」(箴言14:4)
牛は、トラクターやパソコンのように業務効率化の道具にあたり、仕事の上でそうした投資は当然必要だ。
しかし、神の宴会を後回しにして収穫を多くしようとするのなら、結局は労多くして益少なくなってしまう。
アメリカ開拓時代、人々は先を争って馬を走らせ、新天地へ向かって行ったが、結局多くの土地を得たのは、昼夜休日も無く働いた者ではなく、主日にしっかり安息して礼拝したクリスチャンだった。
主日に礼拝時間を惜しんで働いた者達はことごとく失敗し、ある者は馬がつぶれ、ある者は病気になり、休む間も無く積み上げた財産は、結局クリスチャンが受け継ぐ事となった。
「安息日に歩き回ることをやめ、わたしの聖なる日にしたい事をするのをやめ、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日と呼び、これを尊び、旅をするのをやめ、したいことをし続けず、取り引きを慎むなら、そのとき、あなたは主を喜びとする。わたしはあなたに地の聖なる高台を支配させ、父祖ヤコブの嗣業を享受させる。」(イザヤ58:13)
3番目に断った者の口実は、結婚したので宴会に参加出来ない、というものである。
妻や夫を喜ばせるのは良い事だが、神の国より妻や夫を優先させるのは、アダムとエバ同様の失敗をする。
「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。」(創世記3:17)
神よりも妻や夫を優先するのは、額に汗し苦しんで働かねばならない呪いの元凶であると覚えて置きたい。
このように、あらかじめ招かれていたのに来ない人々は、宴会で食卓を味わう事は出来なくなってしまう。
大宴会への参加に最も邪魔になるのが、人間のそそり立つ要塞、すなわち、神よりも自分を主とする高慢だが、宴会の日に「主はお前の城壁の砦と塔を砕き/打ち倒して地の塵に伏させる。」(イザヤ25:12)
だから私達は、神の僕から宴会の誘いを頂いた時、何にも優先して、それに参加すべきだ。
そして私達も神の僕となり、至る所に出て行き、天の宴会の空席が埋まるまで、誰彼かまわず宴会の誘い、すなわち、イエスキリストに繋がる招きをするのである。
人の祭りから離れて自分のわざを休め、神の大宴会に参加して安息し、仕事や資産、結婚が何倍にも豊かに祝福される皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
昨日お米を90kg精米しに行って帰ってきたので、ちょっと腰が筋肉痛です。
実はあの後、韓国料理屋を営んでいる聖徒のお店に、かきごおり機を届けて設置しました。
その聖徒は母子家庭で、今般の事情で部屋代を払うのも苦しくなってきたため、売り上げが改善するよう皆で協力したり、私も借りている一軒家の部屋を一時的にお貸しする事にしたりして、このように、教会全体が大きな一つの家族として、この一家の苦しい状況を助けています。
そのようにしていると、主は祝福を豊かに下さいました。
その聖徒の間借りしていた部屋の不動産屋は、その聖徒の誠実さを長年見ていますので、その方に良い仕事をさせたいと申し出て下さったのですが、その仕事はその聖徒は出来ない事情があったものの、教会に通う他の聖徒(良い仕事を探し中)にピッタリで、その方のほうに紹介したい旨伝えた所、OKでした。
そればかりでなく、不動産屋の方は別の案件として大工の仕事ができる人はいないかと探していたのですが、なんと、先週初めてこの教会に来られた方は大工で、彼はちょっとした案件でもいいので仕事は無いかと探している所でした。
主は本当に御言葉を守る群れを愛しておられ、守り、必要な物を与え、祝福を下さるのだなあと、皆で主を褒め称えて喜びました。
礼拝説教メッセージ音声:狂っている(使徒26:19-23):右クリックで保存
韓国語通訳有
「パウロよ、お前は気が狂っている。博学がお前を狂わせたのだ」(26:24)
自分の経験や認知という井戸の中が世の全てだと思っている人は、認知不能な神のみわざに出くわすと、自分の理解に収まる考えを当てはめ押し付けようとする。
フェストはパウロを「狂っている」として当てはめ、進化論者は生物の成り立ちを「偶然」と当てはめた。
世界はロゴス(御言葉)によって成り立ち、そのロゴスとは定理であり、数式や物理法則以上の理(ことわり)である。
御言葉は現実以上に真実であり、キリストは人間が生きている以上に「生きて」おられる。
それを人が理解できないのは、私達の生きている現実があまりに不真実なため、真実のほうが逆に狂気に見えるのだ。
真実なるお方と出会って交わる時、頭ではどうしても理解できなかった事も、実体験として知るようになる。
パウロが弁明の場に及んでキリストしか伝えないのは、狂っているからではなく、その真理を伝えずにはいられないほどの衝動があるからだ。
「私が神に祈りたいのは、ただ王だけではなく、今日私の話を聞いている人々がことごとく、私のようになることなのです。−この鎖だけは別ですが。」(29節)
死刑を求刑されている被告人が、裁判官や告訴人、列席の弁護士や傍聴席の皆に向かって「私のようになる事を願っている」と言うのは、尋常ではなく見えるかもしれないが、それがパウロの本心である。
キリストの愛の広さ高さ深さを知れば知るほど、自分の事はどうでも良くなり、キリストこそ全てとなって来る。
パウロはもはや、自分が訴えられている状況さえも、この素晴らしいお方を伝えるための道具としてさらに多くの者達に福音を伝えたい程、キリストの素晴らしさを知っているのだ。
主はそのような者を祝福し、世において必要な物は全て備えられ、来るべき世において栄冠を勝ち取るための良き行いも全て用意されておられるのである。
このキリストの愛の広さ高さ深さをますます知る皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:天の声に召し出されて(使徒26:19-23):右クリックで保存
韓国語通訳有
「天声教会」の名前の由来は、天からの声、すなわち、モーセやエリヤなどの偉大な人物でなく、怪しげな霊の声でもなく、神が唯一承認されたイエスキリストの声に従う教会という事で名付けられた。
パウロは、アグリッパ王の前で告白している。
「私は天からの示しに背きませんでした。」(26:19)
彼はかつて、パリサイ派という人間の組織に属し、モーセやエリヤに代表される律法と預言者を学んでいたが、ある時イエスによって、すなわち、天からの示しに召しだされ、悔い改めを伝える者として任命され、それに逆らわず忠実に歩んで来た。
召しだされた者達とは、人間の便宜のための組織から召し出されてキリストの肢体に組み込まれ、人間の誰かに支配される事から召しだされてイエスキリストに支配される者達の事である。
彼が伝えていた悔い改め(メタノイヤ)は、闇から光に、悪魔から神へと180度の方向転換する事で(18節)あり、またモーセや預言者が伝えてきた事はキリストは苦しみを受け、死人の中から最初によみがえって民にも異邦人にも光を継げ知らせる(23節)事である。
パウロが訴えられている理由はまさにそこで、イエスはキリストではないというユダヤ人達の見解によりパウロは訴えられているのである。
しかしイエスは確かに復活され、神から認証された救い主となり、パウロだけでなく私達にもその証人となるよう聖霊の証印つきで召しだして下さった。
世の終りまで共におられる主から力を頂き、誰もが「イエスが生きて共に働かれておられる」と認めるような皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
新潟の聖徒から格安でコシヒカリを譲っていただいたのですが、精米されていない状態で、そのままでは炊けない事が分かりました。
お米が獲れる地方では、精米されていない状態で袋詰めされ、食べる直前に精米するのが常識だったとはつゆ知らず、うかつでした。
横浜市中区にはコイン精米所というものが無いので、合計90kgのお米をタクシーで数キロ向こうのコイン精米所まで運び、精米して来ました。
炎天下でエアコン無しのコイン精米所まで米90kgを持って往復するのは暑かったですが、色々初体験で楽しかったです。
これもまたパスターの仕事??
礼拝説教メッセージ音声:とげのついた棒(使徒26:1-11):右クリックで保存
韓国語通訳有
パウロがイエス様と出会った体験は使徒行伝中に3回登場するが「とげの付いた棒をけると、ひどい目に遭う」と言ったのは、このアグリッパ王の前での証のみである。
彼は、主があの時言われた言葉には、実はあの意味も含まれていたのか、と、何十年もかけて徐々に知って行ったのである。
御言葉とは、人が何十年も、あるいは何百年もの世代に渡って、やっと悟って行く程に奥が深い。
パウロはキリスト者達を迫害していたあの時、確かに、痛かったのである。
ステファノが殉教する直前のあの聖なる趣、石を投げている者達にさえ執り成す愛を見、また、牢にぶち込むキリスト者達の無垢な様を見る度に、主キリストの聖さ、罪の無さ、愛の深さを垣間見て、彼らを迫害する度に、痛みを感じていたのだ。
「とげの付いた棒」とは、ある用途を持った道具で、くびきに慣れない若い牛は最初、くびきを嫌がって足で蹴るのだが、牛が蹴ると、とげのついた棒がそのまま自分の体に食い込んで痛い目に遭う仕組みに出来ている。
牛はくびきに逆らう事を次第に止め、くびきに慣れて行き、最後にはくびきに安息を見出すようになって行くのだ。
私達にもくびきに繋がれた牛のような体験はあったかもしれないし、今まさに遭っているかもしれない。
最初は主の導かれる道、主が負わせる重荷を嫌がり、逆らうのだが、逆らえば逆らうほど痛い目に遭い、ついには主の御心に屈服して行き、そして主の負わせるくびきに真に安息を覚えて行くようになる。
『疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」』(マタイ11:30)
「わたしの軛は負いやすく」は英語のある聖書では「comfortable」とあり、主のくびきは、私達にとって負い易く心地の良いものである。
くびきは一見、自分の行きたい道へ行けず、不自由に見えるかもしれない。
そしてそれに逆らうと、痛みを覚え、不愉快極まりなく思えるかもしれない。
しかし、私達の成り立ちを知り、最善をご存知である主が負わせて下さったくびきに歩んでいるなら、心に平安があり、心地よく、最善の道へと導かれていくのである。
主が負わせて下さったくびきを負って主と共に歩き、安らかに導かれていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:何にも勝る主へのいけにえ(1サムエル15章)
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天声教会では、人の祭りは終わりにし、純粋な主の祭りが行われるように、と日々祈り整えている。
今回、サウル王の失敗(1サムエル15章)から、人が犯しやすい間違いと、主は何を第一に求めておられるのかを見て行きたい。
アマレクに属するものは一切滅ぼし尽くせ(1サムエル15:3)という命令は、とても厳しいように見えるが、主は最善を知り、未来をも見通されるお方である。
アマレク人を生かすか生かさないかは、将来のイスラエル存亡に関わる重要問題だったため、主はその命令を与えられたのだが、サウルと彼の民はそれに従わず、王アガグと、肥えた羊や牛の最も良いものを惜しんで聖絶するのを好まず、ただつまらない値打ちのないものだけを聖絶した。(15:9)
良い物まで滅ぼすのは惜しい、主は厳しすぎる、少しは取って置いてもいいのでは、と言って、最善なる主の言葉に自分の思いを混ぜてしまうと、最善は最悪に取って替わり、災いが起こる。
事実、その事が災いとなり、アマレク人は、後にダビデと部下達全ての財産と妻を奪い、サウル王にとどめを刺し、ずっと後のエステルの時代には、アガグの子孫ハマンがイスラエル民族を皆殺しにしそうになった。
主の命令は時に厳しく見えたり、人の目に違うように見える事もあるが、サウルのように自分の判断を優先させると、後にその判断が仇となって滅びを招き、主が正しいお方だったと後悔しながら思い知るのである。
サウルは主のあわれみによって勝利したにもかかわらず、さっさと自分の記念碑を立て(12節)、自分の手柄にしたが、悪い結果は人のせいにする性質がある。(21節)
それはアダムと同じ性質で、罪を認めなかったり責任転換するなら、主との正常な関わりは持てない。
『サウルは彼に言った。「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。」』(15:13)
一見キレイな言葉だが、主の言葉を守っていないのに守りましたと言い、主の悲しみがあるのに主の祝福がありますように、と言って、偽りのキレイな飾り言葉を多くする所に、主の嫌われる罪が潜んでいる。
サウルは、主への供え物にするために最上の物を取って置いた、と言っているが、本当にそうだろうか?
『するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」』(15:22,23)
もし彼が本当に主を愛していたなら、主が言われた通り、最も良い物は、真っ先に滅ぼしたはずである。
主を礼拝するとは、自分にとって最も大切な物、最も良い物を捧げてでも、御言葉に従う事である。
アブラハムは主の命令通り、ひとり子イサクをささげようとしたため大いなる祝福を勝ち取ったし、アベルは羊の最良のものを神にささげたため、その捧げ物に目を留められた。
私達の最も大切な物を明け渡して礼拝する時、主は満足され、捧げた物の何倍にも勝る祝福を得るのだ。
『サウルは言った。「わたしは罪を犯しました。しかし、民の長老の手前、イスラエルの手前、どうかわたしを立てて、わたしと一緒に帰ってください。そうすれば、あなたの神、主を礼拝します。」』(15:30)
彼は王国が自分から取り上げられたと宣告され、その事の赦しを願うよりも、なんと、この期に及んで民と長老の前で面目を保つ事を願っている!ここまで来るとどうしようもなく、サムエルも彼と2度と会わなかった。
もし神に喜ばれない事を示されたなら、私達が取るべきはダビデのように正直に認める態度である。
「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」詩51:19
主の前に砕かれた心でいるなら、主はその者の罪を赦し、ささげ物を受け入れてくださる。
人の目を気にする以前に、また、人をどうこうして支配する以前に、真に主に喜ばれているかどうか、心を吟味し、常に「聞き従う」という、どんないけにえにも勝るいけにえを捧げ続ける皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
今日の礼拝はとても賑やかで、初めての方々、3ヶ月ぶりの方、半年ぶりの方々が来られました。
なんで今日に集中して??と思ったのですが、きっと主が何かをなさろうとしておられるのでしょう。
今日来られた方々がさらに多くの恵みを頂けますように祝福します。
さて、昨日もアナウンスしましたが、本日10日から13日水曜午前中まで出張しますので、その間のメッセージ配信はお休みさせていただきます。
今度の出張はまず静岡に行き、それから名古屋まで行って船でどこかの島に行くそうです。
詳細は分かりませんが、その島には教会が無く、福音を聞いてイエス様を信じたいという方がおられるそうです。
もしかしたらバプテスマを受けるかもしれません。
主がどう導かれるのか分かりませんが、楽しみにして望みます。
礼拝説教メッセージ音声:復活の主を証する(使徒26:1-11):右クリックで保存
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パウロは弁明の機会が与えられた時、自分が釈放されて命を救うよう弁明する事はあえてせず、イエスの証を喜んで行った。
彼はかつて、イエスに反対する者「サウロ」として有名だったが、イエスと出会い、造り変えられ、後には逆にイエスの伝道者として迫害されるまでになった。
彼がそこまでしてイエスを伝える理由は、イエスがまさしく生きておられ、現実以上に現実として働いておられるからである。
彼は、自分が訴えられているのは、先祖に与えられた約束の望みの故だと釈明し(6節)、その約束とは、キリストを通して死者が復活する事である。(8節)
死者の復活はクリスチャンにとっては最重要事項で、もし復活が無いとしたらキリストの復活も無かったはずだ(1コリント15:12-19)。
もし復活が無ければ、福音とは、主人を裏切った臆病者どもの吹聴事、という事になる。
では、弟子達はなぜ、キリストの十字架の前と後で、こんなにも激変してしまったのか。
パウロは幾度かの弁明の場で、なぜ釈放されて命を救う事よりも、イエスの証を喜んで行ったのか。
もしキリストが死んでしまったままであるのなら、弟子達やパウロが命を賭してまでキリストを伝えるメリットは一体何だろう。
キリストは紛れも無く十字架で死に、3日後に復活し、現に生きて働かれておられるのだ。
主が聖霊が使わされたからこそ、弟子達はこんなにも変えられて大胆に証し、福音は現在世界中に至っている。
今やイエスキリストの名前を知らない者はいない事実こそ、彼が生きておられる事の証拠である。
キリストの証人は、何もパウロだけの専売特許ではない。
私達一人ひとりも、キリストのよみがりの御技を体験している者達で、ある者は病が癒され、ある者は不足が満たされ、ある者は強い者に造り変えられた。
キリストが死者の中から初穂としてよみがられたからこそ、我々にも、復活の望みがあるのである。
復活の主にあって日々新たにされ、復活を体現していく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!