メッセージ - 201204のエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
3年半ぶりの雨(1列王17-18章):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ペテロ1:6-12:右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声:イエスの焼き印を帯びて(ガラテヤ6:11-18):右クリックで保存
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21回に渡って続いたガラテヤ書の講解説教も、いよいよ今回で終わりである。

「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」(6:17)
焼印は、奴隷や将校などに捺され、その人が何に属するか示す事のしるしとなるが、パウロの体には、至る所にキリストの名の故に受けてきた数々の迫害による傷跡があった。
彼は、ガラテヤ人への手紙を、自らの手で大きな字で書いたが、それは恐らく、彼のその目、あるいは利き腕に、迫害の傷跡や疾患があったからかもしれない。

それにひきかえ、ガラテヤ人に割礼を強要して躓きへと導いた者達は、どうだったか。
彼らが自らに割礼を施したり、人に強要したのは、人の目に良くみられたいためであり、また、人々から迫害を受けたくないためであった。(6:12)

私達も、このような者達と同じ過ちに陥っていないだろうか。
近隣や家族との摩擦を恐れて、異教的な儀式を共に行ったり、福音はそのままでは一般人に受け入れ難いとして身勝手に御言葉をねじまげたり、御言葉を正しく伝えている人を、そんな事では受け入れられないと揶揄する事で自己推薦したり。
パウロは、片時もそのような者たちに屈服して譲歩する事はしなかったため(2:5)、キリストにあっていつも自由だった。

「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(6:14)

世と私達との間には、十字架が隔てとなって立っており、世に対して私達は死んでおり、また、私たちも世に対して死んでいる。
十字架を隔ててキリストの側にいる私達に対して、世のものは、私達のいのち(霊:pneuma)に害を及ぼす事はできず、私達がこの立ち位置にいる限り、世にあっても、置かれている状況に決して左右されない平安によって守られている。(ヨハネ14:27)

私たちが誇りとするべきは、肉に由来する何かではなく、この十字架のみである。
この十字架によって肉に対して死んでいるため、割礼には何の意味も無い。
しかし、ガラテヤ人達を躓かせている人達は、肉にあって誇りたいがために割礼を強要し、キリストの十字架を空文にしてしまい、あたかも肉に属し律法の奴隷であるかのように人々を躓かせているから、パウロは厳しい文面で彼らを責めて来たのだ。

キリストの十字架にあって死に、新しい創造とされた者は、霊の原理に従って生きていく者であり、さらには「神のイスラエル」とされた者達である。(6:15-16)
キリストにある私達のアイデンティティは、黙示録21章に登場する、神の元から下って来た新しい聖なる都、まことの夫・キリストのために着飾った花嫁である。

パウロはその身にイエスの焼印を帯びていたが、主イエス様ご自身も、私達のために傷を負い、その手の平に私達を刻んで下さった。(イザヤ49:16)
それ故、私達も雅歌に登場するおとめのように、主に申し上げる事ができる。
「りんごの木の下で/わたしはあなたを呼びさましましょう。あなたの母もここであなたをみごもりました。あなたを産んだ方も/ここであなたをみごもりました。わたしを刻みつけてください/あなたの心に、印章として/あなたの腕に、印章として。」(雅歌8:4-5)

私達も、主のために、霊的な子達を産んで増えていくために、産みの苦しみをするべきである。
そして主に申し上げるのだ。
「わたしを刻みつけてください/あなたの心に、印章として/あなたの腕に、印章として。」と。

皆さんも、イエスの焼印を帯びているだろうか?
イエスの懐深くにかくまわれ、イエスのしるしを帯び、イエスとの夫婦関係にあって、イエスのいのちを生んで増えて地に満たして行く皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:分かち合い=交わり=相互援助(ガラテヤ6:6-10):右クリックで保存
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「御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。」(ガラテヤ6:6)
この「分かち合い」(コイノネオー)とは、交わりを意味し、また、物質的・経済的な相互援助を意味する。

キリストにある共同体の最たる特徴は、「分かち合う事」である。
使徒行伝2:42-47には、初代教会の有様が書かれてあるが、この短い節の中だけでも「共有」「ひとつに」「いっしょに」「共に」という「分かち合い」に関連する言葉が、いくつも出てくる。

全ての良きものは、神から出ており、与えられる祝福は当然、神に由来している。
それらは神の国のために捧げ、主にある兄弟姉妹と分かち合うために、与えられるのであって、自分という囲いの中のみに用いるものではない。

「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」(ガラテヤ6:7-8)
神を抜きにして、自分だけが栄えたり気持ちよくなろうとする全てのわざ(肉のわざ)の行き着く先は、滅びである。
しかし、御霊にあって神のために働く人は、神に喜ばれる実を豊かに結び、永遠に残る実を刈り取ることになる。

結局、自分のいのちを救おうとする者は、それを失い、キリストのために福音のためにいのちを捨てる者は、いのちを救うのである。

「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。
神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。
「彼は惜しみなく分け与え、貧しい人に施した。彼の慈しみは永遠に続く」と書いてあるとおりです。
種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。
あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。
なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。」(2コリント9:6-12)

与えられている賜物を、与えられているあらゆる良き物を、神のために、聖徒達のために用い、分かち合い、さらに与えられ、祝福されていく皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:重荷を負いあって(ガラテヤ6:1-5):右クリックで保存
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もし私たちが、兄弟姉妹の誰かに対する憎しみや苦々しい思いによって、しつこく付きまとわれているとしたら、御霊によって歩んでいない。

「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」(1節)
もし誰かが過ちに陥っているなら、御霊にあって歩んでいる者らしく、その人の過ちを凝視するのではなく、かえって罪に陥っているその人の弱さを覚え、柔和の霊でその人を正してあげるべきである。
私達は、その兄弟姉妹が遭ったような試練に、たまたま遭わずに守られていたかもしれないし、あるいは以前、同じような過ちに陥っていたかもしれないし、また、いつ陥るとも分からないからである。

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(2節)
この2節の「重荷」(baie)は、本来進むべき歩みを邪魔させるような重荷を意味し、5節の重荷(phortion)は手荷物、船荷など、本来的に負うべき荷物を意味する。
もし兄弟姉妹の人生の歩みに、重荷となっているものを見出すなら、兄弟愛をもって互いにそれを担い合い、助け合うべきである。
キリストの律法とは「互いに愛し合いなさい」という、新しくも古からある戒めであり(ヨハネ13:34)、隣人を愛するという一言によって律法はまとめられるからである。

「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。」(3-4節)

私たちが自分の行いを思い返す時、人には言えないような恥ずかしい失敗などのひとつやふたつは、必ずあるはずであり、決して自分は誇れるものはない事が分かる。
今、私達が立っていられるとしたら、それはただ恵みによるものであり、私たちが主から召されたのも、私達が格別良いからでも何か優れている所があるからでもなく、主からの一方的な憐れみによるものであって、主から与えられていないものは、何一つ無い。
それ故、「めいめいが、自分の重荷(phortion)を担うべき」である。(6節)

兄弟姉妹を裁く事無く、互いに重荷を負いあい、主の命じられた「互いに愛し合う戒め」を守り行いつつ、愛という御霊の実を豊かに結ぶ皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

横浜は強い雨が降っていて、桜が満開でしたのでおそらくこれで散ってしまうでしょう。

今年はまだ桜を見に行けていませんが、それは、4月になって以来、色々な祝福の桜が咲き乱れて、そっちを手入れしたり、愛でたりするのに忙しいというのが、その理由です。(笑)

昨日からはじまった韓国おかず屋は、来る人来る人みんな「おいしい」と言って結構大量に買っていくようです。

向こう1週間ほどは半額セールしておりますので、近くに来られた方は、ぜひお立ち寄り下さい。

韓国バンチャンカゲ「いっさく」:045-567-2962
231-0045 横浜市中区伊勢佐木三丁目107 Kビル伊勢佐木1F

礼拝説教メッセージ音声:肉の実と御霊の実(ガラテヤ5:19-26):右クリックで保存
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御霊によって歩む者と、肉によって歩む者の、具体的な結ぶ実が、今日の19節から23節に、詳細にリストアップされている。
例えば、ある働き人が来た時、もしその人が来た事によって、敵意や争い、分裂や分派など、19-21節の実が増え広がったら、その人がいかに有名であろうと、肉の人であり、肉の頑張りによって行動していると分かる。
しかし、もしその人が来た事によって、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(22-23節)などが増え広がったら、その人は、御霊によって働く人だと分かる。

では、どのよにしたら、御霊の人となれるのか。
それは「御霊によって歩む」(16節)事によってであるが、それには都度、御霊に委ねるか、それとも肉に委ねるかを、自らの意志によて選択する必要がある。

例えば、皆さんが実印を持っているとして、それを善い人に渡すか、それとも悪い人に渡すかによって、結ぶ実が違って来るようなものである。
もし実印を善い人に渡せば、その人は知らない内に良いビジネスをして資産を増やし、いつのまにか皆さんの評判も良くなっていく。
しかし、もし悪い人に渡すなら、知らない内に借金だらけになっていて、いつのまにか色々な人から憎まれるようになっている。
同様に、皆さんの意志という実印を御霊に渡し続けているなら、内におられる御霊は、知らない内に皆さんを造り変え、どんどん良くなって行く。
しかし、いつも肉に渡し続けているなら、肉はいつも皆さんを滅びへと導き、どんどん悪くなって行く。

真理の上では、キリストにある者の「罪の肢体」は、無力となっている。(ローマ6:6)
しかし、私達の内にありありと罪が生きているかのように感じるのは、以前の罪の記憶が条件反射的に残っているからである。
例えば、皆さんが梅干を思い出す時、そこに梅干が無いのに、あたかも塩吹いた梅干があるかのように唾が出る。
同じように、罪の肢体はキリストにあって既に無力となっているのに、以前の肉にある罪の経験や記憶が鮮明に残っているから、そのように感じてしまうのである。

それはどう対処すれば良いか。それには、ローマ6章11節の、仕分けをする事である。
「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考え(原意:仕分け)なさい。」
「仕分け」は会計用語で、客観的事実を、単にそのまま適用する事である。
だから私達は、罪に対しては死んだ事、神に対してはキリストイエスにあって生きた者である、と、しっかり仕分けし続ける必要がある。

キリストにあって生きた者であるといつも仕分けし、いつも御霊に実印を渡し、御霊にあって歩み続け、御霊の良き実を豊かに結び続ける皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

最近、焼き鳥屋の話が出ていなかったと思いますが、実はここ数ヶ月の間、ゴスペルや聖徒達の養いなど、主の働きが忙かったため、休業しておりました。

しかし、お店のために素晴らしいクリスチャンの働き人が与えられ、韓国バンチャンカゲ(おかず屋)として新装オープンする事になり、私も今日、大工係のお手伝いをさせていただき、そして祝福を祈りました。

お店の名前は「いっさく」、アブラハムの子イサクから取っています。

お店が、イサクのように生んで増えて地に満ちる祝福、植えた種が100倍実を結ぶ祝福が与えられ、主の働きのために、また働き人のために、大いに用いられるお店でありますように!

礼拝説教メッセージ音声:善い方にあって自由とされた(ガラテヤ5:13-18):右クリックで保存
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パウロは、キリストと出会う以前は律法に縛られ、異邦人と食卓を共に出来なかったが、キリストにあって開放されてからは出来るようになり、ある種の食物を食べられなかったのが、食べられるようになった。
しかし、その与えられた自由を、単に自分だけの楽しみのために用いるのではなく、ユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のようになり、それによって、一人でも多くの人達をキリストへと導き、いのちを獲得しようとした。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(13節)
私達はキリストにあって、自由が与えられたが、それは、何でも好き放題にできる自由ではなく「好き放題にしたら滅びに至ってしまう肉の性質」からの自由であり、御霊にある自由である。

一人の男がイエスに近寄って「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と訪ねた時、イエス様は「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」と言われた。(マタイ19章)
彼は、律法を幼い頃から守ってきた、と思い込んでいた。
しかしイエス様から示された「隣人を愛する」事のレベルは、財産を全て投げ出すまでの程度である事を示された時、悲しみながら去って行った。

主は「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言われたが、金持ちであったザアカイはどうだったか。
彼は、善いお方イエス様を受け入れた結果、別に頑張りもせず、むしろ喜んで、貧しい人に財産を投げ打った。
貪欲で頑強な、らくだのようなザアカイであっても、イエス様にあって楽々と「針の穴」を、通れたのである。
神に不可能は無いのだ。

律法を守り通すような力も愛も無く、善い事など元々出来ないのが、人間の実情である。
大切なのは「善いこと」ではなく「善い方」であり、このお方は、何も善いものが無い人間を、善いものへと造り変えてくださるお方である。
かの青年には、律法には従えない、善い事が出来ない、という「不自由さ」があった。
しかし人は、御霊によってそうした「不自由さ」から、自由とされるのだ。

唯一の善いお方であるイエス様によって造り変えられ、御霊によって歩み続ける皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!

復活の主を巡る人間模様(ルカ24:1-12)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

イエス様は十字架上で、ヨハネやマリヤ達の目の前で、はっきりと死んだ。動かなくなり、槍で突かれ、血と水が流れた。十字架から降ろされ、没薬とアロエを混ぜ合わせたものと共に亜麻布で巻かれ、葬られた。
一見、イエス様の完全な敗北であり、祭司長や律法学者達は勝ち誇って、弟子達は絶望し恐れ隠れた。
ところが、主があらかじめ言っていた通り、主はきっちりと三日目に復活された。

復活の主に真っ先に対面できたのは、ゴルゴダの道を泣きながらついて行くしか出来なかった女達だった。
11弟子達は、イエス様が逮捕され、十字架につけられ死んだという現象面だけを見て絶望し、閉じ篭った。
しかし彼女達が内密に、親しく主と合間見えたのは、主が無力に十字架を負って歩んでいる時も、葬られた時でも、いつでも「主を慕って」いたためである。
この終わりの時代においても守られ、イエス様と真っ先に対面できる人は、ただ泣いてついて行く事しかできないほど力が弱くても、いつもイエス様を慕い、イエス様の名を否まない人である。(黙示録3:8-10)
彼女達が墓に行ったのは、復活を見るためではなく、油を塗りに行くためで、道々、あの墓を塞ぐ大きな石をどう対処するかを心配していた(マルコ16:3)が、その心配は実にちっぽけで、全く無用だった。
行ってみると、墓の番をしていた兵士達は死人のようになっており(マタイ28:4)、主の使いによって封印は破られ、大きな石は脇へころがされており、そもそも、イエス様は復活して、もうそこにはいなかったのだ。
石が転がされたのは、彼女達の小さな心配を取る為ではなく、復活のいのちの大いなる力を示す為である。
女達は御使いに言われた事を伝えるために走って行った時、途中でイエス様に出会って「おはよう」と声をかけられた。(マタイ28:9) 復活の主のただずまいは、劇的なものではなく、あまりにも普通、主だと中々気付かずにいた者もいた程で、私達も、主を慕う心が無いと、復活の主に中々気付かないかもしれない。

弟子達はユダヤ人を恐れ、一つ所に集まっていたが、女達の報告を聞いても、たわごとと思われ、信じなかった。(ルカ24:11) 主が三日後に復活する事は聞いていたが、イエス様があまりにもはっきりと死んだため、誰もそれを思い起こさなかったし、主と会ったと聞いた時さえ、信じられなかったのである。
人は、絶望的な出来事を目で見、陥っている状況に頭がいっぱいになる時、主が「こうなる」と約束して下さった事を、忘れがちになり、その約束の兆候を聞いた時さえ、信じられないものである。
しかし、復活の主は、二人でも三人でも主の名の下に集まる所におられ、また、イエス様のご性質について話し合われている所にご自身を現して下さり(ルカ24:15,36)、ご自身について書かれてある御言葉を、心を開いて解き明かして下さる。(ルカ24:27,45-47)

一方、祭司長達は兵士達の報告を受けた時、彼らに金を握らせ、うその噂を流させた。(マタイ28:11-15)
祭司長達は、兵士たちに御使いが現れ、イエスがよみがえって墓が空になった事を、信じたようである。
なぜなら、もし信じていないとしたら、弟子達が女達の言う事をたわごととしたように、兵士の言う事などたわごととした筈なのに、わざわざ金を渡し、口裏をあわせ、公にならぬように協議したからである。
弟子たちが信じないで、祭司長達の方が信じたというのも不思議だが、彼らもうすうす、イエスがメシヤである事に気付いていて、それを知った上でイエスを十字架につけ、預言通り甦っても、隠そうとしたのである。
イエスの敵は相集い、協議し、金と権力でいのちを押し潰そうとするが、闇は光に勝てないように、復活のいのちは、サタンや人がいくらもみけそうとしても、決して押しとどめられず、必ず生え出でてくるものである。

第一の人・アダムから脈々と続く人類の子孫は、呪いの内にあり、罪と死に支配されているが、主はそんな人の有様を救うため、ご自身を身代わりとして死に明け渡し、三日目によみがえり、死に対して勝利された。
イエスの復活のいのちは大波のように押し寄せ、圧倒的に死を飲み込み、いのちで溢れさせるのである。
(1コリント15:54-57) その復活の主を祝うイースターのこの時、死も、呪いも、病も、貧しさも、あらゆる問題も、全て復活の主のいのちで飲み込む皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

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