メッセージ - 201206のエントリ
結局昨日は礼拝の後、17時まで通読会、その後皆で食材を買うために横浜橋商店街へ繰り出しました。
私は教会の近所に住んでおられるご婦人の家具を運ぶお手伝いをしてから教会に戻り、皆でごちそうを頂き、サプライズの誕生会があり、皆おなかいっぱい食べたので、また夜の散歩に行こうという事になり、夜の横浜へ繰り出しました。
散歩コースは、教会→横浜スタジアム→山手トンネル→麦田を経由して、港の見える丘公園へ行きました。
夜のバラ園は神秘的で、良い芳香を醸していました。
それから徒歩で帰ってきて休みましたが、、、それにしても皆さん、仕事があるというのに、交わりが楽しくて楽しくて仕方ないのでしょう。
主を主としているか?(1サムエル4章)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳あり):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
「イスラエルびとは出てペリシテびとと戦おうとして、エベネゼルのほとりに陣をしき、ペリシテびとはアペクに陣をしいた。ペリシテびとはイスラエルびとにむかって陣備えをしたが、戦うに及んで、イスラエルびとはペリシテびとの前に敗れ、ペリシテびとは戦場において、おおよそ四千人を殺した。」(1サムエル4:1-2)
この時、彼らは異国の神々にも仕え(7:4)、心から主に従っておらず、戦いに出る大義も名分も無かった。
イスラエルが勝利するのは、神を主としている時であり、主が「行け」と命じられた時、信じて行けば、必ず勝てた。ギデオンの時は13万5千人に300人で勝利したし、ヨナタンの時は、戦車3万、歩兵は数え切れない程であっても、信仰ある二人が立ち向かって、勝利へと導いた。(1サム13-14章)
しかし、イスラエルが不信仰の時は、いかに大軍で戦いに行っても、負ける事は確定している。
出エジプトの民が不信仰によって、荒野で40年さ迷う事が確定してしまった時、民の一部は、主が命じられていないのに戦いに行こうとし、モーセは「主があなたたちのうちにおられないのだから、上って行ってはいけない・・・主に背いたから、主はあなたたちと共におられない。」(民14:41-43)と言ったのに、聞かずに出て行き、惨敗して多くの犠牲を出してしまった。
『イスラエルの長老たちは言った。「なぜ主は今日、我々がペリシテ軍によって打ち負かされるままにされたのか。主の契約の箱をシロから我々のもとに運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださるだろう。』(1サムエル4:3) 彼らは、敗北の原因が自分たちの側にあるとはつゆ思わず、我々が欲しい勝利を得るために、主の契約の箱を我々の側に運んで来れば勝利するだろう、と考えた。
つまり、我々が神に従おう、というのではなく、神が我々に従ってもらおう、という心である。
そのような心で望んだ結果、イスラエルは三万人が倒れる大打撃に遭い、契約の箱は奪われ、時の祭司エリ息子、ホフニとピネハスは死んだ。
祭司が、戒めるべき人達を戒めず、神である主より人を重んじ、主が受け取るべき聖徒の捧げものを横領し続け、主から2度も警告が与えられて久しいのに、改めなかったからである。(1サム2:27-36、3:11-14)
教会の熟練牧師が全て奪われ、自分たちの信仰の置き所も奪われてしまったような出来事で、その時、彼らには絶望のように見えたが、実はこの時、イスラエルにとっては悔い改めるチャンスの時であった。
「卑しめられたのはわたしのために良い事でした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」(詩119:71)
あなたは人生の諸々の戦いにおいて、勝ち、負け、どちらにあるだろうか?神の民と一緒にいるから勝てる、というものではなく、口先で神を担ぎだしているから勝てるというものでもない。
契約の箱を持って行けば安易に勝てるというものではないし、十字架を持って悪霊の館に行けば悪霊が安易に逃げるというものでもない。大切なのは、契約の板 に書かれてある内容を守り行なっているかどうかであり、日々、十字架を負って自分には死に、キリストに生きて頂いているか。それが重要である。
どなたを「主」に据えているか。勝利はそこにかかっている。
「主」。つまり自分の人生の主人公、自分の主人、持ち主。あなたが服従しようとしている主は、誰だろうか。
「主」を「自分」に据えているなら、自分の限界以上の事は出来ず、自分より強いものには勝てない。
サライは、約束が中々成就されないという信仰の試練の時、主に聞く事をせず、焦って、身勝手な解決方法を考案し、世の解決法に従って行動した結果、自分よりも、若さにおいて、美しさにおいて、女として子を宿す力において、ハガルよりも劣っている自分が浮き彫りにされ、見下げられ、惨めになった。(創16章)
「主」を「自分」に据え、世の価値基準で肉の判断で生きるなら、主の助けは自分の側には無く、そればかりか、世の価値基準から嘲られ、肉的に強い者に負け、見下げられてしまうのである。
しかし、いと高き神のもとに身を寄せて隠れ、全能の神の陰に宿る人には、主はいかなる災いや罠、言葉からも救い出し、飛び交う矢も、暗黒を歩く病魔も恐れる事は無く、たとい傍らに千の人、右手に万の人が倒れようとも、災いがふりかかる事は無い。(詩篇91編)主は御使いに命じて運ばせ、足が石に当たらないよう、どこにおいても守らせ、また、獅子と毒蛇を踏みにじらせ、獅子の子と大蛇をも、踏み行かせて下さる。
主イエスを信頼して進み、あらゆる領域で守られ、サタンを踏み砕き、主とともに勝利の凱旋へと連なる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!
証(音声のみ)
「臭さの凶器のような人でも」:右クリックで保存
昨日は結局、あの配信のあと、深夜の横浜散策に出ました。
教会を出て、横浜スタジアム→中華街→山下公園→大桟橋を周り、そして教会へ戻りました。
その間、歩いた歩数は4千歩以上。教会からは、その程度の歩数で有名どころを歩いて回れるようです。
深夜の中華街は初めて歩きましたが、昼間とは打って変わって、誰もいなくて、静かで暗くて、不気味な象や建物が独特の威圧感を醸していました。
栃木から来られた姉妹も、多くの喜びと恵みを、主からいただいて帰りました。かの地においても主の祝福が追いかけて行きますように!
礼拝説教メッセージ音声:イシュマエル - 神は聞かれる(創世記16:7-16):右クリックで保存
アブラムの子を宿しているハガルは、サライにいじめられ、逃げた。
もはやサライにとって、ハガルは憎むべき相手、いなくなって欲しい相手となってしまったが、アブラムはまさかここまで発展するとは思っていなかっただろう。
ハガルは、シュルへの道にある泉のほとりで、主の使いに声をかけられた。
「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。」
主の使いはハガルに、彼女の本来の立場である「サライの女奴隷ハガル」と呼んだのに対し、彼女は「”女主人サライ”のもとから逃げているところです」と答えた。
彼女は「自分はアブラムの子を宿した」「アブラムの妻になってしかるべき」とか「サライは不当だ」などと自己主張せず、”女主人サライ”と言って、自分の正しい立ち位置を答えた。
もし彼女が、自分のよかれを主張していたら、どうなっていたか? それは創世記3章、4章でアダム、エバ、カインが主張した結果を見れば、大体想像できる。
そこで主の使いは「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」と言い、本来あるべき姿、あるべき所へと帰るよう諭し、そればかりでなく、「わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす。」と、祝福の約束さえ与えられた。
仕えるべき方は誰か、立つべき立ち位置はどこか、為すべきことは何かを正しく見極め、受け入れ、それを告白するなら、祝福をいただく事ができる。
私達も、自分のよかれを主張せず、自分が主イエスの下僕であり、妻である立ち位置を告白するなら、主は、主人として保護して下さり、養って下さる。
主は、生まれて来るる子に、イシュマエル(「神は聞かれる」の意味)という名をつけるよう、命じられ、ハガルは主を「あなたはエル・ロイ(神は見ておられる)」と呼び、そこにある井戸は「ベエル・ラハイ・ロイ(生きて、見ておられるお方の井戸)」と呼んだ。
主は生きて、見ておられ聞いて下さるお方であると信仰告白したのだ。
ハガルが一人、身重の身で荒野の道を逃げている時、とてつもなく心細く、やるせなかったろう。
しかし主は憐れみ深く、彼女の元に現れ、彼女は、主は聞いておられ、見ておられ、生きておられるお方であると、信仰によって知ったのだ。
彼女が戻るのには勇気が要ったであろうが、荒野で学んだ彼女は、主の言葉どおり本来あるべき立場・本来あるべき女奴隷としての態度に戻った。
その時、この荒野での出来事を、アブラムとサライに報告しただろう。
そして夫婦ともども「イシュマエル(神は聞かれる)」という名を聞いて、自分の身勝手さに恥じ入っただろう。
結局のところ、今回の騒動は、サライやアブラムの身勝手な判断と行動から出たのだが、その全てを超えて、主は生きているお方、見ておられ、聞いておられるお方だと、ハガルを通して教えられたのだ。
イシュマエルは野生のろばのようになる、と主は言われた。
この時生まれたイシュマエルは、アラブ民族の父祖だと言われており、アラブ民族とイスラエル民族がたどってきた歴史を見るに、その通りになっている。
しかし、歴史とは、神の側の提示に人がどう受け答えたかによって織りなされているものであり、今日あるまでに争いが激化してしまったのは、人の側が神の御言葉に不従順を積み重ねて来たからである。
イシュマエルの子孫の中にも、命の危険を賭してまでキリストを信じる信仰を守り通している立派な兄弟姉妹がいるように、私達自身も、野生のロバのような暴れる罪の性質をとりこにしてキリストに服従させるなら、聖霊により、要塞をも打ち破るいのちの力が発揮され、ますます神の子とされて行くのである。(2コリント10:4-6)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
神の一人勝ち(1サムエル4:1-3):右クリックで保存
今日は朝、昼、夕、夜と、4回礼拝があり、さっき、夜の礼拝が終わった所です。
また、教会の友人の姉妹が、栃木からはるばる来られ、昼から交わりに加わっております。
これからまだ交わりが続きますが、御言葉も祈りも賛美も交わりも、楽しいから止められないですね。
礼拝説教メッセージ音声:苦々しさがはびこる原因(創世記16:1-6):右クリックで保存
アブラムは再び失敗する。
前回の失敗は、ききんで食料が無い事に焦って神に頼る事無く独断でエジプトへ行ってしまったことだったが、今回は、サライが子が中々与えられない事に焦り、独断で解決方法を考案し、それをアブラムに勧め、アブラムは神に聞かず、妻の声にそのまま聞きしたがってしまった事だ。
彼女の考案した解決法とは、自分の女奴隷が代わりとなって、自分の子の代わりを得よう、というものである。
当時、そのように女奴隷を通して代理で子を産んでもらう風習があり、サライは、神の約束で未だ成就されていない分を、世で行われている風習に則って果たそうと考えたわけである。
頼るべき主に頼らず、信頼すべき御言葉に自分なりの解釈を施して身勝手に行動してしまうと、必ず、苦々しい結果がつきまとう。
サライは「たぶん」それで自分は子を得られるだろう、と軽く考えていただけで、もし実際にハガルが身ごもったら、どんな自分がみじめになるかまでは考えていなかったのだろう。
サライは、世の解決法によって行動してしまった結果、世の価値基準から、世そのものから嘲られ、見下げられてしまった。
彼女は、女として子を宿す力においても、若さ、美しさにおいても、多くの点でハガルに劣っている自分が浮き彫りにされ、惨めになった。
自分由来の何かに頼る事を「肉のわざ」と言うが、彼女がそれに頼った結果、「ねたみ、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い」という肉の実(ガラテヤ5:19-21)を見事に結んでしまったわけである。
ハガルは自分がみごもったのを知って、自分の女主人を見下げるようになった。(4節)
御言葉を身勝手に解釈し、肉にの方法に頼るなら、やがて、それによって見下げられ、嘲られるのである。
例えば、たばこを吸ってはならないとは聖書には無いが、だからと言ってイライラする都度それに頼っていたら、後には、そのたばこによって嘲られ、たばこによって支配されるようになってしまう。
たばこに限らず、身勝手な御言葉解釈や自分で考案した方法によって、自分の必要を満たそうとするなら、必ず苦い結果がついて回る。
『サライはアブラムに言った。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。。。』(5節)
自分で考案し勧めておきながらその言葉は無い、と思うかもしれないが、確かに、アブラムにも責任がある。
妻が御言葉を「超」解釈して薦めてきた場合、夫たるアブラムが、御言葉を根拠に、妻をたしなめなくてはならない。
エバの時も、御言葉に反した事を薦めてきたのであれば、御言葉に基づいてたしなめるべきであったが、アダムはそうせず、妻の声に聞きしたがって、自分の一家だけでなく人類全体に呪いを招いてしまった。
世のならわしや妻の考案した方法に安易に飛びつくのではなく、祈りつつ忍耐して待つべきであった。
『アブラムはサライに答えた。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい。」サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた。』
アブラムにとって、せっかく自分の子を身篭ったハガルにそのように決断を下すのは辛かっただろう。
アブラムが受胎を聞いた時は喜びだったかもしれないが、肉に由来する幸いは、ほんのつかの間である。
結局、3人ともども、苦々しい思いをする事になってしまった。
私達が学ぶべきは、身勝手に御言葉を解釈して行動するべきでない事、もしそのように肉にしたがって行動するなら、束の間の幸いは得ても、苦々しさがはびこり、その行動の生成物によって、嘲られてしまう、という事である。
忍耐して御言葉に信頼し、いつでも主に祈って求める皆さんでありますように!
イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:闇を通り過ぎる炉と松明(創世記15:7-21):右クリックで保存
『その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで』(18節)
イスラエル民族が、エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまでの広大な土地を所有した歴史は、今に至るまで、無い。
この約束は今もまだ、成就へと向かっている真っ最中という事である。
アブラムは、出生の地・ユーフラテスの地から、エジプトに至るまで足で踏み歩いた。
神はかつて「その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」(13:17)と言われた通り、彼が踏み入った土地すべてを、彼と彼の子孫のものとするわけである。
アブラムは主に、この土地を継げるという事を、何によって知ることができましょうか、と尋ねた所、主は「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」と言われた。
アブラムは言われたとおりの動物を用意し、神が何かをなされるのを待ったが、待っていてまず来たのは、禿鷹だった。(創世記15:8-11)
神が「用意せよ」と言われたものを用意すれば、すぐに何かが示されるわけではない。
主に示された捧げものを用意して主を待ち望む時、汚れた者がその尊いものを狙って来る事は、大いにありうる事で、その時、私達もそれを追い払わなくてはならない。
『日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。
主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。
しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。』(12-14節)
神の民であれば何の苦労もなくそのまま自動的に約束の地へと入れる訳ではなく、必ず試練の時、暗黒の時を通らされる。
「それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」(16節)
約束の地は、悪しき者の支配下にあり、その悪しき者達の悪が、神の秤の目分を満たすまで、裁きは執行されないからである。
ノアの時代やアブラハムの時代と同じように、この世の悪も、極みに満ちるまでは裁きは為されない。
神は義なるお方で、人が何も悪い事をしない内に「お前は悪しき者だ」と言って裁くことはせず、中々裁きが実行されない事がある人の目には遅いと感じるかもしれないが、その者達の邪悪さが誰の目にも明らかとされるその時まで、神は裁きはなされない。(黙示6:9-11)
「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。」(17節)
主は、煙を吐く炉と燃える松明という形で現れ、二つに裂かれた動物の間を通り過ぎる事によって、アブラムとの契約に調印をされた。
詩篇18編によると、立ち上る煙と燃える火による顕現は、神の怒り、さばきのしるしである。
事実、後の時代に、主はエジプトで苦しんでいるアブラハムの子孫達のさけび声を聞き、火と雲を従えて降りてこられ、エジプトをさばき、アブラハムの子孫達を助けられた。
現在、この世は邪悪な者達が好き放題しているが、やがて主イエスは雲に乗って来られ、火によって裁かれ、そうして世は改まり、永遠なる主の支配が来るのである。