メッセージ - 201209のエントリ

祝福されたら、どうするか?(申命記26章)
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『あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。』(申命記8:12-14)
私たちは、食べて満足する事や立派な家が建つ事、持ち物が増え、財産が増す事は大好きで、是非そうなるようにと、良く祈る。しかし、そのような祝福を受け、幸いを受けた後、主とどのように関わっていくか、という事こそ、今から心がけ、しっかりと頭の中でシュミレーションしておくべきである。
私達が幸いを得た時、どのようにすべきか。それは、申命記26章に詳しく書かれてある。

私達が祝福され、幸いを受けたなら、まず、主が指定された場所へ行って感謝し、礼拝するようにと、定められている。すなわち、任務に就いている祭司の所へ行き、自分が幸いになった事を主に報告し(同3節)、祭司はそれを主の御前に捧げる(4節)。
そこで私達は次のように告白する。自分はかつて、いかに取るに足りぬ者であり、いかに弱く人々から苦しめられていたかを(5-7節)。そして、主に向かって叫んだ時、主がいかに力強い御手でそこから救い出し、主がいかに良き地を与えて下さったのかを。(8-9節)
そうして、主が与えて下さった祝福の初物を捧げ、礼拝し(10節)、主が与えて下さった恵みを、レビ人すなわち主の働き人と、在留異国人すなわち私達の内にいる身寄りのない人と共に喜ぶのである。(11節)

祝福を受け幸いを得たら、それで終わりではない。主が命じられた事を、守り行い続ける事こそ大事である。
レビ人や在留異国人、孤児とやもめには、土地や仕事などの分け前が主から与えられていないため、それら分け前が与えられている聖徒は、彼らに祝福の分け前を与え、満足させる義務が与えられており、それを守る聖徒には、主が全ての手のわざを祝福して下さる事を約束しておられる。(申命記14:28-29)
そうしてそれらの義務を果たした後、主に「私は主の御声に聞き従い、すべて命じられた通りに行いました」と、主に報告するなら、次のように祈る事ができる。
「天にあるあなたの聖なる住まいから見下ろして、あなたの民イスラエルを祝福し、あなたが先祖に誓われたとおりに、わたしたちに授けられた地、乳と蜜の流れる土地を祝福してください。」(申命記26:12-15)

私達は何かと、乳と蜜の流れる地に「入る事」や「居る事」を求めるが、それよりも、私達自身が主の御声に聞き従い、祝福の子であり続ける事のほうが、はるかに大事である。
もし私達が御声に背き続けて「呪いの子」となってしまうなら、たとい私達のいる場所が乳と蜜の流れる地であっても、それは私達に対して「呪いの地」となってしまう。
現にイスラエルの民は、乳と蜜の流れる地にいながら驕り高ぶり、主を忘れ、幾度にも渡る預言者による警告に耳を傾けなかった結果、その「乳と蜜の流れる地」に居ながらにして、病や剣、ききん等で屍をさらし、ついにはその地から吐き出されてしまった。
主が私達の祈りに答えて下さり、私達が望む高いポジションに登りつめ、収入が多くなり、安住の地を得た時こそ、注意して主の御声に聞き従い、祝福の子であり続けるようにと、つとめるべきである。
傲慢になり、そのようにして下さった主を忘れてしまうなら、かつてのイスラエルの民のように、それら祝福は奪われ、以前よりさらに悪い状態になってしまうのだ。

神が定めた律法を守り行うなら、祝福して下さる、と神は約束して下さったが、人は律法を全て守り行う事が出来ない。しかし、律法を成就して下さったお方であるイエス様を主とし、主と一つとなる事は出来る。
すなわち、自分が自分の主人である事を降り、自分の人生のハンドルさばきをイエス様に委ね、イエス様を自分の主人とし、イエス様の御声に聞き従うと明言するなら、主は次のように明言される。
『あなたに約束したとおり、あなたは主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。そして、約束のとおり、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。』(申命記26:16-19)

礼拝説教メッセージ音声:牢獄に入れられた時には(創世記39:11-23):右クリックで保存

ヨセフは奴隷として売られた後は、無実の罪で監獄へ入れられてしまう。
『主人はその妻が「あなたのしもべは、わたしにこんな事をした」と告げる言葉を聞いて、激しく怒った。そしてヨセフの主人は彼を捕えて、王の囚人をつなぐ獄屋に投げ入れた。』(創世記39:19-20)

人は時に、「なぜ正しい事をしているのに、どんどん不利になって行くのか」「神がいるのに、なぜ悪人は栄え善人は虐げられっぱなしなのか」と、不条理な世の理不尽さにあえぐ。
人は、未来は分からない。一年後どうなっているのかも、明日起こる事さえ見る事はできない。
それ故、きょう目の前で起こっている事の現実が、あたかも、いつまでも続くかのように錯覚してしまう。それが自分に栄光であろうと、自分に災いであろうとも。
しかし、主の御思いは人の思いを超えてはるかに高く、主が求める者に計画しておられるご計画は将来と希望を与えるものであり、備えておられる道は最善の道だ。

『「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。―― 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。』(イザヤ55:8-11)

『こうしてヨセフは獄屋の中におったが、主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた。』(創世記39:21)
主は牢屋の中でも、魚の腹の中であろうとも、共におられ、私達の祈りを聞き、恵み深く計らってくださる。

人は思うかもしれない。主がおられるなら、牢屋の中に共におられると言う以前に、初めからわたしを牢屋にぶち込まなかったほうが良かったのに、と。
しかし、主がなさる事には、必ず意味がある。
ヨセフがこの時代、この時、「王の囚人が入れられる獄屋」に彼が「いる」事が、後のイスラエル民族のためにとても重要で、どうしても外せない事だったのである。
同じように皆さんも、今この時この場所で、苦しい目に遭っている事は、実は将来の重要な事のための、主の布石だったりする。

『主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。主の救いを黙って待つのは良い。
人が、若い時に、くびきを負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。
口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。
主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。』(哀歌哀歌3:25-33)

主は何のために、あえて人を辛く苦しい所を通らされるか。
それは、私達の心の内が、神と人との前に明らかにされるためであり、結局、物事は人の手で成し遂げられるのではなく一方的に主が成して下さるのであり、主こそ全ての全てだと、私達が知るためである。

『あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。
・・・
あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。』(申命記8:2-16)

奴隷仕事の中でも、牢の中でも、主から来るマナ、すなわち主の慰めや必要の満たしは、必ずある。
そして主を頼りとしているならば、主はついには私達をしあわせにして下さる。
くびきを負わされ試練の中に入ったのであれば、一刻も早く自分を下ろし、主の御手の内に服従する事で、速やかにその試験をパスし、さらにさらに多くをまかされる皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:総理大臣となる素養(創世記39:1-10):右クリックで保存

ヨセフは、イスラエルの12人の子の内で、最も数奇でドラマチックな運命をたどった人だ。
兄達の殺意のために奴隷に売られ、無実なのに監獄に入れられ、そこから一転し、エジプトの宰相(総理大臣に相当)とされ、その地位においてエジプトを栄えさせ、家族だけでなく、世界の多くの人の命を救った。
ヨセフのようになりたい、と、漠然と憧れるクリスチャンは多いが、私達はまず、ヨセフが若かりし頃に培った素養に、すなわち、兄に憎まれていた時期や奴隷の時期、監獄にいたそれぞれの時期に、彼は何を基準に考え、何を口で告白し、行動したのか、という事にこそ、目を留めるべきである。

まずヨセフの第一の特徴は、正直者である事。
世の中では「正直者はばかを見る」と言われているが、神の国の法則は「正直な人は地に住みつき、潔白な人は地に生き残る。」(箴言2:21)である。
多くの人は空気を読みすぎてしまい、権力者の前で正直である事を躊躇するが、彼は、権力者の顔色に物怖じする事なく、正直に、真実を告白した。

『ヨセフは連れられてエジプトに下ったが、パロの役人で侍衛長であったエジプトびとポテパルは、彼をそこに連れ下ったイシマエルびとらの手から買い取った。』(創世記39:1)

もし皆さんが、兄弟姉妹の陰謀によって、大好きな教会からある日いきなり遠く不法に満ちた所へと強制労働に売られ、一人ぼっちになってしまったら、どうするだろう。
自暴自棄になって汚れた価値観に染まってしまってもおかしくはないし、「自分は不当な目に遭っているのだから」と、仕事をだらだら手を抜いても、仕方ないと思うかもしれない。
しかしヨセフは自己憐憫に陥る事なく、奴隷仕事さえ忠実に行い、そこの主人に認められ、さらに大きな事を任されるようになったのだ。

『小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。
だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。』(ルカ16:10-12)

立てられている権威は全て、神から来たものである。
ヨセフは、不正な国エジプトの、不正な主人に仕える奴隷仕事にさえ、忠実であった。
それだから彼には多くのものが任され、主人の全財産を管理するまでになったのだ。

もし、神の国という大舞台で活躍したいのなら、まず、不正と思える世の中において、小さな社会常識を忠実に守る所から、である。
小さな事に忠実でない者が背伸びして大きな仕事を手繰ろうとしても、周囲から無理やり降ろされてしまうだけだ。
しかし、小さな事に忠実な者は、周囲が無理やりにでも大きな仕事を任せるようになる。

ヨセフが祝福されたのは、神が気まぐれにえこひいきしたからではなく、彼が小さな事に忠実で、正直であったからである。
ヨセフは忠実であった結果、主がその家全体を祝福され、そこの主人は、自分の食べる食物以外には、何も気を使わないまでになったように、主ご自身がその持ち場全体を祝福して下さり、そこの人達から尊敬されるようになるのだ。

そしてヨセフは、女性関係においてクリーンだった。
『これらの事の後、主人の妻はヨセフに目をつけて言った、「わたしと寝なさい」。』(創世記39:7)

エジプトの高官の妻であるからには、相当に美しく、女性としての魅力もあった事だろう。
ヨセフがこの誘惑を受けた時は20歳前後、男性として最も性欲盛んな時期である。
真の神を知らぬ、不品行のはびこる異邦の国であり、不倫など珍しくもない所である。
そのような状況で、ヨセフは誘惑を穏やかに拒否し、神の国のスタンダードを貫き通したのだ。

「どうしてわたしはこの大きな悪をおこなって、神に罪を犯すことができましょう」(9節)
異邦の女や人妻と寝る事には、死の罠が潜んでいる。(箴言2:16-19、箴言5章)
ヨセフには神への恐れがあり、霊的本能に導かれていた彼には、異邦人の人妻と寝るなど絶対にNGだったのである。
まったく、ユダとは大違いである。

こうしてヨセフは、エジプトに売られた当初から正直であり、小さな事に忠実であり、性的誘惑に妥協せず、清さを保ち、そのようにして宰相たる素養を培ったのである。
そのような性質は、世の人から見れば真面目過ぎる、固すぎて損する道に見えるかもしれない。
確かにヨセフは、その特徴ゆえに、13年奴隷にされ、牢獄にも入れられた。
しかし、後の80年という長い年月は総理大臣として誰よりも栄えた。

多くの人は、13年の奴隷や牢獄を避けたいが為に、空気を読んで正直さを控え、小さな事をぞんざいにし、世に流されて誘惑や異性関係に妥協してしまい、そうして、80年の長きの栄光を逃してしまうのだ。
思うように行かない時こそ訓練の時として、ヨセフのように正直に、忠実になり、誘惑に妥協せず、清さを保ちつつ過ごすなら、やがて大きな事が、神様から委ねられるようになるのである。

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
現代のイエス様の現れ方(ルカ24:13-16):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
2ペテロ3:8-13:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:王族としての整え(創世記38:24-30):右クリックで保存

『ところが三月ほどたって、ひとりの人がユダに言った、「あなたの嫁タマルは姦淫しました。そのうえ、彼女は姦淫によってみごもりました」。ユダは言った、「彼女を引き出して焼いてしまえ」。』(創世記38:24)

この場面は一見、タマルのいのちの危機だが、実は、危機一髪だったのはユダのほうであった、というのは、前回見た通りである。
ユダ自身、3ヶ月前に密かに遊女を買い、その事を隠そうとしたが、主は、そうは行かせない。
いのちの光は、人が隠そうとしても隠せないし、いのちを殺そうとしても主は守り、また、人のいのちを粗末にする者は、主がその者のいのちを粗末にされる。

ユダは、自分も同じ罪を犯しておきながら、タマルに死刑判決を下したが、彼の子孫・ダビデも、同じ事をした。(2サムエル12章)
預言者ナタンがダビデの元を訪れた時、羊一匹しか持っていない貧しい者からそれを取り上げた金持ちの話をナタンが話したが、ダビデはその金持ちに死刑判決を下した。
しかし実は、その金持ちとは、ダビデ自身の事だったのである。

ダビデは隠れてバテシェバと姦通し、彼女の夫ウリヤを暗殺し、物事を闇に葬り去ろうとしたが、主は、それを白昼公然と晒す事を預言された。
ダビデはそれを聞いた時、「わたしは主に対して罪を犯した」と言って自分の非を認め、正しい判断をした故に、主はダビデの罪を見過ごして下さった。
もしこの時、ダビデがかたくなになり、あくまで自分のしたい事を強引に押し通そうとしていたら、サウルのように悲惨な死を遂げ、子孫は廃れていた事だろう。

『彼女は引き出された時、そのしゅうとに人をつかわして言った、「わたしはこれをもっている人によって、みごもりました」。彼女はまた言った、「どうか、この印と、紐と、つえとはだれのものか、見定めてください」。』(創世記38:25)

ユダは、自分が遊女を買うために一時手放してしまったその印形とひもと杖を見た時、恥じ入った事だろう。
彼もダビデのように自分のした事を闇に葬ろうとしたが、主はそれを白昼公然と晒した。

その時、彼は「彼女はわたしよりも正しい。わたしが彼女をわが子シラに与えなかったためである」と言って自分の罪を認め、もはやタマルと肉体関係を持とうとはしなかった。
もし頑固に怒り狂ってタマルを焼き殺し、3つのいのちを奪っていたとしたら、きっと彼も、オナンのようになっていただろう。
自分には罪がある事を正直に認め、主に立ち返り、正しい事をする事。
それこそ、王族の者の対応である。

ユダは父ヤコブの臨終の時、父から祝福の預言を受ける。
『つえはユダを離れず、/立法者のつえはその足の間を離れることなく、/シロの来る時までに及ぶであろう。もろもろの民は彼に従う。』(創世記49:8)
彼は肉欲のため、遊女を買うために、支配者の杖を一時手放してしまったが、もはや、支配の杖は彼から離れる事は無い。

ユダの家系は女性関係で失敗しやすいが、父祖の代で、このような失敗と恥を受けた事によって、逆に益となった。
彼らは、ことさら女性に対し、伴侶選びに対し、子孫を生み残す事に関して、特に気をつけるようにと、子孫達を教育して行った事だろう。
こうしてユダ族は、支配者として整えられたのだ。

『さて彼女の出産の時がきたが、胎内には、ふたごがあった。』(創世記38:27)
助産婦は、最初に生まれようとしていた赤子の手に、真っ赤な糸を結びつけたが、その子はお母さんのおなかのほうが居心地が良かったのか、戻ってしまい、もう一方のほうが、先に生まれ出てきた。
この、割り込んで先に生まれてきた子はペレツ(割り込む)、真っ赤なしるしをつけられながらも、後から出てきたほうの子は、ゼラフ(輝き)と名付けられた。

真っ赤な糸といえば、ヨシュア記2章の遊女ラハブを思い出す。
彼女はイスラエルの斥候に言われた通り、真っ赤な糸のしるしを窓に結びつけた事によって、家族もろとも救われ、後にはユダの家系へと嫁ぎ、王族の家系に加えられた。
しかしゼラフは、先に生まれかけて赤いしるしも付けられたのに、再びお母さんの胎内に戻ってしまった。
その故に長子の権利は奪われてしまい、王族はペレヅから出ることとなった。

いかに王族の赤い印がつけられても、再び生来の生き方に戻ってしまうなら、神の国の権利は、それを奪おうとする者によって奪われてしまうという事を、私達は忘れてはならない。

「もしわたしたちが、真理の知識を受けたのちにもなお、ことさらに罪を犯しつづけるなら、罪のためのいけにえは、もはやあり得ない。 ただ、さばきと、逆らう者たちを焼きつくす激しい火とを、恐れつつ待つことだけがある。
モーセの律法を無視する者が、あわれみを受けることなしに、二、三の人の証言に基いて死刑に処せられるとすれば、神の子を踏みつけ、自分がきよめられた契約の血を汚れたものとし、さらに恵みの御霊を侮る者は、どんなにか重い刑罰に価することであろう。 」(ヘブル10:26-29)

ヤコブの兄・エサウのニックネームもエドム(赤い)であったが、彼も長子の権利を軽んじ、それを奪わんとする弟によって、長子の権利も祝福も奪われてしまった。
イエスの血潮という救いの赤い印が与えられたなら、それを決して離さず、神の国をさらに求め、さらに祝福が与えられていく皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:いのちによって死を飲み込む主(創世記38:12-23):右クリックで保存

『日がたってシュアの娘ユダの妻は死んだ。その後、ユダは喪を終ってその友アドラムびとヒラと共にテムナに上り、自分の羊の毛を切る者のところへ行った。』(創世記38:12)

主に逆らって怒りを買った二人の息子・エルとオナンは主に打たれて死に、カナンの女もまた死んでしまった。
主は、神を中心とした家庭を築きあげる際、主に逆らって家全体を災いと導いて止めない者を、家族の中から取り除かれる。

12節の「喪を終って」と訳された言葉(nacham)には、「慰められる」という意味もあり、実は「妻が死んで、ユダは慰められた」と訳すことも出来る。
家族の死は確かに痛く悲しい。しかし、主に逆らう者が取り除かれるなら、後々、家全体が慰めを受けるのだ。

『時に、ひとりの人がタマルに告げて、「あなたのしゅうとが羊の毛を切るためにテムナに上って来る」と言ったので、彼女は寡婦の衣服を脱ぎすて、被衣で身をおおい隠して、テムナへ行く道のかたわらにあるエナイムの入口にすわっていた。彼女はシラが成人したのに、自分がその妻にされないのを知ったからである。』(創世記38:13-14)

ユダは、シラが成人したのに、彼が主に打たれるのを恐れて、タマルをシラの嫁にやらずにいた。
オナンはタマルと夫婦の営みをする時、子が出来ないよう外に出し、「生んで増える」という主のいのちの祝福に逆らって殺されてしまったが、ユダのやっている事は、オナンと同じ罪である。
それでタマルは、義理の父・ユダが通りそうな所へ行って遊女の格好をし、ユダの子種を得ようと計ったのかもしれない。

なにしろタマルは、前夫が主の怒りを買って打たれたのを、二度も生々しく見ている。
ユダと共におられるいのちの主に逆らう事が、いかに恐ろしいか、人の良し悪し判断で子を生まない事が、いかに災いを招くかを、目の前で二度も体験している。
今、ユダは自分に子を産ませないようにしているが、それがどんな災いを招いてしまう事だろう。
だから命がけの大胆な行動に出たのかもしれない。

ユダは、遊女の格好をしたタマルを見ると、遊女を買うための交渉を始める。
『彼女は言った、「それをくださるまで、しるしをわたしにくださいますか」。ユダは言った、「どんなしるしをあげようか」。彼女は言った、「あなたの印と紐と、あなたの手にあるつえとを」。彼はこれらを与えて彼女の所にはいった。彼女はユダによってみごもった。』(創世記38:17-18)

彼がしるしとして与えた3つの品は、いずれも大切なものである。
「印」は、指輪のように指にはめられる印鑑で、権威の象徴であり、「紐」は英語ではブレスレットと訳され、腕や首を飾るものであり、また、「つえ」は支配の象徴の道具である。
そんなに大切なものを、ユダは、遊女と寝るための抵当として、預けてしまったのだ。
彼女は中身はタマルではあるが、ユダにとっては異邦の遊女である事には変わりない。
遊女と寝るために、権威と支配の道具を手放してしまうとは、一体どうした事だろうか。
彼が異邦人の国に、異邦の妻の価値観に、どっぷりと漬かってしまったのが、伺える。

しかしこの章を見ていると、人は、罪の行いをしたら主に打たれる、というより、主に逆らい続ける時、打たれるようである。
人は元々、罪に染まっていない者は無い。
そんな人が主に向かうなら救いはあるが、救って下さる主に背を向けるなら、救いは無いのだ。

彼女は、このたった一度の逢瀬で、身篭った。
主はいのちの主であり、子を宿すも宿さないも、主が支配しておられる。

ユダも、その子孫のダビデも、たった一度の逢瀬で、しかも、誰にも知られたくない状況で、いのちを宿された。
そして彼らの誰にも知られたくないような行いは、イエス・キリストの系図の中に、永遠に記録される。(マタイ1章)

結局、人は罪深く、どうしようもない事しか出来ない。
そして、そのどうしようもない「人」の子孫から、神の子キリストは人として宿り、罪は犯されなかったものの、人としての悲惨さを全て味わいつつ、人と共に生き、人の身代わりとなって死んで下さり、人としてよみがえって下さったのである。
人間の欲望に汚れた有様の中に、主の憐れみ、主の良いお方であることのご性質だけが、ただひときわ際立つ。
人は、憐れみ深く聖くあられる主を前に、ただ感謝してひれ伏すしか無く、このお方に逆らい続ける事は、極めて罪深いのだ。

ユダがやった事も、タマルがやった事も、カナン人の女も、息子たちも、いや、人類もみな、主の御前に最低である。
しかし、いのちの主は、いのちによって全ての死を勝利へと飲み込むのである。

礼拝説教メッセージ音声:メシヤの父祖の成り立ち(創世記38:1-11):右クリックで保存

37章からヨセフを中心とした物語が始まったばかりなのに、38章では唐突にユダの結婚と子供の話に入る。
ユダは、イスラエルの王族の父祖であり、全世界を救うメシヤの家系でもあるので、この一族の成り立ちは聖書からは外せない。
しかし、そのような重要な一族生成の初期段階においても、人間の罪と欲望の渦巻くドラマがある。

ユダは兄弟達から離れ、アドラム人ヒラの所で住んでいた。
『ユダはその所で、名をシュアというカナンびとの娘を見て、これをめとり、その所にはいった。』(2節)
今まで学んで来た通り、神に属する家系は、異邦人から妻を迎え入れると、必ず災いとなる。
ユダは兄弟達から離れて住んでいたので、仕方なくカナン人から妻をめとったのであろうが、その、ちょっとした妥協が、後に多くの悲しみと、時間やエネルギーの浪費を生み出す事となってしまう。

最初に生まれた息子・エルは、ユダ自身が名付けたが、2番目・3番目の息子はこのシュアの娘が名付けた。
この異邦人の妻と暮らしていく中で、ユダの家長としての権威はますます弱くなって行き、シュアの娘の影響力が次第に大きくなって行ったのだろう。
長男は、主を恐れる父親より異邦人の母の影響を受け、主をおそれるのではなく怒らせるようになって行き、ついには主に殺されてしまった。

『そこでユダはオナンに言った、「兄の妻の所にはいって、彼女をめとり、兄に子供を得させなさい」。しかしオナンはその子が自分のものとならないのを知っていたので、兄の妻の所にはいった時、兄に子を得させないために地に洩らした。彼のした事は主の前に悪かったので、主は彼をも殺された。』(創世記38:8-10)
イスラエルには、生んで増えて地に満ちるという祝福の命令が与えられているのに、オナンはそれに逆らい、そして父の意向にも逆らったため、彼もまた、主に殺されてしまったのだ。

主の怒りを招いた、と言えば、ヤコブの12人の子達も負けず劣らず行状が悪いが、少なくとも彼らは神を恐れ、意図的な「反逆」はしていない。
しかし、一家に偶像を持ち込んだラケルは早死してしまったように、妻も子供たちも偶像礼拝など主への「反逆」をしてしまったために短命だったのかもしれない。
列王記や歴代誌には、ユダのさらなる子孫たちの有様が記されているが、主を捨てて偶像礼拝に走った王達は、必ずと言っていい程、短命で災い多き人生である。

『そこでユダはその子の妻タマルに言った、「わたしの子シラが成人するまで、寡婦のままで、あなたの父の家にいなさい」。彼は、シラもまた兄弟たちのように死ぬかもしれないと、思ったからである。それでタマルは行って父の家におった。』(創世記38:11)

ユダの妻であるシュアの娘は、出所は「カナン人」であるが、明確な名前は記されておらず、歴代誌にもカナン人シュアの娘と記されている。
しかし、このタマルという女性は、名前は明確に記されているのに、出所は記されていない。
という事はタマルは、もしかしたらアブラハムの家系なのかもしれない。
いずれにせよ、彼女は、ユダ一族の子孫を残す事がいかに大切かをユダよりも意識しており、彼女が主を恐れている事を伺わせる。

ユダは息子が二人も死んでしまったので、タマルが縁起悪いと思ったのだろうか、彼女を三男から遠ざけた。
しかし、息子二人が死んでしまったのは、一体誰の責任だろうか。
それは書かれてある通り、息子たち二人が、主に逆らったからである。
そしてこの三男も「兄弟たちのように死ぬかもしれないと、思った」と書いてある以上、彼も主に打たれて死ぬ要素が十分にあった事を、ユダ自身が認めていたのだろう。

ユダは、タマルを遠くにやるよりも、自分たちの主に対する態度に間違いがあった事を認め、悔い改めるべきだった。
それなのに彼はそれをせず、一人の弱い立場の女性・タマルを遠くにやり、嫌な事はうやむやのまま、葬り去ろうとしたのだ。

しかし、神に属する一族にあっては、罪の問題やいのちを生む事、神への果たすべき責任を、うやむやのまま先延ばしにして、そのままフェードアウト出来るわけは無いのだ。
ユダは悔い改めを先延ばしにしてしまった結果、後に人々の前でとても恥ずかしい思いをする事となる。

ちょっとした信仰の妥協は、大きなロスと悲しみを生み出し、果たすべき謝罪や悔い改めを、先延ばしにすればする程、後に受ける恥も災いもどんどん大きくなっていく。
主の御声には、どんなささやかなものでも正確に聞く耳が開かれ、その導きに従って、時間もいのちもロスする事なく歩んで行く皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!

良くなったら、どうするか?(ルカ17:11-19)
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イエス様がエルサレムに向かう途上のある村で、10人のらい病人が遠くに立ち、イエス様に叫んだ。「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」(ルカ17:13)
この病に罹ると、神経は麻痺し痛みや熱さなど感じないため、怪我しても正常な対応ができない事が多い。
らい病は律法では汚れているとされ、出歩ける所も制限され、家族にも会えず、隔離されて生きるしか無い。
当時は治療法の無い病として恐れられていたが、私達も霊的に、この病に罹っているようなものである。
私達は、罪という癒しようの無い病によって汚れ、霊の感覚が麻痺しているため、嘘をついたり、人を傷つけたりして、自分自身をどんどん罪のとげで刺しても、全く気付かず、やがて死に至ってしまう。
彼らはイスラエルの民から隔離されなくてはならなかったように、私達も、以前は救いから遠く離れ、空中に権威を持つ支配者・サタンに縛られ、肉欲の望むままを行い、滅びるべき者達だった。(エペソ2:1-8)
しかし、憐れみ豊かな神は、私達を愛して下さったその大きな愛の故に、罪の中に死んでいた私達をキリストと共に生かし、共に天の所に座らせて下さる恵みの道、救いの道を、私達に与えて下さった。
らい病人達がイエス様に「あわれんでください」と遠くから叫んだように、救いから遠い私達もイエス様に「あわれんでください」と叫ぶなら、救いの道は開かれるのだ。それはイスラエル人も異邦人にも、違いは無い。

イエス様は、彼らに手を置いて祈るなどはせず「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。
祭司の所に行って体を見せるのは、本来体が治癒を見せてからだが、まだ兆候も無いのに、そう指示した。
もし祭司から「きよめられた」という宣言が出たら、らい病人としての隔離生活は終わり、家族の元に戻ってイスラエルの民としての生活が出来、それまでしたくても出来なかったあの事この事も出来るようになる。
彼らはまだ癒しの兆候も無い内にイエス様の言葉を信じ、言われた通り実行したら、その最中に癒された。
しかし、自分を癒して下さったお方の所へ引き返し、感謝をささげたのは、たった一人だけだった。
主は「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」と言われ、悲しまれた。(ルカ17:17-18)
神を知らぬ人でも、大抵祈る。私を幸いにして下さい、病を癒して下さい、富ませて下さい、と。
しかし、自分が癒された後、富んだ後、自分をそのように幸いにして下さったお方に、何を感謝し、そのお方とどのように関わって生きて行くのか、という事が、すっぽりと抜けている人の何と多い事だろう。
癒された9人は、イエス様の所へ戻って神をほめたたえる事なく、祭司の所で清められた事のお墨付きをもらったら、それぞれ自分の好きな所へ行き、やりたかったあの事この事をしに、さっさと出かけてしまった。
主は、願い事を何でも叶えてくれる都合の良い四次元ポケットではないし、祈りは、癒しや富、幸いを引き出すためのキャッシュカードでもない。主は人格ある御方であり、祈りはその御方との麗しい交わりなのだ。
主が嘆き悲しみから開放し、病を追い出し、貧しさから解放して下さったのなら、すぐに感謝するために戻り、以前、悲しみや病、貧しさのあった隙間を、主への賛美や御言葉、奉仕で埋めなくてはならない。
癒されても感謝する気が無いなら、むしろ癒されない方が良いし、奇跡を見ても信じる気が無いなら、奇跡など起こらないほうが良い。なぜなら、癒されても、奇跡を見ても、なお主への方向転換(悔い改め)が無いまま、依然として罪を犯し続けるなら、前よりも、もっと悪い状態になってしまうからだ。
悪霊が出て行った時、そこを空き家の状態にしておくと、それは悪霊の好む飾り付け(コスメオー)となり、次に悪霊が帰って来た時、さらにたちの悪い悪霊を七つを連れ込み、前よりもっと悪くなってしまう。しるしや奇跡を見ても悔い改めず、主の元に来ない者は、そのようになってしまうのだ。(マタイ12:38-45)

主イエス様に癒され、良くしてもらったのなら、主の元に戻って感謝を捧げ、主の元に留まるべきである。
私達が「この事が解決したらあの事この事をしたい」という、主・不在の願望を持っている内は、解決は先延ばしになる可能性が大きい。なぜなら、自己中な動機を持っている限り、逆に災いになってしまうからだ。
天国とは、単に快適で気持ちの良いお花畑ではなく、神と共に住み、神と永遠に関わりを持つ所である。
全能であり完全な愛で愛して下さるお方・イエス様と、関わり続ける事。これこそ私達にとって全てである。
主に癒された後、幸いが与えられた後、富が与えられた後、主とどのように関わって行くつもりだろうか?
願いが聞かれ幸いになった暁にはしっかり感謝し、主といつまでも関わり続ける皆さんでありますように!

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