メッセージ - 201209のエントリ

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
天で偉大な者は、子供のような者(マタイ18:1-4):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主はわたしの羊飼い(詩篇23篇):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
2ペテロ3:1-7:右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声:人の愛情(創世記37:29-36):右クリックで保存

『彼らはヨセフの着物を取り、雄やぎを殺して、着物をその血に浸し、その長そでの着物を父に持ち帰って言った、「わたしたちはこれを見つけましたが、これはあなたの子の着物か、どうか見さだめてください」。 』(31-32節)
ヤコブ自身が愛情を込めて特別にこしらえ、ヨセフに贈った長服が、ぼろぼろに、血に染まって帰って来た。
それを手に取った時の彼の悲しみは、どれほどだったろう。

しかし、彼自身が行った「偏愛」という行いの実を、彼自身が刈り取ったのである。
ヤコブはかつて、「やぎ」の毛皮と、兄の「晴れ着」を用いて「父親騙し」を実行し、父が愛した兄から祝福を奪ったが、今回、彼の息子たちに「やぎ」の血とヨセフの「長服」を使って「父親騙し」を実行され、愛するヨセフを奪われたのだ。
自分がかつて行った「父親騙し」の実も、その身に刈り取ったわけである。

「そこでヤコブは衣服を裂き、荒布を腰にまとって、長い間その子のために嘆いた。」(34節)
ヤコブのその後の言動からは、以前のような覇気は無くなってしまい、何事にも神経質で、失う事を非常に恐れている事から、悲嘆にくれつつ余生を送っていたのを伺う事ができる。

人間の愛情。
それは良いものに見えて、実にやっかいである。
ヤコブがヨセフに寄せていた「愛情」は、兄弟に憎しみを芽生えさせ、ヨセフを命の危険に晒させ、ヤコブ自身に、大きな悲しみを招いてしまった。
人の愛は、利己的で、時に不純で、気まぐれであり、愛憎が強ければ強いほど、自分や周りに対して破壊力を生み出すものだが、主の愛は純粋で完全、永遠である。

彼は時にイスラエルと記されたり、時にヤコブと古い名で記されたりしているが、今回の箇所では、ヤコブの名で記されている。
ヤコブという名前からは、人を掴み、人の祝福を奪い取る、以前の古い生き方を連想させる。
彼は神からイスラエル(「神に支配される」の意)という新しい名が与えられたのに、しばらくは「ヤコブ」と「イスラエル」との間を、行ったり来たりしていたのだ。

ヤコブの生き方、すなわち自分で掴み取る生き方は、失うのみである。
彼はヨセフを手の内に「掴んで」寵愛した結果、失ってしまった。
自分のものとして握り締めていたもろもろが、指の間からこぼれ落ちていくたびに、「あなたはまだ手放さなくてはならない」と言われているのであり、どんどん手放して身軽になっていく内に、ますます主の御前に有用になって行くのである。

一家の中からヨセフが消えた事によって、この一家は変えられていく。
父親は、偏って愛する事がいかに愚かな事だったかを悟り、父親がこんなに悲しんだのを見た兄たちも、自分達のしてきた事がいかに愚かだったかを知った。
しかし、主にあって一度失ったものは、遥かに優れた形で取り戻すのが、十字架の原則である。
ヨセフはまだ生きており、そしてやがて、遥かに優れた形になって父親の懐に帰ってくるのである。

礼拝説教メッセージ音声:最低人間から栄光の家系へ(創世記37:12-28):右クリックで保存

ヨセフの兄たちは、父ヤコブの住むヘブロンの北方80km程に位置するシェケムに移動して、そこで羊を飼っていた。
そこは以前、妹ディナが陵辱された事でシメオンやレビによって虐殺が行われ、兄弟達がそこに入って略奪した所である。(34章)
ヤコブは兄たちの安否を確認するために、ヨセフを使いに出した。

兄たちは、遠くから近づいて来るヨセフを認めた時  互に言った。
「あの夢見る者がやって来る。 さあ、彼を殺して穴に投げ入れ、悪い獣が彼を食ったと言おう。そして彼の夢がどうなるか見よう」。 (19-20節)

兄たちのヨセフに対する憎しみは既に殺意に変わり、ほぼ全員が弟を「殺そう」と言う事で一致したのだが、長男であるルベンは彼を救い出そうとする。
『「血を流してはいけない。彼を荒野のこの穴に投げ入れよう。彼に手をくだしてはならない」。これはヨセフを彼らの手から救いだして父に返すためであった。』(22節)
シメオンやレビは、かつてシェケムで多くの血を流したが、ルベンはさすがに、兄弟の血を流す事はしてはならないと感じたようである。

『さて、ヨセフが兄弟たちのもとへ行くと、彼らはヨセフの着物、彼が着ていた長そでの着物をはぎとり、彼を捕えて穴に投げ入れた。その穴はからで、その中に水はなかった。 こうして彼らはすわってパンを食べた。』(23-25節)
殺意の兄たちに穴に投げ込まれ、ヨセフはとても恐ろしくショックであったろう。
彼は穴の中から憐れみを求めたのに、兄たちはそれをさかなにして、座って食事し出したのだ。

ずいぶんひどい話であるが、憐れみを閉ざす者に待っているのは憐れみの無いさばきである。(ヤコブ2:13)
彼らは20数年後、その報いを受け、ヨセフから苦しい目に遭うのだが、その時彼らは述懐する。

『彼らは互に言った、「確かにわれわれは弟の事で罪がある。彼がしきりに願った時、その心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでこの苦しみに会うのだ」。ルベンが彼らに答えて言った、「わたしはあなたがたに、この子供に罪を犯すなと言ったではないか。それにもかかわらず、あなたがたは聞き入れなかった。それで彼の血の報いを受けるのです」。』(42:21-22)

彼らは後に、自らの行いの報い受けた時、後悔した。ヨセフの苦しみを見ながら、ルベンの忠告を聞き入れて憐れみを示さなかった事を。
しかし、彼らがヨセフを穴に投げ込んだその時、彼らは憎しみを殺意になるまで互いに増幅させ、弟を殺せ、という熱狂的・異常な雰囲気の元に、弟の血を流そうとしたのは、確かである。

しかし、主が計られたいのちの日数は、主が定めたその時が満ちるまで、人も、御使いも、それに触れる事は出来ない。
いかにヨセフが絶体絶命のピンチでも、いかに集団で殺意を燃やし、今にも殺そうとしていても、主がヨセフに立てていたご計画が揺るがされる事は決して無いし、主の許しが無ければ、いのちが取られる事は決してない。
それは、私達にも同じ事が言える。

兄たちがヨセフを穴に投げ込んだ時、ちょうどイシュマエル人の隊商が通りかかった。
『そこでユダは兄弟たちに言った、「われわれが弟を殺し、その血を隠して何の益があろう。さあ、われわれは彼をイシマエルびとに売ろう。彼はわれわれの兄弟、われわれの肉身だから、彼に手を下してはならない」。兄弟たちはこれを聞き入れた。』(26-27節)

ユダが再び「血を流してはならない」と言わなくてはならなかった所を見ると、皆は最初のルベンの忠告を聞かず「ヨセフを殺せ」という方向へと再び戻ってしまったようである。
ユダはこの時、ヨセフ助けようとしたと言うより、どうせなら売って厄介払いしたほうが、少しでも益が残る、とでも思っていたのだろう。

ちなみに、イエス様を銀30枚で売った12弟子も、同じユダという名前である。
ユダの子孫からは、後に王族が生まれ、イエス・キリストもその家系から出るのだが、この時点では、とてもそうとは思えない。
これまでの兄達すべての所業を見ていると、とてもイスラエル12部族の栄光ある父祖たちとは思えないほど、最低人間達である。
自らの手を弟の血に染める事からは免れたが、異邦人よりもたちが悪いのでは、と思える程の、邪悪な思考パターンに、邪悪な行動パターンである。

しかし実は、イスラエルの子らは、このヨセフを通して品性が練られ、一族のいのちが救われ、後には、イスラエル12部族の栄光の父祖らしく整えられていくのである。
もっとも、そこに至るには、さらに多くの月日と、火のような試練をくぐらなくてはならない。

「時にミデアンびとの商人たちが通りかかったので、彼らはヨセフを穴から引き上げ、銀二十シケルでヨセフをイシマエルびとに売った。彼らはヨセフをエジプトへ連れて行った。」(28節)
ヨセフはこうして、エジプトへと売られて行ってしまった。
それは、人間の目から見れば絶望に映るかもしれないが、神の視点から見れば、さらに優れたいのちへの第一歩を踏み出したばかりである。

人間は最悪しか生み出さないが、主に信頼するならば、主はそこから最善を生み出して下さる。
私達も今いかに悪どく、弱く、どうしようもなくても、主イエスに拠り頼むのであれば、主は私達を、キリストに似た者へと造り変え、栄光の神の家族へと加えて下さるのだ。

礼拝説教メッセージ音声:一族で最も正直者のヨセフ(創世記37:1-11):右クリックで保存

37章以降は、イスラエル一族全体の歴史であるが、特にヤコブの11番目の子・ヨセフを中心に話が進む。
ヨセフは兄弟達から憎まれていたが、それには色々な原因があった。

「ヨセフは十七歳の時、兄弟たちと共に羊の群れを飼っていた。彼はまだ子供で、父の妻たちビルハとジルパとの子らと共にいたが、ヨセフは彼らの悪いうわさを父に告げた。 」(2節)
ヨセフは兄弟達に憎まれる事に恐れる事無く、正確に父に報告した。
アブラハムやイサクは周囲を気にする余りに妻を妹だと偽ったり、ヤコブは兄の祝福を「騙し」取ったが、ヨセフのあくまで正直な性質は、そんな父たちとは逆である。

「ヨセフは年寄り子であったから、イスラエルは他のどの子よりも彼を愛して、彼のために長そでの着物をつくった。」(3節)
かつてヤコブがラケルを偏愛したために、妻たちの中に争いを引き起こしたが、ヤコブの偏愛癖もまた、ヨセフが憎まれる要因となってしまい、子供達の中に不穏な空気を生み出してしまった。
「兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった。 」(4節)

ある時、ヨセフは夢を見て、それを兄弟たちに話したため、彼らは、ますます彼を憎んだ。
『ヨセフは彼らに言った、「どうぞわたしが見た夢を聞いてください。 わたしたちが畑の中で束を結わえていたとき、わたしの束が起きて立つと、あなたがたの束がまわりにきて、わたしの束を拝みました」。 』(6-7節)
こんな事を言ったら兄に憎まれるのは目に見えているのに、それは主が見せて下さった、意味のある夢であったから、伝えずにはおれなかったのだろう。

事実、20年以上も後の未来に、彼の夢の通りの事が起こる。
誰もその時、想像し得なかった事だが、ヨセフは30歳でエジプトの宰相になり、40歳くらいの時には全世界を相手に穀物の振り分けをしてしている中で、兄弟達が彼の元に来ておじぎをし、穀物を分けてくれるようヨセフにお願いしたのだ。(創世記42:6)

17歳の彼はまた、先の夢がさらにスケールアップした形で、夢を見た。
『「わたしはまた夢を見ました。日と月と十一の星とがわたしを拝みました」彼はこれを父と兄弟たちに語ったので、父は彼をとがめて言った、「あなたが見たその夢はどういうのか。ほんとうにわたしとあなたの母と、兄弟たちとが行って地に伏し、あなたを拝むのか」。 兄弟たちは彼をねたんだ。しかし父はこの言葉を心にとめた。 』(9-11節)

夢が二度くり返されたのは、このことが神によって定められ、神は確かにこれをなさるしるしである。(創世記41:32)
父ヤコブはヨセフの見た夢をとがめ、父である自分も、母も、おまえを拝むのか、と言って怒るが、彼はその事を心に留めた。

イスラエルの父祖達や12部族は、将来、彼らに後の世代に生まれ出る、ヨセフのような性質を持つ一人の子孫、すなわち、イエスキリストを、拝む事になる。
イスラエルという国は、現在はまだイエスをメシヤとして受け入れていないが、やがて、イエスが主であると告白し、ひざまずく時が、必ず来るのだ。

ヨセフは、色々な面において、イエスキリストの性質を帯びている。
ヨセフは、父からの寵愛を受け、父から特別な服が着せられ、それ故に兄弟達から妬まれ、憎まれ、銀で売り渡され、偽りの罪状をなすりつけられた。
それでも彼は、どんな相手にも正直に、神から託された事を語った。
彼は兄弟達や父からは死んだ者と見なされていたが、実は彼はイスラエル全家を救うために、神によって先にエジプトへ遣わされ、エジプトの統治者とされた。(創世記45:7-8)
イエス様の次の御言葉が思い起こされる。

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。(ヨハネ14:1-4)

ヨセフは救いを得させるために、場所を備えに遣わされた。
同じように、イエス様も私達が天で住む住まいを用意するために、私達に先駆けて天に昇られたのだ。

また、ヨハネは黙示録にて、ヨセフの夢と似た幻を見ている。
「また、大いなるしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。この女は子を宿しており、産みの苦しみと悩みとのために、泣き叫んでいた。・・・女は男の子を産んだが、彼は鉄のつえをもってすべての国民を治めるべき者である。この子は、神のみもとに、その御座のところに、引き上げられた。」(黙示録12:1-2,5)

この女は、イスラエルを指しており、私達霊的イスラエルを表していると言われている。
イスラエルから生まれた、ヨセフの性質を持つ一人の子孫、イエスキリストはやがて現れ、彼は鉄のつえで諸国を治め、全ての膝は彼の前に屈まれ、ひれ伏され、彼が全てを支配し、統治される時が、やがて来るのだ。

ヨセフは正直であるが故に憎まれ、一時期卑しめられ、苦しんだが、それでも正直を貫き通したから、祝福を栄誉を得た。
ヨセフのように、人に対して恐れず、正直に主から与えられた御言葉を語り、たといそれによって困難に陥っても、忍耐して、後には栄光と祝福を受ける皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:肉の者の栄枯盛衰(創世記36:1-43):右クリックで保存

『エサウは妻と子と娘と家のすべての人、家畜とすべての獣、またカナンの地で獲たすべての財産を携え、兄弟ヤコブを離れてほかの地へ行った。彼らの財産が多くて、一緒にいることができなかったからである。すなわち彼らが寄留した地は彼らの家畜のゆえに、彼らをささえることができなかったのである。』(創世記36:6-7)

エサウは弟ヤコブに長男の権利と祝福を奪われたのだが、この創世記36章を見る限り、富においても権威においてもエサウの方が遥かに勝っているようだ。
しかし、エサウの妻たちはカナン人やイシュマエル人であり、エサウの子孫達は、後の行動を見ても、やはり神の基準から離れた「世の人」である事には変わりはない。

エドムは、イスラエルの子達がエジプトで奴隷生活を送っている間にも着実に栄え、セイルの先住民であるホリ人を制圧し(20-30節)、首長も多く輩出し、(15-19、40-43節)、イスラエルに王が出る遥か前から、王たちも多く出た(31-39節)。
神の民イスラエルは栄えず、エサウの民が遥かに栄えているのはなぜか、と思われるかもしれない。
しかし、歴史的視点から見ると、エドムは最終的には滅び、イスラエルは栄え祝福されている。

エドム人(イドマヤ人)はバビロン捕囚の時までは栄えていたのに、イエス様の時代になると少なくなり、最終的に、民族としては歴史から姿を消している。
エドムはなぜ絶滅してしまったのか。
その原因は、オバデヤ書に記されている。

エドムは、他国人がエルサレムを攻めた時、知らぬ顔をし(オバデヤ書11節)、むしろ喜び(同12節)、イスラエルの敵と一緒に門に入って、財宝に手をつけ(13節)、戦禍から逃げようとするイスラエル人の前に立ちはだかって、逃げられなくした。(14節)

詩篇137篇は、バビロン捕囚されたあるユダヤ人が詠んだ詩で、バビロン人が余興でユダヤの歌を歌うよう言われた時、悲しくて歌えなかった様が記されている。
彼は7節でこう詠んでいる。
『主よ、エドムの人々がエルサレムの日に、「これを破壊せよ、これを破壊せよ、その基までも破壊せよ」と/言ったことを覚えてください。』

このように、兄弟が困っている時に、敵の側に立って一緒にいじめるのが、エドム人の特徴であり、その態度が主を怒らせた。
その時以来、主は周辺の国々を用いて、エドム人を立て続けに攻め立て、最後には滅ぼされる。

『オバデヤの幻。主なる神はエドムについてこう言われる、われわれは主から出たおとずれを聞いた。ひとりの使者が諸国民のうちにつかわされて言う、「立てよ、われわれは立ってエドムと戦おう」。』(オバデヤ1節)

歴史上、エドムに攻め入った国々は、アッシリア、バビロン、ハスモン朝、そして、ローマ帝国であり、エドム人はAD66年のローマ帝国に反逆した故に、ティトスによってほぼ根絶され、僅かしか生き残らなかった。
こうして以下のオバデヤの預言が成就したわけである。
『見よ、わたしはあなたを国々のうちで/小さい者とする。あなたはひどく卑しめられる。』(2節)
『主の日が万国の民に臨むのは近い。あなたがしたようにあなたもされる。あなたの報いはあなたのこうべに帰する。』(15節)

私達にももしかしたら、エドムのように、困っているのに逆に苦しめるような、凶悪な身内がいるかもしれない。
しかし主は、主に救いを求める聖徒たちを必ず守られる。
そしてもし、エドムのように、兄弟姉妹が困っているのに、敵の側に立って一緒に攻め立てたりするなら、主はその者に敵対される。

『肉の物、高ぶる者は、主の御前に長く存続できない。悪しき者は正しい人をうかがい、これを殺そうとはかる。主は正しい人を悪しき者の手にゆだねられない、またさばかれる時、これを罪に定められることはない。
主を待ち望め、その道を守れ。そうすれば、主はあなたを上げて、国を継がせられる。あなたは悪しき者の/断ち滅ぼされるのを見るであろう。
わたしは悪しき者が勝ち誇って、レバノンの香柏のようにそびえたつのを見た。しかし、わたしが通り過ぎると、見よ、彼はいなかった。わたしは彼を尋ねたけれども見つからなかった。
全き人に目をそそぎ、直き人を見よ。おだやかな人には子孫がある。しかし罪を犯す者どもは共に滅ぼされ、悪しき者の子孫は断たれる。』(詩篇37:32-38)

『あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり、欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり、清い者には、清い者となり、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。あなたは苦しんでいる民を救われますが、高ぶる目をひくくされるのです。』(詩篇18:25-27)

世の人は一見、神の民よりも栄えているかのように見えるが、長い目で見れば、世の人は衰え、神の民は富といのちと権威を増し加えて行くのだ。
困っている兄弟姉妹を助け、平和な者として地を受け継ぐ皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声:気になると、せずにはおれない人の災い(創世記35:16-29):右クリックで保存

ヤコブは「あなたは立ってベテルに上り、そこに"住んで"、あなたがさきに兄エサウの顔を避けてのがれる時、あなたに現れた神に祭壇を造りなさい」と主から言われていた。(1節)
それで彼はベテルに行き、祭壇を造って礼拝した。そこまでは良かったのだが、ベテルには住まず、すぐに父イサクの住む南の方へと歩を進めてしまう。
しかも、愛する妻ラケルが妊娠して、お腹が大きくなりかけていた時に。

舗装されていない砂漠をらくだに揺られながらの旅である。妊婦にとっては、かなり大変だ。
ヤコブはなぜ留まるべき場所を離れ、しかも、ラケルが安静にしていなくてはならない時に、移動してしまったのか。

確かにヤコブは、20年前にベテルで主が現れた時、父イサクの家に戻る事を表明していた。(創世記28:21)
しかし、それは主が命じたのではなく、彼が自分で決めた事である。
主からは「ベテルに住みなさい」と、つい最近命じられたばかりであるので、そんな遥か昔に決めた事など、実行するような時ではなかったはずだ。

もしかすると、父イサクがかなり高齢で、いつ死ぬか分からなかったので焦ったのかもしれない。
いずれにせよ、彼はこの時、自分でやりたい事や心配事が沸き起こったら、それが気になって気になって仕方なくなり、ラケルや主の命令よりも、自分の思いを優先させて、さっさと実行してしまわなくては、気が済まなかったようである。

御心を求めず、周りも顧みずに、自分が思い立った事を、その時やらずにはおれない人には、災いが尽きないものである。
ヤコブは主の命令を脇に置き、お腹の膨らんだ最愛のラケルに旅を強い、皆を引き連れて移動させた結果、彼女は難産になり、それが元となって、彼女は死んでしまった。

『イスラエルはまた、いで立ってミグダル・エダルの向こうに天幕を張った。』(21節)
ミグダル・エダルとは「羊の群れのやぐら」という意味で、恐らくそこは、羊を飼うのに適した所だったのだろう。
彼はそこにとどまった時、彼にとって屈辱的な事が起きた。
『イスラエルがその地に住んでいた時、ルベンは父のそばめビルハのところへ行って、これと寝た。イスラエルはこれを聞いた。』(22節)
この出来事によって、ルベンは長男の権利を失い、彼は他の兄弟達に抜きん出る事もなく、その後の歴史でも、彼の民族からは士師も預言者も王も出る事は無かった。

家長であり、指導者でもあるヤコブが、主から与えられていた命令を守る事をせず、父の家に帰るという自分で決めた事も中途半端にして、羊を飼うのにいい所を見つけると、そこに定住してしまう。
そのように、思いの向くまま、行き当たりばったりで自分の集団を導いてしまうと、最愛の人を亡くしてしまったり、子供や部下が好き勝手にし出して、家長としての権威と秩序を失ってしまうものである。

彼らはそこからさらに移動し、ついに、ヘブロンのマムレにいる父イサクの所へ到着した。
「イサクの年は百八十歳であった。イサクは年老い、日満ちて息絶え、死んで、その民に加えられた。その子エサウとヤコブとは、これを葬った。」(28-29節)

イサクは、アブラハム・イサク・ヤコブの中では、最も波瀾万丈さが無く、第三者が「ストーリー」として見る分には、最もつまらないかもしれないが、彼は最も長く生き、最も安泰な生涯だった。
それは、イサクが平和の人であったから、彼は争う必要も無く主に守られ、平和に長寿を全う出来たのである。
ヤコブとは、実に対照的な生き方である。

ヤコブは後に言う。
「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」(創世記47:9)
自分の気の赴くままに、周りを振り回し、自分自身も振り回されてしまう人生は、「短く」「苦しみ多い」。
主に信仰の碇を降ろし、イサクのように平和と尊厳に満ちた人生を生きる皆さんでありますように。イエス様の名前によって祝福します!

安息に入るために(ヘブル4:1-11)
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どういう人が安息に入れるか。それは、聞いた御言葉に自分の信仰を結びつけ、御言葉に従う人である。
「彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。」(ヘブル4:2-3)
御言葉に聞く事、聞いた御言葉を信じる事、それがどれほど大切であるかは、強調してし過ぎる事は無い。
主の御言葉が語られる時、私達の取るべき唯一の姿勢は、それに聞き、従順し、服従する事。
御言葉を聞いても心背ける者、不従順な者は、決して安息に入れず、そこに例外は無い。

そしてまた、御言葉に聞き従う事は、どんな尊い捧げ物よりも主に喜ばれる行為である。
『サムエルは言った、/「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、/燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、/聞くことは雄羊の脂肪にまさる。』(1サムエル15:22)
この御言葉の通り、どんなくちびるの果実も、どんな多額の献金も、どんなに身を粉にして働く奉仕も、御言葉に聞き従う事が無いなら、主はそんな捧げ物を忌み嫌われる。
サウル王が退けられてしまったのは、彼が物欲におびき寄せられ、「こんな高価な良いものを滅ぼすのは惜しい、主に捧げるという口実でこれらを残すなら、主もきっと許して下さるだろう」などと、自分の都合の良いように、御言葉に身勝手な解釈を混ぜ込んだからである。
『そむくことは占いの罪に等しく、/強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、/主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。』(1サムエル15:23)
主は、混ぜ物つきの捧げ物や奉仕を、忌み嫌われる。実に、主の御言葉よりも、自分の好むことを優先させる事は占いの罪であり、強情に御言葉を跳ね除けるのは、偶像崇拝の罪である。
主の御心から離れた所で、いかに預言をし、悪霊を追い出し、奇跡を行ったとしても、かの日、主から『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ。』と言われてしまう。(マタイ7:21-23)
ここの「不法(anomia)」とは、法に則らない事、法を超過する事、法を乱暴に扱う事である。

大いなる奇跡を沢山経験すれば良いものではないし、偉大な指導者に導かれれば良いものでもない。
偉大な指導者・モーセに率いられ、多くの徴や奇跡を見、体験し、奇跡を食べ、飲んだ、かの60万以上の民のうち、安息の地に入れたのは、わずか二人だったのは何故なのか。そこに思いを馳せるべきである。
安息に入れず荒野に屍を晒したのは、不信仰のためであり、従おうとしなかったからだ。(ヘブル3:15-19)
結局大切なのは、法に則る事、すなわち、御言葉に聞き従い、御心に歩む事である。
出エジプトの民が荒野で滅んだのは、律法の何か一つを違反したからではなく、神の定めた指導者モーセに従おうとしなかったからだったが、そのモーセは、後の時代には自分と同じようなひとりの預言者が現れるから、彼に聞け、と言った。(申命記18:15) その「彼」こそ、主イエスキリストである。
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)
私達が聞き従うべき「御言葉」とは、365の「するな」と248の「せよ」から成る律法の全てではなく、全律法が指し示すお方、すなわち、「ことば」そのものなるイエスキリストである。(ガラテヤ2:16)
律法を全て成就して下さった方・イエス様に聞き従い、歩調を合わせて共に歩むなら、全ての「あれやこれをしなければ」という心配や重荷は降ろされ、たましいに安らぎが来る。(マタイ11:28-30)

そして安息に入った者は、自分のわざを終えて、休む。(ヘブル4:10)
自分の能力、自分の持ち物、そうした自分の何かに頼りの源を置く生き方が、十字架の死に渡され、これからは、キリストに生きて頂き、キリストに勝利して頂き、私達はそのお方と共に歩んで行く生き方が始まる。
これこそ、安息の生き方である。
「あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。」(ヘブル3:13) この安息に入るように努め、かたくなになって荒野で滅ぶような人が 誰一人出ないよう、日々励まし合い、勧めあって、信仰生活を歩んでいく皆さんでありますように!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
主の軍の将を前に(ヨシュア5:13-15):右クリックで保存
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