メッセージ - 201212のエントリ
礼拝説教メッセージ音声:混じってきた雑多な民(出エジプト記12:37-51):右クリックで保存
『さて、イスラエルの人々はラメセスを出立してスコテに向かった。女と子供を除いて徒歩の男子は約六十万人であった。』(出エジプト記12:37)
ラメセスは、パロがイスラエルを苦役で苦しめるために建てた倉庫の町である(1:11)。イスラエル人はそこから全員出て行ったため、その奴隷の倉庫の町はゴーストタウンと化した。
エジプトから出てきた民は、成人男子だけで60万。という事は、女子供も含めると200万を超すと思われる。
そこからさらに多くの入り交じってきた民も加わり、また非常に多くの家畜も連れ登ったため、それはそれは壮大な集団となった。
『そして彼らはエジプトから携えて出た練り粉をもって、種入れぬパンの菓子を焼いた。まだパン種を入れていなかったからである。それは彼らがエジプトから追い出されて滞ることができず、また、何の食料をも整えていなかったからである。』(出エジプト記12:39)
彼らが携え持ってきた食料は、たったそれだけである。
荒野を旅する内に、食料や衣類が欠乏するのでは、と心配した人もいたかもしれない。
しかしどういうわけか、食料が欠乏して餓死する者が出た記述は一切なく、人々は荒野でも、しっかり主に養われたのだ。
私達も主にあって、何を食べようか何を着ようかと言って心配する必要は、一切ない。
『イスラエルの人々がエジプトに住んでいた間は、四百三十年であった。四百三十年の終りとなって、ちょうどその日に、主の全軍はエジプトの国を出た。』(出エジプト記12:40)
主はアブハムに、あなたの子孫は四百年の間苦しめられると言っていた(創世記15:13)。という事は、イスラエル民族がエジプトで良い待遇を受けられた期間は、わずか三十年だったのだろう。
ヨセフも臨終の時「神は必ずあなたがたを”顧みて”、この国から連れ出し」と言っているため、もしかしたら、ヨセフの時代から既にエジプトからの圧政が始まっていたのかもしれない。
『主はモーセとアロンとに言われた、「過越の祭の定めは次のとおりである。すなわち、異邦人はだれもこれを食べてはならない。しかし、おのおのが金で買ったしもべは、これに割礼を行ってのち、これを食べさせることができる。』(出エジプト記12:43-44)
過越祭の小羊は、異邦人は食べてはならない、とここで言われている。それはイスラエル人がエジプトを出る時、多くの異邦人も入り交じって来ており、その雑多な民と区別するためである。
なぜ区別が必要か。それは、異邦人はイスラエル人と違い、まことの神である主を恐れるという事が無いからである。
このエキサイティングな脱出劇の中で、この民について行けば色々なメリットがありそうだ、というだけでついて来た異邦人は、多かった。
特に教会において陥りやすい罠だが、人数が増えれば良いというものではない。
その大勢いる人の全てが、純粋に主を慕い求めているとは限らないし、この入り交じってきた者達が、イスラエルにいらぬ情欲を起こさせ、神を怒りを招き、災いの発起となってしまった事が、幾度かあったからだ。(レビ記24:10、民数記11:4)
入り交じってきた雑多な民は、余計な事を言って主にある交わりに余計な怒りやいらぬ欲望を持ち込ませ、本来ならつまづかないような者をも、躓かせてしまった。しかし、主は彼らを荒野で篩い落とされた。(レビ記24:23、民数記11:33-34)
しかし、異邦人は決して過越の小羊にあずかれないという訳ではない。
異邦人が過越の小羊にあずかるためには”割礼”を受ける必要がある。
割礼とは、肉(生来の罪に傾く性質を持っている肉体の力や考え方など)を削ぎ取る事である。
割礼のしるしは神との契約のしるし、すなわち契約書の印鑑のようなもので、それは世々に渡って守るべきであり、「割礼を受けない男子、すなわち前の皮を切らない者はわたしの契約を破るゆえ、その人は民のうちから断たれるであろう」とさえ言われている程、大切な事である。(創世記17:9-14)
故に、過越の小羊は、興味本位で食べて良い物ではなく、神の民に加わるためには、生涯主に仕えるというコミットメントと、みずからの肉を切り落とす覚悟が必要なのだ。
キリストにあって救いの道が示された現在、割礼は”洗礼”に相当し、過越祭の食事であるほふられた小羊とパンは、まことのほふられた小羊キリストにあずかる”聖餐”に相当する。
聖餐も、むやみに興味本位であずかって良いものではない。
聖餐にあずかるには、自分の肉欲を切り取る決意、すなわち十字架を背負う決意と、生涯主に仕えるコミットメントが必要なのである。
礼拝説教メッセージ音声:奴隷からの解放(出エジプト記12:29-36):右クリックで保存
今日の箇所をもって、イスラエル民族はついに、400年も続いたエジプトでの奴隷状態から解放された。
『夜中になって主はエジプトの国の、すべてのういご、すなわち位に座するパロのういごから、地下のひとやにおる捕虜のういごにいたるまで、また、すべての家畜のういごを撃たれた。それでパロとその家来およびエジプトびとはみな夜のうちに起きあがり、エジプトに大いなる叫びがあった。死人のない家がなかったからである。』(出エジプト記12:29-30)
主が最後の災いを執行された時、エジプトには死人のない家がなかった。例えば父親が長子なら、父親も、長子も、死んだわけである。
それも、身分が上の者から下の者まで、さらに、家畜に至るまで。
エジプト人に大きな恐れが沸き起こり、「われわれはみな死ぬ」と思ったため、イスラエル人を躊躇せず追い出した。
神は元々、長子だけを狙い撃ちせずとも、エジプトを全滅させる事も、たやすかったのだ。
しかし、神はそんな無差別殺戮などはせず、前もって警告を与え、軽い災いから一つづつ災いを与えて忍耐深く懲らしめたにもかかわらず、エジプトは9度も頑なになったため、遂にこのような決定的な災いが起こるに至ってしまったのだ。
『そこでパロは夜のうちにモーセとアロンを呼び寄せて言った、「あなたがたとイスラエルの人々は立って、わたしの民の中から出て行くがよい。そしてあなたがたの言うように、行って主に仕えなさい。あなたがたの言うように羊と牛とを取って行きなさい。また、わたしを祝福しなさい」。 』(31-32節)
パロは今回はさすがに自分の意見を混ぜたりする事なく、全面的にモーセの言う通りにさせ、出て行かせ、主に仕えさせた。
しかも、わたしを祝福しなさい、と付け加える事を忘れなかった。
モーセがパロの祝福を祈ったとして、もし、パロの家が平安にふさわしかったなら、パロの家に祝福が来ただろう。
しかし結果的にそうでなかった所を見ると、パロは祝福されるには相応しくない家であり、その祝福は、モーセの所に返って来たようである。(マタイ10:13-14)
『そしてイスラエルの人々はモーセの言葉のようにして、エジプトびとから銀の飾り、金の飾り、また衣服を請い求めた。主は民にエジプトびとの情を得させ、彼らの請い求めたものを与えさせられた。こうして彼らはエジプトびとのものを奪い取った。 』(35-36節)
これは、創世記15章の時代から、すなわち「イスラエル民族」がまだアブラムとサラのわずか二人だけだった頃から、既に主から示されていた事である。(創世記15:13-14)
そして、その主が何百年か前に約束された事が、今日の箇所で実現したのである。
『あなたは聞かなかったか、昔わたしがそれを定めたことを。堅固な町々を、あなたがこわして荒塚とすることも、いにしえの日から、わたしが計画して/今それをきたらせたのだ。』(イザヤ37:26)
イスラエル人が出ていく事をエジプト人は喜び、それも、金銀や衣服を喜んで与えてやった。(詩篇 105:37-38)
イスラエル人の中で、最も弱気な人であっても、400年分の溜まりに溜まった給与を、堂々と請求できたのである。
主はそこまで徹底的に真実なお方であり、約束を必ず果たして下さるお方である。
今日は私の祖母(来年1月で96歳)や両親に、クリスマスメッセージを届けに、つくば市まで往復しました。
首都高はいつも苦手です。今日も違ったルートに入ってしまったり渋滞に捕まったりで大変でしたが、祖母や両親と、とても祝福された交わりが出来て、行ってみて良かったです。
祖母は、毎日私のために祈っていると言っておりました。
私の働きがこうして祝福の内に守られている秘密は、それです。
口を閉ざされたザカリヤ(ルカ1:5-80)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
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週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
主イエスが降誕されるにあたって、最初にしるしが現れたのは、ザカリヤとエリザベツの老夫婦にであった。
ザカリヤは主の御前で正しい人だったが、彼には子がなかった。(ルカ1:6-7)
ザカリヤは、子が与えられるように、ずっと祈っていた。結婚したばかりの若かりし頃から、歳を取るにつれその祈りは必死になって行ったであろう。彼より正しくない大勢の人達にはどんどん子が与えられ、その子たちは成長しているのに、ザカリヤ夫婦にだけは、与えられていない。
そのまま何もなく、ただ歳だけ取って行くが、産むのが難しい年齢に達しても、彼らは祈っていた。
それでも彼らは、主の御前に誰よりも凛々しく立ち、戒めと定めを落ち度なく行っていた。
そんなある日、ザカリヤは日毎の香を捧げる役割が、くじによって決まったため、その役目をする事となったが、聖所に入った時、なんと、香壇の右に御使いが立っているのを見た。
恐怖に襲われている彼に御使いは言う。「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。」(13節)
子が与えられること、それは老夫婦の長年の願いであったが、神はそれ以上の事をご計画されている。
その子は、御前に大いなる者となり、胎内にいる時から既に聖霊に満たされており、イスラエルの民の多くを、主なる神に立ち帰らせる。しかも彼は、エリヤの霊と力をもって御前に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、そうして整えられた民を、主に備えるというのだ。
人は周囲を見て、容易に手が届きそうな、人並みのささやかな幸せを求めがちだが、主を愛し恐れる人達に、主が 用意しておられるご計画は、途方もないもの、にわかには信じ切れない次元のものである。
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(1コリント2:9)
乙女マリヤもそうだったが、そんな破格なスケールの主のご計画を受けた時、人は困惑してしまう。
「どうしてそんな事が、わたしにわかるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。」
彼は主の言葉に対し、自分達の状況と主の言葉とを天秤にかけ、自分が理解する事を要求してしまった。
そんな彼に与えられたしるしは、この事が実現する日まで、口が閉ざされ物が言えなくなる事だった。
御言葉を疑い、「自分が」理解したがる人に与えられるしるし、それは、その口が閉ざされる事である。
せっかく素晴らしいお告げとビジョンが示されたのに、唇が閉ざされてしまって、それを流暢に人に伝える事が出来ないのは、かなりのもどかしさであろう。
しかし意外と、多くの言葉をまくし立てるより、筆談だけのほうが、効果的に相手に伝わるものだ。
蒔かれた種のいのち、主が「こうなる」と言われた事は、寝て起きて、そうこうしている内に育つものである。
多くの言葉でまくし立てずとも、沈黙していても、御業は必ず実現する。その時をじっと待つのが良い。
「さてエリサベツは月が満ちて、男の子を産んだ。」(ルカ1:57) 後継者なき老夫婦に、男子が与えられるのは大きな慰めであり、人々はみなエリザベツと共に喜んだ。
人々がその子に父と同じ名をつけようとしたように、ザカリヤ自身も念願の子に自分の名前をつけたかっただろう。しかし彼らが、自分や他人の望みを手放し、主に言われた通り「その子の名はヨハネ」と公に示した時、ザカリヤの口は開かれた。そして、真っ先に彼の口から出たのは、神への賛美と、預言だった。
自分を降ろして従順を学び、神と人との前で、御言葉の通りに行うその時、主の素晴らしさはさらに明らか意とされ、賛美の口は開け、それも、真っ先に主を褒め称えたい程に、心が整えられるのだ。
ザカリヤはかつて御使いに、自分が「理解」する事を要求し、それによって口をつぐまされてしまったが、その「要求」を止め、自分由来の言葉をつぐんだこの期間、彼はバプテスマのヨハネの父親として訓練され、練られたのだ。
ヨハネは成長すると霊は強くなったが、主が定めた時まで荒野におり、公に活動する日まで口をつぐんだ。
主の御業が成されるまで、自分の意見を言いたい唇は閉じ、理解したいという思いを手放し、御言葉に従順して主を待ち望み、御業が成された暁には真っ先に主を褒め称える皆さんでありますように!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ヨシャパテの祈り(2歴代18−20章):右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:ほふられた小羊を伝えよ(出エジプト記12:21-28):右クリックで保存
モーセは神から伝えられた事を、今度は、民へと伝えた。
『モーセはイスラエルの長老をみな呼び寄せて言った、「あなたがたは急いで家族ごとに一つの小羊を取り、その過越の獣をほふらなければならない。また一束のヒソプを取って鉢の血に浸し、鉢の血を、かもいと入口の二つの柱につけなければならない。朝まであなたがたは、ひとりも家の戸の外に出てはならない。』(出エジプト記12:21-22)
ヒソプ(ギリシャ語:ヒソポス)はヘブライ語のエゾブ(聖なるハーブの意)が由来で、抗菌、抗ウイルス、代謝促進、発汗の作用があり、古来より用いられている。
気管系の炎症を鎮め、体内の水分滞留を改善させ、不安や心配、緊張、ストレスなどを和らげる心理効果もある他、すり傷や切り傷などの炎症を抑える効果もある。
ダビデは「ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。」(詩篇51:7)と祈ったが、実にこの効用をよく表している。
『主が行き巡ってエジプトびとを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。』(出エジプト記12:21-23)
血潮のしるしを境に、いのちと死がはっきり分かれる。ほふられた小羊の血の内側には、ごちそうと感謝があり、外側には死と叫びがあるのだ。
血潮の外に出てしまうと、いのちの保証は無い。それはイスラエル人であっても、異邦人であっても。
イスラエル人が滅ぼす者から害を受けなかったのは、彼らが正しかったからではなく、彼らが主の命令を守って血潮の内側に逃れていたからに他ならない。
そして私達異邦人も、ほふられた小羊キリストの血潮の内に助けを求めるなら、滅ぼす者から救われるのである。
『あなたがたはこの事を、あなたと子孫のための定めとして、永久に守らなければならない。あなたがたは、主が約束されたように、あなたがたに賜る地に至るとき、この儀式を守らなければならない。』(出エジプト記12:24)
小羊の血の内側に助けを求めて来る者への守りは永久であり、血潮の贖いの効力は永久であ。
そして贖われた人達は、ほふられた小羊を、永久に覚え、ほめたたえるのである。
『もし、あなたがたの子供たちが『この儀式はどんな意味ですか』と問うならば、あなたがたは言いなさい、『これは主の過越の犠牲である。エジプトびとを撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越して、われわれの家を救われたのである』」。民はこのとき、伏して礼拝した。』(出エジプト記12:26-27)
この儀式の意味を子供に問われた時、その返答の仕方をも、モーセはわざわざ教えている。
そう、ほふられた小羊の意味を正しく「伝える」事は、とても大事である。
モーセはこの祭りを長老たちに伝え、長老たちはそれぞれの民に伝え、そして、子々孫々へと伝えられて行った。
私達も、実の息子娘達にはもちろん霊的に生み出した子供達孫達にも、子々孫々に、ほふられた小羊キリストの意味を正しく伝え、その血潮の尊さ、贖いの尊さを伝えて行くべきである。
しかしイスラエル民族は残念ながら、この祭りを長くは守らなかった。
2歴代誌35章18節によると、預言者サムエルの時代からヨシヤ王の時代まで、つまり、ダビデの時代後半からバビロン捕囚近くに至るまでの長期間、過越祭は正しく行われていなかったのだ。
イスラエルが過越祭をぞんざいにし出した時期と、イスラエル国家が衰退し初めた時期は、ほぼ一致している。その事からも、この血潮の贖いを覚える事が、いかに重要であるかが分かる。
モーセは「これ(ほふられた小羊)は、主の過越の犠牲(いけにえ)である。」と子供たちに言うように指示した。
いけにえとは、神をなだめるために用いるものである。
過越の小羊は確かに人が食べたりいのちを救うためのものではあるが、それ以上にまず、神をなだめるためのものである。
『神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。』(ローマ3:25-26)
『こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。』(ヘブル9:22)
本来、ユダヤ人もエジプト人も、そして私達を含む人類全体も、罪の報いとして罰を受け、死ななければならないものだった。
しかし、まことの小羊の流された血潮によって神は完全になだめられた。
この血潮の内に逃れる者は全て、罪と滅びから逃れられるのである。
礼拝説教メッセージ音声:種なしパンの祭り - 除酵祭(出エジプト記12:15-20):右クリックで保存
過越祭に続き、神はイスラエル民族に「除酵祭」をも定められた。
『七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみなイスラエルから断たれるであろう。』(出エジプト記12:15)
除酵祭は、過越の小羊がほふられる日に始まり、第一日と第七日に聖なる会合を開く。
その期間中、どんな仕事もしてはならず(食事を作る事は良し)、祭りの最初の日に、家の中からパン種を徹底して取り除き、七日間、種を入れぬパンを食べなければならない。その期間、種を入れたパンを食べる者は、イスラエルから断たれてしまう。
イスラエル民族は、過ぎ越の小羊をほふって食べた日から七日間、安息し、ただ兄弟姉妹の口に入れるもの、すなわち種を入れないパンを作る事以外は仕事をせず、安息するわけである。
私達キリスト者も、ほふられた小羊キリストを受けて以降は、世的なやりくりは止めて安息し、自分自身を純粋なパン種の入っていない者としてきよく保つのである。
『なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざをやめて休まれたように、自分もわざを休んだからである。』(ヘブル4:10)
酵母入りのパンに比べると、パン種の入っていないパンは見栄えはしないし、口に入れてみても最初は小麦粉の素っ気ない味しかしないが、噛めば噛むほど味わい深く甘くなって行く。
御言葉もそれと同じで、はじめに受けた時の印象は素っ気ないかもしれないが、それをじっくり噛み締めれば噛み締めるほどに甘く、良くなって行く。
イスラエル民族が種なしパンをじっくり味わったように、私達もじっくりと御言葉を味わう事を知るべきである。
パン種はパンの酵母、パン生地に入れてふくらますもので、これを入れたパンはふくらんで大きくなり、柔らかくなるが、発酵させるため、腐りやすくなる。
聖書でパン種は、大体良くない意味で使われる。
ゆえに、神の民の交わりにおいては、このパン種のような性質、すなわち外見を膨らまし、発酵させ、純粋さを失わせるような暗闇からの働きには、十分気をつけなくてはならない。
『あなたがたが誇っているのは、よろしくない。あなたがたは、少しのパン種が粉のかたまり全体をふくらませることを、知らないのか。新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。』(1コリント5:6-8)
除酵祭において、最初の日に家の中から注意深くパン種を取り除いたように、キリスト者の集まりからも、世的な価値観を注意深く取り除かなくてはならない。(マタイ16:6-12)
なぜなら、「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられた」からだ。
小羊がほふられて以降、7の日数が満ちるまで、安息してパン種を入れぬパンを食べ続ける事が定められている。
「わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられた」のであれば、まず自分のわざを終え、神の安息に入るのである。
私達は完成の日(7は完全数)まで、自分自身を純粋に保って行くべきであり、私達が地上で定められた日数が満ちた時、救いの御業は完成するのである。
礼拝説教メッセージ音声:過越の小羊(出エジプト記12:1-14):右クリックで保存
前回は、エジプトに対して最後の災い、初子が全て死んでしまう災いの通告をしたが、今回は、イスラエル民族への最も重要な祭り、過越祭の制定をされ、これを世々にわたって守り行うべき定めとされた。
『「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。』(出エジプト記12:2)
主はこの月(アビブの月:太陽暦では3−4月)を一年のはじめと定める程に、この一連の出来事を重要なものとしたが、実は、それはイスラエル民族だけでなく、全世界の全ての人にとっても重要な出来事である。
この祭りの特徴は、まず子羊をほふる事、その血を家の戸のかもいと門柱にしるしとしてつけ、その家の中で、ほふられた子羊を食す事である。
言うまでもなく、このほふられた子羊はイエスキリストを指している。
バプテスマのヨハネは、自分のほうに歩いてくるイエスキリストを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)と叫んだし、また、天における礼拝で、御使いや長老達は「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」と叫んだ。(黙示録5章)
なぜ、ほふられた小羊がこのように栄光を受けるのにふさわしいと賛美されているのか。
それは、全人類が、いや、全被造物が、このほふられた小羊によって、救いを得るからである。
過越祭には、イエスキリストの福音との類似性が、いくつもある。
神が定めた過越祭は、アビブの月の14日だが、それはイエス様が十字架につけられた日と一致する。
過越の小羊をほふるのは、ヨセフスによれば午後三時を常としており、イエス様も同様に、午後三時に頭を垂れて霊をお渡しになった。
『小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。』(出エジプト記12:5)
ちょうどかわいいさかりの傷のない一歳の雄の小羊が、もし皆さんの手元にいるとしたら、それに刃に当ててほふらなくてはならないなら、相当の痛みと悲しみ、惜しむ心が沸き起こるのではなかろうか。
過越の小羊は10日に用意し、14日までそれを見守る事が定められている。
人々がそれを見守る間、その犠牲とされてしまう小羊をいとおしむ心が芽生えるはずである。
キリストは一切の罪の汚れが無いお方であり、御父がキリストをほふらねばならないその悲しみ、痛みを、この過越祭を行う人も、少しながら経験したのではなかろうか。
そして祭りの夜、家の皆でその焼かれた小羊を囲み、噛み締め、味わう事によって、身代わりになって死んでくれた事、救われた事の尊さが、ひとしお迫って感じられたのではなかろうか。
現代を生きる私達キリスト者たちは、聖餐の内に、ほふられた小羊キリストを”記念して”覚えるのである。
『わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを”記念する”ため、このように行いなさい」。
食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの”記念として”このように行いなさい」。だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。』(1コリント11:23-26)
『その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。』(出エジプト記12:7)
印が付された者は守られ、付されていない者は滅びる。それは、聖書全体に流れる救いの共通事項である。(ヨシュア2:18-21、エゼキエル9章、黙示録7:3,9:4)
『そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。生でも、水で煮ても、食べてはならない。火に焼いて、その頭を足と内臓と共に食べなければならない。』(出エジプト記12:8)
この種入れぬパンは、申命記16:3によると、悩みのパンと表現されている。
この悩みのパンや苦菜には、色々な解釈がある。イスラエルがエジプトで経験した悩み、キリストが受けた苦しみ、罪を悔い改める悲しみ、十字架上で苦味混ぜられた盃など。
いずれにせよ、主は十字架上で、焼けるような苦しみを覚え「わたしは渇く」と言われた。
イエスを主としたイスラエル人は、過越祭を為す度に、十字架上のキリストが思い出されたのではなかろうか。
『あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。』(出エジプト記12:11)
急いで食べなくてはならないのは、これを食べた後、全イスラエルはすぐにエジプトから追い出されてしまうからである。
エジプトは世を意味している。
私達も、過越の小羊キリストをいただく時、世にいつまでも未練を残していてはならず、すぐにでも旅立てる心の状態で、いただかなくてはならない。
『その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り”代々、永久の定めとして”これを守らなければならない。』(出エジプト記12:13-14)
そう、それは私達のためのしるしでもあり、代々、永遠に定められた祭りである。
今の世においても、天においても、屠られた子羊は、永遠に記念され、この小羊によって贖われた人々は永遠に、ほふられた小羊を賛美するのである。(黙示録5章)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
斬新な祈り(ネヘミヤ9章):右クリックで保存
【概要】
ネヘミア記9章に記された、イスラエルの民による長い悔い改めの祈りを通して、真の祈りの姿勢について学ぶメッセージ。自分の願い事を並べるのではなく、神の恵みを数え、自らの罪を告白する祈りの重要性が語られる。
【聖書箇所】
ネヘミア9:1-37、詩篇51:14-17、サムエル記上15:22(引用)
【悔い改めの促しの言葉】
私たちは神様に対して、恩を仇で返すようなことを何かとしている。自分がどんなひどいことを神様にしてきたかを告白し、へりくだる心を持つことが必要である。
【励ましの言葉】
神は憐れみ深く、恵み豊かで、怒るのに遅く、赦しに富んでおられる。砕かれた心、悔いた魂を主は軽んじられることはない。
【勧めの言葉】
主に聞き従う生活をしていれば、主はその人の人生を高くしてくださり、祝福の方へと導いてくださる。願い事ばかりではなく、主への感謝と罪の告白の祈りを大切にしよう。
【***詳細***】
私が小学生の頃、隣の男の子が授業中に消しゴムを貸してくれと言うので、私は消しゴムを貸しました。消しゴムが私に必要になったので、消しゴムを返してくれと言ったら、その人は私の目に向かって消しゴムをバーって投げつけて、私の目に当たりました。それで一年後ぐらいに、その人に「去年これこれのことをしたよな」って言ったら、その人は見事忘れておりました。
私たちが神様に対してそういうひどいことをしたこと、それは何かと忘れがちで、それでもなお消しゴム貸してくれ、鉛筆貸してくれ、そういうふうに言うのが大体人間の実情です。私たちは神様にお祈りをします。あれください、これください、消しゴムを貸してくれ、鉛筆を貸してくれと祈るんですが、でも神様の大切なところにバーンと、良くない仕方で返すこと、その消しゴムを借りたこと、恩を仇で返すようなことを、私たちは何かとしているものなんです。
そういうことをしないために、主が与えてくださった恵みを思い起こすための祈りをしたのが、今日のネヘミア記なんですけども、このネヘミア記の9章です。ネヘミア記の9章は非常に長い祈りの章で、3ページぐらいにわたる祈りです。
9章の1節から3節までお読みしましょう。「その月の二十四日に、イスラエル人は断食をし、荒布をつけ、土をかぶって集まった。そしてすべての外国人との縁を絶ったイスラエルの子孫は立ち上がって、自分たちの罪と先祖の咎を告白した。彼らはそのところに立ったままで、一日の四分の一は彼らの神、主の律法の書を朗読し、次の四分の一は告白をして彼らの神、主を礼拝した。」
先週の8章のところでは、第七の月の仮庵祭の日、まず律法を朗読する祭りと、そしてまた、そのイスラエルの歴史上かつてなかったほどに、ヨシュアの時代以来かつてなかったほどの正しい仮庵祭を行って、民のうちに大きな喜びが沸き起こりました。その月のうちの24日ですから、この喜びの祝いの日からそんなに経っていないうちに、今度はこの断食をして、荒布をつけて土をかぶる集まりをしました。第七の月の24日です。ちなみに第七の月の24日は、特に何の祭りを行えという定めはないので、この民は自らこの断食の集い、荒布の悔い改めの集いをしたくて、そして彼らは集まってきたわけです。
彼らは2節、「すべての外国人との縁を絶ったイスラエルの子孫は立ち上がって、自分たちの罪と先祖の咎を告白した」と書いてありますね。自分たちの罪と先祖の咎を告白したんです。
そしてこの6節からずっと37節まで非常に長いお祈りになるんですけども、このお祈りの非常に特徴的なところは、主がどういうお方であるかということの告白がまずあり、そして先祖に対して主はどのような恵みを与えてくださったかが書いてあり、しかし先祖たちはいったい何を主に対して返してきたか。さっきの消しゴムを貸したのに、消しゴムを目に思いっきり投げつけるような、そういう返し方をするのと似たようなことを、このイスラエル民族は神様に対してしてきたわけです。でもそれにもかかわらず、主はどう憐れんでくださったか。どのようにして祝福の地へと導いてくださったか。そしてイスラエル民族をどんなに良くしてくださったか、その恵みの数々が告白されて、しかしそうやってその安息の地で安住して肥え太っていくと、このイスラエル民族はまた何を主に対して返したか。そうした度重なる罪々をずっと告白しております。
そして非常に面白いことに、「主よ、私たちはこれこれの状況です」という告白があるのですが、この状況からお救いくださいといったお願い事が一切この長い祈りの中にはないのです。ただ先祖たちは何々をしました。しかし主、あなたはこれこれの憐れみをしてくださいました。
祈りにはいろいろな祈りがあります。賛美の祈り、感謝の祈り、罪の告白の祈り、悔い改めの祈り、お願いの祈り。今5つ、5種類挙げましたけど、皆さんお祈りという総数の時間の中で何がどれほどの割合か。大体の人はその5つの中でお願いに関する祈りがだいたい90%を占めて、あと残りの5%が感謝賛美、残りの1%ぐらいが悔い改めとか、そういう、ちょっとそれは極端な例ですけども、だいたいお願いが多いわけですね。そして悔い改めが少ない。罪の告白も少ないものです。何々してください、何々してください、それが結構多いんですけど、しかしこのネヘミヤ記の9章の祈りはほぼもう全域が、自分が何をどんなことをしたか。この災いが自分たちに降りかかるのは当然ですという、それがとうとうと記されており、また主が荒野において、またカナンの地においてどれほどの恵みを与えてくださったかがとうとうと書いてあり、そして今私たちはこれこれの状況ですという現状告白はあるんですが、しかし、そこからお救いくださいというのが0%なんですね。お願いが0%の祈りです。こんなに長いのに。
私たちはこの祈りを読むとき、本当に新鮮な気持ちになります。私たちがいかにお願い事が多くて、そして自分たちが何をしてきたか、どんな迷惑を神様に対してなしてきたか、どんなひどいことを神様になして、どんな痛い思いを主にさせてきたかが、とうとうと綴られているわけです。
詳しく見ていきますと、9章の6節から8節まで、特に9章6節が主がどのようなお方であるかということの告白から始まります。ヨシャパテの祈りもそうでした。主はまずどのようなお方からの告白で始まりました。「ただ、あなただけが主です。あなたは天の天と、その万象、地とその上のすべてのもの、海とその中のすべてのものを造り、そのすべてを生かしておられます。そして天の軍勢はあなたを伏し拝んでおります。」
この7節と8節は先祖アブラハムを選ばれて、そしてこのアブラハムに対して契約を結んでくださって、そしてアブラハムとの約束を主は果たされたということをここで告白しております。
9節以降、9節から15節までは、エジプトに対してどのような災いを下されたか。イスラエルの民、9節を見ますと、「あなたはエジプトで私たちの先祖が受けた悩みを見、また、葦の海のほとりでの彼らの叫びを聞かれました。あなたはパロとそのすべての家臣、その国のすべての民に対して、しるしと不思議を行われました。これは彼らが私たちの先祖に対して高ぶった振る舞いをしていたのをあなたが知られたからです。こうして今日ある通り、あなたは名を挙げられました。」
まずイスラエル民族に対して、この彼らの先祖に対してエジプトの国がいかにひどいことをしてきたか。しかしそこからいかに主は救い出してくださったか。イスラエルにどのような恵みを注いでくださったか。主はイスラエル民族を海の中を通らせて救わせて、しかしエジプトは海の中に投げ込まれました。そして荒野においても、昼間は雲の柱、夜は火の柱によって彼らを導いてくださり、荒野においても迷うことがないように、また砂漠の日差しの中を歩くその苦しみを解くために雲の柱を用意されて、また夜は迷わないように火の柱を用意されて、この荒野を導かれたこと。そして律法をこのイスラエル民族に授けてくださり、また彼らに天からパンを与えて岩から水を与えて、そして約束の地を所有するようにと向かって行ったのですが、しかし先祖たちは罪を犯しました。
16節。「しかし彼らは、すなわち私たちの先祖は、高ぶって勝手に振る舞い、うなじをこわくし、あなたの命令に聞き従いませんでした。彼らは聞き従うことを拒み、あなたが彼らの間で行われた奇しいみわざを記憶もせず、かえってうなじをこわくし、ひとりの頭を立ててエジプトでの奴隷の身に戻ろうとしました。それにもかかわらず、あなたは赦しの神であり、情け深く、憐れみ深く、怒るのに遅く、恵み豊かであられるので、彼らをお捨てになりませんでした。」
自分たちがどんなひどいことを神様にしてきたかをここで告白したのです。そしてそれにもかかわらず、自分たちがどんなひどいことを神様にしてきたかにもかかわらず、神様は恵み深く、情け深く、憐れみ深く、怒るに遅くと告白をしました。
ある教会から離れている方とお話をしている時、「あなたの好きな聖句はどこですか」と聞きましたところ、「これはこれです」と。普通の人から聞けば、なんでそんな災いにあっているようなところが好きなの、という感じがするんですけど、主が今私をこのように災いに取り扱っておられるからですと、その方は答えてですね。でも主はそんなにいつまでも災いのうちに身を投じておられるような神ではありませんよ。神は災いの神じゃありませんよ。憐れみ深く恵みに満ちておられる。いつまでもそのようなことをされておられない神様ですから、ですからどうかこちらの聖句の方をお勧めしますよということでお勧めしたことがありましたけれども、神様をどのようなお方かということを告白するのは大事です。
神様はただ災いを起こされるお方として告白していたら、そこから抜け出すことはできません。それは皆さんの唇からの信仰告白によって、皆さんその唇の実を皆さん刈り取るからです。このイスラエル民族は、確かに神様は私たちを災いに合わせられた。でもそれでも主はなお赦しの神であり、情け深い、慈しみ深いお方であると告白した。主がどのようなお方か。主は素晴らしいお方です。憐れみ深い方です。赦しに富み給う方です。確かに私たちが神様の目にかなわぬことをしたら、それは災いになります。しかし、そこから立ち返るのであれば、その自分のかたくなさを捨てて、主の命令に聞き従うことを選ぶのであれば、主は再び恵みを施してくださいます。
事実、この荒野の民は大きな憐れみによって導かれて、火の柱、雲の柱によって導かれて、またマナが絶えさせられることがなく、また水も尽きるということがありませんでした。荒野の地にあって、主は恵み深いお方。40年の間、主は荒野でイスラエルの民を養われたので、彼らは何の不足もなく、着物も擦り切れず、足も腫れずに導かれていくことができました。
このネヘミヤにおける祈りで、そのように告白して、そしていよいよカナンの地へと彼らが占領したことを告白しております。この先祖たちは、この子孫たち、イスラエルの子孫たちを星の数のように増やして、そして所有せよと言われた地に導き入れられました。こうしてあの地の住民、カナン人たち、カナンの地は弱肉強食の世界であり、また強力な体が大きいアナク人とかおりましたし、またエリコという城壁のある町々、エリコの他にもそういう強力な攻め落とすのが困難な町々があったにもかかわらず、このイスラエル民族に、ただ荒野を旅してきた民が攻め落とすことができて、そしてこの良い町、肥えた土地を彼らに与え、良いものに満ちた家々、また、ぶどう畑、オリーブ畑、および果樹がたくさん実るその乳と蜜がまさしく流れるような地へと導き上られ、そして彼らはそこで安住して、食べて満腹し、肥え太って、大いなる恵みを楽しむことができるようになりました。
しかし、しかし、彼らは反抗してしまいました。26節「しかし、彼らは反抗的で、あなたに反逆し、あなたの律法を後ろに投げ捨て、あなたに立ち返らせようとして、彼らを戒めたあなたの預言者たちを殺し、ひどい侮辱を加えました。そこで、あなたは彼らを敵の手に渡され、敵が彼らを苦しめました。彼らがその苦難の時にあなたに叫び求めると、あなたは天からこれを聞き入れ、あなたの大いなる憐れみによって彼らに救う者たちを与え、彼らを敵の手から救ってくださいました。」
士師の時代に突入したんですね。しかし「しかし」ですよ。「しかし」がまた続くんですよ。28節。「しかし、一息つくと、彼らはまたあなたの御前に悪事を行いました」云々とずっと悪事を行っては悔い改め、罰せられ、悪事を行っては罰せられて悔い改める。その繰り返しがずっと起こっていたわけです。その告白が29節に至るまでそれです。
30節。「それでもあなたは何年も彼らを忍び、あなたの預言者たちを通して、あなたの霊によって彼らを戒められましたが、彼らは耳を傾けませんでした。それで、あなたは彼らを国々の民の手に渡されました。」
ついに、このネヘミヤの時代、バビロン捕囚からやっと帰ってきたばかりです。要するに、まだ彼らは苦難の中にあったのです。異邦人の手に渡されて、異邦人の支配のもとに、このイスラエルの人たちはありました。独立国家としてではなく、それでも自治はある程度の自由はあったのですが、自治権はあったのですが、それでも異国の王たちに税金を納めなくてはならない状況でした。
31節「しかし、あなたは大いなる憐れみをかけて、彼らを滅ぼし尽くさず、彼らを捨てられませんでした。あなたは情け深く、憐れみ深い神であられますから。」アーメン。
神様、災いに会っている時の神様へのイメージは、神様はひどいお方だと思いがちです。でも、このネヘミヤの時代において、彼らは神様ひどいお方だと言うことはせず、あなたは情け深く憐れみ深かったのです。私たちがこのような罪を犯しました。あの時このような罪を犯し、この時このような罪を犯しましたと告白しました。
私が子供の頃受けたあの消しゴム目にたたきつけ事件の時も、一年後にその友達に悔い改めているかなという、そういう希望もあって、「お前あの時こんなことしたね」それを見事に忘れられていたと聞いたのは、とてもがっかりしました。神様はがっかりされるんですよ。皆さんがそれまで頑なに、あの時、預言者を遣わして改めさせようとしたのに、でも、預言者を突っぱねて、逆に嘲ったり、そういうことをする時、神様に対して唾を吐いているようなものです。この時、神様が災いを立ち返らせるために起こしたのに、神様はひどいと言ってますます頑なになる。それも神様にひどいことをすることです。
私たちが悔い改め、また自分たちの罪の告白をし、私はあの時かたくなでした。主は今このような業になっていますということを告白すること。主はそのような祈りを喜ばれます。主が喜ばれるいけにえは、砕かれた魂、悔いた心と詩篇の51編に書いてあります。あのダビデはナタンが遣わされた時の祈りです。
こうしてこの31節まではずっとこのネヘミヤの時代に至るまでの歴史をとうとうと告白して、そして主は恵み深いお方であることを告白し、また自分たちの先祖が、一息つくたびに度重なる悪を主に対して行ってきたということをここで告白しております。
そこで32節以降、彼らの現状を告白する祈りに入ります。32節「私たちの神、契約と恵みを守られる大いなる、力強い、恐るべき神よ。アッシリアの王たちの時代から今日まで、私たちと私たちの王たち、私たちの司、祭司、預言者たち、また私たちの先祖とあなたの民全部に降りかかったすべての困難を、どうか今、小さいこととみなさないでください。私たちに降りかかってきたすべてのことにおいて、あなたは正しかったのです。あなたは誠実をもって行われたのに、私たちは悪を行ったのです。」
ここで民は、自分たちが行ってきたことによる災い、それは当然の報いであることを告白しており、そして主の方が正しかった。自分たちが今まで苦しい目に遭ってきた。それは主よ、あなたが正しかったのです、という告白ですね。
皆さんの人生を思い返した時、私の人生、苦労でできなかったと。神様はこんな私の人生を苦労に満たして酷いという人は多いかもしれませんが、でも私の人生はあの時この時、神様に逆らうような自分の好き勝手を選択して神様の戒めを無視してきたなという悔い改めの祈りがもしなされていたならば、主はもっと早い時期にこんな苦労を負わなくて済んだというような人生と変えられていたことでしょう。
この自分たちの民全部に降りかかったすべての困難にどうか小さいこととみなさないでくださいと。むしろ私たちが小さいこととみなしてしまうんですよ。逆にこのイスラエルの民はそれを小さいこととみなさないでください。自分たちに降りかかってきたすべての罰の報いを、小さいこととみなさないでくださいと主に告白しました。
36節「ご覧ください。私たちは今、奴隷です。あなたが私たちの先祖に与えて、その実りとその良いものを食べるようにされたこの地で、ご覧ください。私たちは奴隷です。私たちが罪を犯したので、あなたは私たちの上に王たちを立てられましたが、その王たちのために、この地は多くの収穫を与えています。彼らは私たちの体と私たちの家畜を思い通りに支配しております。それで私たちは非常な苦しみの中におります。」
ここで終わりなんですよ、この祈りは。あれって思いますね。どうか今からこの状況からお救いくださいという祈りがないんですよ。ここで終わってるんですよ。ただ自分たちは今奴隷です。あなたが与えてくださったこの地においてご覧ください。私たちは奴隷です。ただ主に対してご覧くださいという祈りをしているわけですね。助けてくださいという祈りではないんです。自分たちが今このような状況に陥っているのは当然です。助けてくださいと言うなんておこがましい。そこまで彼らはへりくだっているわけです。そのような祈りをこの回衆はしていたわけです。
荒布をつけ、断食をし、土をかぶった集まり、一日の四分の一は律法の書を朗読し、次の四分の一は主に告白をして、この告白です。自分たちが何をしてきたか。1日の4分の1といえば6時間ですね。6時間を律法の書の朗読、つまり御言葉の時間にあて、次の6時間を、自分たちの罪を、自分たちの行いをとうとうと主の御前に告白してくるという、そういう12時間に及ぶ集会の日がこの7月24日だったわけです。本当に今までにない集会ですね。
主はこのイスラエルをその後顧みてくださいます。主の御前に出るときは悔い改めた心、悔いた魂、それを主は軽んじられることはありません。詩篇の51篇14節から17節。
「神よ、私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば私の舌はあなたの義を高らかに歌うでしょう。主よ、私のくちびるを開いてください。そうすれば私の口はあなたの誉れを告げるでしょう。たとい私がささげても、まことにあなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを望まれません。神へのいけにえは、砕かれた魂、砕かれた悔いた心。神よ、あなたはそれをさげすまれません。」
サムエルもサウルに言いました。「主は主のみことばに聞き従うことほどに、いけにえを望まれるだろうか。見よ。聞き従うことは、雄羊のいけにえにまさり、聞き従わないことは占いの罪、背くことは、偶像崇拝の罪だ」と。いかに私たちが、かたくなになること、聞き従わないこと、それを主が嫌われるか。いかに私たちが悔い改めてへりくだる心を主は喜ばれるか、はっきりしております。
皆さんの祈りは主に聞かれたいでしょうか。それであるならば、まず砕かれた心、悔いた魂に戻ることです。自分の主義主張を捨てること。なんだか今日、ここに講壇に立つのは1日で3回目なんですけど、また同じことを言ってるなって思うかもしれません。同じことを言っておりますので、主は悔い改める者のそばに侍かれます。砕かれた心を主は軽んじられません。
どうか皆さんは、聞き従う心、また自らの行いをよく点検して、主がひどいことをしたことを数えるよりも、私たちが主にひどいことをしたことを数えて、それら一つ一つを主の御前に告白して、祈るのであれば、主はその祈りを喜んでくださいます。
ちなみに私に消しゴムを投げたその人はとても苦しい状況に、今どういう状況になっていますか、なってるのかわからないんですけども、その人と電話したのがもう10年くらい前だったかな。かなり仕事の面で苦しくて転職をしたんですけど、その転職先でも苦しい目にあっているようです。ある女性と同棲を始めて家に来て、それで私は聖書にこう書いてありますよということを伝えたんですけども、その後、彼がどうなっているかわかりません。願うことなら、主に立ち返っていればいいなと思っております。
しかし、私たちは主の民は主に聞き従う生活をしていれば、主はその人の人生を高くしてくださり、そして祝福の方へと導いてくださいます。どうか皆さんは主に聞き従い、主に対してもしひどいことをしてきたことが、とか思い出して、それを告白して、そして主に柔軟になって、主に信頼して、そして祝福のうちを歩んでいく。そのような皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
ネヘミア記9章の祈りは、お願いが一切ない画期的な祈りであり、主がどのようなお方であるか、主がどれほどの恵みを与えてくださったか、それに対して私たちがどれほどひどいことを返してきたかを告白する祈りである。私たちは願い事ばかりを並べるのではなく、自分の罪を告白し、へりくだった心で主の御前に出る必要がある。主は砕かれた心、悔いた魂を軽んじられることはない。主に聞き従う生活をする者を、主は祝福の道へと導いてくださる。
