メッセージ - 201212のエントリ
礼拝説教メッセージ音声:エジプトへの最後の災いの通告(出エジプト記11:1-10):右クリックで保存
『主はモーセに言われた、「わたしは、なお一つの災を、パロとエジプトの上にくだし、その後、彼はあなたがたをここから去らせるであろう。彼が去らせるとき、彼はあなたがたを、ことごとくここから追い出すであろう。』(出エジプト記11:1)
主はエジプトへの最後の災いを実行される前に、エジプトとイスラエルとにそれぞれ通告される。
これまでの学びで、災いが降されるのを連続して九度も見て来ると、神はなぜここまで徹底的になさるのかと思うかもしれない。しかしそれだけエジプトは、神の民イスラエルを400年もじっくりと徹底的に虐げて来た、という事である。
神の時間と人の時間は違うし、神の忍耐と人の忍耐は、違う。しかし神の裁きは正しく、公平で、悪い事した側はきっちりと報いを受けるように、また、された側は、きっちりとその償いを受け取るようにして下さるお方である。(黙示録16:1-7)
『あなたは民の耳に語って、男は隣の男から、女は隣の女から、それぞれ銀の飾り、金の飾りを請い求めさせなさい」。主は民にエジプトびとの好意を得させられた。またモーセその人は、エジプトの国で、パロの家来たちの目と民の目とに、はなはだ大いなるものと見えた。』(出エジプト記11:2)
これはモーセが召された時点で、既に神から示されていた事である。(3章)その時は、まさかそんなことが有るだろうか、と思えたかもしれない。
しかし今や、エジプトは9つの災いを通らされ、モーセはエジプトからも尊敬される者となり、イスラエル民族も好意を得られ、この事は実現可能な事として目前まで迫って来た。
その時が来ると、どんなに気が弱い人でも、隣のエジプト人から剥ぎ取る事が出来るように、主がして下さるのだ。
モーセは神から言葉を預かったので、再びパロの前に出た。
10章の最後によると、パロとモーセは、もう二度と顔を合わせないと互いに言って、喧嘩別れになったはずだったが、主から言葉を預かってしまったからには、モーセは嫌でもパロの前に出て行って御言葉を伝えざるを得ず、またパロも、モーセが再び顔を見せた時は殺すつもりでいたであろうが、神がモーセを守っておられる以上、パロはモーセを殺せないのである。
『モーセは言った、「主はこう仰せられる、『真夜中ごろ、わたしはエジプトの中へ出て行くであろう。』(出エジプト記11:4)
この10番目の災いが、前の9回の災いと決定的に違うのは、主みずからがエジプトの中へ出ていき、御業をなされ、エジプトは決定的に敗北するという事だ。
世の終わりの時も、はじめは預言者から幾度かの警告と災いの執行がなされ、最後には、主ご自身が世に現れて裁きを執行される。
『エジプトの国のうちのういごは、位に座するパロのういごをはじめ、ひきうすの後にいる、はしためのういごに至るまで、みな死に、また家畜のういごもみな死ぬであろう。そしてエジプト全国に大いなる叫びが起るであろう。このようなことはかつてなく、また、ふたたびないであろう』と。』(出エジプト記11:5)
最後の災いの内容は、初子の死である。
それはエジプト全家が対象で、上は王から下は奴隷まで、しかも家畜に至るまでも、初子が死ぬというのである。
初子は一家にとって最も大事な存在だが、それが奪われる事はどれほどの悲しみだろう。
しかしこの災いが告げられても、パロと家来達には、いまいちピンと来ていないようである。
『しかし、すべて、イスラエルの人々にむかっては、人にむかっても、獣にむかっても、犬さえその舌を鳴らさないであろう。これによって主がエジプトびととイスラエルびととの間の区別をされるのを、あなたがたは知るであろう。』(出エジプト記11:7)
神は正確に、区別される。神の民と、世とを。
イスラエル60万世帯の、御言葉を守り行う人には、一世帯たりとも災いが誤って降る事はされず、エジプトには幾万世帯あろうとも、どこに隠れようとも、正確に災いを降されるのである。
『これらのあなたの家来たちは、みな、わたしのもとに下ってきて、ひれ伏して言うであろう、『あなたもあなたに従う民もみな出て行ってください』と。その後、わたしは出て行きます』(出エジプト記11:8)
その時、家来たちはパロを通さずに、モーセに直接ひれ伏してお願いするようになる。
頑ななパロは家来たちに見捨てられ、パロを介さずに物事を進めようとするように、頑なな上司はやがて部下から見捨てられ、その上司を通さずに物事を進めるようになっていく。
『彼は激しく怒ってパロのもとから出て行った。』(出エジプト記11:8)
モーセが怒って出て行ったのは、自分の弁論に自分で激昂したからではなく、あまりにもパロと家臣たちが頑なで、あまりにも自分達に降りかかろうとしている災いに無頓着だったからだ。(11:9-10)
預言者は、怒る。御言葉を受けた人達が、頑なだった時は。自分の身に降りかかろうとしている災いを語られたのに、あまりにも、のほほんとしている時は。
神は、イスラエルが正しいから特別扱いしたのではない。(申命記7:7、9:4-6)
モーセに力があったからエジプトに災害が起きたのではないし、モーセの口に雄弁さがあったからエジプト人が尊敬したのでもない。
彼が御言葉を正しく伝えたから、御言葉こそが真実だから、である。
モーセが御言葉を正しく伝えたため、実際に諸々の奇跡が起こり、そしてモーセは御言葉によって威厳を帯びるようになったのだ。
私達を通して、神の御技が為されると、なにかと私達は傲慢になりやすい。
「自分は正しいから」「自分には力あるから」「自分が霊的レベルアップしたから」などなど。
しかし、傲慢になってしまうと、あっという間に主の御業は為されなくなってしまい、人々も逃げ去ってしまう。
私達はひたすら主の御前にへりくだり、栄光を自分のものとせず、いつでも主に栄光を捧げ、いつでも主に有用な器として用いられていきたい。
礼拝説教メッセージ音声:第九の災い - 暗闇の災い(出エジプト記10:21-29):右クリックで保存
エジプトの第九の災いは、暗闇の災いである。
『主はまたモーセに言われた、「天にむかってあなたの手をさし伸べ、エジプトの国に、くらやみをこさせなさい。そのくらやみは、さわれるほどである」。モーセが天にむかって手をさし伸べたので、濃いくらやみは、エジプト全国に臨み三日に及んだ。三日の間、人々は互に見ることもできず、まただれもその所から立つ者もなかった。しかし、イスラエルの人々には、みな、その住む所に光があった。』(出エジプト記10:21)
第3、第6の災いの時と同様、この災いもパロへの予告なしに行われ、また、今回もエジプトとイスラエルとを区別された。
「人々は互に見ることもできず、まただれもその所から立つ者もなかった。」という記述から、平衡感覚を失って立てないほどの濃い闇だったと分かる。
電灯が発達している現代の私達には分かりづらいが、手も見えないような闇の中に長時間置かれるのは、舌を噛むほどの苦痛である。(黙示録16:10)
『そこでパロはモーセを召して言った、「あなたがたは行って主に仕えなさい。あなたがたの子供も連れて行ってもよろしい。ただ、あなたがたの羊と牛は残して置きなさい」。』(出エジプト記10:24)
パロは相変わらず、モーセの要求を全て飲む事はせず、自分の意見を一部押し付けた。
まだまだ頑なさが残っている事が分かる。
パロのこの言葉は、主への捧げ物は持たずに礼拝しに行け、と言っているようなものである。
世も、礼拝者に妥協を求めて来る。礼拝に行くのはかまわないが、献金はするな、など。
しかしモーセは一切妥協せず、むしろパロに挑戦的な言葉を返した。
『モーセは言った、「あなたは、また、わたしたちの神、主にささげる犠牲と燔祭の物をも、わたしたちにくださらなければなりません。わたしたちは家畜も連れて行きます。ひずめ一つも残しません。わたしたちは、そのうちから取って、わたしたちの神、主に仕えねばなりません。またわたしたちは、その場所に行くまでは、何をもって、主に仕えるべきかを知らないからです」。』(出エジプト記10:25)
エジプト人にとって、牛と羊は聖なる動物である。それを、イスラエルの神に捧げる捧げ物として、パロ自身が提供せよ、と言うのである。
神はあらゆる人に迫る。それまであなたが”神”として来たものは捨て去り、わたしに捧げよ、と。
自分の仕えて来た偶像の神々を捨てて、主に立ち返るならば、神は豊かな憐れみによって祝福を与え、神の国へと加えて下さる。
しかしパロはまたもや頑なにされ、モーセ達とは喧嘩別れの形で互いに別れてしまった。
今回の暗闇の災いは、真理の道を邪魔する者、神の道から人々を遠ざける者に注がれる災いである。
パウロがキプロス島を巡回して伝道し、地方総督に福音を伝えていた時、魔術師エルマは総督を信仰からそらそうとして、しきりにパウロ達の邪魔をした。
そこでパウロは彼をにらみつけて言った。
『「ああ、あらゆる偽りと邪悪とでかたまっている悪魔の子よ、すべて正しいものの敵よ。主のまっすぐな道を曲げることを止めないのか。見よ、主のみ手がおまえの上に及んでいる。おまえは盲目になって、当分、日の光が見えなくなるのだ」。
たちまち、かすみとやみとが彼にかかったため、彼は手さぐりしながら、手を引いてくれる人を捜しまわった。総督はこの出来事を見て、主の教にすっかり驚き、そして信じた。』(使徒13:10-12)
福音が伝えられている時、御言葉を語っている時、賛美をしている時、聖徒が食卓の交わりをしている時など、急にそわそわし出して、しきりにその場をひっくり返そうと邪魔したがり出す者がいる。
それは、その人の内にいる悪しき霊がそうさせているのだ。
悪しき霊がターゲットとしていた人に、いのちが蒔かれ、光に照らされ、ますます健やかになって行くのを見るのを、悪霊は不愉快で仕方無いのだ。
しかし、そのように「主のまっすぐな道を曲げる」者は、ますます闇に落ち込んでしまう。
そのような人は、そうやって闇に支配されたり闇を選択する事を止めさせ、光へと導くべきである。
どうしても闇に同意し、主のまっすぐな道を曲げることを止めないのであれば、パウロのように、主イエスの御名によって呪うのである。
暗闇から解放させて下さるお方は、唯一、イエスキリストである。
神は、暗闇の中で苦しみ悶えている人間の上に、大きな光をともしてくださった。
ひとりのみどりごを私達に与え、その名は「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」と呼ばれ、そのお方により頼む人はいつまでも導かれるのである。
『苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。・・・
ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。』(イザヤ9:1-7)
長かったアドベント(創世記3:14-15)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
今週より、救い主キリストの降誕を覚えて待ち望む期間「アドベント(降誕節)」が始まった。
キリストの降誕が、一番最初に預言された箇所はどこか、ご存知だろうか。
アダムとエバが堕落したのは創世記3章6節、そこから10節も数えぬ、創世記3章15節にてである。
エバが蛇にそそのかされ、神から禁じられていた実を食べてしまった時、神は蛇に「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」と言われた。
ここの「子孫」はヘブライ語でゼラ、単数形が用いられており、「子孫、子」の他に「種」の意味もある。
女は男から「種」を受けなくては子は生まれない。つまり「女の種」の言葉は、処女降誕をも暗示している。
全人類はこの事件以降、蛇(サタン)の支配下に置かれ、神から離れて自ら善悪判断をしながら生きていかなくてはならなくなってしまい、エデンから追放されて以降の人類歴史、いや、全被造物の歴史は、蛇の頭を砕いて全被造物に救いをもたらす「女の子孫(単数形の種)」の降誕を待ち望む期間へと入った。
神がアブラハムを選んだのも、ダビデを選んだのも、全てこの「子孫」を、世に送り出す整えのためであり、アドベント(待降節)は実に、エデンの園から始まり、キリストの誕生までの、長い期間だったのである。
創世記3章15節、この短い箇所は実に、聖書全体を簡潔に表している。
聖書は、本としては分厚いほうだが、分厚くなってしまった原因は、この創世記3章1-15節の事件であると言って、過言ではない。もしアダムとエバが、善悪を知る知識の木から取って食べていなければ、創世記3章から黙示録20章までの部分は、必要無かっただろう。
そして創世記2章以前も、黙示録21章以降も、神と人との隔ては一切無い世界、神と人とが永遠に共に住む世界、死も、呪われるべきものも、一切無い世界であり、神の目的は、人類をそこへ導く事である。
神は堕落してしまった人類を、罪と死から救い出すために、アブラハムを選び、アブラハムからイスラエル民族を興され、全人類は、このアブラハムの子孫によって祝福に入る事を約束された。(創世記15:1-6)
このイスラエル民族に預けた律法によって神の基準を明示し、しもべダビデから、とこしえに続く一つの家、永遠に続く王国を建てる約束を与え(1歴代誌17:4-15)、そのダビデのすえから、キリストが生まれた。
「女の子孫」の預言は、メシヤであるイエスキリストの誕生によって成就した。
『 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。』(マタイ1:23)
神は、罪を犯し死とのろいに陥ってしまった人類を、決して見捨てる事はなさらず、いつも共におられた。
乙女マリヤが聖霊によって身ごもり、男の子を生んだ事によって、全宇宙という器の中に、イエス・キリストという唯一の”種”が蒔かれた。そしてこのお方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる全権が与えられた。(ヨハネ1:12)
『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。』(イザヤ9:6-7)
人はエデンの園にて、御言葉に逆らい、罪と死の呪いを、全被造物に招いてしまった。神はそこから、いかにして人を贖い、救うか。それが聖書の概要であり、その最重要キーパーソンは、イエス・キリストである。
「彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く」と言われている通り、蛇(サタン)はある程度のダメージを「子孫」に与えるが、この「子孫」は、サタンの頭を打ち砕き、致命打を与え、勝利する。
何によって勝利したか。それは死に至るまでの従順によって、すなわち、十字架によってである。
人の道は、エデンの園以来、二つに一つである。すなわち、いのちの木を選ぶか、善悪判断の木を選ぶか。十字架という木を選ぶか、それとも目に良く、肉に良く、神のように賢くするという木を選ぶか。御言葉に従順して、永遠のいのちを生きるか、それとも、御言葉を退け、自分の善悪判断で生きるか。
キリストを選び、永遠のいのちを獲得する皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声:第八の災い - いなごの災い(出エジプト記10:12-20):右クリックで保存
『いなごはエジプト全国にのぞみ、エジプトの全領土にとどまり、その数がはなはだ多く、このようないなごは前にもなく、また後にもないであろう。いなごは地の全面をおおったので、地は暗くなった。そして地のすべての青物と、雹の打ち残した木の実を、ことごとく食べたので、エジプト全国にわたって、木にも畑の青物にも、緑の物とては何も残らなかった。』(出エジプト記10:14-15)
どこにでも入り込んで来て、植物の青物類を全て食いつくしてしまう大量の虫の災いの恐ろしさは、現代日本に生きる私達には想像しにくいかもしれないが、パロが今まで以上にうろたえるほどの災厄である。
「わたしは、あなたがたの神、主に対し、また、あなたがたに対して罪を犯しました。それで、どうか、もう一度だけ、わたしの罪をゆるしてください。そしてあなたがたの神、主に祈願して、ただ、この死をわたしから離れさせてください」(出エジプト記10:16-17)
彼は雹の災いの時にも同じような事を言った。「わたしはこんどは罪を犯した。主は正しく、わたしと、わたしの民は悪い。」(9:27)
前回は単に「罪を犯した」「私達が悪い」だけだったが、今回は、誰と誰に対して罪を犯したのかを明確に告白し、また、「この”死”をわたしから離れさせてください」とまで言った事から、いなごに全ての青物や緑の物を食い尽くされる苦しみは相当なものだったと伺える。
ヨエル書には、いなごに荒らされる災いの恐ろしい様を表現している。
『かみ食らういなごの残したものは、群がるいなごがこれを食い、群がるいなごの残したものは、とびいなごがこれを食い、とびいなごの残したものは、滅ぼすいなごがこれを食った。酔える者よ、目をさまして泣け。すべて酒を飲む者よ、うまい酒のゆえに泣き叫べ。うまい酒はあなたがたの口から断たれるからだ。』(ヨエル1:4-5)
パロは自らの頑なで身勝手な思いに酔いしれて、現実逃避しているようなものだったが、いなごによって目覚めさせられた。
主は、のほほんと罪を犯し続けて頑なに行いを改めない者には、全てを食い尽くし奪い去る”いなご”を送って、目を覚まさせる。
『一つの国民がわたしの国に攻めのぼってきた。その勢いは強く、その数は計られず、その歯はししの歯のようで、雌じしのきばをもっている。彼らはわがぶどうの木を荒し、わがいちじくの木を折り、その皮をはだかにして捨てた。その枝は白くなった。』(ヨエル1:6-7)
ここに記されているいなごは特殊で、その歯はししの歯のようである有様は、黙示録に登場するいなごのようである。
『これらのいなごは、出陣の用意のととのえられた馬によく似ており、その頭には金の冠のようなものをつけ、その顔は人間の顔のようであり、また、そのかみの毛は女のかみのようであり、その歯はししの歯のようであった。
また、鉄の胸当のような胸当をつけており、その羽の音は、馬に引かれて戦場に急ぐ多くの戦車の響きのようであった。その上、さそりのような尾と針とを持っている。その尾には、五か月のあいだ人間をそこなう力がある。』(黙示録9:7-9)
黙示録に登場するいなごは、底知れぬ穴から、立ち上る煙と共に現れ、太陽は暗くなり、草木には害を与えずに、神の印の押されていない人達のみに害を与える。
このいなごは、さそりのような尾を持ち、それに刺されると、さそりにさされたような苦痛に襲われ、人は死を願うのに死ぬことは出来ず、五か月の間、その苦しみにもだえる。
「主の日は大いにして、はなはだ恐ろしいゆえ、だれがこれに耐えることができよう。」とある通りである。(ヨエル2:1-11)
しかし主は、主に助けを求める人を、恵みと慈しみで覆って下さる。
『主は言われる、「今からでも、あなたがたは心をつくし、断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。あなたがたの神、主に帰れ。主は恵みあり、あわれみあり、怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、災を思いかえされるからである。神があるいは立ち返り、思いかえして祝福をその後に残し、素祭と灌祭とを/あなたがたの神、主にささげさせられる事はないと/だれが知るだろうか。』(ヨエル2:12-14)
主に立ち返るには、単に衣服を裂くような外見的な悔い改めではなく、心を裂いて真剣に悔い改める事が必要である。
そうして心を尽くして主に立ち帰るなら、主は災いを思い返し、主への捧げ物をささげられるように祝福を残して下さり、主が祝福を残して下さったなら、私達はその中から主に捧げ物を捧げるべきである。
『わたしがあなたがたに送った大軍、すなわち群がるいなご、とびいなご、滅ぼすいなご、かみ食らういなごの食った年を/わたしはあなたがたに償う。あなたがたは、じゅうぶん食べて飽き、あなたがたに不思議なわざをなされた/あなたがたの神、主のみ名をほめたたえる。わが民は永遠にはずかしめられることがない。』(ヨエル2:25-26)