メッセージ - 201301のエントリ
祈祷会音声:1/8-22
2012/1/8 祈祷会 旗印は愛:右クリックで保存 音声のみ
2012/1/11 祈祷会 バルテマイ:右クリックで保存 音声のみ
2012/1/17 祈祷会 主は盗人のように来る:右クリックで保存 音声のみ
2012/1/18 祈祷会 ガリラヤ湖にてイエスは:右クリックで保存 音声のみ
2012/1/22 祈祷会 御霊に導かれて:右クリックで保存 音声のみ
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
高慢な妻と慎み深い妻(エステル記1章):右クリックで保存
【概要】
本日はエステル記と関連聖書箇所を通して、神の御業とキリストの花嫁としての立場、そして高慢や傲慢に陥らない謙遜な信仰の歩みについて説きます。
【聖書箇所】
・エステル記 1章1-9節
・エゼキエル書 28章12-13節および14節以降(サタンの転落に関する記述)
・雅歌 5章2-8節
・雅歌 2章10-15節
【戒めの言葉】
・主の御声に応えず、自らの誇りや美しさに頼ったなら、いつかその尊い冠が奪われることを、今日のエステル記とエゼキエル書が私たちに警告しています。
【励ましの言葉】
・神の御声に敏感に耳を傾け、謙遜な心で応えるなら、あなたはどんな状況にあっても神の御手の保護の中にあります。
【慰めの言葉】
・たとえ遠く離れた異邦の地にあっても、私たちはキリストの花嫁として、神の愛と慰めの中に常に守られていることを忘れてはなりません。
【***詳細***】
今日、私はエステル記の冒頭の場面から、私たちが学ぶべき真理についてお話ししたいと思います。エステル記は、アハシュ⁑ス王の豪華な宴会の記述から始まります。王はシュシャンの城において、王族にも臣下にも惜しみない贈り物とともに、華麗な宴を180日、さらにその後7日間にわたって催しました。**「アハシュ⁑ス王は、金の盃で酒を振る舞い、その豊かな栄光と栄華を民衆に示された」**との記述は、神の世ではなく人間の世の栄光に過ぎません。しかし、この豪華な宴の裏側には、王妃ワシュティが自らの高慢によってその立場を失い、結果として国中の人々の尊敬をも失わせるという重大な教訓が隠されています。
私たちは、エステル記における王妃ワシュティの行動から、謙遜な心で主に仕えるべきという大切なメッセージを読み取ることができます。エステル記のこの部分は、単に古代ペルシアの宮廷劇のような歴史記録ではなく、「私たちは誰の妻なのか?」という問いを現代に向けて問いかけます。王妃ワシュティは、美貌ゆえに傲慢となり、王の呼びかけに応じることを拒んだために、その栄誉が失われ、後により優れた花嫁—謙遜な心のエステル—にその座が譲られました。ここで私たちは、イエス・キリストの花嫁として、主の呼びかけに即座に応え、謙虚にその愛を受け入れることの大切さを学びます。正しい信仰の歩みとは、どんなに美しい外見や才能があろうとも、主の前ではすべてのものが私たちのものではなく、私たちはただ主の召命に従う花嫁であり続けなければならないということを思い起こさせます。
また、エゼキエル書28章では、神がかつて愛された天使長サタンの美しさと知恵、そしてその後の堕落に至る過程が描かれています。**「あなたは知恵に満ち、美の極みであった。しかし、あなたがその美しさに高ぶり、誇りに浸ったため、汚れた者として神の前から追放された」**との言葉は、私たちに高慢の危険性を厳しく戒めています。エステル記の王妃ワシュティもまた、自らの美貌と地位に溺れ、神に対する謙虚な心を失った結果、王の御前から退けられる運命に遭いました。これと対照的に、新たに選ばれたエステルは、その慎ましさと従順さにより、王から特別な庇護を受け、イスラエル民族の救いに大きく貢献しました。
私たちは今日、エステル記の中に現れる歴史的背景を通して、神がどのような人々を御用に召されるのか、そしてどのような心持ちで御前に立つべきかを再確認する必要があります。王妃ワシュティの失敗は、どれほど華やかな環境にあっても神から離れることが、取り返しのつかない結果を招くという警告です。一方、エステルのように謙遜で主への絶対的な信頼を持つ者は、どんなに異国の地であっても神の御心の通りに働くことができるのです。
さらに、雅歌の中にある恋の描写は、キリストとその花嫁たる私たちとの深い交わりを象徴しています。雅歌5章2〜8節には、愛する方が呼びかけ、花嫁がその声に心を震わせる情景が描かれています。**「我が愛する者、美しい人よ、さあ立って出ておいで。あなたの声を聞かせておくれ」**という御言葉に、私たちはどれほど感動し、応えなければならないかを思い知らされます。同様に、雅歌2章10〜15節でも、主からの呼びかけに対して、花嫁が即座に応じる姿が描かれ、主と交わる喜びがあらわされています。
ここで改めて、私たちに問いたいのは「私たちは誰のために生きているのか」ということです。私たちはイエス・キリストの花嫁として御前に召され、たとえ世界のどこにいても、神の王宮と呼ばれる御座は変わらずそこにあります。エルサレムにおいてネヘミヤやエズラが神殿再建に奔走し、その後、遠き異国の地においてもエステルが救いの鍵を握ったように、私たちもどのような環境においても、主への従順と謙虚な心を忘れてはなりません。
確かに、世の中は誘惑と誇りに満ち、どんなに華やかに見えても、その裏側には必ず神の裁きと戒めが存在することを、今日の聖書の記述は示しています。私たちは決してその栄誉に乗り、自己中心的になってはなりません。むしろ、主の呼びかけに敏感になり、心から「私の愛する方は私のもの、私はあの方のものです」と信仰を告白し、日々の生活の中でその証を示すべきです。
神は、私たちに高慢や傲慢に陥らないよう、また、どんな時も主の呼びかけに応え、御言葉に従うようにと望まれています。過去の大いなる歴史の中で、ワシュティがその高慢のために冠を失ったように、もし私たちが自己を高ぶらせ、主の呼びかけに背くなら、いつかその栄誉は取り去られてしまうでしょう。しかし、エステルのように謙虚であるならば、主は必ず祝福と守りをもって私たちと共に在り続け、限りない愛の交わりを約束してくださいます。
最後に、私たちが生きるこの時代においても、神の御声は決して遠くないということを確信してください。日々の忙しさや世俗の誘惑に惑わされることなく、毎朝の祈りと思い起こしの中で、神が私たちに呼びかけておられることを感じ取ってください。イエス様の花嫁として、謙虚に、そして従順に、主の教えと召命に応えるその心を持ち続けることが、私たちの真の栄光と祝福につながるのです。
愛する皆さん、神はあなたの内にその御霊を注ぎ、いつもあなたが歩む道を照らしておられます。いかなる状況においても、主の愛を信じ、御声に敏感に耳を傾け、決して自分の力に頼らず、ただ主の豊かな恵みによって生きることを、心から願っております。
【結論】
本日の聖書の御言葉は、私たちがどのような立場、どのような環境にあっても、主イエス・キリストの花嫁として謙虚に従い、主の呼びかけに即応すべきであるという力強いメッセージです。どうか今日の御言葉を心に刻み、日々主の愛と召命に従う歩みを続け、栄光の冠を失うことなく、永遠に主と交わり続ける信仰の花嫁であられるよう、神の祝福が皆さんに豊かにありますように。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
1ヨハネ5:18-21:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:性的な純潔と霊的な純潔(出エジプト記22:16-20):右クリックで保存
『もし人がまだ婚約しない処女を誘って、これと寝たならば、彼は必ずこれに花嫁料を払って、妻としなければならない。もしその父がこれをその人に与えることをかたく拒むならば、彼は処女の花嫁料に当るほどの金を払わなければならない。』(出エジプト記22:16)
婚約もしていない処女と性交渉を持ったなら、彼女を妻として迎えなくてはならず、また、妻や夫もしくは婚約者のいる人が別の異性と性交渉するなら、死刑が定められている。(申命記22:22-24)
また、女性を力づくで犯す事は、殺人にも等しい行為であり(申命記申命記22:25-26)、そのことは、いかに女性の尊厳を傷つける事であるか示されている。
神の基準では、肉体関係を持つべき相手は、死が互いを別つまで、オンリーワンである。
そして、性的な事柄は、霊的な事柄と相通じるものがある。
夫婦はお互い相手に純潔である事を求めるように、主もまた人に「純潔」である事を求めておられる。
当時のカナン地方では、呪術が盛んに行われていたが、それは、悪霊と交わる行為であり、偶像崇拝は、主のねたみを招く「霊的姦淫」である。
『偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。それとも、わたしたちは主のねたみを起そうとするのか。わたしたちは、主よりも強いのだろうか。』(1コリント10:19-22)
そして、私達が主を礼拝し、主の聖餐にあずかる事は、主と交わり、主と一体となる事を意味している。
『それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。賢明なあなたがたに訴える。わたしの言うことを、自ら判断してみるがよい。わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。』(1コリント 10:15-17)
男と女の性的な関係は、主と私達の関係のひな形である。
『すべて獣と寝る者は必ず死刑に処せられる。』(出エジプト記22:19)
人は神の似姿であり、性行為はその相手と一つとなる事である。それ故、汚れた者や獣と交わる事は、神を大いに侮辱する行為である。
私達のこの体は、キリストの体でり、もしこの体で遊女と寝るなら、キリストの体を取って遊女の体とする行為である。「ふたりの者は一体となるべきである」とあるからである。
しかし主につく者は、主と一つの霊になるのだ。(1コリント6:15-17)
『不品行を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にある。しかし不品行をする者は、自分のからだに対して罪を犯すのである。あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。』(1コリント6:18-20)
偶像崇拝も、不品行も、主を汚す行為である。
「主のほか、他の神々に犠牲をささげる者は、断ち滅ぼされなければならない。」(出エジプト記22:20)
私達は、自らの体を使って、神の栄光をあらわすべきである。
先週まで、水曜夜の講解メッセージはネヘミヤ記から行なっておりましたが、それも先週で完結し、今週からはエステル記に入りました。
そして初の試みとして、遠隔地の兄弟姉妹と、スカイプを用いて、リアルタイムで礼拝を行いました。
仕事や家庭の事情で水曜の夜は参加できなかったのですが、それが共にあずかれるようになって、お互いとても嬉しかったです。
礼拝説教メッセージ音声:律法の中の刑法:損害賠償(出エジプト記22:1-15):右クリックで保存
今回の箇所は、人の財産に損害を与えた場合の定めである。
『もし人が牛または羊を盗んで、これを殺し、あるいはこれを売るならば、彼は一頭の牛のために五頭の牛をもって、一頭の羊のために四頭の羊をもって償わなければならない。彼は必ず償わなければならない。もし彼に何もない時は、彼はその盗んだ物のために身を売られるであろう。もしその盗んだ物がなお生きて、彼の手もとにあれば、それは牛、ろば、羊のいずれにせよ、これを二倍にして償わなければならない。』(出エジプト記22:1-3)
盗みを働いた場合、基本的にはその倍もしくはそれ以上の賠償が請求される。
盗んだ家畜が生きたままで見つかった場合は二倍、生きたまま返せない場合は、羊なら四倍、牛なら五倍で償わなければならない。
高価な家畜ほどペナルティが高いわけである。
食べ物や持ち物に困っているわけでもないのに盗んだり、万引きをゲーム感覚で行う人もいるが、神の定めた律法で「盗み」に課せられるその罰を見る時、人の物を盗む事は、それほど重い罪である事を知らなければならない。
不注意ゆえに損害を与えていまう場合は、基本、その「償い」をする事になっている。(5-6節)
例えば、自分の家畜が他人の畑のものを食べてしまった場合は、自分の産物の中から最良のもので償わなければならず、また、火の不始末などで人の畑を1ヘクタール火で燃やしてしまったら1ヘクタール分、100ヘクタールなら100ヘクタール分、償わなければならない。
当時のイスラエルは財産といえば畑や家畜であり、銀行に預けるという事ができなかったため、旅などで家を空ける場合は、隣の人に家畜をみてもらったりしていた。
そのため、家畜をあずかっていた時に起きた損害についての定めもある。
誰かの家畜をあずかっていた時、その家畜が盗まれてしまったり死んでしまった場合は、神(エローヒム:さばきびと)の前に出て、自分がその手を下していない事を誓わなくてはならない。(7-13節)
家畜をあずかっていた時に起きた損害で、自分に非が無いのであれば、その事を神(さばきびと)の前で「誓う」事によって、落着する。
ただ、神の御前で誓う時はは、軽がろしくは出来ない。「あなたは、あなたの神、主の名を、みだりに唱えてはならない。主は、み名をみだりに唱えるものを、罰しないでは置かないであろう。」(20:7)と書かれてある通りである。
また、誰かから家畜を「借りている(「預かっている」ではない)」場合に、その家畜に損害を与えてしまった場合は、「償い」をしなくてはならない。(14-15節)
神から離れて生きる生き方を選んでしまった人間は、呪いの元にあり、その呪いの度合いが大きければ大きいほど、負債が重なったり、盗んだり、蹴落としたり、という生き方が、むしろスタンダードになってしまう。
ジャン・バルジャンは、貧困ゆえにパン一本を盗み、その罪だけで十九年も刑に服したが、人の定めた罰則は不完全であり、不平等である。
盗んだものを貧しさゆえに返せないような場合、律法では奴隷となるが、七年奴隷をすれば解放され、独り立ちして生きていけるような配慮が律法にはある。
神様に従って誠実に生き、律法を守って歩む人は祝福され、また、たとえ貧しくなっても、兄弟姉妹や親類が養ってくれる事が律法で定められているため、律法を尊守する民には、貧しくなるとか盗むとかいう概念が無くなっていくのである。
人間は元々、神から離れて生きるようには出来ていない。神とともに歩み、神の御口から出る御言葉によって生きる生き方こそ、人にとって最善の生き方である。
礼拝説教メッセージ音声:家畜に関する定め(出エジプト記21:28-36):右クリックで保存
今回の箇所は、家畜に関する定めである。
ユダヤにおいて家畜は財産だったが、生き物であるが故に、何かを起こした場合の対処方法を主はここで示された。
『もし牛が男または女を突いて殺すならば、その牛は必ず石で撃ち殺されなければならない。その肉は食べてはならない。しかし、その牛の持ち主は罪がない。』(出エジプト記21:28)
牛には力があり、時に人を殺傷する事がある。
そして牛が人を殺した場合は、その牛の命をとらなければならないが、牛の持ち主がそれ以上の責任を負う事は無い。
全てのいのちは主のものであり、主が人の齢を計り与えているからである。
しかし、以下の場合は別である。
『牛がもし以前から突く癖があって、その持ち主が注意されても、これを守りおかなかったために、男または女を殺したならば、その牛は石で撃ち殺され、その持ち主もまた殺されなければならない。彼がもし、あがないの金を課せられたならば、すべて課せられたほどのものを、命の償いに支払わなければならない。』(出エジプト記21:29)
人は財産を持つと、その持ち物について社会的な管理責任が発生する。
例えば、車は役に立つ”財産”であるが、使い方次第では殺傷能力のあるものとなり、例えばブレーキが壊れていて放置して事故を起こした場合は、その人の責任となるのと同じである。
しかし、人が意図的に人を殺した場合と違い、贖い金で解決する手段も主は残された。
『牛がもし男奴隷または女奴隷を突くならば、その主人に銀三十シケルを支払わなければならない。またその牛は石で撃ち殺されなければならない。』(出エジプト記21:32)
牛が奴隷を殺した場合は、奴隷の代価として銀三十シケルを支払わなくてはならない。
ここから、この銀三十シケルという値段が奴隷の値段と分かる。
イエス様もイスカリオテのユダを通し、パリサイ人たちに”奴隷の値段”として銀三十シェケルで値積もりされた。
『もし人が穴をあけたままに置き、あるいは穴を掘ってこれにおおいをしないために、牛または、ろばがこれに落ち込むことがあれば、穴の持ち主はこれを償い、金をその持ち主に支払わなければならない。しかし、その死んだ獣は彼のものとなるであろう。』(出エジプト記21:33-34)
ここでも資産の管理責任が問われている。
そして自ら落ちて死んだ獣については代金で買い取る形となり、何らいのちを差し出す必要が無いのは、理にかなっている。
『ある人の牛が、もし他人の牛を突いて殺すならば、彼らはその生きている牛を売って、その価を分け、またその死んだものをも分けなければならない。あるいはその牛が以前から突く癖のあることが知られているのに、その持ち主がこれを守りおかなかったならば、その人は必ずその牛のために牛をもって償わなければならない。しかし、その死んだ獣は彼のものとなるであろう。』(出エジプト記21:35)
動物同士の殺傷は、被害者側と加害者側の、双方が平等に配分されるよう取り計らわれているが、突く癖のある牛については、ここでも管理責任が問われる。
そういうわけで、家畜によって”物持ち”となるからには、それなりに自分の家畜や隣人に配慮する事も要求される事になる。
多くの富や力を得るからには、多くの責任も発生するのである。
現代を生きる私達には、厳しすぎるように見えるところもあったかもしれない。
しかし、これが神のスタンダードであり、神の基準では、人の命はそれほど重要で、配慮すべきものなのである。
神様がノアに与えられた祝福を見ると、人がいかに尊い存在であり、人の血を流す事が、いかにおおごとであるのかが分かる。
『神はノアとその子らとを祝福して彼らに言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地のすべての獣、空のすべての鳥、地に這うすべてのもの、海のすべての魚は恐れおののいて、あなたがたの支配に服し、すべて生きて動くものはあなたがたの食物となるであろう。さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。
しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない。あなたがたの命の血を流すものには、わたしは必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。人の血を流すものは、人に血を流される、/神が自分のかたちに人を造られたゆえに。あなたがたは、生めよ、ふえよ、/地に群がり、地の上にふえよ」。』(創世記9:1-7)
どちらの霊を受けるか(エペソ2:1-7)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声:右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
霊には色々な種類がある。聖書に出てくる霊でも、おくびょうの霊、奴隷の霊、おしとつんぼの霊、病の霊、占いの霊など、色々あるが、それら悪しき霊はサタンをかしらとし、空中に勢力の座を置く「この世の霊」であり、人に入ってはその人に様々な悪しき事を行わせ、災いへと導き、滅びへと向かわせる。
それに対し、神の元から遣わされた霊すなわち「聖霊」があり、その霊はイエス・キリストを告白する。
聖霊を宿し聖霊に導かれて歩む人は、愛、喜び、平安など、様々な良き実を人生において結ぶ。
主を知らずに生きている生来の人は、元々、世の霊に縛られて生きてきた。
彼らは罪の中にあって、この世の流れ(時代、流行)に従い、空中の権威を持つ支配者に従って歩んでいたが、憐れみ豊かな神は、その大きな愛の故に、罪過の中に死んでいた私たちをキリストとともに生かし、キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所に座らせて下さった。(エペソ2:1-7)
空中、そこには、雑菌のごとく「この世の霊」が漂っており、それらの霊には感情的・意識的な色合いがあって、類似した色合いの人に宿ろうとする。
たとえば、嫉妬深い人には嫉妬の霊が、病んでいる人には病の霊が付着しやすい。
宿主である人は、色合いの似た霊を引き寄せ、その霊はさらに類似した霊を呼び寄せ、そうしてたくさんの霊を抱えてしまう人もいる。(マルコ5:1-20、マタイ12:43-45)
それらの霊に羅患しないコツは、風邪の予防と同じで、御言葉の水でうがいをし、イエス様の血によって消毒・殺菌し、イエス様の愛で心暖かくし、世から何か汚れを受けた、と思ったなら、すぐに真の医者であるイエス様の所に行く事であり、イエス様の元に行くなら、いかに多くの悪霊につかれていても、治癒される。
健やかな体なら多少の風邪菌は何とも無いように、イエス様の健全な教えによって、いつも健全さを保っているなら、空中の諸霊も恐れるに足りない。
イエス様を主としている事、それは全ての面における健やかさと祝福の道である。
イエス様とサタンは、対等ではなく、権威的上下関係にあり、イエス様は最も上、サタンは遥か下である。
この世の霊は、決してイエス様には勝てず、聖霊に支配される人には、悪しき者は触れる事ができない。
私達が救われるのはイエスを「主」とする信仰により、それはいわば、自由意思による「主人転換」である。
私達の中の王座には、一人の主人しか座る事ができない。生来の人は、その王座に「自分」を据え、自分が人生のハンドルを握って生きていたが、その人達はこの世の霊に縛られ、滅びへと向かっている。
しかし、その王座にイエス様に座っていただき、イエス様に人生のハンドルさばきを委ねるなら、すなわち、イエス様を「主」とするなら、もはやサタンも悪霊も、その人に何もできない。サタンの支配からイエス様の支配へ、滅びから救いへ、死からいのちへと転換される。貧しさから豊かさへ、病から健やかさへ、嘆きから喜びへ、呪いから祝福へと、人生のあらゆるものが、良きものへと、造り替えられるのである。
主は、人の自由意思を尊重されるお方で、たとえ主にある救いの道が示されたとしても、それを拒否し、不従順に歩む、という事も出来る。しかし、そのような歩みをした人は、前の状態より、もっと悪くなってしまう。
サウル王は不従順を続けた結果、聖霊が取り上げられ、悪い霊にさい悩まされた。それでもなお頑なに不従順を続け、自分を王とし続けた結果、とても悲惨な最後を遂げてしまった。
神の目に見えない本性が示され、神の永遠の力と神性が、示されていながら、その神を知ろうとも、あがめようとも、感謝しようともしないなら、神は彼らをその心の欲望のままに汚れへと引き渡し、むなしい思いに、暗い心へと引き渡されてしまうのだ。(ローマ1:20-32)
しかし、イエス様を慕い、御言葉に従順し、さらに御元に近づこうとする意思のある人には、聖霊が与えられ、その人は御霊によって導かれ、いつも潤い、決して渇く事が無い。
『イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。』(ヨハネ7:37-39)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
滅びをかき込むなかれ(ヨシュア7章):右クリックで保存
律法の中の刑法:傷害事件について(出エジプト記21:18-27)
- カテゴリ :
- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 出エジプト記
- 執筆 :
- pastor 2013-1-18 19:00
礼拝説教メッセージ音声:律法の中の刑法:傷害事件について(出エジプト記21:18-27):右クリックで保存
今回の箇所は、傷害事件の際の命令である。
『人が互に争い、そのひとりが石または、こぶしで相手を撃った時、これが死なないで床につき、再び起きあがって、つえにすがり、外を歩くようになるならば、これを撃った者は、ゆるされるであろう。ただその仕事を休んだ損失を償い、かつこれにじゅうぶん治療させなければならない。』(出エジプト記21:18-19)
誰かに傷害を与えた場合、相手が死ななかったら「ゆるされる」と言っても、「死刑」は免れるという意味で、例えば相手を傷害で1ヶ月床についた場合は、その分の給料を保証してやらなくてはならないし、そればかりでなく以下のペナルティもつく。
『命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足、焼き傷には焼き傷、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。』(出エジプト記21:23-25)
相手を失明させた場合は自分も失明させられ、手や足を失わせば、自分も同じようにされるのである。
傷害事件の”加害者”の側は、踏んだり蹴ったりである。
やられたら、憎しみに身を任せて何倍にもして返す事がまかり通っていた古代世界において、この律法は、画期的なまでの平等な法だった。
また、奴隷に対する傷害事件も、当時の世界の他の国に比べれば驚くほどに人権への配慮がなされていた。
『もし人がつえをもって、自分の男奴隷または女奴隷を撃ち、その手の下に死ぬならば、必ず罰せられなければならない。しかし、彼がもし一日か、ふつか生き延びるならば、その人は罰せられない。奴隷は彼の財産だからである。』(出エジプト記21:20-21)
当時は奴隷に人権は無いも同然で、奴隷が主人に言い逆らったら平気で殺していたし、近代の奴隷船においても、運んでいる奴隷が少しでも気に食わなかったり病気などで弱っていたりしたら平気で海に突き落としていたので、サメがいつも奴隷船の周りにいたほどだった。
それに対し、神様が定めた律法では、奴隷をその場で殺してしまったら「必ず罰せられる(すなわち、死をもって償わせられる)」のである。
また、次のようにも定められている。
『もし人が自分の男奴隷の片目、または女奴隷の片目を撃ち、これをつぶすならば、その目のためにこれを自由の身として去らせなければならない。また、もしその男奴隷の一本の歯、またはその女奴隷の一本の歯を撃ち落すならば、その歯のためにこれを自由の身として去らせなければならない。』(出エジプト記21:26)
奴隷の目や歯を損なったら、その奴隷は解放してやらなくてはならず、また、間違ってその場で殺してしまったら、自分が殺される事になってしまうのである。
律法の下にある主人は、よほど奴隷を大切に扱ったのではなかろうか。
律法の一つ一つを見ていくと、時に厳しすぎると思うかもしれない。親を罵っただけで死刑とか、現代日本では信じられないかもしれない。
しかし、想像してみてほしい。
喧嘩して相手を失明させたら、失明させられ、死なせたら、自分も死んでしまうような社会だったとしたら、そのようなリスクを犯してまで、憎しみに任せて相手に手を下すだろうか。
家で仕えている奴隷も、目や歯を損なったら、その奴隷を解放しなくてはならず、間違って殺してしまったら、自分も殺される事になるとしたら。
また、子供は親を罵るのはとんでもない罪だという価値観の元に、親を恐れ、敬い、権威に服従する事を小さい時から学び、また、周りの子供たちも皆じような価値観で育てられるとしたら、きっと想像もつかないほど平穏で健やかな、尊厳に満ちた社会になるのではなかろうか。
現代人は、律法はお固い、厳しい、と思う。
しかし、律法を守り行う人は神に保護され、守られ、平和と尊厳の内を生きるのである。