メッセージ - 201302のエントリ
礼拝説教メッセージ音声:エポデ - 私達を背負われる主(出エジプト記28:6-14):右クリックで保存
今回の箇所は、祭司の特別な服の一つ、エポデについて。
『そして彼らは金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸を用い、巧みなわざをもってエポデを作らなければならない。これに二つの肩ひもを付け、その両端を、これに付けなければならない。エポデの上で、これをつかねる帯は、同じきれでエポデの作りのように、金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で作らなければならない。』(出エジプト記28:6)
エポデは袖なしのエプロンのような服で、幕屋の出入り口に使われた青、紫、緋、白の刺繍の他、神のご性質をあらわす「金」も加わり、非常にカラフルである。
このエポデは、神であり人であるイエス・キリストのご性質をあらわしている。
『あなたは二つの縞めのうを取って、その上にイスラエルの子たちの名を刻まなければならない。すなわち、その名六つを一つの石に、残りの名六つを他の石に、彼らの生れた順に刻まなければならない。宝石に彫刻する人が印を彫刻するように、イスラエルの子たちの名をその二つの石に刻み、それを金の編細工にはめ、この二つの石をエポデの肩ひもにつけて、イスラエルの子たちの記念の石としなければならない。こうしてアロンは主の前でその両肩に彼らの名を負うて記念としなければならない。』(出エジプト記28:9-12)
エポデの両肩部分には、縞めのうが配置されるが、縞めのうと訳されている語は「ショハム」、縞めのうの他に、薄青や青緑の宝石として、新共同訳ではラピスラズリとも訳される。
この石にはイスラエル十二部族の名が刻まれており、祭司の肩の所に配置されるため、祭司は、イスラエル十二部族の名を肩に負いつつ主の御前に出て執り成しのつとめを為す事になるのだ。
主は、イスラエルをずっと背負ってこられた。
彼らが苦しむ時は共に苦しみ、愛と憐れみによって彼らを救おうとされて来たが、残念ながら、彼らは主に逆らい、聖なる御霊を痛ませて来た。
そのため、主は彼らの敵となられ、イスラエルは痛めつけられた。(イザヤ63:8-10)
そして、大祭司である主イエス様は、今も、ご自身の民であるキリスト者全てを肩に背負って歩んでおられる。
いつから、私達キリスト者は主に背負われて来たのか。
それは生まれる前から、私達はキリストにあって選ばれ、導かれて来たのである。(エペソ1:3-5)
いつまで、私達キリスト者は主に背負われて行くのか?
それは、私達がしらが頭になっても、なお背負われ、やがて誰もが行き着く「死」という大川に至っても、なお主は共に歩み、永遠の御国へと導いて下さるのである。
『わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。』(イザヤ46:3-4)
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
悪しき者のたくらみ(エステル3:7-15):右クリックで保存
【概要】
本日私たちはエステル記3章7節〜15節を通して、権力者の軽率な判断が神の御計らいと人々の生死にどれほど大きな影響を及ぼすかを学び、自らの体と心の「実印」をどこに委ねるかという重大な決断について考えます。
【聖書箇所】
・エステル記3章7節〜15節
※「もしも王様よろしければ、彼らを滅ぼすようにと書いてください。私はその仕事をする者たちに銀1万タラントを計って渡します。そしてそれを王の金庫に納めさせましょう。」(エステル記3章)
・ローマ人への手紙8章12節〜13節
※「ですから、兄弟たち、私たちは肉に従って歩む責任を肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」(ローマ人への手紙8章12〜13節)
【戒めの言葉】
・権力や外部の誘惑に無批判に依存してはならない。
・自分の体、心、そして実生活において、誰にその「実印」を渡すのかを慎重に判断する必要があります。
【励ましの言葉】
・御霊に委ねて生きるなら、必ず神の命と平安が備わります。
・日々の小さな選択が、未来に大きな実を結ぶことを信じ、御霊の導きに心を寄せましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
・過去に自らの判断で誤った道を選んだと感じる時、神に立ち返り、心からの懺悔と改心を行いましょう。
・神はいつでも悔い改める心を持つ者に慈しみと新生のチャンスを与えてくださいます。
【***詳細***】
今日、私たちはエステル記3章7節〜15節に記された、アハシュエロス王の時代における重大な出来事に目を向けます。エステル記では、権力者ハマンが自らの恨みと偏見から、特にモルデガイという一人のユダヤ人に対して憤りを募らせ、さらにその憤りをユダヤ民族全体へと向けるため、アハシュエロス王に進言しました。その進言の中で、彼はこう申し上げます。
「もしも王様よろしければ、彼らを滅ぼすようにと書いてください。私はその仕事をする者たちに銀1万タラントを計って渡します。そしてそれを王の金庫に納めさせましょう。」
この御言葉は、ただ単に個人の復讐心から出たものではなく、権力の座にある者が、国や民族の運命を左右する重大な判断を下す際に、どれほど軽率であってはならないかを示しています。アハシュエロス王は、ハマンの計らいに流され、王の実印―つまり、決定的な権威の象徴―を手渡してしまいました。この結果、既に遠い国々にまでその命令が回り、ユダヤ民族に対する根絶的な法令が発布されるという、悲劇的な事態を招いたのです。
私たちはこのエピソードから、外部の権力や誘惑がもたらす危険性、及びその影響力に対して、常に警戒を怠ってはならないという戒めを受け取ることができます。決して、世の権力者の一言で私たちの運命が左右されるべきではありません。そして、私たち一人一人が持つ「実印」は、私たち自身の体や心、生活のすべてを意味しているのです。誰にその大切な実印を託すか、またどのような思いに委ねるかという選択は、私たちの未来にとって極めて重大な問題です。
このメッセージから私は、現代の私たちにとっても、心の中にある感情や意思、さらには日常の小さな決断が、後に大きな実を結ぶことを思い起こさせられます。例えば、日々の中で感じる怒りや憎しみ、または反抗心が、いつのまにか私たち自身の破滅に向かうものであってはならないのです。悪魔の策略は、私たちが肉的な欲望に従う瞬間に静かに忍び寄ります。そして、その結果、私たちは神の恵みや命の祝福を遠ざけ、破滅への道を歩むことになってしまいます。
一方で、聖書はローマ人への手紙8章12〜13節において、私たちに光を示してくださいます。
「ですから、兄弟たち、私たちは肉に従って歩む責任を肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」
この御言葉は、私たちが日々の生活の中で、肉に支配される生き方を捨て、御霊に導かれる選択をするよう強く促しています。御霊に従う生き方は、神の愛と平安、そして永遠の命へとつながります。私たちは自らの意思で、心の中の悪い感情や肉的欲望を「殺し」、その代わりに神の御霊がもたらす愛と喜びに満たされる生を歩むべきです。
また、エステル記の物語は、どれほど巧妙にして、権力者が自分の都合の良いように事実を操作し、ユダヤ民族という選ばれた民を狙ったかを描いています。ハマンはあえて「一つの民族」という表現を用い、その正体を曖昧にしながらも、最終的には全民族に対する虐殺令を発布させました。その冷酷な計略は、私たちにとっても重大な教訓となります。権力や物事を自分勝手の都合で動かす時、どんなに人々の命が危機にさらされようとも、その判断は正義を欠き、神の御心には決してかなわないということです。
私自身、この箇所から深く感じるのは、「実印」の意味です。実印とはただの印鑑ではなく、私たち一人一人の信仰、価値観、そして日々の選択そのものを象徴しています。たとえば、私たちが車を運転する際、その操作ひとつひとつが善にも悪にも変わるという比喩に似ています。日常の中で誰かに対して怒りを抱いたり、無意識のうちに破壊的な行動に出たりすることは、すなわち自らの「実印」を肉的な欲望に託してしまっていることです。そして、それがいずれ自らや周囲の人々に取り返しのつかない結果をもたらす可能性があるのです。
しかし、私たちは希望を見失ってはなりません。神は常に、御霊による新しい生の道を示してくださっています。たとえ過去に誤った判断をしてしまったとしても、私たちは悔い改め、祈り、断食を通して神に立ち返ることができます。旧約のイスラエル民族が大危機の中で一致団結し、祈りと断食によって救いを求めたように、現代に生きる私たちも、日々の選択の中で神に心を委ね、御霊の導きを受け入れることが重要です。
さらに、私たちがこのエステル記の物語から学ぶべき大切な点は、権力者の軽率な「実印の委譲」に対して、自分自身の大切な体や心、未来を誰に委ねるかという問いかけです。アハシュエロス王は、ハマンに実印を渡したことで、後悔の及ばぬ惨事を招いてしまいましたが、私たちはそのような過ちを回避するために、日々しっかりと自分自身の判断を育て、神の御心に照らして生きる必要があります。
私たちが日常の中でどのような選択をするかによって、神の御恵みが与えられるか、あるいは破滅へと導かれるかが決まってきます。例えば、些細な怒りの感情や恨みを放置することは、やがて大きな悲劇へと発展するかもしれません。一方、御霊の導きに従い、謙虚に神の意志を求め、互いに愛し合う心を持つならば、私たちは神の相続人として、豊かな祝福と永遠の命を受けることができるのです。
改めて、ローマ人への手紙8章12〜13節の御言葉に立ち返りましょう。
「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって体の行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」
この御言葉は、私たちが肉の誘惑に流されず、常に御霊に導かれる選択をするべきであることを、力強く示しています。私たちの内に宿る思い、感情、そして意思が、神の御霊に委ねられるとき、私たちは真に神の子どもとして、新たな生命と希望に満たされるのです。たとえ今、どれほど混乱や誘惑、そして周囲の不正が目まぐるしく変わろうとも、神は変わることのない御約束と共に、私たちに平和と救済をお与えくださると信じます。
最後に、この教えを心に留め、日々の生活の中で「実印」をどこに委ねるか、どのように自らの意思や感情を扱うかを慎重に見極める決意を新たにしましょう。たとえ私たちが一度誤った判断をしてしまったとしても、悔い改めと祈りをもって、再び神の御手に委ねることができるのです。今この時、私たちは神の導きを仰ぎ、御霊の光の中で新たな生を歩む決断をするべき時なのです。
【結論】
私たちは、権力者の軽率な判断によって多くの人命が危機にさらされたエステル記の教訓を胸に、日々自らの体と心の「実印」を神に委ね、御霊による生き方を選ぶべきです。人間の弱さに流されず、真の神の子どもとして、神の恵み豊かな相続人となるよう、悔い改め、祈り、そして御霊に従う決意を新たにしましょう。イエス様の御名によって、この真実のメッセージが私たち一人ひとりの生命に確かな希望と平安をもたらしますように。
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
3ヨハネ1-8:右クリックで保存
礼拝説教メッセージ音声:祭司のつとめ(出エジプト記28:1-5):右クリックで保存
28章と29章は、祭司の務めに関する定めである。
『またイスラエルの人々のうちから、あなたの兄弟アロンとその子たち、すなわちアロンとアロンの子ナダブ、アビウ、エレアザル、イタマルとをあなたのもとにこさせ、祭司としてわたしに仕えさせ、またあなたの兄弟アロンのために聖なる衣服を作って、彼に栄えと麗しきをもたせなければならない。』(出エジプト記28:1-2)
神は、アロンとその子達が神によって祭司に任命されている
そのように、祭司とは元々、自分からなるものではなく、神から一方的に選ばれ任命されるものであり、その務めは、神と人との間に立って執り成したりいけにえをささげたり、特別な事柄のために仕える仕事である。
『大祭司なるものはすべて、人間の中から選ばれて、罪のために供え物といけにえとをささげるように、人々のために神に仕える役に任じられた者である。・・・だれもこの栄誉ある務を自分で得るのではなく、アロンの場合のように、神の召しによって受けるのである。』(ヘブル5:1-5)
祭司はその務めに相応しく、特別な、聖なる衣服を着るよう、主に指示されている。
『あなたはすべて心に知恵ある者、すなわち、わたしが知恵の霊を満たした者たちに語って、アロンの衣服を作らせ、アロンを聖別し、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。彼らの作るべき衣服は次のとおりである。すなわち胸当、エポデ、衣、市松模様の服、帽子、帯である。彼らはあなたの兄弟アロンとその子たちとのために聖なる衣服を作り、祭司としてわたしに仕えさせなければならない。彼らは金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸を受け取らなければならない。』(出エジプト記28:3-5)
この衣服は、人間の知恵や感性など”人間のわざ”によるものではなく、神の側から示された型どおりに創られたものでなければならない。
人間の知恵や感性など”人間のわざ”とは、神の御前には「汚れた衣類」のようなものである。(イザヤ64:6)
人が、いかに正しい行いをしようとも、いかに清くなろうとがんばっても、主の御前に”きよい”とされる事は無い、それら行いは、ただ汚れた衣のようである。
主が、その汚れた衣を脱がせて下さり、主が与えて下さる新しい衣を着せられる事によってのみ、清らかにされるのだ。
『時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。主はサタンに言われた、「サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」。
ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていたが、み使は自分の前に立っている者どもに言った、「彼の汚れた衣を脱がせなさい」。またヨシュアに向かって言った、「見よ、わたしはあなたの罪を取り除いた。あなたに祭服を着せよう」。わたしは言った、「清い帽子を頭にかぶらせなさい」。そこで清い帽子を頭にかぶらせ、衣を彼に着せた。主の使はかたわらに立っていた。』(ゼカリヤ3:1-4)
生まれつきの人間は汚れたものであり、主の御前に出る時、そうした人間的な知恵や感性などは脱ぎ捨てなければならない。
ちょうど、バルテマイがイエス様に呼び出された時、自分のそれまで大切にしてきた外套を脱いだように。
今や、私達キリスト者は、祭司として聖なる務めにあずかる者とされているのだ。
『この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。』(1ペテロ2:5-6)
礼拝説教メッセージ音声:主の大庭に入る時は(出エジプト記27:1-21):右クリックで保存
幕屋の外門から庭に入る時、最初に目にするのが、祭壇である。
『あなたはまたアカシヤ材で祭壇を造らなければならない。長さ五キュビト、幅五キュビトの四角で、高さは三キュビトである。その四すみの上にその一部としてそれの角を造り、青銅で祭壇をおおわなければならない。また灰を取るつぼ、十能、鉢、肉叉、火皿を造り、その器はみな青銅で造らなければならない。』(出エジプト記27:1-3)
人が幕屋に来て真っ先にすべきは「捧げる事」であり、捧げ物なしに主の大庭に入ってはならない。(申命記16:16、詩篇96:8)
捧げ物には色々な種類があり、ある時は感謝のいけにえを、ある時は動物に自分の罪を移し、自分の身代わりとして動物を焼き尽くす事もあり、ある時は和解を喜びつつ焼いた肉を共に食べる事もある。(レビ記)
この祭壇はアカシヤ材の上に青銅が被されており、祭壇で使う諸々の道具も、皆、青銅で出来ている。
青銅はさばきを意味するが、礼拝とは、まず自分自身の罪をさばき、自分自身を捧げる所からである。
この祭壇では、人の罪の身代わりとして動物が捧げられたが、私達には、私達の身代わりとなって下さったキリストがおり、キリストの故に私達も大胆に主の御前に出る事が出来るのである。
「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:18)
ゆえに、イエス・キリスト無しに神の御前に行く事は、身代わりの犠牲無しに祭壇へ行く事であり、そうするならもはや自分自身が裁かれるより他に無い。
『あなたはまた幕屋の庭を造り、両側では庭のために長さ百キュビトの亜麻の撚糸のあげばりを設け、その一方に当てなければならない。その柱は二十、その柱の二十の座は青銅にし、その柱の鉤と桁とは銀にしなければならない。また同じく北側のために、長さ百キュビトのあげばりを設けなければならない。その柱は二十、その柱の二十の座は青銅にし、その柱の鉤と桁とは銀にしなければならない。』(出エジプト記27:9-11)
幕屋の庭は、亜麻の撚り糸で織った幕で外界と仕切られている。
それは5キュビト間隔で柱によって支えられ、柱は青銅の台座の上に立てられており、銀の留め金によってつなぎ合わされている。
つまり、幕の内側と外界とは亜麻の撚り糸で織った幕によって分離されており、それは「さばきの青銅」の上に支えられ、「贖いの銀」によってつなぎ合わされているわけである。
私達も「十字架」という「さばき」によって世から分離されている。
「十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」(ガラテヤ6:14)
十字架のこちら側にいる私達キリスト者に対し、世は何もする事が出来ず、私達もまた、十字架のあちら側にいる世に対しては別様の者である、と理解すべきである。
『庭の長さは百キュビト、その幅は五十キュビト、その高さは五キュビトで、亜麻の撚糸の布を掛けめぐらし、その座を青銅にしなければならない。すべて幕屋に用いるもろもろの器、およびそのすべての釘、また庭のすべての釘は青銅で造らなければならない。』(出エジプト記27:18-19)
以上のように、庭の長さは44.5m、幅は22.25m。
内側と外側を区切る幕の高さは2.23mであるから、普通の身長の人は、外側から庭の中を見る事はできない。
ただ4m超のじゅごんの皮で覆われた聖所の建物が、亜麻の幕の上からとび出ているのが見えるような感じである。
この外庭の門にも、色々な色で刺繍が施されている。
「庭の門のために青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で、色とりどりに織った長さ二十キュビトのとばりを設けなければならない。その柱は四つ、その座も四つ。」(出エジプト記27:16)
つまり、この庭の門に入ろうとする時、天の色である青・王の色である紫・血潮の色である緋色・清めの色である白の刺繍が為された幕を通ってでなくては入れず、出入りする際は、天を、王を、血潮を、清めを意識するようになっている。
「あなたはまたイスラエルの人々に命じて、オリブをつぶして採った純粋の油を、ともし火のために持ってこさせ、絶えずともし火をともさなければならない。アロンとその子たちとは、会見の幕屋の中のあかしの箱の前にある垂幕の外で、夕から朝まで主の前に、そのともし火を整えなければならない。これはイスラエルの人々の守るべき世々変らざる定めでなければならない。」(出エジプト記27:20-21)
これは、聖所に置かれる「燭台」を灯す油についての指示であり、主の御前で絶える事なくともしびを灯しておくように、永遠の定めとして命じられている。
私達もまた、この暗闇の世界を灯す世の光として、聖霊の油を絶やす事なく、いつも主の御前にともしびを灯しておくべきであり、また、賢い乙女たち(マタイ25章)のように、いつ主が迎えに来られても良いように、油の用意をしておくべきである。
幕屋の構成に隠された創世記から黙示録までの流れ(出エジプト記26:15-37)
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- 執筆 :
- pastor 2013-2-11 23:32
礼拝説教メッセージ音声:幕屋の構成に隠された創世記から黙示録までの流れ(出エジプト記26:15-37):右クリックで保存
今回の箇所は、幕屋の骨格となる立枠についての指示であるが、今や、私達キリスト者ひとりひとりがキリストのからだの各部分、各器官であり(1コリント12:27)、私達自身が神の宮であり(1コリント3:16-17)、主にあって最後まで忍耐し勝利する聖徒は「聖所の柱」とされる。(黙示録3:12)
故に幕屋の構成物ひとつひとつは、私達・キリスト者の予表である。
『あなたは幕屋のために、アカシヤ材で立枠を造らなければならない。枠の長さを十キュビト、枠の幅を一キュビト半とし、枠ごとに二つの柄を造って、かれとこれとを食い合わさせ、幕屋のすべての枠にこのようにしなければならない。』(出エジプト記26:15-17)
幕屋の骨組みは、この4.45mx66cmのアカシヤ材の板が基本的な構成物となり、一枚につき2個の銀の台座によって支えられ、それが南側に20枚、北側に20枚、西側に6枚(幕屋のうしろの二すみに、さらに2枚)ずつ合わされて、建てられる。(出エジプト記26:18-21)
この幕屋は縦10キュビト、横30キュビト、高さ10キュビトなので、ちょうど10キュビト四方の立方体を横に三つ合体させたような寸法の建物である。
台座として支えられる銀は贖いを意味し、幕屋を構成する立板は、二つ(証人の数)の銀によって地上から贖われ、神の宮のために建て上げられ、キリストのからだの一部分とされた私達を暗示する。
これらの立板は、横木によって、しっかり組み合わされ、結び合わされる。
『またアカシヤ材で横木を造らなければならない。すなわち幕屋のこの側の枠のために五つ、また幕屋のかの側の枠のために横木五つ、幕屋のうしろの西側の枠のために横木五つを造り、枠のまん中にある中央の横木は端から端まで通るようにしなければならない。そしてその枠を金でおおい、また横木を通すその環を金で造り、また、その横木を金でおおわなければならない。こうしてあなたは山で示された様式に従って幕屋を建てなければならない。』(出エジプト記26:26-30)
キリストのからだも、多くの部分からなり、それぞれ横のつながりによって結合している。
「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:16)
31節以降は、聖所と至聖所とを分ける「幕」についての指示である。
『また青糸、紫糸、緋糸、亜麻の撚糸で垂幕を作り、巧みなわざをもって、それにケルビムを織り出さなければならない。そして金でおおった四つのアカシヤ材の柱の金の鉤にこれを掛け、その柱は四つの銀の座の上にすえなければならない。その垂幕の輪を鉤に掛け、その垂幕の内にあかしの箱を納めなさい。その垂幕はあなたがたのために聖所と至聖所とを隔て分けるであろう。』(出エジプト記26:31-33)
アダムとエバの堕落以降、人はエデンの園への道がケルビムと回る炎の剣によって遮られてしまったが、至聖所への道も、ケルビムの織物によって遮られている。
しかしキリストが十字架でさばかれた時、この幕は真っ二つに裂かれ、もはや聖所と至聖所を隔てる壁は打ち壊された。
『あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。
キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。』(エペソ2:13-16)
「至聖所」には契約の箱が置かれ、その上に贖罪蓋がかぶせられており、ケルビムの織物によって隔てられた向こう側・聖所には、南側に燭台、北側にパンの机が向かい合わせで置かれている。そして聖所と外を隔てる出入り口には、青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で刺繍をした幕が張られ、その幕のために、金をかぶせたアカシヤ材の柱が五本立てられ、それの鉤も金で、また、それらの柱のために青銅の台座五つを鋳造される。(出エジプト記26:34-37)
青銅はさばきを意味するが、つまり聖所の入り口は、まず神のさばきを経なくては入れず、また、天の色である青・王の色である紫・血潮の色である緋色・清めの色である白の刺繍が為された幕を通ってでなくては、入れない。
さばきはイエス・キリストが身代わりとなって受けて下さり、私達は、天の王であられるキリストの血潮にあって白く清められ、大胆に聖所に入る事が出来る。(エペソ3:12)
この建物の最奥(西側)にある至聖所は、10キュビト四方の立方体である。
後のソロモンが建てた神殿の至聖所は、その二倍の20キュビト四方の立方体(列王記6:20)で、黙示録に現れる新エルサレムにいたっては、12000スタディオンの立方体(1スタディオン=185m、1辺が約2400km)であり、その中には神殿はなく、都そのものが、主の栄光と臨在に満ちた至聖所である。(黙示録21章)
黙示録で記されている神の都こそまことの神殿であり至聖所であり、山で示された幕屋や神殿は、その型である。
主のご計画が成就するごとに、隠されていた物事が徐々に露わにされて行き、全ての時が満ち、全てが成就した時、神の栄光は誰の目にも明らかなほど巨大に、公にあらわれるのである。
どの土地となるか(マタイ13:1-23)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・説教音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存
群衆がイエス様の所に大勢押しかけたので、イエス様は舟に乗り、岸にいる群衆に向かって口を開かれた。
群衆は、世の隠された秘密を解き明かすような話や、心打つ感動物語を期待していたかもしれないが、イエス様の口から出たのは、あまりに短く平坦でオチも無い話、種蒔きの話であった。(マタイ13:3-9)
多くの人が、イエス様の話は大した事ないな、噂ほどではなかったな、と思った事だろう。ところが、この種まきのたとえは、多くの預言者や義人達が聞きたいと切に願って来た、天の御国の奥義だったのである。
多くの群衆はそのたとえの真意を知る事無く帰っていったが、弟子たちはイエス様の所に来て、聞いたので、そのたとえの真意を教えていただく事ができた。
天の御国の奥義を知る事がゆるされている人とは、弟子達のようにイエス様の所に「来て」「聞く」人である。
イエス様に聞かぬは、永遠の恥。イエス様に求める姿勢、探す姿勢、叩く姿勢を持っている人は、さらに与えられて豊かになり、それらを持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまう。
「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。」(マタイ13:18-19)
イエス様が語られた「種」は御言葉で、それが蒔かれる土地は人をあらわし、そして人には四タイプある。
第一のタイプの人は、「道端」の人。道端は色々な人や獣が来ては過ぎ去り、地面は踏み固められている。
こういう人は、世の人やテレビ、ラジオ、ネットなど、世の情報の往来を見聞きしては思い巡らし、御国の言葉さえも膨大な情報の一つとして、心に植える事なく、聞いてもすぐにサタンがそれを持ち去ってしまう。
テレビやラジオ、インターネットなどの内容は良く覚えていても、語られた御言葉はさっぱり覚えていない、となると、道端の人となっている自分に気づくべきである。
アブラハムが礼拝の捧げ物に群がるハゲタカを追い払ったように、自分という土地は、余計な者の往来を規制し、つとめて余計な情報は入れず、霊的に必要な御言葉を受け入れる土壌を耕すべきである。
第二のタイプの人は、「岩地」の人。表面上は土があるので、種がよく育つだろうと思われがちで、事実、御言葉を聞くとすぐに喜んで受け入れるが、内面は固い岩がごろごろしていて、根を深く張る事が出来ない。
表面上は敬虔そうでも内面は頑なで、御言葉が張るのを頑として受け入れず、自分の心を貫く人である。
例えば、「互いに愛し合いなさい」という御言葉を喜んで聞きはしても、「あの人だけは絶対イヤ」と頑なに自分を貫く時、自分の中に存在する岩を取り扱う必要がある。努めて自らを清くに保ち、内側から主に喜ばれないものを取り除こうとする人に、主は石の心を取り除き、肉の心を与えて下さるが、忌み嫌われるべき心を自分の心として歩む者には、自分の行ないを自分の頭上に返されてしまう。(エゼキエル11:18-21)
第三のタイプの人は、「茨の地」の人。道端のような往来は無く、土の下に岩も無いが、「世の煩い」や「富の誘惑」といった「茨」を自分の中から生えさせ、それによって、御言葉のいのちを窒息させてしまうのだ。
御言葉を読んでも「将来どうなるだろう」「住宅ローンどうしよう」などと言った思い煩いで御言葉を上塗りする傾向のある人は、「茨」に養分を与え育てていると知るべきである。思い煩いは茨の冠となってイエス様の頭を刺し、あくまで茨を生えさせ続けるとやがて呪われ、ついには焼かれてしまう。(ヘブル6:7-8)
苦い根を出させないコツは、よく監督する事(ヘブル12:15)。思いをよく監督し、煩いを膨らませて茨に養分をやる事を止め、御言葉にこそ思い巡らし、御言葉のいのちにこそ水と養分を与え、育てるべきである。
第四のタイプの人は、「良い地」の人。その人は、世の情報の往来は規制され、頑なな心の岩も取り除かれ、茨もしっかり監督して規制され、主に耕された人であり、御言葉のために自らを耕す人である。
そういう人は、御言葉を喜んで受け入れ、芽を出し葉を茂らせ、花を咲かせ、豊かに命の実りをもたらす。
イサクは百倍の収穫を実らせたが、それは彼がアブラハムによって主に自らを捧げ、ペリシテ人に井戸を奪われてもそれを与える、自らをよく耕す人であったからだ。彼はアブラハムに捧げられ、「鍬(くわ)を当てられる経験」を通し、また、ペリシテ人という鍬をも通して、よく耕されたが故に、豊かな実りを見せたのだ。
多くの実を結ぶため、皆さんの土地からは悪しき者達の往来は規制し、内面にある頑なな岩は取り除き、よく監督して「思い煩い」という茨に栄養をやる事なく、主から耕される事をいとわず、よく耕された土地として、多くのいのちの実を結ぶ皆さんでありますように!イエス様の名前によって祝福します!
礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
種まきのたとえ(マタイ13:1-13):右クリックで保存
祈り会1:右クリックで保存
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礼拝説教メッセージ音声:幕屋の幕に見るキリスト者の性質(出エジプト記26:1-14):右クリックで保存
幕屋の幕は、四層から成る。
その最も内側、聖所に接している部分にあたるのが、ケルビムが織り込められた幕である。
『幕屋を十枚の幕で造らなければならない。すなわち、撚り糸で織った亜麻布、青色、紫色、緋色の撚り糸で作り、巧みな細工でそれにケルビムを織り出さなければならない。幕の長さは、おのおの二十八キュビト、幕の幅は、おのおの四キュビト、幕はみな同じ寸法とする。その五枚の幕を互いにつなぎ合わせ、また他の五枚の幕も互いにつなぎ合わせなければならない。』(出エジプト記26:1-3)
この幕は一つが12.46メートルx178センチ、それを五枚つなぎあわせたもの二組をさらにつなげて一つにするのであるから、テントとしては結構な大きさであり、それを荒野で組み立てたり分解したり、運搬したりするには、レビ人の特別な働きが必要である。
この幕の縁には、青いひもの輪と、金の輪と金の留め金を五十個つけ、それを互いにつなぎあわせて一つとしている。(出エジプト記26:4-6)
この、最も聖所に近い幕は、栄光化されたキリスト者の性質があらわれている。
天の色である青、王の色である紫、イエスの血の色である緋色、そして白い亜麻布(清められた聖徒:黙示録7:9)によって、神の御前に仕えるケルビムが織りつけられ、天の性質である青の紐によって互いが互いに結び合い、神の性質である金の輪で留められるのだ。
このケルビムが織り込められた幕の上から被せられるのが、やぎの毛の幕である。
『また、幕屋の上に掛ける天幕のために、やぎの毛の幕を作る。その幕を十一枚作らなければならない。その一枚の幕の長さは三十キュビト。その一枚の幕の幅は四キュビト。その十一枚の幕は同じ寸法とする。』(出エジプト記26:7-8)
これはケルビムが織り込められた幕よりも若干大きく、一枚分多い。それは、天幕の前で折り重ね、余った部分を垂らす事によって、ケルビムが織り込められた幕を覆い、外界からは完全に隔離された形とするためである。
『そのつなぎ合わせたものの端にある幕の縁に輪五十個をつけ、他のつなぎ合わせた幕の縁にも輪五十個をつける。青銅の留め金五十個を作り、その留め金を輪にはめ、天幕をつなぎ合わせて一つとする。天幕の幕の残って垂れる部分、すなわち、その残りの半幕は幕屋のうしろに垂らさなければならない。そして、天幕の幕の長さで余る部分、すなわち、一方の一キュビトと他の一キュビトは幕屋をおおうように、その天幕の両側、こちら側とあちら側に、垂らしておかなければならない。』(出エジプト記26:10-13)
やぎの毛の幕は白、すなわち清さの色であり、これをつなぎ合わせる留め金は、青銅によって作られている。
青銅は裁きを意味する事を学んだが、イエス・キリストが私達の身代わりとなってさばかれ、それによって私達の罪は清められた。キリストが裁かれたそのさばきによって、白く清められた私達は一致するのである。
このやぎの毛の幕の上から被せるものが、さらに二つある。
『天幕のために赤くなめした雄羊の皮のおおいと、その上に掛けるじゅごんの皮のおおいを作る。』(出エジプト記26:14)
雄羊の皮は、なめすと赤くなる。雄羊はほふられたキリストを(黙示録5章)、赤い色は、キリストがほふられた時に流された血を思わせる。
そして、最も外側を覆う皮がじゅごんの皮であり、幕屋を外見として見る時、それは巨大なじゅごんの皮が横たわったようなテントで、見栄えはあまり良いものではない。
「じゅごん」はヘブル語「タハシュ」で、色々な訳がなされている言葉で(あなぐま、いるか、あざらしなど。)いずれにせよ汚れた動物であり、皮の見栄えの良いものではないが、頑丈であり、外側を覆うものとして適したものである。
私達も律法上では異邦の民であり、世を渡り歩く汚れた者であったが、キリストにあって神に近い者とされた。
以上、幕屋の幕は四層からなるが、これを外側から内側へと行けば行くほど栄光に富んだものとなって行き、まさしく、私達キリスト者が、罪清められ、聖化され、栄化される有様が浮かび上がってくる。
私達は、以前は異邦人として汚れた者(じゅごん)であったが、ほふられた羊キリストの血(赤くなめした雄羊)によって清められ、白くされ(やぎの毛皮)、キリストが受けたさばき(青銅)によって一つとなり、そして、栄光のケルビムと共に、至聖所にて礼拝にあずかる者とされるのだ。(ケルビム織りの幕)
このケルビムが織り込められた幕は、外界からは完全に隔離されており、至聖所の栄光に直に触れている。
それは天の色である青、王の色である紫、イエスの血の色である緋色、白い亜麻布によって織りなされており、天の性質である青の紐によって互いが互いに結び合わされ、神の性質である金の輪で留めら、いつまでも至聖所の栄光の元にケルビムのように仕える。それが、栄光化されたキリスト者の性質である。
『ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。』(エペソ2:11-13)
礼拝説教メッセージ音声:幕の内側 - パンの机と燭台(出エジプト記25:23-40):右クリックで保存
神を礼拝する場所「幕屋」とは、天幕によって仕切られた22.3mx44.5mの「大庭」と呼ばれる敷地内に、4.45mx13.35mからなる長方形のテントがあり、そのテントの中は二部屋に分かれ、入り口に近い方の長方形の部屋が「聖所」、その奥には、最も聖なる領域とされる「至聖所」と呼ばれる4.45m四方の部屋があり、聖所と至聖所は、幕によって仕切られている。
前回見た「契約の箱」は、この最も聖なる領域・至聖所に安置され、今回の箇所で見る「パンの机」と「燭台」は、聖所に置かれており、日毎の祭事に用いられるものである。
(聖所にはもう一つ、「香壇」が置かれるが、それは30章にて学ぶ。)
『あなたはまたアカシヤ材の机を造らなければならない。長さは二キュビト、幅は一キュビト、高さは一キュビト半。』(出エジプト記25:23)
これが「供えのパンの机」の寸法で、センチメートルに直すと、長さ89cm、幅は44.5cm、高さは66.8cmである。
これにも金をかぶせ、4箇所に輪を付け、その輪に担ぎ棒を通して持ち運び可能なものとした。
『そして机の上には供えのパンを置いて、常にわたしの前にあるようにしなければならない。』(出エジプト記25:30)
この机には、常に、主の御前に十二のパンが供えられ、ひと重ねに六個ずつ、ふた重ねが置いており、おのおの重ねの上には乳香を置いて主の御前にささげている。
それは安息日ごとに整えられ、最終的にそれらはアロンとその子達の食べる分となる。(レビ記24:5-9)
現代、キリストにあって祭司とされた私達も、この幕屋の内に隠れた特別なパンにあずかる事が出来、主の働き人には、常にパンの養いを受ける保証がある。
『そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。』(ヨハネ6:32)
続いて燭台について、31-40節に記されている。
『また純金の燭台を造らなければならない。燭台は打物造りとし、その台、幹、萼、節、花を一つに連ならせなければならない。また六つの枝をそのわきから出させ、燭台の三つの枝をこの側から、燭台の三つの枝をかの側から出させなければならない。』(出エジプト記25:31-32)
つまり、一本の燭台を中心にして、右側に三本、左側に三本、真ん中を入れると合計7本が、それぞれ左右に弧を描くように枝分かれして、その全体は半円形のように見える燭台である。
この燭台には夕から朝まで、油を絶やす事なく、常時ともしびをともし続けなくてはならない。
『「イスラエルの人々に命じて、オリブを砕いて採った純粋の油を、ともしびのためにあなたの所へ持ってこさせ、絶えずともしびをともさせなさい。すなわち、アロンは会見の幕屋のうちのあかしの垂幕の外で、夕から朝まで絶えず、そのともしびを主の前に整えなければならない。これはあなたがたが代々ながく守るべき定めである。彼は純金の燭台の上に、そのともしびを絶えず主の前に整えなければならない。』(レビ24:2-4)
この燭台は、アーモンドの花の形をした三つの”がく”が、それぞれ節と花をもって一つの枝にあるようになっている。(出エジプト記25:33)
アーモンドはヘブライ語でシャケデ、エレミヤ1章ではシャカデ(見張る)という言葉と掛けて使われており、黙示録では、この7つのともしびは全世界を見張る主の目でもある。(黙示録5:6)
また燭台は、世を主の光で照らす「教会」でもある。
『そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。・・・あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。』(黙示録1:12-20)
幕屋の内側は、外界とは幕によって隔てられ、世からは区別された領域である。
現代を生きる私達も、イエスの血によってはばかる事なくキリストの肉体という幕の内に入る事が出来、私達はその幕の中で区別され、まことのパンの養いを受け、主のともしびの光にいつも照らされて、主のつとめを為すのである。
『兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。』(ヘブル10:19)