メッセージ - 201407のエントリ

礼拝説教メッセージ音声:ギブオン人達の、救われるための策略(ヨシュア記9:1-15):右クリックで保存

『さて、ヨルダンの西側の、山地、平地、およびレバノンまでの大海の沿岸に住むもろもろの王たち、すなわちヘテびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとの王たちは、これを聞いて、心を合わせ、相集まって、ヨシュアおよびイスラエルと戦おうとした。
しかし、ギベオンの住民たちは、ヨシュアがエリコとアイにおこなったことを聞いて、自分たちも策略をめぐらし、行って食料品を準備し、古びた袋と、古びて破れたのを繕ったぶどう酒の皮袋とを、ろばに負わせ、繕った古ぐつを足にはき、古びた着物を身につけた。彼らの食料のパンは、みなかわいて、砕けていた。』(ヨシュア記9:1-5)

カナン人の王達は相集い、ヨシュア達とあくまで戦おうとしていたが、ギブオンの住人は、戦うためではなく、和を講じるために策略をめぐらした。
彼らは、身にまとうもの全て、古びたぼろぼろのものを身につけ、いかにも遠い国からやって来たかのように装ったのだ。
『彼らはギルガルの陣営のヨシュアの所にきて、彼とイスラエルの人々に言った、「われわれは遠い国からまいりました。それで今われわれと契約を結んでください」。しかし、イスラエルの人々はそのヒビびとたちに言った、「あなたがたはわれわれのうちに住んでいるのかも知れないから、われわれはどうしてあなたがたと契約が結べましょう」。』(ヨシュア記9:6-7)

イスラエル人は、遠い国とは和を講じる事は出来ても、カナン人とは和を結ぶ事は出来ない。
次のように命じられているからだ。
『もしその町が穏やかに降服しようと答えて、門を開くならば、そこにいるすべての民に、みつぎを納めさせ、あなたに仕えさせなければならない。・・・遠く離れている町々、すなわちこれらの国々に属さない町々には、すべてこのようにしなければならない。ただし、あなたの神、主が嗣業として与えられるこれらの民の町々では、息のある者をひとりも生かしておいてはならない。 すなわちヘテびと、アモリびと、カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとはみな滅ぼして、あなたの神、主が命じられたとおりにしなければならない。』(申命記20:11-17)

イスラエルの人々は、その有り様を怪しいと感じたのであろう。
『イスラエルの人々はそのヒビびとたちに言った、「あなたがたはわれわれのうちに住んでいるのかも知れないから、われわれはどうしてあなたがたと契約が結べましょう」。 』(ヨシュア記9:7)
そこでギブオン人は、ヨシュア(イエシュア)に、直談判する。
『彼らはヨシュアに言った、「われわれはあなたのしもべです」。ヨシュアは彼らに言った、「あなたがたはだれですか。どこからきたのですか」。彼らはヨシュアに言った、「しもべどもはあなたの神、「主(エホバ)」の名のゆえに、ひじょうに遠い国からまいりました。われわれは主の名声、および主がエジプトで行われたすべての事を聞き、また主がヨルダンの向こう側にいたアモリびとのふたりの王、すなわちヘシボンの王シホン、およびアシタロテにおったバシャンの王オグに行われたすべてのことを聞いたからです。』(ヨシュア記9:8-10)

彼らのこの言葉は、遊女ラハブが、救われるための交渉を、ヨシュアの斥候に対して仕掛けた時の言葉と、よく似ている。
彼女も、主がエジプトやエモリ人の二人の王にされた事を聞き、主を恐れ、自分達を救ってくれるように、お願いをしたものだった。
『そこでイスラエルの人々は彼らの食料品を共に食べ、主のさしずを求めようとはしなかった。そしてヨシュアは彼らと和を講じ、契約を結んで、彼らを生かしておいた。会衆の長たちは彼らに誓いを立てた。』(ヨシュア記9:14-15)

ヨシュアが主の指示をあおがず、さっさと彼らと和を講じてしまったのは、早計だったと見えるかもしれない。
しかし私は思う。主は、このギブオン人達を、かばいたかったのではないか、と。
聖書の他の箇所が示す所では、主は憐れみ深いお方であり、その御翼の陰に助けを求める人は、どこの国の人でも、豊かに救って下さったからだ。
カナン人の遊女ラハブもしかり、モアブ人ルツもしかり。
彼女たちは、「主(エホバ)」を信じる信仰のゆえにイスラエルの中に入ってゆき、ダビデ王家の栄光の家系に連なった。

全ての国民は、主を恐れ、捧げ物を携えて主の大庭入るようにと、詩篇96篇で命じられている。
『もろもろの民のやからよ、主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。そのみ名にふさわしい栄光を主に帰せよ。供え物を携えてその大庭にきたれ。聖なる装いをして主を拝め、全地よ、そのみ前におののけ。もろもろの国民の中に言え、「主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない。主は公平をもってもろもろの民をさばかれる」と。』(詩篇96:7-10)
ここの9節には、「聖なる装いをして主を拝め、全地よ、そのみ前におののけ。」とある。
ギブオン人達は、屈強な戦士であり、その町も大きく堅固であった(ヨシュア記10:2)のにもかかわらず、彼らは主の民と戦おうとせず、彼らの前に身を低くし、ぼろぼろの服を身につけ、御前におののいた。
主の御前に聖なる装いとは、自分を飾らず、へりくだって身を低くし、ただ主のあわれみにすがる事である。
そのようにしたからこそ、主は、彼らを救わせたのではないだろうか。

人は外見を見るが、主は心を見る。
ギブオン人がヨシュアに直談判し、神の国と和を講じて、滅びを免れたように、私達も、まことのヨシュアであるイエス(イエシュア)に直談判し、救いを求めるなら、救われるのである。

テラ - 歩みを途中で止めてしまった者(創世記11:27-32)
第一礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
第二礼拝・礼拝全体音声(韓国語通訳有한국어예배):右クリックで保存
週報/メッセージ(説教)概要:右クリックで保存

セムの子孫達、すなわち、神をおそれ敬うべき一族は、神の前に罪深いハムの子孫達が治める地、シヌアルの地に定住し、そこで彼らは結託してバベルの塔を築こうとしたが、神によって言葉が混乱させられ、その野望は見事に砕かれ、それで人々は全地へ散って行った事を前回見た。
さらに代が下り、セムから数えて9代目の子孫、テラの歴史が、11章27節から32節の5節の内に記されている。テラは、聖書の中で最重要人物の一人 であるアブラム(後のアブラハム)の父である。
今回は、聖書上の歴史がわずか5節で終わってしまった、このテラについて見て行きたい。

『テラはその子アブラムと、ハランの子である孫ロトと、子アブラムの妻である嫁サライとを連れて、カナンの地へ行こうとカルデヤのウルを出たが、ハランに着いてそこに住んだ。』(創世記11:31)
カルデヤのウルは、バベルの近くの偶像崇拝や不品行が盛んな町で、ヨシュアは次にように言っている。
『あなたがたの先祖たち、すなわちアブラハムの父、ナホルの父テラは、昔、ユフラテ川の向こうに住み、みな、ほかの神々に仕えていた』(ヨシュア記24:2)
テラは元々、他の神々に仕えていたが、その罪深い地を出て、カナンに向かっていった。主は「わたしはこの地をあなたに与えて、これを継がせようと、あなたをカルデヤのウルから導き出した主」(15:7)と言っているので、もしかしたら、アブラムが主から示しを受けて、父テラと妻と甥のロトを連れ出したのかもしれない。
ところがテラは、どういう訳か、目的地であるカナンまでは行かず、途中のハランで足を止めてしまい、そこに定住し、結局そのハランで骨を埋める事となった。(創世記11:32)
どういう訳でテラがそこに住み着いたのか分からないが、神の御心は、セムの子孫はカナンへ行くべし、というものだった事が、聖書の後の歴史を見るとわかる。

『時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。』(創世記12:1-2)
私達も、神様から行けと命じられた時は、行くべきである。
いかに親や子が、家族が、そこに留まろうとも。そこが不品行と偶像礼拝に満ちているなら、なおさらである。
もちろん、さっさと家族を捨ててしまえという事ではない。明確な主からの召命が無い限りは、家族の元に留まって、家族の救いのため労するべきである。アブラムも、75歳まで父の元に留まった。
しかし、どうしても家族が主の御言葉に従わないなら、やがて主から「離れなさい」と言われる「時」が来る。
テラはカナンという目標があったのに、ハランで歩みを止めてしまい、結局そこで死んだ。それで、テラの歴史は、聖書ではたった5節で終わってしまった。
ずっと後のイスラエルの民も、カナンへ行きなさいと言われたのに、行きたくないとか、エジプトに帰りたいとか言い続け、やがて時が来てしまい、彼らは約束の地を見る事なく、荒野で死ぬ事となってしまった。

神様から「これをしなさい」「ここに行きなさい」と、道が示されているのに、それをしないまま、生まれながらの罪深い所や、自分の好む所に留まり続けるなら、次の道は、神様から決して示されない。
神様が右へ行けと言われ、右へ行くなら、はじめて、次の道が示される。それが神様の導き方である。
人がどうしても左が好きで、右に行かないなら、神様はその次は決して示されない。しかも人は、左の次へ行きたいのに、神様は中々、次の道を開いて下さらない、と、文句を言うものである。
しかし御心が右であるなら、その人が方向転換して右に行かない限り、次の道は決して示されないのだ。
主の御言葉は「足のともし火」とある通り、御言葉は先々を照らす強い光ではなく、足元を照らすだけの光である。人はその光の弱さを見て、心細い思いがするかもしれないが、むしろ、それで充分である。
なぜなら人は、主のご計画の遠い将来まで見てしまったら、その道は嫌だと言うのが関の山だからだ。
もしアブラムに、予め、子供ができるのは25年後で、その子は捧げなければならず、しかも生きている間に相続できるのは、マクペラの洞穴だけだ、と言われていたなら、彼も父の家を出ないでいたかもしれない。
御言葉のともし火にただ導かれ、その一歩一歩を信仰によって進み、その都度、導きを頂いて、着実に祝福の人生を歩んで行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)

礼拝前の祈りと賛美

生ける石として、霊の家に築き上げられよ(1ペテロ2:1-10):右クリックで保存

祈祷会音声

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
ノアはなぜハムではなくカナンを呪ったかの謎(創世記9:18-29):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
福音宣教の際の注意事項(マタイ10:5-15):右クリックで保存

礼拝説教メッセージ音声(音声のみ)
見えるものの罠(伝道者の書6:8-12):右クリックで保存

【概要】

ソロモンの愚かさを例に、目に見えるものではなく、見えない永遠の価値を求めることの重要性を説く。

【聖書箇所】

伝道者の書6:8-12、箴言1:7、ヘブル11:1、第二コリント4:16-18、マタイ7:24-27

【戒めの言葉】

目に見える一時的なものではなく、見えない永遠のものに価値を置くべきである。

【勧めの言葉】

御言葉を信じて実践し、内なる人を日々新たにしていくべきである。

【***詳細***】

今日、私たちが学ぶ御言葉は、伝道者の書6章8節から12節です。ここでソロモンは驚くべき言葉を語っています。「知恵あるものは愚かなものより何が勝っていよう」と。かつて知恵の王と呼ばれたソロモンが、なぜこのような言葉を発するに至ったのでしょうか。

箴言1章7節には「主を恐れることは知識の初めである」と書かれています。ソロモンは若い頃、この真理を理解し、多くの知恵の言葉を残しました。しかし、彼は後年、愚かさを身につけようとしてしまいました。

伝道者の書2章3節で彼はこう語っています。「私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、体は葡萄酒で元気づけようと考えた」。ソロモンは知恵を持ちながらも、一時的な快楽を求めてしまったのです。

私たちもソロモンと同じ過ちを犯す危険性があります。どんなに知恵があっても、それを正しく用いなければ意味がありません。むしろ、御言葉による知恵を学び、それを実践することが重要です。

イエス様はマタイ7章24-27節で、御言葉を聞いて行う人は岩の上に家を建てた賢い人のようであり、聞くだけで行わない人は砂の上に家を建てた愚かな人のようだと教えられました。私たちは単に知識を得るだけでなく、それを信仰によって実践しなければなりません。

伝道者の書6章9節には「目が見るところは心が憧れるところに勝る」とあります。しかし、私たちクリスチャンは違う視点を持つべきです。ヘブル11章1節にあるように、「信仰は、望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるもの」なのです。

第二コリント4章16-18節で使徒パウロは、「私たちは見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」と語っています。私たちの外なる人は衰えていきますが、内なる人は日々新たにされるのです。

ソロモンは目に見える華やかさ、愚かさ、葡萄酒、美味しい食事、奴隷、歌い手、多くの妻たちなど、一時的なものに捕らわれてしまいました。しかし、私たちは目に見えない御言葉によって養われるべきです。なぜなら、見えないもののうちに永遠があるからです。

伝道者の書6章10節は、「今あるものは何であるか、すでにその名がつけられ、また彼がどんな人であるかも知られている」と語っています。私たちが見るものすべてに名前が付けられていますが、それらは人間が名付ける遥か前から存在していました。それは見えない創造主である神が造られたからです。

私たちは、この創造主である神を礼拝し、御言葉を大切にしなければなりません。神を差し置いて、目の前にある一時的なものだけを重視することは、何の益ももたらしません。

11節と12節で、ソロモンは人生の虚しさについて語っています。しかし、私たちクリスチャンは、この世の虚しさを超えた永遠の希望を持っています。私たちは御国の言葉を信仰をもって語り、実りある人生を送るべきです。

【結論】

私たちは、ソロモンの過ちから学び、目に見える一時的なものではなく、見えない永遠のものに価値を置くべきです。御言葉を信じ、実践し、内なる人を日々新たにしていきましょう。そうすることで、私たちは真の知恵を得、神の栄光を現す人生を送ることができるのです。

礼拝説教メッセージ音声:呪いの宣言しか無い律法のつとめ(ヨシュア記8:33-35):右クリックで保存

『こうしてすべてのイスラエルびとは、本国人も、寄留の他国人も、長老、つかさびと、さばきびとと共に、主の契約の箱をかくレビびとである祭司たちの前で、箱のこなたとかなたに分れて、半ばはゲリジム山の前に、半ばはエバル山の前に立った。これは主のしもべモーセがさきに命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。そして後、ヨシュアはすべての律法の書にしるされている所にしたがって、祝福と、のろいとに関する律法の言葉をことごとく読んだ。』(ヨシュア記8:33)

イスラエルの民はゲリジム山とエバル山とで半分に分かれ、一方は祝福を、一方は呪いを宣言した。
その具体的に宣言すべき内容は、申命記27章に記されている。
『工人の手の作である刻んだ像、または鋳た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。民は、みな答えてアァメンと言わなければならない。『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。『隣人との土地の境を移す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。・・・『この律法の言葉を守り行わない者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。』(申命記27:15-26)

その宣言の内容には十戒の内容もあるし、その他の律法の細則的な内容もある。
しかし興味深い事に、「祝福と呪いの宣言をせよ」と言っておきながら、宣言する内容には「何々の者は呪われる」という「呪いの宣言」ばかりで、祝福の宣言が一つも無い。
この事は、律法の性質を非常によく表している。

律法は、365の「するな」と、248の「せよ」から成り立つ、613の戒律の集大成であり、これを守り行う人には祝福が、守り行わない人には呪いがあるが、これを全てを守る事のできる人間は、誰一人としていない。
『いったい、律法の行いによる者は、皆のろいの下にある。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らず、これを行わない者は、皆のろわれる」と書いてあるからである。律法によっては、神のみまえに義とされる者はひとりもないことが、明らかである。』(ガラテヤ3:10-11)
御言葉が刻まれる石を建てるのは、「呪い」を宣言するエバル山であるが、結局、律法は人に「罪あり」と示すのみで、すべての人を罪の下に閉じ込めた。(同22節)
それ故、律法という石に刻まれた「文字に仕える務め」は、罪を宣告し、呪いを宣告する「死の務め」である。
『神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。もし石に彫りつけた文字による死の務が栄光のうちに行われ、そのためイスラエルの子らは、モーセの顔の消え去るべき栄光のゆえに、その顔を見つめることができなかったとすれば、まして霊の務は、はるかに栄光あるものではなかろうか。』(2コリント3:6-8)

キリストは、呪いの中に束縛されている私たちを解放するため、自らが十字架上で呪われた者となって下さり、いのちを差し出して、私たちを買い戻して下さった。
『キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである』(ガラテヤ3:13)。
このように、キリストを信じる私たちには、律法の呪いからの解放と自由が与えられるのである。

私達キリスト者は、イエス・キリストを信じる信仰によって、アブラハムの子孫である。
文字は殺すのみであり、善悪の羅列は、ただ私達に死を宣告するのみである。
なぜなら、私達の肉の内には、律法を守り通せるような性質は無いからだ。
だから、律法には、「いのち」を与える事は出来ないという、致命的な欠陥がある。(ガラテヤ3:21)
しかし主は、律法とは別の救いの道、すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による救いの道を開いて下さった。

この信仰の務めは、死の務めではなく、いのちの務めであり、モーセに与えられた栄光よりも、はるかに優れた、永遠の栄光の務めである。
私達はキリストにあって、それに与っているのだ。

礼拝説教メッセージ音声:エバル山での礼拝(ヨシュア記8:30-32):右クリックで保存

『そしてヨシュアはエバル山にイスラエルの神、主のために一つの祭壇を築いた。これは主のしもべモーセがイスラエルの人々に命じたことにもとづき、モーセの律法の書にしるされているように、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であって、人々はその上で、主に燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。その所で、ヨシュアはまたモーセの書きしるした律法を、イスラエルの人々の前で、石に書き写した。』(ヨシュア記8:30-32)

エバル山に祭壇を築いて礼拝を捧げる事、これは、イスラエルがまだヨルダン川を渡っておらず、エバル山もどういう山なのかも分からぬ時に、主がモーセを通して予め命じられていた事だった。
『あなたがたが、ヨルダンを渡ったならば、わたしが、きょう、あなたがたに命じるそれらの石をエバル山に立て、それにしっくいを塗らなければならない。またそこにあなたの神、主のために、祭壇、すなわち石の祭壇を築かなければならない。鉄の器を石に当てず、自然のままの石であなたの神、主のために祭壇を築き、その上であなたの神、主に燔祭をささげなければならない。
また酬恩祭の犠牲をささげて、その所で食べ、あなたの神、主の前で喜び楽しまなければならない。あなたはこの律法のすべての言葉をその石の上に明らかに書きしるさなければならない」。』(申命記27:4-8)

主の御言葉が書き記されるべき石、いけにえがその上で捧げられるべき石は、人が鉄器を当ててはならない。当てると、人間の好き勝手が入り込むからだ。
私達も、礼拝においては、人の好き勝手という”鉄器”の当てられていない石を用いなければならない。
すなわち、人間的な何かを一切排除した、ただ、救いの岩なるキリストだけを、純粋に礼拝するべきだ。

彼らが信仰によってヨルダン川を渡り、エリコとアイを攻め落とし、いよいよエバル山に到着した時、彼らは、あらかじめ命じられていた通り、鉄器を当てない自然石の祭壇を建て、その上で全焼のいけにえを捧げ、また、和解のいけにえを捧げて共に食べ、そして、律法の言葉を、その石に書き記した。
彼らはそこに至るまで、恐れもあったし、不安もあったし、間違いを犯して主の守りが一時期離れた事もあった。それによる若干の犠牲もあった。
そして、自分達の中からその原因を取り除いて、主の守りが戻って来た事も、経験した。
紆余曲折はあっても、ここまで無事に導いて下さり、以前から命じられていた礼拝が、この定められた場所で捧げられた事を、彼らは喜んだ事だろう。

さて、彼らがそれらの事を実行したその山は、元々、イスラエルにとって重要な場所である。
この山は、どういう所か。
『あなたの神、主が、あなたの行って占領する地にあなたを導き入れられる時、あなたはゲリジム山に祝福を置き、エバル山にのろいを置かなければならない。これらの山はヨルダンの向こう側、アラバに住んでいるカナンびとの地で、日の入る方の道の西側にあり、ギルガルに向かいあって、モレのテレビンの木の近くにあるではないか。』(申命記11:29-30)
モレのテレビンの木の近く。
その場所は、何百年か前、イスラエルの先祖・アブラハムが初めてカナンの地に入り、そこで、主が彼の子孫にこの地を与えると約束された場所であり、アブラハムはその約束を受けた時、祭壇を築いて、主に礼拝を捧げた場所である。(創世記12:5-7)
イスラエルがヨルダン川を、まだ渡っていなかった時、主は、やみくもにゲリジム山を指定して礼拝せよと言われたのではない。
実は主は、何百年も前にアブラハムと交わした約束を、誠実に果たしたという事を思い起こさせるために、そう命じられたのである。

主が何百年来の約束を果たされた時、その場所で、主は、祝福と呪いの御言葉を宣言しなさいと命じられた。
御言葉を守り行ったなら、主が与えると約束された祝福を確かに受けるが、それを守り行わないなら、祝福ではなく呪いを受け、祝福の約束は成就しない。
もし、「主は祝福を与えると言っておきながら、全然与えないじゃないか」という人がいるなら、その人は、自分が主の御言葉を守り行っているかを、点検すべきである。

御言葉を守り行って生きるなら、祝福を、御言葉を軽んじ守り行わないなら、呪いを受ける。
その事を日々思い起こしつつ、恐れとまごころをもって、主に仕えていく皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
 

礼拝説教メッセージ音声:ヨシュアの槍が向けられる時(ヨシュア記8:18-29):右クリックで保存

『その時、主はヨシュアに言われた、「あなたの手にあるなげやりを、アイの方にさし伸べなさい。わたしはその町をあなたの手に与えるであろう」。そこでヨシュアが手にしていたなげやりを、アイの方にさし伸べると、伏兵はたちまちその場所から立ち上がり、ヨシュアが手をのべると同時に、走って町に入り、それを取って、ただちに町に火をかけた。
それでアイの人々が、うしろをふり返って見ると、町の焼ける煙が天に立ちのぼっていたので、こちらへもあちらへも逃げるすべがなかった。荒野へ逃げていった民も身をかえして、追ってきた者に迫った。』(ヨシュア記8:18-20)

主の敵が、いかに図に乗って勢いづこうとも、主の合図と共にヨシュアの槍が向けられ、神の民が反撃に転ずる時は、必ず来る。
その時、敵の本拠地は火にかけられ、その煙は天にまで立ち上り、敵は居場所を失って、滅ぼし尽くされるのだ。

この世の終わりの時にも、同じ事が起こる事が、黙示録で記されている。
その時、反逆と不品行の町・大バビロンと言われる大淫婦が、神に裁かれる事が記されている。
『天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都について大いに喜べ。神は、あなたがたのために、この都をさばかれたのである」。すると、ひとりの力強い御使が、大きなひきうすのような石を持ちあげ、それを海に投げ込んで言った、「大いなる都バビロンは、このように激しく打ち倒され、そして、全く姿を消してしまう。・・・また、預言者や聖徒の血、さらに、地上で殺されたすべての者の血が、この都で流されたからである」。』(黙示録18:20-24)
彼女は、聖徒の血を流す事に酔いしれ、神をあざ笑うかのように、ほしいままに振る舞ったが、アイの町に裁きの時が来たように、必ず彼女にも裁きの時が来る。(黙示録17-18章)
アイの町の焼かれる煙が立ち上ったように、彼女が焼かれる煙は、永遠に立ち上り、聖徒たちはそれを見て、正しく裁いて下さった主を賛美するのである。(黙示録19:3)

『そしてアイの王を生けどりにして、ヨシュアのもとへ連れてきた。・・・ヨシュアはまた、アイの王を夕方まで木に掛けてさらし、日の入るころ、命じて、その死体を木から取りおろし、町の門の入口に投げすて、その上に石の大塚を積み上げさせたが、それは今日まで残っている。』(ヨシュア記8:23,29)
終わりの時も、同じように、地上の王達とその軍勢、および、その王達を仕切っていた獣は、生け捕りにされ、行きたままで、火の池に投げ込まれる。
そして残りの者達は、まことのヨシュアであるイエス(イエシュア:ヨシュアと同名)の御口から出る御言葉の剣で、切り殺されるのだ。
『獣と地の王たちと彼らの軍勢とが集まり、馬に乗っているかたとその軍勢とに対して、戦いをいどんだ。しかし、獣は捕えられ、また、この獣の前でしるしを行って、獣の刻印を受けた者とその像を拝む者とを惑わしたにせ預言者も、獣と共に捕えられた。そして、この両者とも、生きながら、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。それ以外の者たちは、馬に乗っておられるかたの口から出るつるぎで切り殺され、その肉を、すべての鳥が飽きるまで食べた。』(黙示録19:19-21)

『ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼしつくすまでは、なげやりをさし伸べた手を引っこめなかった。』(ヨシュア記8:26)
この投げ槍は、ヨシュアの軍には勝利のしるしであり、敵に対しては滅びのしるしである。彼はそれを、敵を圧倒するまで、引っ込めなかった。
ヨシュアは40年前、実戦部隊としてアマレクと戦った時があった。
その時、イスラエルを背後で執り成し祈ったモーセは、槍ではなく杖を取って、手を上げてヨシュア達を祝福し、アマレクを呪ったが、モーセの手が疲れて手が降りてしまうと、戦闘はヨシュア達に不利となり、モーセが手を上げると、戦闘は有利になった。
そこで、アロンとフルが両側からモーセの手を支え、こうして、ヨシュア達が敵を滅ぼし尽くすまで、その手はしっかりと立っていた。

敵が滅ぼし尽くされるまで、モーセが手を降ろさなかったように、ヨシュアが槍を引っ込めなかったように、私達も、執り成しの祈りの手を緩めてはならず、また、敵に対する攻撃の祈りも、引っ込めてはならない。
自身の家庭を、職場を、人生を蝕む暗闇の力が、徹底的に砕かれ、平定されるその時まで。

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