メッセージ - 201603のエントリ
秘められたサインを解き明かして下さる主(黙示録1:17-20)
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- pastor 2016-3-30 22:43
秘められたサインを解き明かして下さる主(黙示録1:17-20)
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ヨハネは、主の日(主日:日曜日)に、霊にあって主の御声を聞き、主が開示して下さった幻を見せられた。
その中に現れた主の有様は、圧倒的「聖」であり、圧倒的に清くあられた。
『わたしは彼を見たとき、その足もとに倒れて死人のようになった。すると、彼は右手をわたしの上において言った、「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。』(黙示録1:17-18a)
自分の内に、罪ややましい所がある人は、権威のある人、正しく聖なる人と相対する時、恐れおののくものである。
主は圧倒的に聖であられ、何の過ちも無いお方であり、その聖なる御顔を向けられるなら、その人は、はなはだ恐れ、倒れ伏すしか無い。
あの屈強なローマ兵もそうであったし(マタイ28:4)、使徒ヨハネも、預言者イザヤも、エゼキエルやダニエルも、皆、そうであった。
しかし主は、主のしもべヨハネに右の手を置き、「恐れるな」と言って下さった。
ヨハネは、自分のことを「あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネ」と言った。(1:9)
私達も、ヨハネと同じような、主にある兄弟姉妹であり、イエスの苦難と御国と忍耐とに共にあずかっている者であるなら、恐れる事は無い。主が右の手を置いて、恐れるな、と語りかけて下さるから。
それは、何と幸いな事だろう。
「恐れるな。わたしは初めであり、終りであり、また、生きている者である。』(黙示録1:17-18a)
主は、この世が始まる以前から、この世の終わりの後さえ、永遠に生きておられる方だ。
そのような永遠なるお方が、私達の主であり、王であり、そして「恐れるな」と言葉をかけて下さる。これこそ、私達がどんな事にも恐れる必要が無い根拠である。
『わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている者である。』(黙示録1:18b)
原文テキスト(Textus Receptus)には、この直後に「アーメン」が挿入されている。
イエス様は確かに、一度、死んだ。しかし、よみがえって、永遠に生きておられる。イエス様はこの事を「アーメン」と言って、「これは確かな事である」という印を押されたのだ。
『そして、死と黄泉とのかぎを持っている。』(黙示録1:18c)
イエス様は、死をも、支配しておられる。
主は、私達のこの肉体のいのちが終わる日も、雀の一羽が地に落ちる日時さえ、支配しておられる。
そして主は、やがて、最後の敵である死をも滅ぼされる。(1コリント15:26)
だから、キリスト者は、死を恐れる必要が無いのだ。
今、この地上で、私達はまだしばし「死」と付き合わなくてはならない。
それは、死とは一切関わりが無いはずのイエス様さえ、人として降りて来られ、人間の死にわざわざ”付き合って”くださったからだ。
この世には、まだまだ救われるべき多くの命たち、死に束縛されながら、そこから解放されたいと切望している人達がまだ多くおり、彼らを救い出すべき務め、すなわち、死に勝利されたイエス・キリストの福音を伝える務めが、まだ残されているからだ。
それを私達が、完遂した後、終わりの日が来る。
『そこで、あなたの「見たこと(エイドー)」、「現在のこと(エイスィ)」、今後起ろうとすることを、書きとめなさい。』(1:19)
「エイドー」には、「見た」の他に、知った、分かった、という意味があり、また「エイスィ」はBE動詞で、すなわち「在る」という意味だ。
主はヨハネに、あなたは幻で見せられた事、すなわち、今真理として在る事、そして、将来必定的に起こるべき事を、見たままを記せ、と命じられた。
だから、この啓示録、すなわち、ヨハネが主から示され、見た事をそのまま書き留めたこの書は、完成された預言の言葉であり、これに付け加えたり、減らしたりしてはならないのだ。(22:19)
黙示録は、誰かに解釈してもらわなければ理解できないサインが多くある。
そしてそれは、人には解釈できないし、解釈する事は、許されてもいない。
『ダニエルは王に答えて言った。「王が求められる秘密は、知者、呪文師、呪法師、星占いも王に示すことはできません。しかし、天に秘密をあらわすひとりの神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。』(ダニエル2:27-28)
ダニエルが仕えたバビロンの王・ネブカデネザル王に、主が見せられた秘密は、どんな呪法者も、知恵者も解き明かせなかったばかりか、王自身さえ、その夢の内容を自分で言えなかった。
同じように、神である主が見せられた謎を解き明かせるのは、ただ、ほふられた小羊、神の御子、キリストのみである。
黙示録においては、主はサインを与えられられる。しかし、そのサインの秘密を明かす「啓示」も、主はセットで与えて下さるのだ。
そして、その主が与えて下さった解釈こそ正しいものであり、それに対して付け加えたり減らしたりしてはならない。
主はこの啓示録の最初に、サインと、その解釈を、ペアで示された。
主はまず、ヨハネに、7つの金の燭台を見せられそしてその燭台の真ん中を歩まれるお方は、7つの星を右手に握っておられた。
この事は、いったいどういう事か。
それを、主ご自身が、20節で明確に解き明かして下さっている。
『あなたがわたしの右手に見た七つの星と、七つの金の燭台との奥義は、こうである。すなわち、七つの星は七つの教会の御使であり、七つの燭台は七つの教会である。』(黙示録1:20)
ここで、主の右手に「握りしめられた」(2:1)星は、7つの教会の御使である、と、主は明かしている。
「御使い」の原語アンゲロス(エンジェルの元)には、確かに、あの翼がはえた、神々しい天的な使いを意味する事もあるにはあるが、元々は、メッセージを運ぶ者としてのメッセンジャー、頼りを届ける者の意味だ。
つまり、牧師や宣教師、その他、主の意図を取り次いで人に伝える人も、立派にアンゲロスなのだ。
2章以降では、アジヤの7つの教会に、「**にある教会の御使いに書き送れ」と記されているが、ここのアンゲロスは、あの天的な存在の天使ではなく、各教会に遣わされる僕者や説教者、メッセンジャーの事である。
なぜなら、この手紙は、アジアの各教会に、人間の説教者、指導者がもたらし、それぞれの教会で朗読したのであって、天使が各教会に現れてメッセージを伝えたのではないからだ。
黙示録の最初には、この預言の言葉を朗読する者(単数)と、それを聞く人々、守り行う人々は幸いだ、と、記されている。(3節)
つまり、牧師や指導者など、この言葉を朗読する「アンゲロス」を、主は、星として、右の手の中にクラット(しっかり掴んで)して下さるのだ。
私達が御言葉を伝えるアンゲロスとなる時、主が握りしめておられ、離さない。
それは何と心強い事であろうか。
だから私達は、御言葉を伝える時、忠実である事が求められるのだ。
今のこの終わりの時代、私達はこの書を閉じるべきでなく、むしろ朗読し、またそれを聞き、心に留めるべきだ。
これを伝え、主からクラットされる幸いの内に、働いて行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
復活の後のイエス様のあらわれ(ルカ24:13-35)
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メッセージ音声
イエス様の十字架と復活以降、イエス様に属する人々に対する現れ方や挙動は、十字架前とは一転する。
『この日、ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行きながら、このいっさいの出来事について互に語り合っていた。語り合い論じ合っていると、イエスご自身が近づいてきて、彼らと一緒に歩いて行かれた。しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。』(ルカ24:13-15)
二人の弟子達は、道すがら話しあったり論じ合ったりしていた。
イエス様の十字架の死と葬りについて、そして、この朝、よみがえったという話を女達から聞いて、その事について。
しかしその内に、なんと、話題の張本人であるイエス様が二人に近づいて、一緒に歩かれた。
それなのに弟子たちには、その彼がイエス様だとは、分からなかった、というのだ。
マグダラのマリヤもその朝、イエス様ご自身が目の前にあらわれたのに、園の番人だと思いこんで、気づかなかった。(ヨハネ20:15)
また、鍵がかかっている弟子たちのいる部屋に突然現れたり、あるいは突然見えなくなったり、あるいは、遠いところにいる弟子たちの所に、瞬時に移動したりと、とにかく、復活以降のイエス様は、そのような不思議な現れ方が多い。
この、イエス様の復活以降の不思議な現れ方は、現代を生きる私達に対しての現れ方と同じではなかろうか。
二人でも三人でも、イエスの名の元に集まる所に、主が来て下さる。
そこが、いかに鍵がかかっていても、いかに遠くにいても、主がそこに、密かに来て下さる。
それに対し、その人が気づかなかったり、あるいは、後になってから「あれは主だった」と気づいたりするのではなかろうか。
「しかし、彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった。」
かの弟子たちも、イエス様が一緒に歩まれているとは気づかなかったのだが、ここで「目がさえぎられて」と訳されている言葉の原文は「クラテオー」、握りしめる、という意味である。
私達も、自分の思い込み、したい事、固定概念などを「握りしめて」いると、イエス様を見逃してしまったり、あるいは大切な隣人の思いが分かっていなかったりするものだ。
『イエスは彼らに言われた、「歩きながら互に語り合っているその話は、なんのことなのか」。彼らは悲しそうな顔をして立ちどまった。そのひとりのクレオパという者が、答えて言った、「あなたはエルサレムに泊まっていながら、あなただけが、この都でこのごろ起ったことをご存じないのですか」。「それは、どんなことか」と言われると、彼らは言った、「ナザレのイエスのことです。』(ルカ24:17-19)
彼らの思いは、悲しい思い込み、暗い思い込みで満ちていて、それを握りしめている状態だった。
彼らはイエス様に教えた。
エルサレムで最近起きた事を、すなわち、わざにも言葉にも力ある聖なるお方・イエス様がおられたのに、あろうことか国の指導者達は彼を十字架につけて殺してしまった、さらに三日目の今日、仲間の女達が、墓に行ったのだが、イエスの遺体は無く、しれも御使が現れて『イエスは生きておられる』と告げたというのだ、という事を、目の前に当のイエス様を前にして、暗い顔・悲しい顔をして、言っているのである。
なんと滑稽な事だろう。
しかし私達は、この滑稽な場面を、笑ってはいられない。
なぜなら、私達こそ同じように、イエス様がすぐ隣におられるというのに、暗い顔をして、要らない心配事をして、つらつらと祈り文句で述べたりする者だから。
『そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされた。』(ルカ24:25-27)
これもまた、実に不思議である。
この二人に対して「私がイエスだ」「この釘跡を見よ」と言えば、簡単に済むだろうに、なぜ、イエス様はそうされないのだろう。
実はそれもまた、現代を生きる私達に対してのイエス様の対応と同じである。
私達は、目で見たり手で触れたりできる「人間」よりも、むしろ、「御言葉」にこそ、拠りすがるべきなのだ。
今、私達は、イエス様が目の前に、見える形で現れてくださって、見たり触りたいと願うだろうか。
いや、そんな事を求めるより先に、気づくべきだ。イエス様は、まさにイエス様を呼び求める人のすぐそばにいる、という事を。
私達の目の前におられるキリストは、御言葉であり、御言葉は目に見えなくても、私達の口に、また心にあるなら、イエス様は確かに内におられ、働いておられるのだ。
ただ私達は、目に見える事や現実に囚われてしまって、それがわからないだけだ。
『では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。』(ローマ10:8)
イエス様が彼らに語った内容は、「モーセおよび全ての預言者から始まって、全聖書の中で自分自身について書かれてあること」だった。(27節)
私達は何かと、目で見たり手で触れたりできる人間に求め、頼りがちだが、頼るべきはイエス様ご自身たる「聖書」なのだ。
だからイエス様は、ご自身をあらわすのではなく、聖書を語られたのだ。
弟子達は目的地に近づいたが、主はその先へ行こうとしていたので、彼らは強いて一緒にいるようにと押し留めた。
それは、このお方の語る聖書に、心が燃えていたからである。
今を生きる私達の時代も、世の中に、騒動があるだろう。
私達の指導者達が、神に逆らうような、平和から遠ざかってしまうような事をしてしまい、その事で互いに論じたり、思いが捕らわれたりしてしまっているかもしれない。
しかし、イエス様の御言葉に心を向け、耳を傾ける時、御言葉に心は燃やされ、問題は問題ではなくなって行くのだ。
『一緒に食卓につかれたとき、パンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられるうちに、彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。』(ルカ24:30-31)
パンを取り、祝福して裂き、手渡して下さる。それは、主のご性質である。
この、主のご性質が、彼らのイエス様との記憶と一致した時、彼らは判ったのだ。
実は今まで、ずっと一緒に、イエス様が共に歩んできて下さった事を。
私達も、必要な糧を、イエス様が祝福して裂いて手渡してくださった時、気づくものだ。
主が確かに共におられたという事を。
聖書が解き明かされる時、私達の心は内側で燃やされ、そして、確かに主ご自身がこの旅路に共にいてくださったと、知るのである。
この弟子達は、一緒におられたのは主だと知ると、夜だったのに、また、せっかくここまで歩いてきたにもかかわらず、11.5キロの道を再び戻り、そして集まっている弟子達に起きた出来事を伝えた。
疲れていても、また夜であっても、主が素晴らしい事をして下さった事は、伝えずにはおれないのだ。
そして、イエス様が祝福して裂いて下さった御言葉のパンを、人々の中に持って出て行くなら、それは決してなくならず、それを渡された人々をことごとく潤し、満腹させるのである。
ちょうど、イエス様が5つのパンと2匹の魚をもって大勢の人々を養った時のように。
日常の内に隠れているイエス様に気付き、御言葉によって日々養われ、イエス様から祝福していただいたパンを受け取り、それを人々へと配り、さらに多くの人々をイエス様にあって潤し、満腹させる皆さんでありますように。
イエス様の名前によって祝福します!
キリストが復活された事の幸い(マタイ28:1-15)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
本日は復活祭(イースター)、私達の主イエス様が復活された事を記念する日である。
イエス様はひと度、十字架上で、完全に死なれた。ヨハネや母マリヤ、ローマ兵や百人隊長、その他、多くの人達の目前で息を引き取り、槍で突かれると、血と水が流れた。死後硬直しつつある遺体は降ろされ、岩窟の墓に葬られ、その入り口は大きな石で塞がれ、封印され、兵士が番をした。弟子達は皆、イエス様がよみがえるとはつゆ思わず、絶望し、恐れ、隠れた。それ程、イエス様は完璧に「死に尽くした」のである。
しかし、イエス様は完全に、復活された!女達がイエス様の遺体に防腐処置しようと墓に行った時、ローマの封印は破られており、入口を塞いていた大きな石は脇にやられ、見張っていた兵士達は、死人のようになっていた。そして墓の中に遺体は無く、ただ体を巻いていた布が置き去りにされていたのみだった。
ローマは当時の最高権威であるが、いかに人が最高権威をもってしても、復活のいのちは、妨げられない。
よみがえられたイエス様は、十字架までついて行った女達に真先にあらわれ、弟子達にも現れ、また多くの人々の前に現れて、彼らの前で天に昇られた。イエス様は今も生きておられ私達の内に働いておられる。
イエス様を十字架につけ、一度は死なせる事に成功した祭司長・長老達は、兵士達の報告を聞くと、集まって協議し、兵士達に沢山の金を掴ませ『弟子達が夜中にきて、寝ている間に彼を盗んだ』と言わせた。
それが今日もユダヤ人の間に広まっているが、もし、イエス様がよみがえられなかったとしたら、どうなのか。
イエス様を見殺しにした弟子達は勇気を振り絞って出て来て、墓を守るローマ兵を気絶させ、封印を解き、重い石をころがし、イエス様の遺体を奪って、至る所で「イエス様は蘇った」と流言した、のだろうか。
また、大祭司一族や議員など、大勢の有力者を前に、「あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によって、彼は癒された」と、誰もが驚く大胆さと知恵で、イエス様があたかも生きているかのように主張した、というのだろうか。(使徒4章)
そんな事は、決して有り得ない。そもそも、主を一度見殺しにして見捨ててしまったような弟子達が、もう死んでしまった主を「よみがえった」と言って命がけで吹聴するメリットなど、一体どこにあるというのか。
あらゆるキリストの敵対者・反対者には残念な事だが、キリストは実際に復活し、多くの人に現れて、その莫大な復活のいのちの力を体験した人や、罪深い人生から全く変わってしまった人は、大勢いる。
キリスト教は当初、ユダヤ教ナザレ派という、元漁師や取税人、遊女といった社会的弱者から構成される、お金も知恵もまとまりもない、弱小集団だったのに、ヘロデ王や皇帝ネロなど、世界に冠たるローマ帝国の迫害をものともせず、むしろ飲み込んでしまい、後には、帝国そのものをキリスト教国へとしてしまった。
復活祭は、キリスト教会では最も重要な祭りだ。『わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。』(1コリント15:3-6)
今までの人類で、心肺・脳波停止などの「死」から蘇生した人は、沢山いるだろう。しかしイエス様の死と復活は、そのような”蘇生”とは、根本的に違う。人はたとえ蘇生したとしても、必ずまた死ぬ。罪の故である。
しかし、イエス様が一度死なれたのは「聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のため」、つまり、全て死の根源なる”罪”を処罰するための「死」であり、最後の敵である死も、滅ぼされる(同26節)ためである。
罪なき神の御子が、人の罪の結実たる「死」に、束縛されたままである事など、有り得ない。(使徒2:24)
死が有り得ないイエス様が、人間の死にわざわざ付き合って下さったのは、人として罪を負い、その罪を処罰するためだ。そのために彼は神の座をわざわざ降り、人となって、十字架につけられ、死に、そして復活された。それによって死に勝利され、罪に勝利され、私達を縛っている諸々の呪いから勝利されたのだ。
キリストの救いの方法は、死と復活だ。古い自分は一度、全く死んで、復活し、全く新しいいのちで生きるという「いのちの取り換え」だ。『わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。・・・ただ、新しく造られることこそ、重要なのである。』(ガラ6:14)
キリストの復活にあって、彼のために新しいいのちを生き、永遠の働きをして行く皆さんでありますように!
キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを知るために(エペソ3:14-21)
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- pastor 2016-3-27 21:32
受難日早天祈祷会:
ポンテオ・ピラトの前で立派に証されたいのちの君(ルカ23:1-25)
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受難日昼祈祷会
十字架上のイエス
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受難日徹夜祈祷会
イエス様に届いた罪のもがき苦しみの中からの最後の叫び(ルカ23:39-43)
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メッセージ音声
イエス様が十字架につけられる日の朝、夜通し不当な裁判を受けられたイエス様は、ポンテオ・ピラトの元へと、連れて行かれた。
当時ローマの属国だったイスラエルの人達には、十字架という最も酷い刑罰を課す事が許されていなかったため、ローマ総督のポンテオ・ピラトに願い出たのである。
イエス様は、不当な裁判の中でも、じっと黙っており、ただ「あなたは神の子キリストなのか」という問いにのみ、「そのとおりである」と”本当の事”を答え、たったその一言の「真実」を告白した故に、人々は彼を冒涜の罪と定め、死刑を宣告した。
イエス様は、真に生ける神の御子キリストであられるのに、人々は「そうじゃない」と押し通し、そうして、イエス様を無理やり十字架へと引いて行った。
それと同じように、私達は、イエス様の真実の言葉を押しのけて自分の意見を強引に貫き通す時、私達も、イエス様を十字架へと引いて行く者となってしまう。
イエス様は、あざけられ、罵られ、つばをかけられた。
ローマ兵から鞭を打たれ、刺の冠を被せられ、笑いものにされた。
それは、彼が弱くて抵抗する力が無いからとか、大勢に寄って集っていじめられていて怖くて抵抗できなかったのではない。
抵抗できなかった、のではなく、抵抗しなかったのである。
神の御子イエス様は元々、どういう御方か。
『御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。』(コロサイ1:15-17)
この世界の全てのものは、皆イエス様にあって造られ、この御方によって成り立っている。
人が決して近づく事の出来ない光の中におられる。
そして、再びイエス様が来られる時、圧倒的に強く、聖なる光に輝いたお方として来られる。(黙示録1章)
イエス様は圧倒的に力強く、聖なるお方である。
イエス様の復活の朝、ローマ兵は、御使いを見ただけで震えおののき死人のようになったが、その、御使いの軍団にも号令をかけ指示されるのが、イエス様なのだ。
『それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。』(マタイ26:53-54)
イエス様が十字架にかかられる日、人々にあざけられ、罵られ、十字架につけられても、罵り返したり、おどしたりする事をせず、ただ死に至るまでも従順に従われたのは、力なく弱かったからではない。
わざとそのようにされたであり、そして、その理由は、まさにイエス様に非道い仕打ちをしている彼らを、救うためだったのだ。
それが、父なる神の御心なのだ。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
イエス様が、敢えてあざけられ、罵られ、十字架へと向かわれたのは、まさしく私達のためであり、死の呪いが確定してしまっている人類を、永遠のいのちへと導くため、そして、愛の故である。
『わたしはすべてのものを生かして下さる神のみまえと、またポンテオ・ピラトの面前でりっぱなあかしをなさったキリスト・イエスのみまえで、あなたに命じる。わたしたちの主イエス・キリストの出現まで、その戒めを汚すことがなく、また、それを非難のないように守りなさい。時がくれば、祝福に満ちた、ただひとりの力あるかた、もろもろの王の王、もろもろの主の主が、キリストを出現させて下さるであろう。
神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、アァメン。』(1テモテ6:13-16)。
十字架を前に、この上ない愛を示されたイエス様(ヨハネ13:1-30)
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使徒ヨハネは、彼の福音書にて、十字架前の晩餐でイエス様が言われた事、また為された事について、13章から17章まで詳細に記している。
ヨハネ福音書は、全体の半分近くが、キリストの受難から死、そして復活、そして復活後について、書面を割いているのが、特徴的である。
『過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを「入れて:バロー:投げ入れる」いたが、イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。』(ヨハネ13:1-5)
イエス様は、十字架の死を前に、彼に属する人達を「最後まで(テロス:極限まで、徹底した、完全な)」愛し通された。
肉体を持った体では、もうじき別れてしまう彼らを、イエス様はいとおしみ、愛を余すところなく示され、そして最後に示さなくてはならない事を示されるために、イエス様は自らかがんで、弟子たち一人ひとりの足を洗って下さった。
それも、イエス様はイスカリオテのユダが裏切る事を知っていながらにして、彼の足も洗って下さったのだ。
『悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを「入れて:バロー:投げ入れる」いた』
悪魔は、人の心に、悪魔由来の悪しき思いや、汚れた情欲、邪悪なはかりごとなどを、投げ入れる事がある。
私達はその時、その「はかりごと」をとりこにして、キリストに服従させなくてはならない。
次のように書いてあるからだ。
『わたしたちの戦いの武器は、肉のものではなく、神のためには要塞をも破壊するほどの力あるものである。わたしたちはさまざまな議論を破り、神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思い(はかりごと)をとりこにしてキリストに服従させ、そして、あなたがたが完全に服従した時、すべて不従順な者を処罰しようと、用意しているのである。』(1コリント10:4-6)
イエス様はこの時、裏切ろうとしている者がいる事を、それとなく2度、示唆したが(11,18節)、しかしその示唆は、当人を変える事なく、また誰も悟る事なく、むなしく空に響いた。
主が「自分」に向けて語られているのに、それを聞いていなかったり、悟らなかったり、あるいは、主は自分の事を語っているのだと、うすうす分かっていても、うるさがって敢えて無視したりする時、主は霊の激動を感じ、あかしして、はっきりと言われる。
「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている。」(21節)
イエス様はこの直前、わたしを受け入れる者はわたしを遣わした方を受け入れる、と言われた。つまりイエス様を裏切る者は、イエス様を使わされた御父を裏切る事だ。
それがどんな重い永遠のさばきを招く事になるか。
イエス様は、自分を裏切るような者は、生まれなかったほうが良かった、とさえ言われた。(マルコ26:24)
こんな酷い永遠の裁きへと行ってしまう性質を、決してのらりくらりとかわさず、しっかり対処せよ、その思いを捨て去れ、と、真正面からはっきり言われたのではなかろうか。
ペテロはヨハネを促し、尋ねさせた。その者は誰か、と。
イエス様は、「それはわたしがパン切れを浸して与える者」だと答えられ、そしてパン切れを浸し、それをイスカリオテ・ユダにお与えになった。
実に不思議なのは、その後の弟子達の反応である。
ユダになぜそう言われたのか、「誰も分からなかった」というのだ。
パン切れを浸してユダに渡した、のであれば、ユダが裏切ろうとしている事を示したのは、明白な筈なのに。
どういう事だろう。
パン切れ(「プソーミオン」:一口サイズにちぎった食物)を、浸して渡す行為は、母が小さい子にちぎって食べさせてあげるような、愛情の意思表示である。
主は、一人として滅びる事なく、永遠のいのちを持って欲しいと願っておられる。
ユダ、わたしはあなたを大切に思っている、どうか、永遠の滅びの行為を止め、主の弟子としての栄誉を取り戻して欲しい・・・主はそう願っておられたはずだ。
イエス様は、ユダが裏切りのくちづけをした時も、最後まで「友よ」と呼びかけた。(マタイ26:50)
そういうわけで、イエス様のこの時のユダに対するその表情、その立ち居振る舞いが、あまりに愛情に満ちていたから、弟子たちは、まさかユダに裏切り者だという事を示す行為だとは、到底思えなかったのではないだろうか。
ところがユダは、パン切れを受けた時に入ったのは、イエス様の愛ではなく、サタンだった。
なんだ、バレたのか。
なんだ、この善人面した集団は!
そのような、自分を改めない性質の心に、サタンは好んで入る。
イエス様に洗い清められ、汚れが取り除かれてきれいになった時に出来た「心の隙間」を、イエス様へを慕う心や御言葉で満たすなら、サタンが入り込む余地は無くなるのだが、もしそこを、空っぽのままにしておくなら、前よりももっと邪悪な者が入ってしまい、以前よりももっと悪くなってしまうのだ。(マタイ12:43-45)
だから、罪が戸口で恋い慕って待ち伏せている時、私達は、それを治めなくてはならないのだ。(創世記4:7)
イエス様は、そんなユダに「しようとする事をしなさい」と言われ、裏切る自由をも尊重された。
イエス様を裏切る自由は、確かにある。
しかし、もし敢えてイエス様を裏切るなら、生まれて来なかったほうが良かった程の、永遠の地獄を味わってしまうのだ。
裏切る自由を行使して裏切ったユダの行き先は、使徒1章に記されている通り、ハラの中にあるものが全部飛び散って露わにされ、イスラエル中の人が知る事となり、そして使徒としての特権は、他の人に取られてしまった。
今、私達には自由が与えられている。
しかしその自由を間違えて使うとするなら、自分のいのちを永遠に踏みにじる事になる。
与えられた自由は、イエス様に喜ばれる事のために用いるべきだ。(ガラテヤ5:13)
キリストの受難を前に(マタイ26:1-16)
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二日後が、受難の金曜となる。
『「あなたがたが知っているとおり、ふつかの後には過越の祭になるが、人の子は十字架につけられるために引き渡される。」そのとき、祭司長たちや民の長老たちが、カヤパという大祭司の中庭に集まり、策略をもってイエスを捕えて殺そうと相談した。しかし彼らは言った、「祭の間はいけない。民衆の中に騒ぎが起るかも知れない」』(マタイ26:2-5)。
イエス様ご自身が十字架につけられる事は、既に弟子達に何度か告げられたが、イエス様を闇に葬りたいと願う者達は、祭りを前に、相談する。
あのイエスを殺すなら、(過越しの)祭りの間は、いけない、と。それは、彼らが群衆を恐れていたからである。
しかし、結果的に主は、その過越しの祭りの最中に殺される事になる。
過越しの祭。それは、イスラエルの民がエジプトから開放される前夜、主の命令によって、それぞれの家庭で傷の無い小羊を準備し、それをほふってその血を家の扉に塗って、しるしとし、そのしるしのある家には、死の災いは降らず、しかし、しるしの無い家には長男が死ぬという死の災いが降された事、それをもって、イスラエルはエジプトの奴隷状態から開放された事をおぼえる祭りである。
この過越しの小羊は、十字架上でほふられたキリストを意味している。
イエスキリストの十字架、身代わりにほふられた小羊。死の災いを免れる血潮。キリストと過越しの小羊とは、決して切り離せない。
だから、人がいかにキリストを無きものにしようとした所で、また、権威ある人達がいかに長い審議を凝らしたところで、神の御旨が損なわれる事は無い。
彼らと対照的に、イエス様の死のために素晴らしい準備をした女性がいた。
『さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。』(マタイ26:6-10)
彼女はベタニヤのマリヤである。彼女はいつもイエス様の足元でイエス様の話に聞き入っていた。
だから彼女は、イエス様の葬りのために、自分が取っておいたものの中で一番高価なナルドの香油を一滴も残さず捧げ尽くしたのだ。
尊くてやまないイエス様に対しては、持てる最上のものを注ぎ尽くしても、なお足りない。
それが成熟した信仰者の姿である。
彼女の、主への尊敬と愛、信仰を、そのナルドに混ぜて注ぎ尽くしたその香りは、御前でいっそう尊くなり、その香りは、家全体に満ち、天に登り、永遠の記念として全世界へと広がった。
これこそ主に喜ばれる最高の香りであり、私達も、尊くてやまないイエス様に愛と尊敬を混ぜ、持てる最高のものを捧げる時、それは天に立ち昇り、永遠の記念として残るのだ。
しかし、永遠に蔑みの対象となってしまった者も、そこにいた。
『時に、十二弟子のひとりイスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行って言った、「彼をあなたがたに引き渡せば、いくらくださいますか」。すると、彼らは銀貨三十枚を彼に支払った。その時から、ユダはイエスを引きわたそうと、機会をねらっていた。』(マタイ26:14-16)
イエス様を引き渡すなら、いくら、くれますか?
イスカリオテのユダは、使えばなくなってしまう銀をいくばくか得るために、尊き御方を売り渡してしまったが、私達も彼のように、あさましい理由のためにイエス様を売って、それと引き換えに、世の楽しみをいくばくか得るような事をしていないか、自らを点検するべきである。
イエス様の受難を覚えるこの時、私達もマリヤのように、キリストの足元に低く座し、キリストのことばに耳を傾け、キリストの御思いを余す所なく受取るものでありたい。
圧倒的聖、圧倒的力をもって現れた主(黙示録1:9-16)
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『あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国(バシレイア)と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネは、神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。』(黙示録1:9)
ヨハネは、彼自身がこの手紙の著者である事をあかしし、そして自分を「あなたがたの兄弟であり、共にイエスの苦難と御国と忍耐とにあずかっている、わたしヨハネ」と自らを紹介している。
ヨハネは言う。
自分も、あなた方と同じ、主にある兄弟であり、あなた方と同じように、イエスの「苦難」と「御国」と「忍耐」とに、一緒にあずかっている者だ、と。
確かに、キリストにあって真実に生きようとする人は、「苦難」に遭ったり「忍耐」しなくてはならない事があるが、しかしそれらは、キリストの「御国(バシレイア:支配領域)の範囲内であり、キリストにあっての苦難や忍耐は、決して失望に終わる事が無い。
『わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。』(ローマ5:2-5)
ヨハネ自身もまた、「神の言とイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。」
パトモス島は流刑の島である。
今いまし、昔いまし、やがてきたるべき全能なる神は、愛するその聖徒を、流刑地に行かないよう守る事も、脱出させる事も、簡単にお出来になる。
しかし神が、御使をヨハネへと遣わしたのは、彼を流刑地から出して自由にするためではなく、彼を、主との親密な交わりの内に導き入れ、すぐにも起るべき事を啓示するためであり、そして、同じ苦しみにある兄弟姉妹たちに、この慰めと励ましと勧めと訓戒に満ちた手紙を、書かせるためであろう。
ヨハネのように、主にあるしもべであるなら、神の御言葉と、イエスのあかしとの故に、望ましくない所へと連れて行かれる事は、確かにある。
「時」が近ければ近いほど、そうである。
しかし、起きるべき物事の全てにおいて、そして、聖徒達がたどる道々の行く先々において、全能の神のバシレイアは行き届いており、どんな所においても、主と親密に交わりをし、主から啓示をいただき、主にある兄弟姉妹たちを励ましたり示しを与えたりする事も可能である事を示すために、主は敢えて、ヨハネをパトモスに置いたのではなかろうか。
『ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパ(サルピンクス:ラッパ,信号や命令を伝える為に鋭い音で鳴らすもの)のような大きな声がするのを聞いた。』(黙示録1:10)
ここで言う「主の日」は、いわゆる日曜日の事である。
主は主日に現れ、栄光を表される。
主の日に、人が主に礼拝する心をもって主に向かうなら、そこがパトモスであっても、バビロンであっても、牢屋であっても、そこは主の栄光と臨在が現れる場所となり、主の啓示を得る場所となる。
主は、流刑の島にいるヨハネの所に、その偉大な権威と御力と栄光をもって現れた。
『その声はこう言った、「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」。』(黙示録1:11)
このラッパのような大きな声の主は、「初めであり、終りであり、また、一度死んだが、永遠に生きている者」、すなわち、イエス・キリストである。
『そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。』(黙示録1:12)
ヨハネが先ず見えたものは、七つの金の「燭台(ルキニーア:ランプを置くための台)」であった。
この燭台は、主ご自身があとで解き明かすが、教会をあらわしている。
その頭と髪の毛は、雪のような白い羊毛に似ており、燃える炎のような目があった。
このようなお方は、ダニエル書にも出て来た。
『わたしが見ていると、もろもろのみ座が設けられて、日の老いたる者が座しておられた。その衣は雪のように白く、頭の毛は混じりもののない羊の毛のようであった。そのみ座は火の炎であり、その車輪は燃える火であった。彼の前から、ひと筋の火の流れが出てきた。彼に仕える者は千々、彼の前にはべる者は万々、審判を行う者はその席に着き、かずかずの書き物が開かれた。』(ダニエル7:9-10)
一切のしみも汚れも無い、圧倒的に清く聖なるお方の、その燃える炎のような眼差しで、見られるとするなら、いかにダニエルであれ、使徒ヨハネであれ、甚だ恐れおののくものである。
この、誰も近寄れない、圧倒的聖なるご性質が、イエス様の本性である。
私達は主イエス様を、優しく、親しみやすいお方であるという印象を、福音書から受けるかもしれない。
福音書における主は、罪人や取税人、遊女、子供たちが、安心して近寄って来られる雰囲気があった。
またローマ兵は、イエス様にむちを打ち、つばきをかけ、あざけりつつ十字架につけたが、それでも主は罵り返したり、おどしたりする事をせず、死に至るまでも従順に従われたが、実は、圧倒的に力強く、聖なるお方である。
事実、ローマ兵は、イエス様の復活の朝、御使いを見ただけで震えおののき、死人のようになった。
その御使いの軍団にさえ号令をかけ、従わせるのが、同じイエス様なのだ。
『その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。』(黙示録1:15-16)
かつて、罪深い女がイエス様の足元に伏し、涙でイエス様の足を濡らして髪の毛で拭い、何度も口づけしながら香油を塗ったが、その御足は、今や光り輝くしんちゅうのような有様であった。
その声は、大水のとどろきのよう、そして口からは鋭い両刃の剣が出ていた。
かつて、主は、かの罪深い女を、その言葉によって赦し、解放した。
しかし、この度のイエス様は、ヨハネがかつて3年半の間寝食を共にした、あの人間イエス様とは、かけ離れた存在として現れている。
主が再び来られる時、このような、圧倒的に強く、聖なる光に輝いたお方として来られるが、主を愛し慕っている主にある兄弟姉妹たちは、恐れる事は無い。
主は、倒れて死人のようになった、私達と同じ兄弟・ヨハネに対し、「恐れるな」と言って、手を置いてくださった。
主が再び来られるのは、再び十字架にかかられて罪に歩む人を赦すために来られるのではなく、主を待ち望んでいる人々を救い、正当なさばきを行われるためである。
今はまだ、恵みの時、救いの時である。
救いの門は開かれており、主の憐れみ、主の赦しを求めて来る聖徒を受け入れて下さる。
しかし、やがてその恵みの期間が、閉じられる時が来る。
ちょうどノアの時代、方舟の扉が開かれていているうちは、改まった時代へと生きながらえるチャンスが与えられてはいても、一旦、方舟の扉が主によって閉じられてしまえば、もはや、救いと滅びは明確に二分化してしまったように。
私達は「時が近い」事をおぼえつつ、この、救いの門が開かれている内に、人々に福音を伝えるべきであり、そして、救われたのであるなら、この書に記されている事に心を留め、「時」に備えて整えるべきである。