メッセージ - 201704のエントリ
羊飼いキリストに養われ、羊飼いになって行く私達(ヨハネ21:15-25)
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週報/メッセージ(説教)概要
イエス様の弟子達は、イエス様の復活後も、何度も不信仰な言動を繰り返した。復活の主と出会った女達の言葉を信じなかったし、トマスも、自分は絶対に信じない、イエス様が刺し貫かれた釘のところに指を入れてみなければ、とまで言った。そんな頑なな彼らに、イエス様は直接現れ、「平安あれ(シャローム)」と言って聖霊の息をふきかけて下さった。トマスにも「あなたの指をここに差し入れなさい」と言って下さった。
それでもなお、今まで通りして来た自分へと後退してしまうペテロやトマス達だった。主のしもべは、御旨でない事を続けるなら、ただ「虚しい奇跡」しか起きない。イエス様から召し出された働きとは逆方向に行き続けるなら、何も獲れず、ただ虚しく、飢え渇き、疲れ果てるだけだ、という事を徹底的に思い知る他ない。
しかし御言葉に素直に従う時、豊かな、実りある奇跡が起きる。彼らが主の言葉通り行うと大漁を得た。
イエス様は、彼らが少しでも従順を示した「ごほうび」として、炭火焼きのパンと魚を用意し、待っておられた。
『彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。』 イエス様は、バックスライドしようとしたペテロに、「わたしを愛する(アガパオー)か?」と聞かれたが、ペテロは、アガパオー(完全に愛し尽くす愛)では答えられなかった。
私達には完全な愛は、元々、無かったのだ。そこでペテロは答える。『主よ、そうです。わたしがあなたを「愛する:フィレオー(好きである、慕っている)」ことは、あなたがご存じです。』ペテロは、自分には完全に愛し尽くす愛は無い、相応しい者ではない、それでもあなたを慕っています、好きです、と答えたのだ。
イエス様は言われる。『わたしの小羊を養いなさい。』 イエス様の羊を養う上で、強靭な意志や失敗しなかった事の積み重ねよりも、遥かに重要なp事がある。それは、イエス様を慕う心、イエス様が好きだ、という心であり、その心を持ち続けて行くなら、知らず知らずのうちに、そうしたものが身について行くのだ。
『イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛する(フィレオー)か』 ペテロはイエス様が3度目、アガパオーではなくフィレオーで聞いて来られた事で、心が刺された。イエス様に従い切れなかった自分。そんな自分に、イエス様の側から降りてきて下さった。大人が子供の目線に降りて来るように。
イエス様の羊を養う事を「牧会」という。ダビデは牧会の極意を詩篇23篇3節に凝縮した。『主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。』牧会とは、たましいを生き返らせる事だ。
世において挫折し、涙し、問題の渦中にあり、重い荷を負っている人々を、イエス様のように、同じ目線に降って来て、忍耐深く何度も面倒を見(care)、癒やす(cure)働きだ。牧会はラテン語で、CURAと言う。
CURAは、CURE + CARE、C=C+C である。これが牧会の極意であると、カン・シンゴン博士は言っていた。
牧会とは、まず魂を生き返らせる事。しかし、癒やしたらそこで終わりではない。最後まで面倒を見るのだ。イエス様は弟子達に徹底して「牧会」を示された。頑として信じる事のできないトマス、何度も後退してしまうペテロ、彼らに傷んだ葦を折る事なく、くすぶる灯芯を消す事のない柔和さをもって、何度も、何度も現れ、そしてイエス様を慕う心が起こされた時、「わたしの羊を養いなさい」と、牧会者の召命を与えられた。
いつまでも「羊」であってはならない。イエス様に癒され、養われたなら、今度は自分が同じ事をする番だ。
『あなたが若かった時には、自分で帯をしめて、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろう。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくない所へ連れて行くであろう。これは、ペテロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである。こう話してから、「わたしに従ってきなさい」と言われた。』
イエス様の羊が、どんなに小さくても、たとえ1匹であっても、羊を養う人は、自分の帯は脱ぎ捨て、聖霊の帯に縛られ、聖霊が促される所へと導かれて行くものである。パウロは聖霊に縛られて進んで行った。
ペテロも最後、ローマで迫害されている聖徒達を励ますために自らローマへ進み出て、捕らえられて怯えている聖徒達を励ましながら、逆十字架刑で殉教した。ペテロは最初から大使徒だったのではない。どうしてそこまでの大使徒になれたのか。それは、彼がイエス様を慕っていたから。ただそれだけだ。
彼は失敗する度に、イエス様に探しだされ、肩に背負われ、戻され、ケアされ、癒されて来た。私達もイエス様に従って行き、養われ続けるなら、やがて彼の羊を飼う者となり、その毎日を繰り返して行く内に、使徒ペテロのようになって行く。イエス様こそ、まことの羊飼い。ジェホバ・ロフェ、彼は癒やし主。「あなたは、わたしに従ってきなさい」。主のこの言葉に従って、イエス様の道に歩んでいく皆さんでありますように!
主の目にかなう事を行ったヒゼキヤ(2列王記18:1-12)
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18:11 アッスリヤの王はイスラエルの人々をアッスリヤに捕えていって、ハラと、ゴザンの川ハボルのほとりと、メデアの町々に置いた。
18:12 これは彼らがその神、主の言葉にしたがわず、その契約を破り、主のしもべモーセの命じたすべての事に耳を傾けず、また行わなかったからである。
北イスラエル王国は滅ぼされてしまった。その理由はまさに、この12節にあるとおり、彼らがその神、主の言葉にしたがわず、その契約を破り、主のしもべモーセの命じたすべての事に耳を傾けず、また行わなかったからである。
しかし、南ユダ王国はなお存続し、その歴史はまだ続く。
18:1 イスラエルの王エラの子ホセアの第三年にユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。
18:2 彼は王となった時二十五歳で、エルサレムで二十九年の間、世を治めた。その母はゼカリヤの娘で、名をアビといった。
18:3 ヒゼキヤはすべて先祖ダビデがおこなったように主の目にかなう事を行い、
ヒゼキヤ王の父アハズは主の宮を閉ざし、宮の庭に異邦の祭壇を立て、人々から礼拝を遠ざけるという悪を行ったが、ヒゼキヤは王になると同時に、宗教改革を行った。その様子は、第二歴代誌では、29章から31章に渡って、詳細に記されている。
2歴代誌29:3 彼はその治世の第一年の一月に主の宮の戸を開き、かつこれを繕った。
彼は、王座に着くなり、真っ先に行った事は、主の宮を開いた事だった。
彼は、主のための働き人であるレビ人を集めて、宮きよめを命令する。
29:5 彼らに言った、「レビびとよ、聞きなさい。あなたがたは今、身を清めて、あなたがたの先祖の神、主の宮を清め、聖所から汚れを除き去りなさい。
ヒゼキヤはさらに、父祖の罪を告白する。
29:6 われわれの先祖は罪を犯し、われわれの神、主の悪と見られることを行って、主を捨て、主のすまいに顔をそむけ、うしろを向けた。
29:7 また廊の戸を閉じ、ともしびを消し、聖所でイスラエルの神に香をたかず、燔祭をささげなかった。
29:8 それゆえ、主の怒りはユダとエルサレムに臨み、あなたがたが目に見るように、主は彼らを恐れと驚きと物笑いにされた。
7節を見ると、父祖たちの罪が記されている。
すなわち彼らは、礼拝の道を閉ざし、主を迎えるためのともしびを消し、「祈り」という香を捧げる事をやめさせ、燔祭という「捧げ物」を捧げる事をやめさせた。
すると主の怒りが彼らに望んで、彼らは人々の間で、恐れと、驚きと、物笑いにされてしまう。
現代の我々も同じである。もし主を敬うべきクリスチャンが、主への礼拝の道を閉じたり、主を迎える志を閉ざし、祈りを止め、主に捧げる事を止めるなら、その人は、人々の間で、恐れと、驚きと、物笑いにされてしまう。
18:4 高き所を除き、石柱をこわし、アシラ像を切り倒し、モーセの造った青銅のへびを打ち砕いた。イスラエルの人々はこの時までそのへびに向かって香をたいていたからである。人々はこれをネホシタンと呼んだ。
ヒゼキヤは先祖たちがして来なかったことをした。それは、高き所を除く事である。今まで主の目にかなう王は何度か出たが、高き所を除く事はして来なかった。しかし、ヒゼキヤはその点、徹底した。
それも、モーセが造った青銅のへびを砕くほど徹底していた。
モーセの時代、毒蛇にかまれた人々は、この青銅のへびを仰ぎ見て救われた。これは主の恵みを思い返す記念品として残しておいたはずが、いつのまにか礼拝する対象になってしまっていた。モーセの造った「もの」が、逆に、人々からモーセの律法から離れさせるものになったのだ。それで彼は、それを打ち砕いた。
果たして彼は、それによって呪いを受けたのだろうか?真逆である。
18:5 ヒゼキヤはイスラエルの神、主に信頼した。そのために彼のあとにも彼の先にも、ユダのすべての王のうちに彼に及ぶ者はなかった。
18:6 すなわち彼は固く主に従って離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。
18:7 主が彼と共におられたので、すべて彼が出て戦うところで功をあらわした。彼はアッスリヤの王にそむいて、彼に仕えなかった。
18:8 彼はペリシテびとを撃ち敗って、ガザとその領域にまで達し、見張台から堅固な町にまで及んだ。
主を畏れ敬い、御言葉どおり守り行おうと徹底する人は、確かに、祝福を受ける。
彼はさらに、途絶えていた賛美を回復させ(2歴代誌29:25-30)、人々に主に捧げる事を励行し(2歴代誌29:31-35)、その結果、主がそれらを速やかに為させ成功させて下さったゆえに、大きな喜びが沸き起こった。(2歴代誌29:36)
彼はさらに、過越祭りを回復させた。
このように彼は、主に対する熱心のゆえに、良い王として記録された。
預言者は自分の郷里では歓迎されにくい(ルカ4:16-30)
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- pastor 2017-4-27 23:20
二人の主人に仕えようとして災いに遭ってしまったサマリヤ人(2列王記17:24-41)
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- pastor 2017-4-27 15:00
二人の主人に仕えようとして災いに遭ってしまったサマリヤ人(2列王記17:24-41)
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17:24 かくてアッスリヤの王はバビロン、クタ、アワ、ハマテおよびセパルワイムから人々をつれてきて、これをイスラエルの人々の代りにサマリヤの町々におらせたので、その人々はサマリヤを領有して、その町々に住んだ。
北イスラエル王国は、ただ戦争に負けたのではない。負けたのみならず、故郷の地を追い出され、遠い異国へと捕囚の民として連れて行かれたのだ。
なぜそこまで徹底して打ち負かされたのか。それは、神が許されたからである。
アッシリヤの神のほうがイスラエルの神よりも強いのではない。元々、主の他に神々はいない。
ただ、神が許可されたから、アッシリヤは大国となり、イスラエルに勝利する事が出来たのだ。
その証拠に、次の出来事が起きる。
17:25 彼らがそこに住み始めた時、主を敬うことをしなかったので、主は彼らのうちにししを送り、ししは彼らのうちの数人を殺した。
17:26 そこで人々はアッスリヤの王に告げて言った、「あなたが移してサマリヤの町々におらせられたあの国々の民は、その地の神のおきてを知らないゆえに、その神は彼らのうちにししを送り、ししは彼らを殺した。これは彼らが、その地の神のおきてを知らないためです」。
サマリヤに入植した人達は、ライオンがこの国に送られたのは、イスラエルの神である、と、明らかに分かったのだ。
それだからこそ、彼らは本国アッシリヤに「ライオンを掃討する軍隊を送って下さい」ではなく「その地の神のおきてを知らないゆえに、その神は彼らのうちにししを送り、ししは彼らを殺した」と報告したのだ。
17:27 アッスリヤの王は命じて言った、「あなたがたがあそこから移した祭司のひとりをあそこへ連れて行きなさい。彼をあそこへやって住まわせ、その国の神のおきてをその人々に教えさせなさい」。
17:28 そこでサマリヤから移された祭司のひとりが来てベテルに住み、どのように主を敬うべきかを彼らに教えた。
アッシリヤの王は、事態を重く見て、これは神の問題だから、神の祭司を送って、神を畏れ敬う事を教えさせよう、と、対応策を取った。
主を「礼拝」する事よりも、主を「恐れる」事のほうが、重要である。
なぜなら、主を恐れる心なく形式だけの礼拝をする者と、主を礼拝できなくても主を恐れる心を持つ者と、主がどちらを守られるかというと、後者のほうだからだ。
しかし、サマリヤに入植した人々は、主を畏れ敬う心は育たなかった。以下に記されている通りである。
17:29 しかしその民はおのおの自分の神々を造って、それをサマリヤびとが造った高き所の家に安置した。民は皆住んでいる町々でそのようにおこなった。
17:30 すなわちバビロンの人々はスコテ・ベノテを造り、クタの人々はネルガルを造り、ハマテの人々はアシマを造り、
17:31 アワの人々はニブハズとタルタクを造り、セパルワイムびとはその子を火に焼いて、セパルワイムの神アデランメレクおよびアナンメレクにささげた。
17:32 彼はまた主を敬い、自分たちのうちから一般の民を立てて高き所の祭司としたので、その人々は高き所の家で勤めをした。
17:33 このように彼らは主を敬ったが、また彼らが出てきた国々のならわしにしたがって、自分たちの神々にも仕えた。
主を敬うが、それと同時に、自前の神々にも仕える。
サマリヤにおいては、この習慣がイエス様の時代に至るまでもずっと続けられたが故に、イエス様の時代、サマリヤ人は蔑まれるべき者達としてユダヤの人々から見られていたのだ。
イエス様も言われた。
ルカ16:13 どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。
17:34 今日に至るまで彼らは先のならわしにしたがっておこなっている。彼らは主を敬わず、また主がイスラエルと名づけられたヤコブの子孫に命じられた定めにも、おきてにも、律法にも、戒めにも従わない。
17:35 主はかつて彼らと契約を結び、彼らに命じて言われた、「あなたがたは他の神々を敬ってはならない。また彼らを拝み、彼らに仕え、彼らに犠牲をささげてはならない。
17:36 ただ大きな力と伸べた腕とをもって、あなたがたをエジプトの地から導き上った主をのみ敬い、これを拝み、これに犠牲をささげなければならない。
奴隷の国エジプトから開放したのは、イスラエルの神、主である。そのお方を差し置いて別の神々も拝む事は、霊的姦淫である。
浮気する者を浮気された人が許さないように、神も、そのような事をする者は許さない。
17:40 しかし彼らは聞きいれず、かえって先のならわしにしたがっておこなった。
17:41 このように、これらの民は主を敬い、またその刻んだ像にも仕えたが、その子たちも、孫たちも同様であって、彼らはその先祖がおこなったように今日までおこなっている。
今日とは、この列王記が書き終わったバビロン捕囚の時代に至るまで、のみならず、イエス様の時代に至るまで、ずっとそれを続けてきた。
サマリヤに入植した人々は、「その先祖が」おこなったように、今日までおこなっている。
「その先祖」とは、アッシリヤ捕囚時代前の、北イスラエル王国の人々だ。
彼らはまさに、北イスラエル王国が発足したヤロブアム王の時代以降、神である主を礼拝するのと同時に、他の神々を拝んで来た。
そのような事を行い続けて行くなら、滅びが待ち受けている。
ホセア10:1 イスラエルは実を結ぶ茂った/ぶどうの木である。その実を多く結ぶにしたがって、祭壇を増し、その地の豊かなるにしたがって、柱の像を麗しくした。
10:2 彼らの心は偽りである。今、彼らはその罪を負わなければならない。主はその祭壇をこわし、その柱の像を砕かれる。
10:3 今、彼らは言う、「われわれは主を恐れないので、われわれには王がない。王はわれわれのために何をなしえようか」と。
10:4 彼らはむなしき言葉をいだし、偽りの誓いをもって契約を結ぶ。それゆえ、さばきは畑のうねの毒草のように現れる。
イスラエルは栄えるにつれて、傲慢になり、神でないものを神とし、警告を受けてもそれに従わず、かえって自分の道を貫いた。
それで神の裁きが彼らに追いついてしまい、アッシリヤによって散り散りにされてしまった。
私達は、主の御言葉から右にも左にもそれず、昼も夜も御言葉を口ずさみ、ヨシュアのように、またダビデのように、祝福の王道を歩む物でありたい。
詩篇1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
ついに滅亡に追いつかれてしまった北イスラエル王国(2列王記17:1-23)
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- pastor 2017-4-26 7:11
ついに滅亡に追いつかれてしまった北イスラエル王国(2列王記17:1-23)
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今回の箇所でいよいよ北イスラエル王国は滅亡し、人々はアッシリヤへ連行されて行く。
17:1 ユダの王アハズの第十二年にエラの子ホセアが王となり、サマリヤで九年の間、イスラエルを治めた。
17:2 彼は主の目の前に悪を行ったが、彼以前のイスラエルの王たちのようではなかった。
17:3 アッスリヤの王シャルマネセルが攻め上ったので、ホセアは彼に隷属して、みつぎを納めたが、
17:4 アッスリヤの王はホセアがついに自分にそむいたのを知った。それはホセアが使者をエジプトの王ソにつかわし、また年々納めていたみつぎを、アッスリヤの王に納めなかったからである。そこでアッスリヤの王は彼を監禁し、獄屋につないだ。
17:5 そしてアッスリヤの王は攻め上って国中を侵し、サマリヤに上ってきて三年の間、これを攻め囲んだ。
17:6 ホセアの第九年になって、アッスリヤの王はついにサマリヤを取り、イスラエルの人々をアッスリヤに捕えていって、ハラと、ゴザンの川ハボルのほとりと、メデアの町々においた。
ホセアは北イスラエル王国最後の王となった。
彼は大国アッシリヤが攻めてきた時、表向きは従うそぶりを見せても、心の内はそうではなかった。
それに気づかれて、彼は逮捕され、彼らが本拠地としていたサマリヤは包囲され、占領され、そしてイスラエル民族はアッシリヤに連行され、今なお彼らがどこへ行ってしまったのか、その捜索がユダヤ人によって続けられている。
どうしてこのような事が起きてしまったのか。その理由が続く節に書いてある。
17:7 この事が起ったのは、イスラエルの人々が、自分たちをエジプトの地から導き上って、エジプトの王パロの手をのがれさせられたその神、主にむかって罪を犯し、他の神々を敬い、
17:8 主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人のならわしに従って歩み、またイスラエルの王たちが定めたならわしに従って歩んだからである。
まず真っ先に記された理由は、イスラエルの神である主、すなわたエジプトという奴隷を強要させ続けてきた国から導きのぼり自由にして下さった主を捨て、軽んじるという「恩知らず」という罪に始まり、他の神々を敬い、異邦人のならわしに従って歩んだからである。
私達も主に、悪魔サタンから、罪と死という奴隷状態を強要する者から救っていただいた。それも、御子キリストが私達に代わって、あのむごい十字架につけられる事によって。
そこまでして私達を救って下さった主を軽んじるという事を続けるなら、どれ程恐ろしい災いを招く事だろうか。
また、主から示された御言葉に従う神の子としての歩みを捨てて、世のならわしに従う事も、主に忌み嫌われる事である。
17:9 イスラエルの人々はその神、主にむかって正しからぬ事をひそかに行い、見張台から堅固な町に至るまで、すべての町々に高き所を建て、
17:10 またすべての高い丘の上、すべての青木の下に石の柱とアシラ像を立て、
17:11 主が彼らの前から捕え移された異邦人がしたように、すべての高き所で香をたき、悪事を行って、主を怒らせた。
17:12 また主が彼らに「あなたがたはこの事をしてはならない」と言われたのに偶像に仕えた。
偶像礼拝、それは十戒の第二戒にある程に重要な禁止事項である。
偶像、それは何も神社仏閣に限るものではない。偶像礼拝とは、神でないものを、神以上に、神とする事だ。つまり神よりもお金や特定の人、特定のイデオロギーなどを優先するとするなら、それが偶像礼拝である。
コロサイ3:5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
2列王記17:13 主はすべての預言者、すべての先見者によってイスラエルとユダを戒め、「翻って、あなたがたの悪い道を離れ、わたしがあなたがたの先祖たちに命じ、またわたしのしもべである預言者たちによってあなたがたに伝えたすべての律法のとおりに、わたしの戒めと定めとを守れ」と仰せられたが、
17:14 彼らは聞きいれず、彼らの先祖たちがその神、主を信じないで、強情であったように、彼らは強情であった。
この「強情である」は直訳するなら「うなじのこわい(KJV: hardened their necks)」、首がまがらない、すなわち、自分の思いや願い、自分の道を頑として変えない性質である。
すなわち、主から「道を変えなさい」「悔い改めなさい」という言葉を、預言者を通して語っておられるのに、それを無視し、あくまでわが道を変えない性質である。
預言者、すなわち御言葉を通して主の御旨を教え、戒めてくれる人を軽んじる者は、主を軽んじる事である。
17:15 そして彼らは主の定めを捨て、主が彼らの先祖たちと結ばれた契約を破り、また彼らに与えられた警告を軽んじ、かつむなしい偶像に従ってむなしくなり、また周囲の異邦人に従った。これは主が、彼らのようにおこなってはならないと彼らに命じられたものである。
主の御言葉は、むなしいものの真逆、真理なるものであり、尊い、聖なる、永遠のものである。だから、御言葉に親しく歩むなら、聖なる、尊い、永遠のものへと造り変えられて行く。
しかしもし、むなしいものを求め、それに親しく歩むとするなら、その者本人がむなしい者へとなってしまい、やがては消えてなくなる者になってしまう。
17:16 彼らはその神、主のすべての戒めを捨て、自分のために二つの子牛の像を鋳て造り、またアシラ像を造り、天の万象を拝み、かつバアルに仕え、
17:17 またそのむすこ、娘を火に焼いてささげ物とし、占いおよびまじないをなし、主の目の前に悪をおこなうことに身をゆだねて、主を怒らせた。
17:18 それゆえ、主は大いにイスラエルを怒り、彼らをみ前から除かれたので、ユダの部族のほか残った者はなかった。
彼らは神に捧げるという名目で、自分の息子や娘を火に焼く事さえした。なんのためか。それは結局、自分の欲望のためである。
自分の願望を叶えたいから、あるいは欲望を満たしたいから、自分の子を犠牲にし、占いをし、まじないをし、悪に身を委ねる。それは現代でも文明国と言われている日本でも行われているのではなかろうか。
そのような事は、主の怒りを引き起こしてしまう。
17:19 ところがユダもまたその神、主の戒めを守らず、イスラエルが定めたならわしに歩んだので、
17:20 主はイスラエルの子孫をことごとく捨て、彼らを苦しめ、彼らを略奪者の手にわたして、ついに彼らをみ前から打ちすてられた。
17:21 主はイスラエルをダビデの家から裂き離されたので、イスラエルはネバテの子ヤラベアムを王としたが、ヤラベアムはイスラエルに、主に従うことをやめさせ、大きな罪を犯させた。
17:22 イスラエルの人々がヤラベアムのおこなったすべての罪をおこない続けて、それを離れなかったので、
17:23 ついに主はそのしもべである預言者たちによって言われたように、イスラエルをみ前から除き去られた。こうしてイスラエルは自分の国からアッスリヤに移されて今日に至っている。
主は、すぐに滅ぼされたのではない。何百年も忍耐して待たれたのだ。
ヤロブアムが即位したのがBC931年、サマリヤ陥落したのがBC721年、実に200年以上も、北イスラエル王国に対して忍耐し、何度も預言者を送って立ち返らせようとしたが、結局北イスラエル王国からは一人も主に従う良い王が出たためしはなく、ついに憐れみの期間を使い果たし、滅ぼされ、ばらばらにされ、彼らがどこに行ってしまったのかわからないまま、21世紀の今日に至っているのだ。
主は、誰一人滅びる事を願ってはおられない。だから救いの手を差し伸ばしてくださった。
しかしもしその救いの手を跳ね除けるとするなら、救いようがない。
人は、自由意志によって滅びへの道を行ってしまった。だから、救いも、自由意志によるからだ。
エゼキエル18:30 それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたを、おのおのそのおこないに従ってさばくと、主なる神は言われる。悔い改めて、あなたがたのすべてのとがを離れよ。さもないと悪はあなたがたを滅ぼす。
18:31 あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。
ここに、新しい心と、新しい霊を得るコツが書かれてある。
それは順番に見ていくなら、まず悔い改める事、とがを離れ、主に対して行った全てのとがを捨て去る事。
それでこそ、新しい心、新しい霊が与えられる。
人の心は倉のようなもので、キャパシティがある。だからまず、心の倉からむなしいものを投げ捨てなければ、新しい心が入りようがない。
18:32 わたしは何人の死をも喜ばないのであると、主なる神は言われる。それゆえ、あなたがたは翻って生きよ」。
主は、誰も滅びる事を望んでおられない。それで200年以上も待たれた。
今は恵みの時、主に立ち返るべき時である。この時を軽んじる事なく、御言葉に聞き従い、それを守り行う事によって、何をしても栄える道、祝福の道を右にも左にもそれずに歩んでいく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福します!
主から離れるなら祝福からも離れてしまう(2列王記16:10-20)
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アハズ王は、神である主を捨てて、異邦の神々を拝み、しかも自分の子を火にくぐらせる事までした故に、懲らしめの杖として、主はアラムの王レツィンとイスラエルの王ペカの連合軍を備え、南ユダ王国に手ひどく損害を与えられた。
しかしその中でも主は憐れみ、エルサレムは占領される事なく、また、北イスラエル王国に連れ去られてしまった20万の捕虜は、奴隷にされる事を免れ、返してもらう事が出来た。それは、北イスラエル王国が主の預言者の言葉に従ったからだ。
このように主に良くしていただいたにもかかわらず、アハズ王は主に立ち返るという事をしなかった。
16:10 アハズ王はアッスリヤの王テグラテピレセルに会おうとダマスコへ行ったが、ダマスコにある祭壇を見たので、アハズ王はその祭壇の作りにしたがって、その詳しい図面と、ひな型とを作って、祭司ウリヤに送った。
16:11 そこで祭司ウリヤはアハズ王がダマスコから送ったものにしたがって祭壇を建てた。すなわち祭司ウリヤはアハズ王がダマスコから帰るまでにそのとおりに作った。
彼はアッシリヤに助けを求めた。アッシリヤが強国だったからである。しかし、アッシリヤの暴力的な強制力により頼むなら、暴力的な強制力によって悩まされる事になる。
2歴代誌28:20 アッスリヤの王テルガデ・ピルネセルは彼の所に来たが、彼に力を添えないで、かえって彼を悩ました。
28:21 アハズは主の宮と王の家、およびつかさたちの家の物を取ってアッスリヤの王に与えたが、それはアハズの助けにはならなかった。
アハズ王はなぜ、ダマスコにある祭壇をイスラエルにも建てるような事をしたのか。
第二歴代誌のほうに、その動機が記されている。
2歴代誌28:22 このアハズ王はその悩みの時にあたって、ますます主に罪を犯した。
28:23 すなわち、彼は自分を撃ったダマスコの神々に、犠牲をささげて言った、「スリヤの王たちの神々はその王たちを助けるから、わたしもそれに犠牲をささげよう。そうすれば彼らはわたしを助けるであろう」と。しかし、彼らはかえってアハズとイスラエル全国とを倒す者となった。
つまりアハズは、彼を助けて下さった主に対する忠誠は一切なく、ただ、自分を救ってくれるなら神は誰でも良く、また、神は幾つでも良かったのだ。
2列王記16:12 王はダマスコから帰ってきて、その祭壇を見、祭壇に近づいてその上に登り、
16:13 燔祭と素祭を焼き、灌祭を注ぎ、酬恩祭の血を祭壇にそそぎかけた。
行いだけを見る、一見、律法で定められた礼拝を守っているかのように見えるが、捧げる相手が違う。
形式がどんなに立派であっても、肝心の「礼拝の対象」が違っていたら、それは主へ怒りを積み上げる反逆行為でしかない。
彼はさらに、元々主によって定められていた神殿の庭の配置を、また代々行われてきた礼拝形式を、変えてしまう。
16:14 彼はまた主の前にあった青銅の祭壇を宮の前から移した。すなわちそれを新しい祭壇と主の宮の間から移して、新しい祭壇の北の方にすえた。
16:15 そしてアハズ王は祭司ウリヤに命じて言った、「朝の燔祭と夕の素祭および王の燔祭とその素祭、ならびに国中の民の燔祭とその素祭および灌祭は、この大きな祭壇の上で焼きなさい。また燔祭の血と犠牲の血はすべてこれにそそぎかけなさい。あの青銅の祭壇をわたしは伺いを立てるのに用いよう」。
アハズは自分でこしらえさせた祭壇を「この大きな祭壇(KJV: great alter)」と呼び、元々、主に捧げ物を捧げるべき祭壇を、脇へ押しのけてしまった。
こうして、人々から礼拝を取り上げてしまった。
16:16 祭司ウリヤはアハズ王がすべて命じたとおりにおこなった。
祭司ウリヤは王の主に対する背信の罪を指摘するのでなく、かえってそれを助けた。王から祭司から腐敗していた時代である。
16:17 またアハズ王は台の鏡板を切り取って、洗盤をその上から移し、また海をその下にある青銅の牛の上からおろして、石の座の上にすえ、
16:18 また宮のうちに造られていた安息日用のおおいのある道、および王の用いる外の入口をアッスリヤの王のために主の宮から除いた。
これは、アッシリヤに媚びるためであった。しかしアッシリヤはイスラエルに何もしなかったどころか、かえってイスラエルを悩ました。
イスラエルが神殿の尊い金属を取ってアッシリヤに貢いだら、アッシリヤは「こいつは絞ればもっと絞れる」と見做して、もっと締め付けを強くしたのだ。
それが、主に頼まずに、世の力、強力な者にたよろうとする者の道である。
しかし主により頼む人は、そのような暴力とは無縁であり、恵みと祝福に満ち溢れる。
愛の帯で捕らえて下さるイエス様(ヨハネ21:1-14)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
私達の主イエス様は、死に勝利し復活された。弟子達は、主が3日目によみがえる事を信じる事ができなかったし、忘れていてしまった。復活した後も、復活の主と出会った女達の言葉を信じなかった。そんな彼らにイエス様は直接現れ、「平安あれ(ヘ:シャローム)」と言って、聖霊の息をふきかけて下さった。
その上でもなお、後退してしまう弟子達の様子が本日の箇所に記されている。
『シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。』
ペテロは漁に「行く」と言ったが、その原語は「フパゴー」、戻る、離脱する、retire、depart,等の意味もある。
彼はせっかくイエス様から聖霊を受け、働き人としての任命を受けたのに、そこから離れ、以前の仕事である「漁」に戻る、と、他の弟子達に告げ、そして他の弟子達も彼に追随したのだ。しかし、何も獲れない。
ペテロは漁師としての経験から「夜」に行ったのに、一匹も獲れなかった。プロが自分の経験と技量を駆使して、何も出来ないのもまた、奇跡である。
奇跡とは何も、自分の願う方向性で起きるとは限らない。自分が願った事の真逆方向に続く奇跡もある。
このような「望ましくない奇跡」は、主の御旨とは逆方向を願って進んで行く場合に、よく起きてしまうものだ。
それでもギブアップせず、なおも主の御旨でない方向に突き進んで行くなら、もっと何も獲れず、空腹で疲れて果てて行く泥沼にはまり込んでしまう。イエス様は、そんな泥沼の中で奮闘している者に、優しく現れて下さった。夜が明けた頃、イエス様は岸辺に立たれた。しかし弟子達はそれがイエス様だとわからない。
『イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。』(5節)
原文では、ここのイエス様の問いかけは「**が無いのだろう?」と、「無い」事前提の問いをしている。
弟子達は「無い」と答えるしか無かった。それはそうだ。なにしろ、魚も湖も全主権をもって支配しておられるのはイエス様であり、彼の御旨でない「網投げ」に対しては100%何も獲れないという奇跡で答えられる。
『すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。』(6節)
彼らは、お言葉どおり従ったら、逆転の奇跡が起きた。それもそうなのだ。主のしもべという者は、御旨でない事を続けるならただ「虚しい奇跡」しか起きないが、御言葉に従うなら、豊かな実りある奇跡が起きるのだ。
ヨハネは、そのイエス様のご性質を思い出し、『ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ(直訳:自らを海に投げた)。』(7節)
ペテロは、裸だった。せっかくイエス様が、人間をとる漁師という「使命の衣」を着させ、「聖霊の帯」で結びつけて下さったのに(20章)、それを脱ぎ捨て、「魚をとる漁師」という以前の自分に戻り、他の弟子達をも世の仕事に導き、世の苦労をさせ、裸で自分の意見に従わせ、ただ疲れ果てるだけで、何も取れない。
もし私達も、イエス様から与えられた聖霊の帯を自ら解いて裸で立ち振る舞っていたと気づいたなら、ペテロのように再び纏って、古い自分を水の中へと投げ込んで、イエス様のほうへと泳いで行くのみである。
『彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」』(9-10) これがイエス様の麗しい性質である。
彼は、くすぶる灯芯を消す事なく、傷んだ葦を折る事もなく、強制力によって人を支配するのでなく、愛、憐れみ、赦しによって、優雅に、美しく、柔和に、頑なな人の心を溶かし、群れの模範として行動して下さる。
このご性質が、ペテロを変えて行く。ペテロは生涯の最後、迫害されている聖徒達を励ますために、ローマの牢獄へと進み出て、捕らえられている聖徒達を励ましつつ、逆十字架刑で殉教したと言われている。
その殉教の直前に書かれたのが、ペテロの手紙である。彼は書いている。
『あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい。しいられてするのではなく、神に従って自ら進んでなし、恥ずべき利得のためではなく、本心から、それをしなさい。また、ゆだねられた者たちの上に権力をふるうことをしないで、むしろ、群れの模範となるべきである。そうすれば、大牧者が現れる時には、しぼむことのない栄光の冠を受けるであろう。』(1ペテロ5:2-4) 以前は全く御言葉を信ぜず、従えず、幾度も失敗したペテロが、徹底的なキリストの愛によって造り変えられ、群れの模範となり、大使徒となった。
ペテロのようにイエス様の愛のご性質に浸し込まれ、ますます造り変えられて行く皆さんでありますように!