メッセージ - 201801のエントリ
ダビデ・ソロモンの蓄えた富をわずか5年で台無しにしてしまったレハブアム(2歴代誌12章)
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- pastor 2018-1-5 7:01
わずか5年でダビデ・ソロモンの蓄えた富を台無しにしてしまったレハブアム(2歴代誌12章)
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レハブアムは主の御声に従い、3年間、主に従い祝福されたが、4年目以降、そうでなかった。
2歴代誌12:1 レハベアムはその国が堅く立ち、強くなるに及んで、主のおきてを捨てた。イスラエルも皆彼にならった。
12:2 彼らがこのように主に向かって罪を犯したので、レハベアム王の五年にエジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上ってきた。
「主に向かって罪を犯した(マアール)」、このマアールの元々の意味は「覆いかぶせる」、主な意味は、罪だと知りながらにして罪を犯す、である。覆い隠しは、それが罪だと「知って」いないならしない行為ょある。
レハブアムは、罪だと知りながらにして犯した。それに対する主の側の回答は「災い」という形で早く訪れた。
12:3 その戦車は一千二百、騎兵は六万、また彼に従ってエジプトから来た民、すなわちリビアびと、スキびと、エチオピヤびとは無数であった。
12:4 シシャクはユダの要害の町々を取り、エルサレムに迫って来た。
前回の箇所でせっかくレハブアムが固めた防備の町々は、いともあっさりと攻め落とされ、しかもエルサレムという堅固な町までも迫って来られてしまった。
神の民は、兵器や力を蓄える事には、救いは無い。主に従う事こそ、最も堅固な防備となるのだ。
詩篇127:1 主が家を建てられるのでなければ、建てる者の勤労はむなしい。主が町を守られるのでなければ、守る者のさめているのはむなしい。
127:2 あなたがたが早く起き、おそく休み、辛苦のかてを食べることは、むなしいことである。主はその愛する者に、眠っている時にも、なくてならぬものを与えられるからである。
12:5 そこで預言者シマヤは、レハベアムおよびシシャクのゆえに、エルサレムに集まったユダのつかさたちのもとにきて言った、「主はこう仰せられる、『あなたがたはわたしを捨てたので、わたしもあなたがたを捨ててシシャクにわたした』と」。
12:6 そこでイスラエルのつかさたち、および王はへりくだって、「主は正しい」と言った。
自らの罪ゆえに災いを被った時、最も賢明な対応は、主の前にへりくだる事、悔い改める事である。
彼は、それをした。
それに対する主の側の回答もまた、早い。
12:7 主は彼らのへりくだるのを見られたので、主の言葉がシマヤにのぞんで言った、「彼らがへりくだったから、わたしは彼らを滅ぼさないで、間もなく救を施す。わたしはシシャクの手によって、怒りをエルサレムに注ぐことをしない。
12:8 しかし彼らはシシャクのしもべになる。これは彼らがわたしに仕えることと、国々の王たちに仕えることとの相違を知るためである」。
人は、主の前に悔い改めて立ち返るなら、確かに主はその罪を赦してくださるが、その、本人が犯した罪の刈り取りは本人自身がしなくてはならない。
それも、主に仕える事と、人間の王に仕える事との違いを、思い知るためである。
12:9 エジプトの王シシャクはエルサレムに攻めのぼって、主の宮の宝物と、王の家の宝物とを奪い去った。すなわちそれらをことごとく奪い去り、またソロモンの造った金の盾をも奪い去った。
12:10 それでレハベアム王は、その代りに青銅の盾を造って、王の家の門を守る侍衛長たちの手に渡した。
12:11 王が主の宮にはいるごとに侍衛は来て、これを負い、またこれを侍衛のへやへ持って帰った。
こうして、ソロモンがせっかく南方貿易をして、年月と多くの苦労をして蓄えた多くの金は、わずか5年にしてあっさりエジプトに奪い去られてしまった。
12:12 レハベアムがへりくだったので主の怒りは彼を離れ、彼をことごとく滅ぼそうとはされなかった。またユダの事情もよくなった。
12:13 レハベアム王はエルサレムで自分の地位を確立し、世を治めた。すなわちレハベアムは四十一歳のとき位につき、十七年の間エルサレムで世を治めた。エルサレムは主がその名を置くためにイスラエルのすべての部族のうちから選ばれた町である。彼の母はアンモンの女で、名をナアマといった。
レハブアムの母は、アンモン人である、と記されている。
ソロモンがイスラエルで王であった期間は四十年、その子レハブアムは四十一歳で王になった、という事は、ソロモンは王になって間もない時期にアモン人の妻をめとり、レハブアムが産まれたという事であろう。もしかすると、長男だったのかもしれない。
しかし、アモン人は主の集会に加わってはならない、と定められている。(申命記23:3)
ダビデの曾祖母はモアブ人ルツだったが、それとは全く趣きが違う。ルツはイスラエルの神、主を自分の神として、何もかも捨ててイスラエルに来たのだが、ソロモンは、ただ女を快楽の対象として、信仰の動機は一切なかった。
どうして、よりによって、アモン人との間に生まれた者を、王として継がせなくてはならなかったったのか、それは書いていないが、ソロモンが「わなのような女は死よりも苦い」(伝道者の書7:26)事を書いており、また、自分の財産を後に来る者に継がせなくてはならない事を絶望している(伝道者の書2:18-21)事からすると、もしかしたら彼は、アモン人の女に何かしらの形で心縛られ、その子供に王権を継がせなくてはならなくなってしまったのかもしれない。
ソロモン自身、異邦の女について、以下のように箴言で勧告している。
箴言5:3 遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。
5:4 しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。
5:5 その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく。
5:6 彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。
5:7 子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。
5:8 あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。
5:9 おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。
5:10 おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。
5:11 そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、
5:12 言うであろう、「わたしは教訓をいとい、心に戒めを軽んじ、
5:13 教師の声に聞き従わず、わたしを教える者に耳を傾けず、
5:14 集まりの中、会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」と。
皮肉にもソロモンは、まさに、この箴言の通りになってしまった。
12:14 レハベアムは主を求めることに心を傾けないで、悪い事を行った。
12:15 レハベアムの始終の行為は、預言者シマヤおよび先見者イドの書にしるされているではないか。レハベアムとヤラベアムとの間には絶えず戦争があった。
12:16 レハベアムはその先祖たちと共に眠って、ダビデの町に葬られ、その子アビヤが彼に代って王となった。
レハブアムは、ダビデの孫である。
ダビデからわずか3代目で、こんなにも早く、こんなにも落ちぶれてしまうものか、と思うかもしれない。
そうである。
親がいかに、信仰において優れていても、その子が主を敬わず、主の忌み嫌われる事を続けるなら、あっという間にその人の財は奪われ、落ちぶれてしまうのだ。
だから、御言葉教育が大事なのである。
いかにダビデのような信仰者であれ、御言葉教育をしないと、たった3代で一族が落ちぶれてしまうのは、現代のクリスチャン界を見れば一目瞭然である。
主は、子供に御言葉教育を伝授して行く事を命じておられる。
『努めてこれをあなたの子らに教え(シャナン:シャープにする、研ぎ石などで鋭くする、コツコツと刺激を与える)、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない(ダバール:論じ合う)。またあなたはこれをあなたの手につけて(カシャール、結合、連盟、同盟する)印とし、あなたの目の間に置いて(ハヤー)覚えとし』(申命記6:7-8)
主の御旨は、神のいのちを持った神の子が、生んで増えて満ちて行く事である。だからこれらの事を命じられたのだ。
こうしていつも御言葉に浸され、馴染んでいる内に、御言葉と一体化して行く事で、天地を創造した神の言葉による再創造が、その人の中に構築されて生き、神のかたちが出来上がっていくのだ。
主に聞き従ったレハブアムの統治の初期(2歴代誌11章)
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2歴代誌11:1 レハベアムはエルサレムに来て、ユダとベニヤミンの家の者、すなわち、えり抜きの軍人十八万人を集め、国を取りもどすためにイスラエルと戦おうとしたが、
レハブアムは、新しく王となった時、荒々しく威張り散らした故に、人々から見限られ、イスラエル10部族が、彼の元を離れて行ってしまったが、それに対して取った行動は、軍隊を招集して、離れて行った彼らを、さらに強制力をもって従えようとした事だった。
それは、神の民がする事ではない。愛なる神は、愛をもって人を従えようとされる。
主は彼の行動にストップをかける。
11:2 主の言葉が神の人シマヤに臨んで言った、
11:3 「ソロモンの子、ユダの王レハベアムおよびユダとベニヤミンにいるすべてのイスラエルの人々に言いなさい、
11:4 『主はこう仰せられる、あなたがたは上ってはならない。あなたがたの兄弟と戦ってはならない。おのおの自分の家に帰りなさい。この事はわたしから出たのである』」。それで人々は主の言葉を聞き、ヤラベアムを攻めに行くのをやめて帰った。
レハブアムは、この時、預言者を通した主の御言葉に従った。
動き出した18万の軍隊を途中で止め、それぞれ帰らせるのは並々ならない事だ。
その、主の御言葉に従った事によって、彼は祝福を受ける。
11:5 レハベアムはエルサレムに住んで、ユダに防衛の町々を建てた。
11:6 すなわちベツレヘム、エタム、テコア、
11:7 ベテズル、ソコ、アドラム、
11:8 ガテ、マレシャ、ジフ、
11:9 アドライム、ラキシ、アゼカ、
11:10 ゾラ、アヤロン、およびヘブロン。これらはユダとベニヤミンにあって要害の町々である。
11:11 彼はその要害を堅固にし、これに軍長を置き、糧食と油とぶどう酒をたくわえ、
11:12 またそのすべての町に盾とやりを備えて、これを非常に強化し、そしてユダとベニヤミンを確保した。
これらの町々は北との境目付近ではないので、国全体を引き締める効果があっただろう。
こうして軍事面においては強固になったが、それは主の言葉に従った故だ。
従わなくなってしまうなら、いかに軍事面を強化しても無駄である。
11:13 イスラエルの全地の祭司とレビびとは四方の境から来てレハベアムに身を寄せた。
11:14 すなわちレビびとは自分の放牧地と領地を離れてユダとエルサレムに来た。これはヤラベアムとその子らが彼らを排斥して、主の前に祭司の務をさせなかったためである。
11:15 ヤラベアムは高き所と、みだらな神と、自分で造った子牛のために自分の祭司を立てた。
さらに祭司やレビ人が集まって来るのだが、それは北のヤロブアムが主から離れたゆえである。
ヤロブアムがなぜそうしてしまったのか、列王記に詳しく記されている。
『しかしヤラベアムはその心のうちに言った、「国は今ダビデの家にもどるであろう。もしこの民がエルサレムにある主の宮に犠牲をささげるために上るならば、この民の心はユダの王である彼らの主君レハベアムに帰り、わたしを殺して、ユダの王レハベアムに帰るであろう」。』(1列王記12:26-27)
彼は恐れたが、その恐れは、的外れである。なぜなら、主は彼に預言者を通し、彼の家はダビデのように長く続く事が約束されているからだ。
ただし、彼が主の道に歩むならば、である。
だから、彼が為すべきは、ダビデにならい、主の道に歩みつつ統治する事であるのに、彼はこの後、身勝手な「自分を救う方法」を編み出し、主の御旨に反する事をするようになってしまう。
『彼はまた高き所に家を造り、レビの子孫でない一般の民を祭司に任命した。またヤラベアムはユダで行う祭と同じ祭を八月の十五日に定め、そして祭壇に上った。彼はベテルでそのように行い、彼が造った子牛に犠牲をささげた。また自分の造った高き所の祭司をベテルに立てた。こうして彼はベテルに造った祭壇に八月の十五日に上った。これは彼が自分で勝手に考えついた月であった。そして彼はイスラエルの人々のために祭を定め、祭壇に上って香をたいた。』(1列王記12:31-33)
現代風に言うなら、勝手に新しい教義を編み出し、その中ではイエス・キリストを救い主の座から引き降ろし、自分が造った偶像を「救い主」として拝ませ、牧師としての召命も訓練も無い人を任命して、主日でない別の日を礼拝する日にしてしまったようなものである。
それも、自分自身の「保身」のために。
「保身」とは元々、何か脅威がある時に自分の立場を守るために為すものであるが、ただ、彼の頭の中に「恐れ」があっただけで、そもそも脅威など実存していなかったのだ。
私達は、御言葉よりも心の恐れのほうを優先させてはならない。それでは逆に呪われて、恐れていた事が実現してしまう事になってしまう。
11:16 またイスラエルのすべての部族のうちで、すべてその心を傾けて、イスラエルの神、主を求める者は先祖の神、主に犠牲をささげるために、レビびとに従ってエルサレムに来た。
11:17 このように彼らはユダの国を堅くし、ソロモンの子レハベアムを三年の間強くした。彼らは三年の間ダビデとソロモンの道に歩んだからである。
こうして南のレハブアムは、当初、主に従う幸いな期間がしばし続いたが、しかし三年しか続かなかった。
三年の後、レハブアムは主から離れてしまったからである。
11:18 レハベアムはダビデの子エレモテの娘マハラテを妻にめとった。マハラテはエッサイの子エリアブの娘アビハイルが産んだ者である。
11:19 彼女はエウシ、シマリヤおよびザハムの三子を産んだ。
11:20 彼はまた彼女の後にアブサロムの娘マアカをめとった。マアカはアビヤ、アッタイ、ジザおよびシロミテを産んだ。
11:21 レハベアムはアブサロムの娘マアカをすべての妻とそばめにまさって愛した。彼は妻十八人、そばめ六十人をめとって、男の子二十八人と女の子六十人をもうけた。
11:22 レハベアムはマアカの子アビヤを立ててかしらとし、その兄弟の長とした。彼はアビヤを王にしようと思ったからである。
11:23 それで王は賢くとり行い、そのむすこたちをことごとく、ユダとベニヤミンの全地方にあるすべての要害の町に散在させ、彼らに糧食を多く与え、また多くの妻を得させた。
彼はソロモンほどではなかったが、妻を多くした。
聖書で、多くの妻を持って、その一家が平穏だったケースは見いだせない。
妻と子は多くなり、彼らを賢く扱い、こうして、内政においても軍事においても充実して行くも、こうして祝福されて強くなった時こそ、気をつける事が必要である。
それは、これから後のレハブアムの歩みを見れば分かる。
邪悪な目でイエス様を見る人の災いと、真に幸いな人(ルカ11:14-36)
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- 執筆 :
- pastor 2018-1-3 23:40
イスラエル王国分断という重大事件と、そのまことにくだらなかった発端(2歴代誌10:3-19)
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- pastor 2018-1-3 7:49
イスラエル王国分断という重大事件と、そのまことにくだらなかった発端(2歴代誌10:3-19)
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今回の箇所で、イスラエルは大きな暗転を迎える。
現代も、今回の箇所の影響が、ずっと続いている。
その暗転とは、イスラエル王国の分裂であり、そのきっかけは、まことにくだらないものであった。
10:3 人々は人をつかわして彼を招いた。そこでヤラベアムとすべてのイスラエルは来て、レハベアムに言った、
10:4 「あなたの父は、われわれのくびきを重くしましたが、今あなたの父のきびしい使役と、あなたの父が、われわれに負わせた重いくびきを軽くしてください。そうすればわたしたちはあなたに仕えましょう」。
10:5 レハベアムは彼らに答えた、「三日の後、またわたしの所に来なさい」。それで民は去った。
ソロモンは、その統治の前半すなわち主に聞き従っていた間は、とても祝福されていた。
1列王記4:20 ユダとイスラエルの人々は多くて、海べの砂のようであったが、彼らは飲み食いして楽しんだ。
4:21 ソロモンはユフラテ川からペリシテびとの地と、エジプトの境に至るまでの諸国を治めたので、皆みつぎ物を携えてきて、ソロモンの一生のあいだ仕えた。
4:22 さてソロモンの一日の食物は細かい麦粉三十コル、荒い麦粉六十コル、
4:23 肥えた牛十頭、牧場の牛二十頭、羊百頭で、そのほかに雄じか、かもしか、こじか、および肥えた鳥があった。
4:24 これはソロモンがユフラテ川の西の地方をテフサからガザまで、ことごとく治めたからである。すなわち彼はユフラテ川の西の諸王をことごとく治め、周囲至る所に平安を得た。
王宮で1日で費やされる食料は膨大なものだが、しかしそれでもなお国民は潤い豊かだったので、王宮に貢ぐ税金は膨大であったとしても、全然問題にならなかった。
しかしソロモンの人生の後半、彼は主に聞き従わなくなり、当然、産物はとれなくなり、しかし重税だけは変わらず、そうして民は、重税にあえいでいたのだ。
それで、人望の厚いヤロブアムを通して、人々はその税金を下げてもらおうと思って来たのだ。
10:6 レハベアム王は父ソロモンの存命中ソロモンに仕えた長老たちに相談して言った、「あなたがたはこの民にどう返答すればよいと思いますか」。
レハブアムはまず、ソロモンの存命中にソロモンに使えていた長老たちに聞いた。
この後のレハブアムの記述を見るとわかるが、彼は色々と問題のある者だった。なぜ彼が王になってしまったのか。おそらく、ソロモンが亡くなったのがキュウで、彼が王として選ばれたのも、慌ただしかったのかもしれない。あるいは、ソロモンに沢山いたであろう子供達の中で、彼がもっともまともだったのかもしれない。
ともかく、偶像礼拝に走ってしまったソロモンは、多くの災いを国にもたらしてしまった。
10:7 彼らはレハベアムに言った、「あなたがもしこの民を親切にあつかい、彼らを喜ばせ、ねんごろに語られるならば彼らは長くあなたのしもべとなるでしょう」。
列王記の並行箇所では、長老たちはレハブアムに、「民のしもべとなって彼らに仕えるなら、彼らは永遠にあなたのしもべとなる」と助言している。(1列王記12:5-7)
この長老たちの助言は、非常に正しい。なぜならイエス様も同じ事を言っているからだ。
『あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者と見られている人々は、その民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、すべての人の僕とならねばならない。人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである。』(マルコ10:42-45)
暴力や荒々しい言葉で人を威圧し制するのは、異邦人の手法である。神の民の王たる者は、みなに仕える姿勢であるべきなのだ。
しかしレハブアムは、それ良しとはしなかった。
10:8 しかし彼は長老たちが与えた勧めをすてて、自分と一緒に大きくなって自分に仕えている若者たちに相談して、
10:9 彼らに言った、「あなたがたは、この民がわたしに向かって、『あなたの父上が、われわれに負わせたくびきを軽くしてください』と言うのに、われわれはなんと返答すればよいと思いますか」。
10:10 彼と一緒に大きくなった若者たちは彼に言った、「あなたに向かって、『あなたの父は、われわれのくびきを重くしたが、あなたは、それをわれわれのために軽くしてください』と言ったこの民に、こう言いなさい、『わたしの小指は父の腰よりも太い、
10:11 父はあなたがたに重いくびきを負わせたが、わたしはさらに、あなたがたのくびきを重くしよう。父はむちであなたがたを懲らしたが、わたしはさそりであなたがたを懲らそう』」。
「わたしの小指は父の腰よりも太い」とは、自分は父なんかよりもっと大いなる者だ、という事である。
「若者たち(イェラーディーム)」は子供達、ボーイ、といった意味で、ようするに未熟者である。レハブアムは長老達の言葉を退け、彼らに相談した。
彼らはこの言葉から分かる通り、思慮も知恵も無い、ただノリと勢いだけの直情的な者達であった。レハブアムとしては、彼らと話すほうが楽しかったのだろう。
レハブアムが彼らの意見のほうを採用する、という事は、レハブアムの気質もまた彼らと同じなのである。
10:12 さてヤラベアムと民は皆、王が「三日目にわたしのところに来なさい」と言ったとおりに、三日目にレハベアムのところへ行った。
10:13 王は荒々しく彼らに答えた。すなわちレハベアム王は長老たちの勧めをすて、
10:14 若者たちの勧めに従い、彼らに告げて言った、「父はあなたがたのくびきを重くしたが、わたしは更にこれを重くしよう。父はむちであなたがたを懲らしたが、わたしはさそりであなたがたを懲らそう」。
彼は、新しい王として、荒々しく大上段から言い放った瞬間は、さぞやスカッとしただろう。
しかし、その一瞬のスカッとする爽快感の代償は、とてつもなく大きなものだった。
荒々しい暴言のたった一言が、長年築き上げて来た信頼関係を壊し、家庭を壊し、国を壊してしまう。
ヤロブアムの、このたった一言が、イスラエルを二分し、現代も、彼のこの言葉の影響ゆえに、イスラエルは今なお失われた10部族がどこにいるのか分からない状態にある。
10:15 このように王は民の言うことを聞きいれなかった。これは主が、かつてシロびとアヒヤによって、ネバテの子ヤラベアムに言われた言葉を成就するために、神がなされたのであった。
主は、無意味に人の心を操作して国を分断したりはしない。そのような事を主は望んでおられない。
ただ、主に立ち返らないダビデの家を懲らしめ、主に立ち返るようにするために、あえてこの事を起こされたのだ。
ただ、人が欲望を遂げるために、人を何とも思わないような人間に対し、また、忠告を何度しても聞かないような人に対して、主はさらに良くない思いへと引き渡し、自滅して行くに任せられるのだ(ローマ1:28-31)。
10:16 イスラエルの人々は皆、王が自分たちの言うことを聞きいれないのを見たので、民は王に答えて言った、/「われわれはダビデのうちに何の分があろうか。われわれはエッサイの子のうちに嗣業がない。イスラエルよ、めいめいの天幕に帰れ。ダビデよ、今あなたの家を見よ」。そしてイスラエルは皆彼らの天幕へ去って行った。
10:17 しかしレハベアムはユダの町々に住んでいるイスラエルの人々を治めた。
10:18 レハベアム王は徴募人の監督であったアドラムをつかわしたが、イスラエルの人々が石で彼を撃ち殺したので、レハベアム王は急いで車に乗り、エルサレムに逃げた。
10:19 こうしてイスラエルはダビデの家にそむいて今日に至った。
今日に至った、と記されているが、その今日はエズラの時代のみならず、エズラの時代からさらに2000年以上経った今さえも、そうである。
その発端は、状況だけを見るなら実にくだらない事であったが、その根底には、主に従わないソロモンの頑なさ、欲望への執着が元だった。
私達は御言葉に従う者、仕える者の姿勢を取って、さいわいな、祝福された人生を歩む者でありたい。
ベエル・シェバを見えなくさせるもの(創世記21:14-21)
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年明け瞬間からの礼拝、ベエル・シェバというキーワードが出てきた。
ベエル・シェバとはどういうものか、少し見たが、そのベエル・シェバが聖書で最初に登場した場面が、この箇所。ここにおいては、ハガル、アブラハムの女奴隷が関係している。
14節だけを見ると、ただならぬ事が起きているようである。
21:14 そこでアブラハムは明くる朝はやく起きて、パンと水の皮袋とを取り、ハガルに与えて、肩に負わせ、その子を連れて去らせた。ハガルは去ってベエルシバの荒野にさまよった。
ベエル・シェバ、七つの井戸(泉)という意味である。水はあるはずであるが、また、町のある所である、というのに、彼女はわざわざ荒野の方面を歩いて行った。
感情的になって、自暴自棄となり、わざわざ荒野へ行かせることがある。
21:15 やがて皮袋の水が尽きたので、彼女はその子を木の下におき、
21:16 「わたしはこの子の死ぬのを見るに忍びない」と言って、矢の届くほど離れて行き、子供の方に向いてすわった。彼女が子供の方に向いてすわったとき、子供は声をあげて泣いた。
この場面だけを見ると、非常に涙をさそう場面である。
アブラハムはなぜひどいことをするのか、と思うだろうか。しかし、この状況だけを見て神様はひどい、アブラハムはひどいとするのは、早計である。
そもそもなぜハガルは追い出されたのか。その理由がある。
実は前にも、追い出された事があり、今回の追い出された事は、彼女たちにとって二度目である。創世記16章において、この時、まだアブラハムも子供が生まれていなかった。ハガルもみごもっていて、まだイシュマエルが生まれていなかった。
なぜこの時、ハガルが追い出されるという事件があったのか。それは、高慢になったからだ。
ハガルの女主人サライがずっとみごもらない、けれど、ハガルがアブラハムと関係を持ったとたんに身籠った。
そのとたんに、女奴隷という身分でありながら、女主人サライを軽んじた。だから、追い出されたのだ。
16:7 主の使は荒野にある泉のほとり、すなわちシュルの道にある泉のほとりで、彼女に会い、
女奴隷ハガルにも御使が現れた。という事は、彼女とその子は、神様の特別保護下にある、という事だ。
なぜなら彼女もアブラハムの子を身籠ったのだから。
そして、アブラハムが自分の子供についても祈っただろう、どうぞ守られるように、どうぞ、大いに増え広がりますように。
ハガルは、身を低くしていなかった。女主人に対して驕り高ぶった態度をとった、だから追い出されて逃げていった。しかしそこに御使いが現れて、言う。
16:8 そして言った、「サライのつかえめハガルよ、あなたはどこからきたのですか、またどこへ行くのですか」。彼女は言った、「わたしは女主人サライの顔を避けて逃げているのです」。
御使いは、わざわざハガルの立場を言う。
「サライのつかえめハガルよ」
御使いは、彼女が、女奴隷である、という身分を強調している。女奴隷であるからには、元々主人の元で見を低くしているなら、何も追い出される事はなかった。
それを、わたしのほうが上だ、と、驕り高ぶったり、女主人を蔑んだ目で見たり態度をしたり。そういう事をしたから、追い出された。
立場を思い起こさせた。すると、ハガルも答える。
「わたしは”女主人サライ”の顔を避けて逃げているのです」。
彼女は、正しい立ち位置を表明した。
こうして正当な立場表明をしたなら、御使いは、
16:9 主の使は彼女に言った、「あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい」。
直訳するなら、彼女の手の内で、身を低くしなさい、という事である。
女主人の手の望むままに、しっかり仕えなさい、と。
こうしてハガルは再び戻る事ができて、イシュマエルを生み、アブラハムの家で育つのだが、今一度追い出されてしまった。
しかし、主はハガルに、素晴らしい約束を与えられる。
16:10 主の使はまた彼女に言った、「わたしは大いにあなたの子孫を増して、数えきれないほどに多くしましょう」。
これほど心強い約束が与えあっれたなら、もはや恐れる必要はなかった。そして、自分の女奴隷という立場をずっと続けていくべきだった。
そして女主人サラに、イサクが生まれたのだが、そのイサクの事を、ハガルの子イシュマエルが、「からかっている(ツァハァク:蔑み笑う)」のを、女主人サラに見られてしまった。
ハガルは女主人の元で、身を低くしているべきだった。まして女主人に子供イサクが生まれたからには、彼の前にも身を低くしているべきだった、のに、それをしなかった。
イシュマエルがからかっているのを見て、ハガルもある種、もっといじめてやれ、という思いがあったかもしれない。ともかく、イシュマエルのからかいを止めなかった。そしてそれを見られてしまったために、追い出されたのだ。
身を低くしているべき時にしないで、高ぶってしまうと、追い出されてしまう原因となってしまう。
アブラハムも、相当悩んだだろう。しかし、主はアブラハムに、かつてハガルに対して言われた事とまったく同じことを言われる。
21:12 神はアブラハムに言われた、「あのわらべのため、またあなたのはしためのために心配することはない。サラがあなたに言うことはすべて聞きいれなさい。イサクに生れる者が、あなたの子孫と唱えられるからです。
21:13 しかし、はしための子もあなたの子ですから、これをも、一つの国民とします」。
主はこの少年まで、大きな国民としよう、と言われた。ハガルも16:10で、全く同じことを約束された事は、アブラハムも当然知っていた事だろう。
だから安心して、彼女とイシュマエルを送り出す事ができたのだ。
アブラハムは確かに最初、悩んだ末に祈った、祈った結果、主が答えられた、その答えは、あなたの子イシュマエルも、ひとつの国民にしよう、という力強いものだった、だから、アブラハムは送り出すことができたのだ。
アブラハムは「追い出した」のではない。神様の約束つきで「送り出した」のだ。だから、そもそもこの場面、アブラハムが酷いことをした、というのは、早計なのだ。
ところがハガルのほうが自暴自棄になったのだろう、ああ自分は追い出されたのだ、という思い、悲しみ、ひがみ、誇大妄想によって、彼女はわざわざ、ベエル・シェバの「荒野」のほうへ歩いて行く。
ベエル・シェバは「7つの泉(井戸)」という意味で、泉があり、町がある所だ。だから普通に道沿いに行けば、普通に町に出るはずなのに。
実際彼女がさまよい歩いていた荒野、イシュマエルを一人置きざりにして離れた、その場所のすぐそばにも、井戸があった。それなのに、見えなかった。
ベエル・シェバの泉が見えなくなってしまうコツ、それは、感情に目が塞がれてしまっている事。
感情で目が塞がれてしまっていると、せっかくベエル・シェバの土地が与えられても、しかし肝心の泉が、水が見えなくなってしまう。
自分はかわいそうだ、(約束付きで送り出されたのに)追い出されたのだ、と、マイナスに撮って、人の善意を悪意に受け止めるなら、泉が見えなくなってしまう。
心の中が不平不満でいっぱいになるなら、誰でもわかるしるしがあっても、それが見えなくなってしまう。
ベエル・シェバ、その場所は、心が争っている人、不平不満、鬱憤がある人には、泉が見えない。
彼女の場合、感情が高ぶって「自分がかわいそう」「あの人が悪い」「みんな悪い」「なんでわたしだけ」という思いで満たされて、そして、神様の約束を忘れており、感謝を忘れている。
自分の立場を忘れている、となると、ベエル・シェバ、という場所にたとえ行ったとしても、見えなくなってしまう。
彼女には、約束が与えられていた。あなたの子孫は、大いに増やすので、数え切れないほどになる、と、主ご自身から与えられ、しかも、主は聞かれた、という事で「イシュマエル」という名前さえつけた。
イシュマエルの名前の意味は、神は聞かれる、という意味だ。
神は聞かれる、といわれる子供を、手放して、自分は矢の届くほどの距離に離れて、自分は泣いている。
神様の約束を手放し、神は聞かれると言われる子供を手放し、自分かわいそうモードで泣いている、それは、自分で自分を滅ぼしてしまう人の性質。
彼女は「神は聞かれる」という子供を自ら手放してしまった。神様の言葉を聞くべきである。神様の約束を握りしめているべきである。
21:17 神はわらべの声を聞かれ、神の使は天からハガルを呼んで言った、「ハガルよ、どうしたのか。恐れてはいけない。神はあそこにいるわらべの声を聞かれた。
神様は、声を上げて泣いたハガルの声ではなく、少年の声を聞かれた。
この少年は泣いていたかは分からないが、天からハガルを呼ばれた。
21:18 立って行き、わらべを取り上げてあなたの手に抱きなさい。わたしは彼を大いなる国民とするであろう」。
神は約束を思い起こさせた。少年の声を聞かれた故である。少年のゆえに、ハガルは助かったのだ。
21:19 神がハガルの目を開かれたので、彼女は水の井戸のあるのを見た。彼女は行って皮袋に水を満たし、わらべに飲ませた。
21:20 神はわらべと共にいまし、わらべは成長した。彼は荒野に住んで弓を射る者となった。
このように、神は彼女の目を開かれて、すぐそばにあった井戸を見つけさせて下さった。
感情が高ぶって、自分の思い込みで頭がいっぱいであるなら、見えないという事がある。
自分が迷子になった、どうしよう、と、標識が目の前にあるのに、それを読むことさえしない。
しかし神はハガルの目を開いてくださった。
このベエル・シェバの泉が見えなくなってしまう、、、感情で塞がれ、それを神様が開いてくださる。
神様が目を開いてくださる場面は、聖書でいくつかある。
そういう場面、人は、何かによって目が塞がれ、祝福も見えず、滅びの道も見えないという事がある。
民数記22章においても、主が目を開かれた場面がある。
民数記22:31-32
22:31 このとき主がバラムの目を開かれたので、彼は主の使が手に抜き身のつるぎをもって、道に立ちふさがっているのを見て、頭を垂れてひれ伏した。
22:32 主の使は彼に言った、「なぜあなたは三度もろばを打ったのか。あなたが誤って道を行くので、わたしはあなたを妨げようとして出てきたのだ。
ここでも、バラムという預言者、目が覆われていた。何によってか。カネに対する欲望によって、である。
それで、主が抜き身の剣をもって目の前に立ちふさがっているというのに、当代の著名な預言者バラムは、それが見えなかった。むしろ、彼が乗っているロバが、御使いの抜き身の剣を見て、その場にうずくまって、行かないようにしたが、バラムは、「進め、進め、なんで思い通りに行かないのだ」と、そのロバを打った。
欲望。自分がこうしたい、あれを手に入れたい、という思い突っ走り、目が覆われて、結局、その先に行けば剣で両断されてしまう、というのに。けれどもロバがそれを見て留まり、彼は命拾いした。
欲望。それは目を見えなくさせ、滅びの道に歩んでいるという事も見えなくさせ、主の道とは反対方向へ突き進んで主が敵対している事も見えない。
世の中の金銀を追い求めるゆえに、主日礼拝が軽んじられる、という事がある。
主がバラムの目を開いてくださったのは何故か。それは、ロバのおかげである。
ロバの信仰がバラムを救った。情けない話であるが、欲望で目がくらむと、見えなくなってしまうのだ。