メッセージ - 201812のエントリ
最も幸いな女性・マリヤのようになるためには(ルカ1:46-55)
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ルカ1:46 するとマリヤは言った、「わたしの魂は主をあがめ(メガリュノー)、
1:47 わたしの霊は救主なる神をたたえます。
1:48 この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、
マリヤは自他ともに認める、最も幸いな女となった。
しかし、なんと私達も、マリヤと同様、イエス様を宿す恵みに預かることができる。
彼女の幸いに預かれる、その第一の性質は、46節の通り、主をメガリュノーする、すなわち主を高め、主を尊大なお方として仕立てる人である。
その第二は47節の通り、救い主なる神を喜びたたえる事、第三は48節のように、自分を主の御まえに低くする人である。
ルカ1:49 力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、
1:50 そのあわれみは、代々限りなく/主をかしこみ恐れる者に及びます。
マリヤは、自分に力あるわざを為して下さった主が、いかなるお方かを知っていた。
主はいかなるお方か。
コロサイ1:15 御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。
1:16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
1:17 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。
私達も主を知れば知るほど、主が個人的に自分に関わって下さったことがどれほど素晴らしい事なのか、その感動が、ひとしお大きくなって行く。
ハンナも、マリヤと同じような賛美を捧げている。それは、ハンナも主がいかなるお方であるかを知っており、その御方が自分に関わって下さった事の、そのあまりの素晴らしさ故に、彼女も主に喜びの歌を捧げずにはおられなかったのだ。
2:1 ハンナは祈って言った、/「わたしの心は主によって喜び、/わたしの力は主によって強められた、/わたしの口は敵をあざ笑う、/あなたの救によってわたしは楽しむからである。
2:2 主のように聖なるものはない、/あなたのほかには、だれもない、/われわれの神のような岩はない。
2:3 あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、/たかぶりの言葉を口にすることをやめよ。主はすべてを知る神であって、/もろもろのおこないは主によって量られる。
2:4 勇士の弓は折れ、/弱き者は力を帯びる。
2:5 飽き足りた者は食のために雇われ、/飢えたものは、もはや飢えることがない。うまずめは七人の子を産み、/多くの子をもつ女は孤独となる。
ハンナもマリヤも、共に、驕り高ぶる者は、主が低くする事を言っている。
ルカ1:51 主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、
1:52 権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、
1:53 飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。
ハガルは女奴隷であるにもかかわらず、本来、主人とするべきサライに対して高ぶったため、彼女は家を追い出された。
創世記16:4 彼はハガルの所にはいり、ハガルは子をはらんだ。彼女は自分のはらんだのを見て、女主人を見下げるようになった。
16:5 そこでサライはアブラムに言った、「わたしが受けた害はあなたの責任です。わたしのつかえめをあなたのふところに与えたのに、彼女は自分のはらんだのを見て、わたしを見下げます。どうか、主があなたとわたしの間をおさばきになるように」。
16:6 アブラムはサライに言った、「あなたのつかえめはあなたの手のうちにある。あなたの好きなように彼女にしなさい」。そしてサライが彼女を苦しめたので、彼女はサライの顔を避けて逃げた。
16:7 主の使は荒野にある泉のほとり、すなわちシュルの道にある泉のほとりで、彼女に会い、
16:8 そして言った、「サライのつかえめハガルよ、あなたはどこからきたのですか、またどこへ行くのですか」。彼女は言った、「わたしは女主人サライの顔を避けて逃げているのです」。
16:9 主の使は彼女に言った、「あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい」。
16:10 主の使はまた彼女に言った、「わたしは大いにあなたの子孫を増して、数えきれないほどに多くしましょう」。
彼女は、御使いによって、本来あるべき「女奴隷」の立場に戻って実を低くするように指示された。
それに従った結果、彼女は大いに祝福されるが、しかし実を低くし続けなかった故に、結局彼女とその子供は再びアブラハムの家から追い出されてしまう事になる。
ルカ1:54 主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、
1:55 わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とを/とこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。
マリヤはさらに、歴史を通し御言葉を通して働かれる主と、その歴史と御言葉の中の一員として自分が実際に組み込まれている事に、大いに畏敬の念を持った。
主が先祖アブラハムを通して与えられた約束、それ以降の代々信仰の先祖たちが待ち望んで来た事を、主は覚えておられ、そしてついに時いたり、全世界の待望の的であられるメシヤを、マリヤ自身がみごもる。それが、いかに、素晴らしい事であろうか。
そしてマリヤ同様、私達も、このイエス様をわが内に宿すことができるとは、どんなに素晴らしい事だろう。
全世界へ広がっていくエッサイの根株の聖霊の油(イザヤ11:1-5)
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イザヤ11:1 エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、
11:2 その上に主の霊がとどまる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。
11:3 彼は主を恐れることを楽しみとし、その目の見るところによって、さばきをなさず、その耳の聞くところによって、定めをなさず、
11:4 正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの/柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者を殺す。
11:5 正義はその腰の帯となり、忠信はその身の帯となる。
イザヤ42:1 わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。
42:2 彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、
42:3 また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。
42:4 彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望む。
イザヤ59:20 主は言われる、「主は、あがなう者としてシオンにきたり、ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る」と。
59:21 主は言われる、「わたしが彼らと立てる契約はこれである。あなたの上にあるわが霊、あなたの口においたわが言葉は、今から後とこしえに、あなたの口から、あなたの子らの口から、あなたの子らの子の口から離れることはない」と。
イザヤ60:1 起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから。
60:2 見よ、暗きは地をおおい、やみはもろもろの民をおおう。しかし、あなたの上には主が朝日のごとくのぼられ、主の栄光があなたの上にあらわれる。
60:3 もろもろの国は、あなたの光に来、もろもろの王は、のぼるあなたの輝きに来る。
イザヤ61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
61:2 主の恵みの年と/われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、
61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。
61:4 彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。
61:5 外国人は立ってあなたがたの群れを飼い、異邦人はあなたがたの畑を耕す者となり、ぶどうを作る者となる。
61:6 しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神の役者と呼ばれ、もろもろの国の富を食べ、彼らの宝を得て喜ぶ。
61:7 あなたがたは、さきに受けた恥にかえて、二倍の賜物を受け、はずかしめにかえて、その嗣業を得て楽しむ。それゆえ、あなたがたはその地にあって、二倍の賜物を獲、とこしえの喜びを得る。
61:8 主なるわたしは公平を愛し、強奪と邪悪を憎み、真実をもって彼らに報いを与え、彼らと、とこしえの契約を結ぶからである。
61:9 彼らの子孫は、もろもろの国の中で知られ、彼らの子らは、もろもろの民の中に知られる。すべてこれを見る者は/これが主の祝福された民であることを認める。
61:10 わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。
61:11 地が芽をいだし、園がまいたものを生やすように、主なる神は義と誉とを、もろもろの国の前に、生やされる。
栄光の主のみわざこそが成就する(詩篇33篇)
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詩篇33篇は賛美によって始まり、主の創造のわざの素晴らしさを告げ、主をおそれ主を待ち望む者の幸いを宣言し、主への信仰告白と応答によって終わっている。
詩篇33:1 正しき者よ、主によって喜べ、さんびは直き者にふさわしい。
ここで「ふさわしい」と訳された語「ナヴェー」は「美しい」(雅歌書1:5や2:14、6:4)とも訳すことが出来、特に、「似合っている故の調和的美しさ」を意味する。
どんな音楽大学を出ていても、あるいは、歌手としてキャリアを積んでいたとしても、その人が歌う「賛美」が、しっくりとしているかどうかは、別の話である。
ただ歌声がきれいで楽器を演奏するテクニックが素晴らしかったとしても、心がねじ曲がっているとするなら、その「賛美」は、不相応で、違和感を感じるものだ。
詩篇33:2 琴をもって主をさんびせよ、十弦の立琴をもって主をほめたたえよ。
33:3 新しい歌を主にむかって歌い、喜びの声をあげて巧みに琴をかきならせ。
賛美は今日も聖徒たちによって、日々、新しく創られる。
その日々つくられる新しい賛美をもって、日々開発される様々の楽器や演奏法を用いて主をほめ讃えるのは、いつの時代でも相応しい事であり、主が求めておられる所である。
この詠み人知らずの詩篇の作者は、今もなお、現代の聖徒たちに語っている。新しい歌を主に向かって歌え、と。
そしてさらに続く所において、主の創造のわざに対する賛美がある。
詩篇33:4 主のみことばは直く、そのすべてのみわざは真実だからである。
33:5 主は正義と公平とを愛される。地は主のいつくしみで満ちている。
33:6 もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた。
33:7 主は海の水を水がめの中に集めるように集め、深い淵を倉におさめられた。
33:8 全地は主を恐れ、世に住むすべての者は主を恐れかしこめ。
この世の、全て主に創られたものは、主の宣言型動詞のことばによって創造された。
神の宣言型動詞は、必ず「そうなる」「在り続ける」もので、全宇宙も、星々も、また海も、空も、あらゆる植物、あらゆる生き物も、この宣言型動詞に100%従順して成り立っている。
さらに聖書には「命令型動詞」があるが、これは被造物の中でも人間に対して発せられる命令で、人は、この命令形動詞に対しては、従順する事が要求される。
しかし人間には、自由意志があるため、人の自由意志によって破られる事もある。
もし人がそれを破るなら、その人には聖書に記されている通りの災いが起きてしまう。しかしもし人がそれに従順するなら、聖書に記されている通り、必ず主のわざが為り、祝福される。(申命記28章)
詩篇33:9 主が仰せられると、そのようになり、命じられると、堅く立ったからである。
33:10 主はもろもろの国のはかりごとをむなしくし、もろもろの民の企てをくじかれる。
33:11 主のはかりごとはとこしえに立ち、そのみこころの思いは世々に立つ。
33:12 主をおのが神とする国はさいわいである。主がその嗣業として選ばれた民はさいわいである。
ここにおいては、ただ、主のはかりごとだけが成ることが宣言されている。
全被造物の中で、主の言葉に従わない自由さえ与えられているのが、神の似姿である人間であり、神を敬わない自由のみならず、神の御子を殺す自由さえも与えられている。
しかし聖書に記されている通り、御子を引き渡す者は永遠に呪われ、御子を信じる者は永遠の救いを得る。
ただこの世は、そして来る世も、全ては主の御心の通りに成る。
主の御言葉から離れた人の自分勝手なわざは、いかに一時的に大きく燃え上がったとしても、必ず、消えていく。
詩篇33:13 主は天から見おろされ、すべての人の子らを見、
33:14 そのおられる所から/地に住むすべての人をながめられる。
33:15 主はすべて彼らの心を造り、そのすべてのわざに心をとめられる。
そうである。主は全地を見渡しておられる、のみならず、全・人類の心をも、見透かしておられる。
その証拠に、主は、ダビデが少年の時、イスラエルの中で誰も見向きもしない末っ子で、羊飼いの仕事をさせられている時に、主の目からは、最も王として相応しい者として、既に見出しておられた。
1サムエル記16:1 さて主はサムエルに言われた、「わたしがすでにサウルを捨てて、イスラエルの王位から退けたのに、あなたはいつまで彼のために悲しむのか。角に油を満たし、それをもって行きなさい。あなたをベツレヘムびとエッサイのもとにつかわします。わたしはその子たちのうちにひとりの王を捜し得たからである」。
それは彼の心は主に対して全く一つで、羊を飼いながら主への賛美の詩を沢山つくり、また羊たちを命がけで守っていたからだ。
まことに主の目と、人の見る目は違う。
1サムエル記16:7 しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。
サムエルでさえ、見た目で惑わされた。
しかし主が言っておられる通り、主は、人の心をこそご覧になられる。
2歴代誌16:7 そのころ先見者ハナニがユダの王アサのもとに来て言った、「あなたがスリヤの王に寄り頼んで、あなたの神、主に寄り頼まなかったので、スリヤ王の軍勢はあなたの手からのがれてしまった。
16:8 かのエチオピヤびとと、リビアびとは大軍で、その戦車と騎兵は、はなはだ多かったではないか。しかしあなたが主に寄り頼んだので、主は彼らをあなたの手に渡された。
16:9 主の目はあまねく全地を行きめぐり、自分に向かって心を全うする者のために力をあらわされる。今度の事では、あなたは愚かな事をした。ゆえにこの後、あなたに戦争が臨むであろう」。
16:10 するとアサはその先見者を怒って、獄屋に入れた。この事のために激しく彼を怒ったからである。アサはまたそのころ民のある者をしえたげた。
16:11 見よ、アサの始終の行為は、ユダとイスラエルの列王の書にしるされている。
16:12 アサはその治世の三十九年に足を病み、その病は激しくなったが、その病の時にも、主を求めないで医者を求めた。
アサ王は、最初は主により頼み良き政治を行っていた。しかし、栄えて富み出すと、驕り高ぶり、主に対して心を尽くす者ではなくなってしまった。
彼の場合、ダビデとは逆の道を行き、彼に御言葉を持っていって戒めた預言者の足をしばり、主の御言葉には従わない事を示してしまった故に、最後には足に病が発症し、それでも主に立ち返らず医者に頼ったので、結局、その病が元で彼は死んでしまう。
主を差し置いていて、医療や戦闘力により頼む者は、このようになってしまう。
詩篇33:16 王はその軍勢の多きによって救を得ない。勇士はその力の大いなるによって助けを得ない。
33:17 馬は勝利に頼みとならない。その大いなる力も人を助けることはできない。
人は軍馬や兵器に、勇士により頼もうとするが、主の御前には、それらは役に立たない。
主が求めておられる事はむしろ、主を恐れる事、そのいつくしみを望む人をこそ、求めておられる。
詩篇33:18 見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある。
33:19 これは主が彼らの魂を死から救い、ききんの時にも生きながらえさせるためである。
そして、この詩篇の最後は、主に対する応答と信仰告白によって締めくくられている。
詩篇33:20 われらの魂は主を待ち望む。主はわれらの助け、われらの盾である。
33:21 われらは主の聖なるみ名に信頼するがゆえに、われらの心は主にあって喜ぶ。
33:22 主よ、われらが待ち望むように、あなたのいつくしみをわれらの上にたれてください。
私達も主に告白すべきである。
あなたこそ、わたしの救いの神、あなたこそ私の助け、私の盾、と。
主もまた、そのように主を呼び求める魂を救い出し、恵みて満たして下さるのだ。
主日礼拝
エッサイの根株から出た新芽(イザヤ11章)
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週報/メッセージ(説教)概要
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成田エクレシア礼拝 音声
待降節第二週の今日は、預言者イザヤによるメシヤ到来の預言を見たい。イザヤは、救い主がこの世に来られる時の有様と、彼がもたらす物事の素晴らしさについて、イエス様が来る700年も前に預言していた。
『エッサイの株から一つの芽が出、その根から一つの若枝が生えて実を結び、その上に主の霊が留まる。これは知恵と悟りの霊、深慮と才能の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。』(イザヤ11:1-2)
エッサイはダビデの父で、彼から出た新芽は、やがてダビデ王家という「大木」となった。しかしダビデの子ソロモンから続く王家は、高慢になり、罪を重ねて悔い改めなかったため、バビロンを通して伐採された。
しかしダビデの子・ナタンから出た「新芽」の子孫に処女マリヤが出て、彼女から救い主キリストが生まれた。
このエッサイの根株から出た若枝、すなわちイエス・キリストの上に、知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊が留まり、それはイエス様に接ぎ木された聖徒達へと流れて行く。(2節)
彼の統治は、失敗が一切無く、さばきも、間違いが無い。このイエス様に繋がり、神の霊が留まった人には、主を恐れる事が楽しみとなり、見える所や聞く所によって判断せず、正しく判断するようになる(3節)。
世の王には欠けがあり、失敗がある。それは人の中には、自分の目でよしとした所に従って動く「善悪判断」の性質があるからで、気に入った人をえこひいきしたり、気に食わない人を勝手に罪定めしたりする所があるが、主はそのようなお方ではない。「主を恐れる事」こそ、失敗の無い判断と統治の始まりなのだ。
そしてこのお方・イエス様は『正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって国のうちの柔和な者のために定めをなし、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息(ルアッハ)をもって悪しき者を殺す。』(4節)
正しくさばくものが4つあり、それは、主の正義と、主の公平と、主の口のむちと、そのくちびるの息である。
イエス様の御口からは御言葉という”むち”が出、また息(ルアッハ:霊、聖霊)によって全世界の人々を裁く。
私達も、主の御言葉によって「鞭打たれる」時があり、その時、自分が犯してしまった罪を悲しむが、それで悔い改めるなら、救いと安息を得る。しかし、もし主の御口の鞭を受けても悔い改る事がなく、罪を犯し続けるなら、やがてアッシリアやバビロンのような厳しい鞭が来て、その高慢は、強制的に切り倒されてしまう。
主の御口から流れ出る御言葉と、主を知る事の霊が行き巡る所は、どんな世界へと変わって行くか。そこは、どんな猛獣も動物も、互いが互いを害さず、皆、同じ食物を食べ、平和に共存するようになる。(6-9節)
生き物の「食」が変わるのは、尋常な事ではない。ライオンがどんなに頑張った所で、他を襲って食い物にする本能は、変えられない。しかし、主の御口から流れて来る御言葉と、主の霊によって支配されるなら、いかにライオンのような、熊のような、ヘビのような者であったとしても、そうした獣的な「食い方」は出来なくなり、互いに敵対できなくなって、平和に共存し、同じ食物すなわち「御言葉」を共に食べるようになるのだ。
夫婦や家族などの人間関係で、相手の気に食わない性質や言動を見つけたなら、攻め、追求し、引き裂き、食らいついていた性質も、主を知る知識が覆って主の霊に満たされ支配されるなら、無くなるのだ。
『彼らはわが聖なる山のどこにおいても、そこなうことなく、やぶることがない。水が海をおおっているように、主を知る知識が地に満ちるからである。』(9節)
エッサイの根株から出た若枝・キリストの統治が広がっていくと、主は、その御手を翼のように広げ、各地に散っている残りの民を覆って買い戻される。そしてエッサイの根は、旗印となって高く掲げられ、全世界に散らされた神の民イスラエルは、エッサイの根を求め、集まって来るようになる(10-12節)。イスラエルの中の敵対関係は解消され(13節)、彼らを長らく虐げていた国々はかすめ奪われるようになる(14-15節)。
イエス・キリストというエッサイの根が伸びていく所には、知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊に満たされ、正しく物事を判断できるようになり、どんなに獣のような人であっても、平和な人へと造り変えられる。エッサイの根が伸びて行くと、散り散りにされている主の民は集められて来る。
主を恐れ敬うなら、主の霊が、私達に留まる。しかし主の言葉を受けても全く変わらず、ただ自分の望みを為し得たいと主張し続けるなら、切り倒す斧が待っている。私達はこの所を、主の民が集う「聖なる山」とし、海が水で満ちているかのように、この日本という地を、御言葉教育によって主を知る知識で覆い、主の民を集めて行く働きの一端を担って行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
罪の問題を主に解決していただいた「幸いな人」(詩篇32篇)
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詩篇32篇 ダビデのマスキールの歌
これは7つの悔い改めの詩篇(6,32,38,51,102,130,143篇)の中の1つである.マスキールの意味は明確ではないが,8節の「悟りを与え」と同じ言葉であり,アモ5:13の「賢い者」と同語であることから,「教訓的な」内容の詩篇という理解もある.13の詩篇に表題として用いられている.47:7の「巧みな歌で」が〈ヘ〉マスキールであることから,演奏上技巧を要した曲を指すものと思われる(実用聖書注解)
詩篇32:1 そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。
32:2a 主によって不義を負わされず
詩篇32篇も、詩篇1篇と同様、「さいわいである(アシュレイ)」という言葉から始まる。
どういう人が幸いな人か。
まず、「罪がおおい消される者」、また、「主によって不義を負わされず」の人である。
イザヤ書1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。「紅(トラー)」のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
雪が大地を覆うと、大地がいかに汚くとも、一面銀世界となるが、その雪の下は、相変わらず汚いままである。
しかし「主によって不義を負わされ」ないという、本質的に罪の問題が解消される段階がある。
それは、新しいいのちへ生まれ変わる段階である。
このイザヤ1:18で使われている「紅」という言葉は、ヘブライ語でトラー、ことさら「ミミズ」をあらわす故、ミミズの色である「紅」と訳されている。
主はイザヤを通して、あなたの罪が、ミミズのように醜く汚らわしく、そして赤くても、雪のように、羊の毛のようになる、と言って下さった。
私達が罪人として、ミミズのように地を這いつくばって塵を食べるような生き方は、もはや死へと明け渡し、神の子として生まれ変わららされたのは、イエス様が私達の身代わりとなって、人間以下に、虫けらのようになって、私達の罪と刑罰を一身に負ってくださったからだ。(詩篇22:6)
詩篇32:2b その霊に偽りのない人はさいわいである。
ダビデは「霊に偽りのない人」はさいわいである、と言った。
私達は、口先と心を裏腹にして偽る事は良くする。しかし霊は正直であり、自分で自分を偽りようが無い。
しかし、霊が自分の犯した罪を知っていて、主からも指摘されておりながら、それを主の御まえに認めず、悔い改めないまま残している状態が、霊に偽っている状態である。
ダビデは、そのような状態にあった時の苦しみを、以下のように告白している。
詩篇32:3 わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。
32:4 あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。〔セラ
自分の罪を言い表さなかった時には、次の「損」がつきまとう。
すなわち、一日中苦しみうめき、御手が重くのしかかり、あたかも夏のひでりに枯れ果てるような思いがするのだ。
楽になるためには、罪を告白し、悔い改めて、その重荷を下ろす事である。
詩篇32:5 わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ
罪は誰でも犯すが、その罪を赦される人と、赦されずに災いを背負って行く人とに別れる。
赦される人とは、自分の犯してしまった罪に、心痛め、主に告白して悔い改め、そこから離れようとする人である。
しかし、罪を犯す事に躊躇せず、罪を指摘された時も、いややっていない、と言うような人には、打ち叩きの杖がいつも付きまとう。
それ故、主に対しては、思い出す限り、罪を告白しなくてはならない。
主は、気づかせる。ちょうど、ヤコブの子ユダに隠している罪を気づかせたように。(創世記38章)
そして、気付かされた後、その自分の罪についてどうするかという判断は、本人の自由意志に任されている。
主は私達キリスト者には、罪を犯した時に苦しいと思える心を与えて下さるが、それは特権である。
そして告白して悔い改めたなら、主はその罪をゆるし、きよめて下さる。
1ヨハネ1:8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
1:10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。
それで私達は、はばかることなく主に祈ることができる。
32:6 このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。大水の押し寄せる悩みの時にも/その身に及ぶことはない。
32:7 あなたはわたしの隠れ場であって、わたしを守って悩みを免れさせ、救をもってわたしを囲まれる。〔セラ
32:8 わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。
主は私達に、自由意志を与えて下さった。
主は求めておられる。それを用いて、主を愛し、罪から離れる事を。
32:9 あなたはさとりのない馬のようであってはならない。また騾馬のようであってはならない。彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、あなたに従わないであろう。
32:10 悪しき者は悲しみが多い。しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる。
32:11 正しき者よ、主によって喜び楽しめ、すべて心の直き者よ、喜びの声を高くあげよ。
神は思いのままに赦す・赦さないをされるわけではない。赦しには、根拠がある。
その根拠とは、神の御子が身代わりとなってくださった事である。
イザヤ53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
53:6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
まことに主から罪を認められない人は、幸いである。
主に全てを打ち明け、心に後ろ暗い所の無い幸いな人であり続ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
何者にも奪われない平安と実際的な助けが与えられるための効果的な祈り(詩篇31篇)
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- 執筆 :
- pastor 2018-12-6 10:17
何者にも奪われない平安と実際的な助けが与えられるための効果的な祈り(詩篇31篇)
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この詩篇もダビデによるもので、彼が敵に追われていて、命の危機が迫っている中、救いが必要な状況の中での、主への祈りである。
この詩篇には、何者にも奪われない平安と、実際的な助けが与えられるための効果的な「祈りのコツ」が散りばめられている。
詩篇31篇 聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌
31:1 主よ、わたしはあなたに寄り頼みます。とこしえにわたしをはずかしめず、あなたの義をもってわたしをお助けください。
31:2 あなたの耳をわたしに傾けて、すみやかにわたしをお救いください。わたしのためにのがれの岩となり、わたしを救う堅固な城となってください。
31:3 まことに、あなたはわたしの岩、わたしの城です。み名のためにわたしを引き、わたしを導き、
31:4 わたしのためにひそかに設けた網から/わたしを取り出してください。あなたはわたしの避け所です。
人は何かと祈る時、「何々を下さい」という願いごとを、連発をしやすいが、彼は祈りの真っ先に、主に対しする彼の信仰告白ではじめている。
それは「聞かれる祈りのコツ」ではあるが、それ以上に、羊が羊飼いに甘えて、どんな事でも羊飼いに持っていくかのような、彼の、主との親しさをよく表している。
彼は主に彼の思いのたけを、持って行った。
主よ、わたしはあなたにより頼みます、と。
あなたの義によって、わたしを助け出してください、と。
主に向かって、「あなたの耳」を傾けてください、「あなたは」わたしの逃れの岩、「あなたは」わたしを救う堅固な城、という、主に対する告白を織り交ぜながら、彼がこの危機から救われる願いを、主に求めている。
主への呼びかけが無き祈りは、空を打つ祈りである。神との人格的な親しい交わり無き「願い事の投げつけ」は、偶像礼拝者の祈願と変わりが無い。
私達キリスト者の祈りは、主との交わり、主とのコミュニケーションなのだ。
詩篇31:5 わたしは、わが魂をみ手にゆだねます。主、まことの神よ、あなたはわたしをあがなわれました。
31:6 あなたはむなしい偶像に心を寄せる者を憎まれます。しかしわたしは主に信頼し、
31:7 あなたのいつくしみを喜び楽しみます。あなたがわたしの苦しみをかえりみ、わたしの悩みにみこころをとめ、
31:8 わたしを敵の手にわたさず、わたしの足を広い所に立たせられたからです。
この5-8節は、主語が「あなた」、すなわち、神である主となっていて、主はいかなるお方であるのかという表明と、そして、主は今まで何をして下さったのか、という、今まで与えられた恵みを数える彼の信仰告白である。
主は彼をあがなわれ、むなしい偶像に心を寄せる者を憎まれ、いつくしみで喜び楽しませて下さるお方であり、彼の苦しみをかえりみ、彼の悩みに御心を留め、彼を敵の手に渡さず、彼の足を広い所に立たせられた。
このように、主はいかなるお方であるのか、という宣言をするなら、自分が願い求める祈りに「万軍の主の御名」という裏付けが取れて、その祈りは土台のしっかりした、確証の取れた祈りとなり、大胆に主に願う事を告白することができる。
それで続く祈りで、ダビデは、主に対して切々と現状を訴えている。
31:9 主よ、わたしをあわれんでください。わたしは悩み苦しんでいます。わたしの目は憂いによって衰え、わたしの魂も、からだもまた衰えました。
31:10 わたしのいのちは悲しみによって消えゆき、わたしの年は嘆きによって消えさり、わたしの力は苦しみによって尽き、わたしの骨は枯れはてました。
31:11 わたしはすべてのあだにそしられる者となり、隣り人には恐れられ、知り人には恐るべき者となり、ちまたでわたしを見る者は避けて逃げます。
31:12 わたしは死んだ者のように人の心に忘れられ、破れた器のようになりました。
31:13 まことに、わたしは多くの人のささやくのを聞きます、「至る所に恐るべきことがある」と。彼らはわたしに逆らってともに計り、わたしのいのちを取ろうと、たくらむのです。
これらの祈りは、「わたしを」「わたしは」「わたしの」、、、と「わたし」づくであったが、しかし、その前にダビデは、主がいかなるお方であるのかをしっかり宣言した、その裏付けがもうあるので、安心して自分の状況を洗いざらい告白して、スに全部聞いていただき、助けを求めることが出来たのだ。
31:14 しかし、主よ、わたしはあなたに信頼して、言います、「あなたはわたしの神である」と。
31:15 わたしの時はあなたのみ手にあります。わたしをわたしの敵の手と、わたしを責め立てる者から救い出してください。
31:16 み顔をしもべの上に輝かせ、いつくしみをもってわたしをお救いください。
31:17 主よ、わたしはあなたに呼ばわります、わたしをはずかしめないでください。悪しき者に恥をうけさせ、彼らに声をあげさせずに陰府に行かせてください。
31:18 高ぶりと侮りとをもって正しい者をみだりにそしる/偽りのくちびるをつぐませてください。
ダビデが「あなたはわたしの神である」としたなら、彼の全ての問題は、主の手の中に移った。
主の御手の中に匿われているダビデを攻め立てる敵は、主の御手に対して攻め立てる事となり、主があとは取り扱って下さるようになる。
私達も、御言葉の裏付けが取れた主と自分との関係を宣言をした後に、洗いざらい主に自分の状況を告白し、主に聞いていただいたなら、平安が与えられるのだ。
31:19 あなたを恐れる者のためにたくわえ、あなたに寄り頼む者のために/人の子らの前に施されたあなたの恵みは/いかに大いなるものでしょう。
31:20 あなたは彼らをみ前のひそかな所に隠して/人々のはかりごとを免れさせ、また仮屋のうちに潜ませて/舌の争いを避けさせられます。
31:21 主はほむべきかな、包囲された町のようにわたしが囲まれたとき、主は驚くばかりに、いつくしみをわたしに示された。
31:22 わたしは驚きあわてて言った、「わたしはあなたの目の前から断たれた」と。しかしわたしがあなたに助けを呼び求めたとき、わたしの願いを聞きいれられた。
ついに彼は、心底主をほめたたえることができる平安へと至る。
祈るなら平安が与えられ、そしてその揺るぎない平安は喜びになり、さらには賛美へと昇華して行くのだ。
最後に彼は、聖徒たちへの勧めによってこの詩篇を閉じている。
31:23 すべての聖徒よ、主を愛せよ。主は真実な者を守られるが、おごりふるまう者にはしたたかに報いられる。
31:24 すべて主を待ち望む者よ、強くあれ、心を雄々しくせよ。
ダビデは幾度も命の危機があったが、ことごとく主に守られるという経験をして来た。
それは、何かある度に、主に対して彼は真実であったからだ。
またダビデは、それまで数多の敵が沸き起こった。
サウル、ナバル、アブシャロムなど、主に対しておごりふるまう者に相対して来たが、主はことごとくそのような者達を、厳しく扱われた。
私達も、ダビデのように、主と自分との関係をはっきり宣言し、主と親密に交わる祈りをして行くなら、どんな局面でも平安が与えられ、具体的な助けが与えられ、この地上において、高い者とされて行くのだ。
この時代においてダビデのように主の栄光を表す器として、大いに用いられる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!
インマヌエル - 主がともにおられるしるし:処女がみごもる(マタイ1:18-23)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 定期祈祷会メッセージ
- 執筆 :
- pastor 2018-12-5 7:53
インマヌエル - 主がともにおられるしるし:処女がみごもる(マタイ1:18-23)
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マタイ1:18 イエス・キリストの誕生の次第はこうであった。母マリヤはヨセフと婚約していたが、まだ一緒にならない前に、聖霊によって身重になった。
1:19 夫ヨセフは正しい人であったので、彼女のことが公けになることを好まず、ひそかに離縁しようと決心した。
1:20 彼がこのことを思いめぐらしていたとき、主の使が夢に現れて言った、「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。
1:21 彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」。
1:22 すべてこれらのことが起ったのは、主が預言者によって言われたことの成就するためである。すなわち、
1:23 「見よ、おとめがみごもって男の子を産むであろう。その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」。これは、「神われらと共にいます」という意味である。
2コリント11:2 わたしは神の熱情をもって、あなたがたを熱愛している。あなたがたを、きよいおとめとして、ただひとり男子キリストにささげるために、婚約させたのである。
11:3 ただ恐れるのは、エバがへびの悪巧みで誘惑されたように、あなたがたの思いが汚されて、キリストに対する純情と貞操とを失いはしないかということである。
イザヤ7:11 「あなたの神、主に一つのしるしを求めよ、陰府のように深い所に、あるいは天のように高い所に求めよ」。
7:12 しかしアハズは言った、「わたしはそれを求めて、主を試みることをいたしません」。
7:13 そこでイザヤは言った、「ダビデの家よ、聞け。あなたがたは人を煩わすことを小さい事とし、またわが神をも煩わそうとするのか。
7:14 それゆえ、主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。
創世記3:14 主なる神はへびに言われた、/「おまえは、この事を、したので、/すべての家畜、野のすべての獣のうち、/最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、/一生、ちりを食べるであろう。
3:15 わたしは恨みをおく、/おまえと女とのあいだに、/おまえのすえ(ゼラ:単数形、種、実)と女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、/おまえは彼のかかとを砕くであろう」。
イザヤ8:5 主はまた重ねてわたしに言われた、
8:6 「この民はゆるやかに流れるシロアの水を捨てて、レヂンとレマリヤの子の前に恐れくじける。
8:7 それゆえ見よ、主は勢いたけく、みなぎりわたる大川の水を彼らにむかってせき入れられる。これはアッスリヤの王と、そのもろもろの威勢とであって、そのすべての支流にはびこり、すべての岸を越え、
8:8 ユダに流れ入り、あふれみなぎって、首にまで及ぶ。インマヌエルよ、その広げた翼はあまねく、あなたの国に満ちわたる」。
創世記1:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
1:3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
1:4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
イエス様を信じて生ける水をいただく人、信じないで呪われる人(ヨハネ7:31-53)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(新約) » ヨハネによる福音書
- 執筆 :
- pastor 2018-12-4 6:39
イエス様を信じて生ける水をいただく人、信じないで呪われる人(ヨハネ7:31-53)
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7:31 しかし、群衆の中の多くの者が、イエスを信じて言った、「キリストがきても、この人が行ったよりも多くのしるしを行うだろうか」。
7:32 群衆がイエスについてこのようなうわさをしているのを、パリサイ人たちは耳にした。そこで、祭司長たちやパリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、下役どもをつかわした。
7:33 イエスは言われた、「今しばらくの間、わたしはあなたがたと一緒にいて、それから、わたしをおつかわしになったかたのみもとに行く。
7:34 あなたがたはわたしを捜すであろうが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所に、あなたがたは来ることができない」。
7:35 そこでユダヤ人たちは互に言った、「わたしたちが見つけることができないというのは、どこへ行こうとしているのだろう。ギリシヤ人の中に離散している人たちのところにでも行って、ギリシヤ人を教えようというのだろうか。
7:36 また、『わたしを捜すが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所には来ることができないだろう』と言ったその言葉は、どういう意味だろう」。
7:37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
7:39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。
7:40 群衆のある者がこれらの言葉を聞いて、「このかたは、ほんとうに、あの預言者である」と言い、
7:41 ほかの人たちは「このかたはキリストである」と言い、また、ある人々は、「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。
7:42 キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。
7:43 こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた。
7:44 彼らのうちのある人々は、イエスを捕えようと思ったが、だれひとり手をかける者はなかった。
7:45 さて、下役どもが祭司長たちやパリサイ人たちのところに帰ってきたので、彼らはその下役どもに言った、「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」。
7:46 下役どもは答えた、「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。
7:47 パリサイ人たちが彼らに答えた、「あなたがたまでが、だまされているのではないか。
7:48 役人たちやパリサイ人たちの中で、ひとりでも彼を信じた者があっただろうか。
7:49 律法をわきまえないこの群衆は、のろわれている」。
7:50 彼らの中のひとりで、以前にイエスに会いにきたことのあるニコデモが、彼らに言った、
7:51 「わたしたちの律法によれば、まずその人の言い分を聞き、その人のしたことを知った上でなければ、さばくことをしないのではないか」。
7:52 彼らは答えて言った、「あなたもガリラヤ出なのか。よく調べてみなさい、ガリラヤからは預言者が出るものではないことが、わかるだろう」。
7:53 〔そして、人々はおのおの家に帰って行った。
私達のために永遠の家を建てて下さった主(詩篇30篇)
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詩篇30篇 宮をささげるときにうたったダビデの歌
この詩篇の表題で「宮」と訳されているヘブライ語はベイト、宮の意味もあるが、大きくは「家」の意味である。
ダビデが王となり、自分の杉材の家を建てた時は、もう彼を追い回すサウルは死に、周囲の敵を平定した時だった。
その時ダビデは、神の家を建てるビジョンが与えられた。
2サムエル記7:1 さて、王が自分の家に住み、また主が周囲の敵をことごとく打ち退けて彼に安息を賜わった時、
7:2 王は預言者ナタンに言った、「見よ、今わたしは、香柏の家に住んでいるが、神の箱はなお幕屋のうちにある」。
7:3 ナタンは王に言った、「主があなたと共におられますから、行って、すべてあなたの心にあるところを行いなさい」。
ダビデは、自分は快適に杉材の家で暮らしているというのに、主の箱は、相変わらず粗末な環境にある、と思ったのかもしれない。
しかし主は、人が造った家に住まわれるお方ではない。主は天にも地にも満ちておられ、まどろむ事も眠る事も無く、疲れる事もたゆむ事も無いお方である。
ただダビデとしては、純粋に、主を愛する故に何かしたかったのだろう。
ちょうど子供が、親のために何かしたい、と思っても、それは幼稚で意味が無いものであるかのように。
しかし親は、そんな子供を愛おしく思うものである。
主もダビデを愛おしく思ったのだろう。
主はダビデに、さらに大いなる名誉を与える約束をされる。
『主はまた「あなたのために家を造る」と仰せられる。あなたが日が満ちて、先祖たちと共に眠る時、わたしはあなたの身から出る子を、あなたのあとに立てて、その王国を堅くするであろう。彼はわたしの名のために家を建てる。わたしは長くその国の位を堅くしよう。わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となるであろう。もし彼が罪を犯すならば、わたしは人のつえと人の子のむちをもって彼を懲らす。』(2サムエル記7:11-14)
主のための家を建てたいと願っていたダビデだが、なんと主は、ダビデのために永遠に堅く続く家をたてる、と言われたのだ。
永遠の王が、ダビデの家系から誕生する、と。
ダビデは主を愛する故に、素晴らしい栄誉が与えられる。
詩篇30:1 主よ、わたしはあなたをあがめます。あなたはわたしを引きあげ、敵がわたしの事によって喜ぶのを、ゆるされなかったからです。
30:2 わが神、主よ、わたしがあなたにむかって助けを叫び求めると、あなたはわたしをいやしてくださいました。
30:3 主よ、あなたはわたしの魂を陰府からひきあげ、墓に下る者のうちから、わたしを生き返らせてくださいました。
主はダビデを、多くの敵や危機から救い出し、ここまで引き上げてくださったゆえに、ダビデは主に賛美し、感謝を捧げている。
キリスト者であるなら、主に向かって助けを求めたなら主が答えてくださった、という経験を何度かしているだろう。
何度も危ない橋を渡っても、なおも主は自分を王とし、鍛えつつ守って来て下さった事を経験して来たダビデの人生は、まさに私達にとって良き手本となる。
詩篇30:4 主の聖徒よ、主をほめうたい、その聖なるみ名に感謝せよ。
30:5 その怒りはただつかのまで、その恵みはいのちのかぎり長いからである。夜はよもすがら泣きかなしんでも、朝と共に喜びが来る。
ダビデはさらに、聖徒たちに、このような素晴らしい主をほめたたえるようにと、勧めている。
聖徒の「聖」は、その漢字を分解すると、耳と口と王であり、また「徒」の彳は「少しづつ歩む」の意味で、それと共に「走」という語から成る漢字である。
つまり、聖徒とは、耳と口を王へ捧げ、王なるお方と共に歩み、王のために信仰の競争を走り抜く者達なのだ。
聖徒はすべて、ダビデが勧めているように、この、王なる主をほめ歌い、聖なる御名に感謝すべきなのだ。
詩篇30:6 わたしは安らかな時に言った、「わたしは決して動かされることはない」と。
30:7 主よ、あなた恵みをもって、わたしをゆるがない山のように堅くされました。あなたがみ顔をかくされたので、わたしはおじ惑いました。
ダビデは安全になった時、動かされることはないと思ったが、しかし主が御顔を隠される経験をした。
それは、決して思い上がってはならず、結局私達を山のように動かされないようにして下さるのは、神であるという事を示すためだったのだろう。
詩篇30:8 主よ、わたしはあなたに呼ばわりました。ひたすら主に請い願いました、
30:9 「わたしが墓に下るならば、わたしの死になんの益があるでしょうか。ちりはあなたをほめたたえるでしょうか。あなたのまことをのべ伝えるでしょうか。
30:10 主よ、聞いてください、わたしをあわれんでください。主よ、わたしの助けとなってください」と。
彼は、人生の中で幾度も命の危険にさらされた。決して自分の力では勝ち得ない敵、不足、困窮、孤独など。
それに出会う都度、彼は主に祈り求め、主はその都度、ことごとく危機から救い出して下さった。
私達キリスト者も、幾度、そのような経験をして来ただろう。
そして私達が祈る都度、主はいかに誠実に祈りに答えて来られた事だろう。
詩篇30:11 あなたはわたしのために、嘆きを踊りにかえ、荒布を解き、喜びをわたしの帯とされました。
30:12 これはわたしの魂があなたをほめたたえて、口をつぐむことのないためです。わが神、主よ、わたしはとこしえにあなたに感謝します。
主を恐れ敬う者には、嘆きを踊りに、灰の代わりに冠を与えてくださる。
イザヤ61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
61:2 主の恵みの年と/われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、
61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。
主の前に低くへりくだり、灰と粗布をまとって悔い改める聖徒を、主は、プライドをかけて守ってくださる。
イエス様は、本来救いからほど遠い私達を、十字架の血潮によって救ってくださり、嘆きを踊りへと、悲しみを喜びへと、灰を冠へと替えて下さった。
それ故私達も、私達の主イエス様に感謝のいけにえを捧げるのである。
主日礼拝
マリヤのようにキリストを宿らせる人とは(ヨハネ1:1-14)
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成田エクレシア礼拝 音声
本日より、待降節(アドベント)に入る。クリスマスというと、イエス様の誕生日というイメージがあるが、イエス様は、乙女マリヤから生まれた時が存在の最初ではない。御言葉なるキリストは、初めからおられ(ヨハネ1:1)、父なる神のふところにおられ(18節)、その彼が、乙女マリヤの胎を通して赤ちゃんとしてこの世に降りて来られたのである。待降節とは漢字の通り、イエス様が私達へ降りて来られるのを待ち望む期間なのだ。
待降節で良く語られる乙女マリヤは、イエス様を懐妊した事で特別視されているが、ご存知だろうか、私達もキリストを宿す事ができるのである。キリストが喜んで宿る人とはどういう人か。本日はそれを学びたい。
『しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。そして言は肉体(サルクス)となり、わたしたちのうちに宿った。』(ヨハネ1:12-14)
イエス様の言葉が私達に宿る時、私達もマリヤのように、キリストを宿しているのである。肉(サルクス)とは、神を除外した人間的な考え方・肉体的な力を行う部位で、そこには、罪の棘が刺さっていて罪に傾く性質があるが、御言葉であられるイエス様を信じ、受け入れた人は、彼がその人の中に幕屋を張って、宿られる。
だから、御言葉を内に存在させればさせる程、肉の中の罪に傾く性質は、イエス様が除去して下さるのだ。
主は私達に、御言葉を心に存在させるよう命じられた。『きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に「留め(ハヤー)」』(申命記6:6) このハヤーはヘブライ語のbe動詞で、大祭司アロンの末裔のゲイリー・コーエン博士は、ここのハヤーは、その言葉を「存在させ、溢れさせる」意味だ、と言った。
神様の言葉が人の内に「存在」している時、通常はおとなしくしているが、イエス様が「取り扱いたい」と願っておられる人が目の前に来た時や、その状況に接した時、内に存在しておられる御言葉が、激情と力と共に溢れ出て、そこを治める。だから御言葉を豊かにハヤーしている人のメッセージは、力があるのだ。
聖霊によってキリストを身ごもったマリヤは、私達の型である。彼女は聖霊によってキリストを宿したように、私達も聖霊によってイエス様を主と呼び(1コリント12:3)、そうしてイエス様が私達の内に宿られた。(14:20)
マリヤは、イエス様を身ごもった直後、エリサベツに会いに行ってあいさつしたが、エリサベツは、そのあいさつを聞くと、胎の子が喜びおどり、彼女も聖霊に満たされて、言った。 『あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。…主のお語りになった事が必ず成就すると信じた女は、なんと幸いな事でしょう。』(ルカ1:42-45)
御言葉であられるイエス様を信じ、イエス様を宿した人を「キリスト者」と呼ぶが、キリスト者の交わりは、このマリヤとエリサベツのような交わりである。私の内に主が宿り、相手にも主が宿っているなら、あいさつの一つで、共に主の存在の喜びで溢れるのだ。御言葉をハヤーしている人が発する言葉には、力がある。
現代のユダヤ人の挨拶は「シャローム」であるが、当時のユダヤは、ルツ記の挨拶を取り交わしていた。
『ボアズは、ベツレヘムからきて、刈る者どもに言った、「主があなたがたと共におられますように」。彼らは答えた、「主があなたを祝福されますように」。』(ルツ記2:4) この、「主があなたがたと共におられますように」(インマヌエル)と、「主があなたを祝福されますように」(バラク)の挨拶を、呼び交わす事が、元々のユダヤ人の挨拶であったが、戦争や迫害を経ていく内に、短くなって、現代の「シャローム」になったという。
御言葉であられるイエス様を宿したマリヤが、エリサベツの家に入って、「主があなたがたと共におられますように」という言葉を発した時、その御言葉の込められた彼女のあらゆる信仰、愛、喜び、感動が、エリザベツの胎の子を喜び踊らせ、エリザベツを聖霊に満ち溢れさせ、本来は「主があなたを祝福されますように」と返すのだが、彼女は声高く叫んだ。「あなたは女の中で祝福されたかた」「私の主の母が来た」、と。
主の言葉をハヤーさせた人、すなわちキリストを宿らせている人は、このようにいのちを喜ばせ、そして、そのような、御言葉をハヤーさせた集団の中には、生き生きとした喜びが満ちているのだ。
御言葉は、ただ暗記すれば良いというものではない。マリヤのように、主のお語りになった事は、必ず成就する、と信じた人こそ、祝福された人である。キリストの言葉を豊かに住まわせ、知恵をつくして互に教え、また訓戒し、詩とさんびと霊の歌とによって、心から神をほめたたえ、感謝するこの一同でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!