メッセージ - 20210906のエントリ

エゼキエル書講解説教

聖なるものを正しく計るものさしを得よ(エゼキエル40:1-5)

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前章までの所では、神に敵対する勢力への最終的なさばきが示され、それによって、神の民に平和が訪れる事が示された。
ここでさらに、新しい幻が与えられる。
それは、新しい神殿の幻である。
 
エゼキエル書は、この40章以降、神殿の詳細な様子や寸法が次々と示されて行く。
さらに神殿に関する規定が示され、祭儀規定が示されて行く。
それらが示されて行った後には、神殿からいのちの水の川が流れ出し、いのちがみなぎっていく幻へと入って行く。
 
そして最後に、神の民の相続地が示されてから、エゼキエル書は終わる。
エゼキエル書の最後の言葉は、以下である。
 
エゼキエル48:35 町の周囲は一万八千キュビトあり、この日から後、この町の名は『主そこにいます』と呼ばれる」。
 
「主そこにいます(ジェホバ・シャマー)」。
これこそ、エゼキエル書の結論であり、そしてそれは、神殿の完成において、実現する。
 
神殿とは、神と人とが出会い、交わる場所である。
ソロモン神殿がバビロンによって破壊されてしまった理由は、人の側が契約を破り、それを何度も、長年、戒められて来たのに、改めなかった事による。
 
だから、神殿が回復されるのは、ただ、誠実なる主のゆえ、主の一方的な憐れみによるもので、主の契約こそが、まことに真実であったという事が、明らかにされるためである。
 
そして、神殿が回復される事は、神と人との関係が、神と人との交わりが、回復される事を意味する。
何と幸いな事であろうか!
しかも、新約を生きる私達キリスト者は、神の神殿となっており、いつでもイエス様との交わりができるのだ。
この恵みは、どれほど、計り知れない事だろう。
 
エゼキエル40:1 われわれが捕え移されてから二十五年、都が打ち破られて後十四年、その年の初めの月の十日、その日に主の手がわたしに臨み、わたしをかの所に携えて行った。
 
エゼキエルやダニエル達が、捕囚の民としてバビロンに連れて来られたのは、紀元前597年、そして、エルサレムが陥落したのが、紀元前586年であるので、彼がこの幻を見たのは、それから14年後、紀元前573-572年の事である。
 
なお、その幻が与えられた日は、「その年の初めの月の十日」と書いてある。
年の初めの10日といえば、過越の祭りにおいて、ほふられるべき羊を、家ごと・家族ごとに用意する日である。(出エジプト12章)
主はその、ほふられるべき犠牲の羊を用意する日、エゼキエルに幻を見せて下さったのだ。(後述)
 
40:2 すなわち神は幻のうちに、わたしをイスラエルの地に携えて行って、非常に高い山の上におろされた。その山の上に、わたしと相対して、一つの町のような建物があった。
 
その神殿は、イスラエルの地の、非常に高い山、と示されている。
神殿はエルサレムのシオンの丘に建てられるものであるが、その場所は、確かに高台ではあるものの、「非常に高い山」とは言えない。
これは、どういう事だろうか。
イザヤ書に書かれてある。
 
イザヤ2:2 終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、
2:3 多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。
2:4 彼はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。
 
つまり、主の家の山が非常に高くなるのは、「終わりの日」なのだ。
もし、これらの預言の直接的な実現は、前章の終わりまでに述べられていた順番通りである、とするなら、まずユダヤ人の改心と回復が行われ、彼らに聖霊の注ぎがあり、ゴグとマゴグの滅亡の後に、行われるのだろう。
 
40:3 神がわたしをそこに携えて行かれると、見よ、ひとりの人がいた。その姿は青銅の形のようで、手に麻のなわと、測りざおとを持って門に立っていた。
 
ここに、姿は青銅の姿のような人(イシュ:男)が現れた。
このように、通常の人ではない人が、はかりざおを持って現れて、これから起こるべき事が告げられたのは、ゼカリヤも、使徒ヨハネも経験している。(ゼカリヤ2:1、黙示録1:15)
 
エゼキエル40:4 その人はわたしに言った、「人の子よ、目で見、耳で聞き、わたしがあなたに示す、すべての事を心にとめよ。あなたをここに携えて来たのは、これをあなたに示すためである。あなたの見ることを、ことごとくイスラエルの家に告げよ」。
40:5 見よ、宮の外の周囲に、かきがあり、その人の手に六キュビトの測りざおがあった。そのキュビトは、おのおの一キュビトと一手幅とである。彼が、そのかきの厚さを測ると、一さおあり、高さも一さおあった。
 
エゼキエル書は、これ以降、神殿の詳細な様子と寸法が、次々と示されて行く。
出エジプト記においても、神殿の前身である幕屋と、そこに属する諸々の祭具の詳細な様子と寸法が、示されていた。
 
建築物や諸々の道具というものは、正確な寸法が示されないなら、実際に建てる事はできない。
もし建築家が、どんぶり勘定な寸法の設計図が手渡されたなら、叩き返すだろう。
それは、無理もない事である。
 
ところで私達は、「イエス様という神殿の本体」を、どんぶり勘定で測ったりしていないだろうか?
「私達という神殿」の人生設計をする時、私達は、正確な”ものさし”を用いて、正しく寸法を測っているだろうか?
どんぶり勘定など、していないだろうか?
 
私達は、正確な寸法を計るために、真正の「ものさし」を使わなければならない。
その真正のものさしとは、何か。
 
ここで、「さお」と訳されたヘブライ語は「カーネ」、「カノン」の元の言葉で、全ての基準、また規範を表わす言葉である。
まことのカノン、すなわち、全ての完全なる基準は、神の御言葉以外の、何者でもない。
 
ところで、エゼキエル40章においては、当時用いられていたキュビトに、一手幅が追加されたキュビトが用いられている。
 
当時のイスラエルで用いられていたキュビトは、ひじから指先までの長さ(およそ44.5)であったが、ここでは、一手幅が追加されたキュビト(およそ51.9僉砲、神殿やそれに付随する聖なるものを計る基準として、用いられているのだ。
エゼキエルに示された幻の神殿は、この、従来のキュビトに一手幅を足したものさしを用いて、計られていく。
 
では、一手幅が加えられる事には、何の意味があるのだろうか。
 
この幻は、いつ与えられたか。
それは、ほふられるべき犠牲の羊を、準備するべき日に、だった。
ほふられるべき犠牲の羊は、十字架でほふられるイエス様をあらわしている。
だから、ここに足された一手幅は、まさにイエス様の御手をあらわしているのではなかろうか。
 
神殿の本体はイエス様であり、そして、現代の私達キリスト者は、イエス様を宿らせた、神の神殿である。
 
私達が、イエス様を測る時、そして、私達クリスチャン自身を測る時、旧約のトーラーという、従来の古いものさしだけで測っても、正確なはかりは出来ない。
私達・人間は、旧約のトーラーだけで計ると、どうしても目方が足りない、不完全な者であり、イエス様の十字架抜きの旧約聖書は、ユダヤ人が今そのジレンマに陥っている通り、救いは無い。
 
十字架のキリストの手が加えられたものさしで計らなくては、「聖なるもの」を、正しく計測出来ないのだ。
 
ユダヤ人は、トーラーという、古いものさしは持っているものの、「十字架の手」は持っていない。
また、キリスト者は、「十字架の手」は持っているものの、多くは、トーラーという「ものさし」を軽んじている。
 
ユダヤ人は結局、手幅の足りないものさしで計り続けているため、救いを得られないし、また、クリスチャンも、もし旧約聖書を軽んじているとするなら、彼らは「手幅」だけで測っているようなものである。
 
だから私たちは、旧約聖書と、十字架の手の、両方を兼ね備えた「ものさし」で、計るべきである。
終わりの時代において、主人公となる人とは、「神の戒めを守り、イエスのあかしを保っている者たち」と書かれてある。(黙示録12:17、14:12)
 
だから、旧契約と、新契約の御言葉を、そのまま暗唱し、テフィリンする事が大事なのである。
それによって、正しいものさしを、私達の心に、脳に、刻みつける事が出来、その人は、「歩く正しいものさし」になれるのだ。
その人は、行く所どこでも栄え、何をしても成功する。(詩篇1篇、ヨシュア記1:8)
 
エゼキエルは、この、正しいものさしを持っているお方が、次々と神殿を計測して、その計測結果が与えられれば、与えられる程に、主からの示しや預言が次々と与えられて行く。
このはかりで測るなら、測るほど、いのちを生き返らせる水が、さらに深く、深くなって行き、そのいのちの川を、測って行けば行く程、潤いが増し、木が生え、いのちが増え、魚も群がって行き、漁師までも住む場所となって行く。
 
ハバクク2:14 海が水でおおわれているように、地は主の栄光の知識で満たされるからである。
 
主の栄光を、全地に満たして行くのは、誰だろう。
それは、旧新約の御言葉をテフィリンした事によって、正しいはかりを手にする、私達テフィラーである。
 
エゼキエルのミッションは、以下だった。
 
エゼキエル40:4 その人はわたしに言った、「人の子よ、目で見、耳で聞き、わたしがあなたに示す、すべての事を心にとめよ。あなたをここに携えて来たのは、これをあなたに示すためである。あなたの見ることを、ことごとくイスラエルの家に告げよ」。
 
イエス様も、言われる。
イエス様にあって見たこと、聞いたことを、あかししなさい、と。
全世界に出て行って、福音を伝えなさい、と。
 
イエス様は既に、いっさいの権威が、与えられ、そして彼は、世の終わりまで、いつも私たちと共におられる。
 
海が水で覆われているように、 主の栄光をさらにこの地へと満たして行く皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!
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