テマン人エリファズによる「決めつけ」(ヨブ記4章)
メッセージ音声
【概要】
ヨブ記4章のテマン人エリファズの最初の言葉と、彼が体験した「霊」の正体、そして使徒パウロの神秘体験との比較を通して、因果応報の思い込みの危険性と、御霊によって歩むことの大切さを学ぶメッセージです。
【聖書箇所】
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ヨブ4:1-2
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ヨブ4:3-5
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ヨブ4:7
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ヨブ4:10-11
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ヨブ2:3
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ヨブ4:12-16
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ヨブ4:17-21
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Ⅰヨハネ4:1-3
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2コリント12:5
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2コリント12:7-10
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2コリント3:6
【戒めの言葉】
前提条件が間違った思い込みで人を裁いてはならないこと。また、文字(人の言葉、格言、因果応報の考え方)だけで人を裁いたり慰めようとすることは、かえって人を殺してしまうこと。
【励ましの言葉】
弱さの中にこそ主の力が現れる。侮辱や迫害、困難な目に遭わされても、それを喜ぶことができる。
【勧めの言葉】
神秘的な体験や霊的な現象に触れた際は、その霊が神からのものかどうかを御言葉によって吟味すること。また、御霊に導かれて歩み、御霊によって本当に傷ついている人を癒し、励まし、愛し、赦し、慰めていく者となること。
【***詳細***】
本日の御言葉はヨブ記4章です。はじめに1節と2節を宣言します。「するとテマン人エリファスが話し始めた。もし人があなたに言葉を投げかけたら、あなたはそれに耐えられるか。しかし、誰が語らないでいられるだろう。」
いよいよヨブ記の4章に突入し、ヨブの3人の友人たちの議論が始まります。ここから3章から37章に至るまで、長い長い論争が始まったわけですが、ヨブはそれまで7日7晩黙っていました。友人たちも黙っていました。そして、その沈黙の中で心の中で練りに練って醸成し発酵したものが、まず最初にヨブに吹き出たものが、自分の生まれた日を呪うということでした。自分は生を受けていない方がましだった、ということです。そして、そのヨブの吹き出した言葉に応じて、先に言葉を発したのがテマン人エリファズでした。ですから、この友人3人たちの中で、一番兄貴格であったと思われます。
このエリファズが来たのは、そもそもヨブを慰めるためだったのです。ヨブに対して良くなってほしいという動機から来たのですが、ヨブが最初に発した言葉、7日7晩黙って最後にヨブが発した言葉に、ついにテマン人エリファズが耐えきれなくなって、言葉を出さずにいられなくなりました。3節から見ますと「見よ、あなたは多くの人を訓解し、弱った手を力づけてきた。あなたの言葉はつまずいたものを起こし、崩れ折れる膝をしっかりさせてきた。しかし今、これがあなたに及ぶと、あなたはそれに耐えられない。これがあなたに至ると、あなたはおじまどう。あなたの敬虔さはあなたの確信ではないか。あなたの誠実さはあなたの望みではないか。」
ヨブ、あなたは健全な時は多くの人々を言葉によって諭して正してきたではないか。それなのに、いざ災いが自分に及ぶと、あなたは途端に自分は耐えきれないのか、というふうに言うのです。エリファズはそもそもヨブがそういうふうに人を正すことができたのは、また以前は祝福を受けてきたのは、ヨブが神様を恐れて正しかったからではないかということを言いたいのです。
7節からこういう風に言います。「さあ、思い出せ。誰か潔白なのに滅びたものがあるか。どこにまっすぐなのに立たれたものがあるか。私の見てきたところでは、不法を耕して害悪をまくものが、自らそれらを刈り取るのだ。彼らは神の息吹きによって滅び、右怒りの息によって消え失せる。」
エリファズがヨブに言いたい言葉は、誰が潔白なのに滅びたものがあるか、まっすぐなのに立たれたものが一体あるだろうか、不法を耕して害悪を撒くものが自らそれを刈り取る、私の見てきたところではそうだ、ということです。つまり悪を行った者がその悪の実を刈り取る、いわば因果応報です。これは世の中の哲学や宗教では非常におなじみの思考のパターンです。
さらに10節、11節。「獅子のうなり声、猛る獅子の声がする。しかし、若獅子の牙は砕かれる。雄獅子は獲物がなくて滅び、雌獅子の子らは散っていく。」これは、あくどいものにした者がどんなにライオンのように唸り声をあげて弱いものをいじめていたとしても、それでも神様がそれを打ち砕くということを言っているのです。
ですからエリファズは、ヨブに何か罪があるから、何か訴えどころがあるから、こういう徹底した災いに、痛い目に遭っているのだということを、ずっと思い巡らし、それがやがて決めつけになって、その決めつけによってヨブにこの因果応報の法則を当てはめているのです。しかし、ヨブの場合は全く事情が違うのです。
そもそもこのヨブに何か訴えどころがあった、何か悪を行ったから打たれたのではないかという、そのエリファズの思い込みなのですが、そもそも神様はヨブに対してこういうふうに評価していました。2章3節でサタンに対して主はこう言われています。「お前は私のしもべヨブに心を留めたか。彼のように誠実ですぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない。彼はなお自分の誠実さを固く保っている。お前は私をそそのかして彼に敵対させ、理由もなく彼を飲み尽くそうとしたか。」
神様はサタンに、「お前は理由もなく彼を飲み尽くそうとした」と言っています。このヨブには、打たれる理由はそもそもなかったのです。ヨブを理由もなく打ったのはサタンでした。ですから、エリファズが言っていること、主があなたにこう打たれたのはあなたに害悪があったからではないか、これはそもそも間違っているのです。真実は、サタンが理由もなくヨブを打った、これが史実なのです。けれども、テマン人エリファズは決めつけで、思い込みで、そういうふうにヨブに何かこういう理由があったからではないかというふうに決めつけました。それに対してヨブは違うと言うのですが、他の友人もいや、そうだ、お前には悪の理由があったからだ、というふうに、そういう展開がこれからずっとされていくのです。
そもそも前提条件が間違っているのです。例えば、林パスターが何かあくどいことをしたからではないか、あくどいことを思っているからこのことをしたのでしょう、というふうに、ゆえもない理由を、いや違いますと言いかけると、いや、そうに違いないと決めつけて、多くの言葉でなぎ倒す。そういった感じのことです。ヨブはそもそも前提条件が間違っている友人の思考、その言葉の仕掛けによって、この37章に至るまでの議論がずっと展開されていき、それでもうヨブは苦しかったのがもっと苦しい目にあって、ついにはヨブは神様に対しても挑戦的な態度を取るようになっていきます。あまりにもこの前提条件が間違った議論の吹きかけの応酬が、心を痛ませ、怒らせ、そしてついに言ってはならないことまで言うようになってしまうのです。ヨブ記から本当にそのようなことを学ぶべきです。ヨブ記は本当にそのような議論、心が痛まれるような言葉の応酬によって満ち溢れております。
正しくないから災いを受けるんだ、という友人たちの主張、因果応報は通念的な思想ではありますが、皆さん、世の中にはそんな因果応報の四文字で片付けられるような単純明快なことで進まないことがたくさんあります。正しい人なのに災いを受けるということ、また悪どいのに災いを受けないということ、そういったことは世の中いっぱいあるのです。因果応報という言葉では言い切れないようなことがたくさんあります。しかも、ヨブに限っては本当にそのような不条理を受けているのです。
それに対してエリファズはさらに畳みかけます。もう一つの思想を次の5章において言うのですが、その前に自分が体験した神秘的な体験を披露するのです。12節から16節まで読みますと、「ある言葉が私に忍び寄り、そのささやきを私の耳が捉えた。夜の幻で思いが乱れ、深い眠りが人々を襲うとき、おののきと震えが私に降りかかり、私の骨骨の多くがわなないた。ある霊が顔の上を通り過ぎ、私は身の毛がよだった。それは立ち止まったが、私はその顔立ちを見分けられなかった。しかし、その姿は私の目の前にあった。静寂。そして私は次のような声を聞いた。」
ある霊がある夜、エリファズに臨みました。このことについて、聖書と仲介の方では次のように書いてあります。幻は必ずしも神の啓示とは限らない。思い乱れるというのは悪夢にうなされるということで、霊、ヘブライ語でルアハは、普通は目に見えない存在だが、ここでは姿を持っている。だから聖書的な意味での霊というより、幽霊のような存在を指している。女性名詞だが、ここでは例外的に男性形の動詞で受けているのもそのためだろう。
では、この霊が言っている言葉の内容はどういう内容だったか。17節以降にあります。「人は神の前に正しくあり得ようか。その造り主の前に清くあり得ようか。見よ、神はご自分の僕さえ信頼せず、御使いたちのうちにさえ誤りを認められる。まして、塵に土台を据えた泥の家に住むものはなおさらのこと。彼らはシミよりもたやすく押しつぶされ、朝から夕方まで打ち砕かれ、永久に滅ぼされて誰も顧みない。彼の天幕の綱は確かに取り去られる。彼らは知恵がないために死ぬ。」
このエリファズが出会った霊は、どういう存在、どういう正体であるのか。これは言っていることや、また体に現れた反応によって見分けることができます。まず、この霊がエリファズに臨んだ時、どういう反応がエリファズに現れたかというと、14節、15節にありますように「おののきと震えが私に降りかかり、私の骨骨の多くがわなないた。ある霊が私の顔の上を通り過ぎ、私は身の毛がよだった。」何か薄暗い、いわくつきの物件に入ると、身の毛がぞわっとするようなことがあります。聖霊に満たされると体は熱くなりますが、悪霊は寒くなります。偶像礼拝をしているある家に入ると、外の気温と十度ぐらい体温が違うような、室内の温度が低かったような、エアコンもつけてないのに、なんかそういう感じがすることがあります。聖霊は熱くなりますが、悪霊は寒くなります。
また、この霊が言っている神様の評価はどうでしょうか。14節では「人は神の前に正しくあり得ようか、その造り主の前に清くあり得ようか。」確かにそうです。人は神の前に正しくあり得るだろうか。誰もそんな人はいません。しかし18節以降、「神はご自分の僕を信頼しない。御使いたちにさえも誤りを認められる。」誤りを認めて指摘するのは、神様でしょうか、サタンでしょうか。サタンの場合、御言葉によって見分けることができるのです。まして、「塵に土台を据えた泥の家に住むものはなおさらのこと。」人間は塵、土台、泥の家に住むものというふうに評価しており、「彼らはシミよりもたやすく押しつぶされ、朝から夕方まで打ち砕かれ、永久に滅ぼされて誰も顧みない。」確かに悪魔サタンからすれば、神様は押しつぶされる側、朝から夕方まで打ち砕かれる側ですね。悪霊は神様をそのように評価します。そして偶像礼拝する人も、真の神様を何かひどい神というふうに評価するのです。
21節「彼らの天幕の綱は確かに取り去られる。彼は知恵がないために死ぬ。」確かに、悪霊サタンは一部分は聖書の言葉を引用しますが、しかしその大部分に泥を混ぜるのです。もし100%のカレーではなく99%のカレーで1%ヒ素が、毒が混じっていたら、それは大変です。悪霊サタンのやり方はそうです。神様のピュアな純粋な神の言葉にちょっとした毒を混ぜ込むのです。それで神様はひどい存在だ、そういう存在だ、ということで、神様から離れさせるということをするのです。
この霊に対して、私たちはどのように対処すべきでしょうか。ある人が霊を見たとか、礼拝中にこの辺に神様がいて、なんかすごく神秘的な体験をした、まあそういう神秘的なことを持ち出す人はいるのですが、そういう場合、私たちはどういうふうに対処すべきか、ヨハネが対処方法を教えてくださっています。第一ヨハネの手紙4章1節から見ますと「愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出てきたので、その霊が神からのものかどうかを吟味しなさい。神からの霊はこのようにしてわかります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊は皆、神からのものです。イエスを告白しない霊は皆、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。」あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。
さて、テマン人エリファズです。彼は長らく議論の言葉を語っているのですが、残念ながらその中には主、主ジェホバの言葉は一つもありませんでした。その言葉が神様から来たものかどうかは、イエス・キリスト主を告白しているかどうかによって分かることができます。エリファズはまず真っ先に神秘体験を披露しました。
では、パウロはどうだったでしょうか。パウロもたくさんの神秘体験をしましたが、あまりにもそれを告白しなかったために、逆にコリントの人たちから貶められてしまった経験をしました。第二コリント12章のところです。コリントの人たちはあまりにも他の偽教師たちに惑わされていました。偽教師たちは真っ先に神秘体験や、自分はアブラハムの子孫だといった外面的なことを言うのですが、それに引き換えパウロはなっていないと言われてしまいました。コリントの人たちもその讒言を信じてしまい、それでパウロはこの手紙を書いたのです。
パウロもまた主の幻と啓示を見ました。第三の天にまで引き上げられて、人には語ることが許されていないような言葉を聞いた。パラダイスに引き上げられて、そのような体験をしたのですが、パウロは12章5節でこう言っています。「このような人のことを私は誇ります。しかし私自身については、弱さ以外には誇りません。たとえ私が誇りたいと思ったとしても、愚か者とはならないでしょう。本当のことを話すからです。しかし、その啓示があまりにも素晴らしいために、私について見ること、私から聞くこと以上に、誰かが私を過大に評価するといけないので、私は誇ることを控えましょう」。
パウロはあまりにも素晴らしい神秘体験をしたけれども、誇ることのないように黙っていたのです。そして自分がその体験をしたのに、「私が」ではなく「キリストにある一人の人」がこういう体験をした、というふうに語っています。コリントの人たちがあまりにも聞き分けがないので、あえてそのように語り、「あなたがたはついに私を愚か者にしてしまいましたね」とまで言っているのです。
しかもパウロは、いろんな体験をして、いろんな示しを神様からいただいたけれども、高慢にならないようにと、ヨブと同じようにサタンから撃たれました。何も悪いことをしていないのに災いに遭うということは、確かにあるのです。12章7節から見てみましょう。「その啓示の素晴らしさのために高慢にならないように、私は肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高慢にならないための、私を打つためのサタンの使いです」。パウロは明確に、サタンの使いが自分を打ったと言っています。ヨブと同じです。「この使いについて私から去らせてくださるようにと、私は三度主に願いました。しかし主は、私の恵みはあなたに十分である。私の力は弱さのうちに完全に現れるからである、と言われました。ですから私は、キリストの力が私を覆うために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私はキリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱い時にこそ私は強いからです」。
私たちにも弱さがあります。侮辱を受けることもあります。噂話や迫害、困難な目に他人から遭わされることもあります。でもパウロはそれを全部喜んでいます。なぜなら、弱い時にこそ主が強いから。侮辱を甘んじて受ける、弱いかのように見える、でもその時こそ私は強い。主の力が現れるからです。何か悪どいことをされても、それに対する仕返しは主のすることであって、自分が何かするのではなく、主にお任せするべきなのです。パウロもヨブも同様に、何も悪いことをしていないのに打たれる所以がないにもかかわらず打たれました。けれども、悪いことをしたからではありません。それは主が教えてくださるためだと、パウロは悟りました。何を教えてくださるのか。「私の恵みはあなたに十分である。私の力は弱さのうちに完全に現れる」ということです。パウロもヨブと同様に、悪いことをしたのではないけれども苦難を受けて苦しみましたが、それによってさらなる主の深さを知り、さらなる幸いを得ていきました。そして、さらなる真理に近づいていったのです。
今朝、私たちが受けるべきことがあります。この世の中は一筋縄ではいきません。この世の哲学や宗教は因果応報という一つの格言で物事を片付けようとしてきます。けれども、私たちは何によって歩むべきか、何によって人を慰めていくべきでしょうか。第二コリント3:6にこう書いてあります。「神は私たちに新しい契約に仕えるものとなる資格をくださいました。文字に仕えるものではなく、御霊に仕えるものとなる資格です。文字は殺し、御霊は生かすからです」。ヨブの友人たちは、文字でヨブを殺しにかかってきました。本人たちはそれで人を慰められると思っていたかもしれませんが、あいにく主の御名がない文字は人を殺してしまいます。ただ、御霊に仕えるものとなる資格が私たちには与えられていると書いてあります。新約において、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって御霊が与えられ、御霊に導かれるのであるならば、道を誤ることなく、本当に傷ついた人を、御霊によって癒すことができます。
私たちもこの主の御霊に導かれて歩んでいきましょう。いつも主と親しくして、共に歩み、御霊に満たされて、本当に困っている人、傷つけられている人を励まし、愛し、赦し、慰め、そして本当に立て上げていく。そのような者となっていきますように。
続いて祈りの中で、次のようなことが語られました。鼻で息をする人はみな、神の御前において不完全な存在です。神の御心にかなった者は一人もおらず、信じている者、信じていない者の差はあっても、みな神の目の中で生きています。もし神様が私たちの行いの良し悪しによって私たちを顧みてくださるだけの方であるなら、神様の御前に立てる人は一人もいません。しかしこの日のエリファズの話を通して、私たちは神様がいかに憐れみ深く、私たちを愛してくださる方であるかをよりくっきりと知ることができました。神様は私たちの行いに応じてではなく、その愛と憐れみと赦し、その恵みによって私たちを測ってくださる方だからこそ、私たちは今もこのように生かされています。
ヨブでさえも、神の御前において完全な者ではありません。しかし神様の祝福が取り払われ、あたかも正しいことを言うかのような友人たちを前にして、ヨブ自身も変わり果ててしまうことを証明しました。主は良いものを限りなく与え、それを受けて豊かに生きることをご自身の誇りとし、良くない様を見ると、それを憐れみ、赦し、恵みを惜しみなく与えてくださる神です。
人がいかにおびただしく言葉を並べても、人の言葉には真実がありません。エリファズの言葉にもそうでした。真実な言葉は主だけです。人がどれほどそれらしく御託を並べても、その中には見下しがあり、蔑みがあり、私意があり、詮索があり、優しそうな言葉であっても実は攻撃に過ぎません。エリファズの言葉を最初から最後まで見ていると、「あなたが人々の役に立っていた時は良かった。これだけの不幸が起きているのを見ると、あなたの生き方に問題があったのではないか」という調子です。しかし私たちは、人の役に立っているから存在価値が高まるのではなく、主によって赦していただいた、愛していただいた、恵んでいただいた、憐れんでいただいたことをいかに覚えて生きるかにこそ、真の存在の意義があります。
どんな時にも人の言葉に心を奪われ、自分自身の信仰にある人格を崩してしまうことがないように。何かあった時には、イエス様にあって自分自身の口を制することができるように。人の言葉によって災いがさらに大きくなることのないように。地に伏して主と向き合い、「憐れんでください」と主に求めることができますように、との祈りが捧げられました。
【結論】
エリファズはヨブを慰めるつもりで来ましたが、因果応報という前提条件が間違った思い込みから、ヨブに罪があるのではないかと決めつけてしまいました。実際にはヨブは理由もなくサタンに打たれたのであり、神様ご自身がそのことを証しされています。私たちも、間違った前提で人を裁くことがないよう気をつけなければなりません。また、エリファズが体験したような神秘的な霊的体験についても、その内容や現れ方を鵜呑みにせず、御言葉に照らして吟味することが大切です。イエス・キリストを告白する霊こそが神からのものであり、そうでない霊は反キリストの霊であることを、私たちはⅠヨハネ4:1から学ぶことができます。
さらに、パウロの神秘体験と苦難の経験をヨブと比較することで、私たちはこの世の因果応報という格言では人を本当に慰めることはできないことを学びます。私たちは御霊に仕えるものとされた者として、主の恵みと憐れみを心に留め、弱さの中にこそ現れる主の力に信頼し、傷ついた人々を御霊によって癒し、励まし、赦し、慰める歩みをしていきましょう。人の言葉ではなく、主の恵みと御霊によって歩むことこそが、真に人を生かす道なのです。