「神は」から「あなたは」へ − 神様に対して三人称から二人称への大転換(ヨブ記7章)

 「神は」から「あなたは」への大きな転換(ヨブ記7章)

メッセージ音声

【概要】

ヨブ記7章から、苦しみの中でヨブが神様との関係を「三人称」から「二人称」へと大転換させた瞬間を学び、私たちも神様と一対一の親密な関係を築くよう促されるメッセージです。

【聖書箇所】

  • ヨブ7:1-3

  • ヨブ7:4-6

  • ヨブ7:7-9

  • ヨブ7:12-15

  • ヨブ7:17

  • 詩篇8:4

  • ヨブ7:20-21

  • イザヤ1:18-20

【励ましの言葉】

苦しみや辛さの矛先を人にではなく、神様に向けて叫びましょう。神様こそが真の回答をくださいます。

【勧めの言葉】

神様を「神様は〜だ」という三人称ではなく、「あなたは」という二人称で、一対一の親密な関係を築きましょう。

【戒めの言葉】

主と論じ合わず、人に愚痴を言い続けているなら、罪は拭われず、かえって剣が迫ってきます。

【悔い改めの促しの言葉】

主と向き合うなら覆いは取り除かれます。口を塵につけ、主に向き直りましょう。

【***詳細***】

今日、恵みをいただく御言葉は、ヨブ記の7章です。ヨブ記7章の初め、1節から3節を宣言いたします。

「地上の人間には苦役があるではないか。その日々は日雇い人の日々のようではないか。日陰を喘ぎ求める奴隷のように、金銀を待ち焦がれる日雇い人のように。そのように、私には徒労の月日が割り当てられ、労苦の夜が定められている。」(ヨブ7:1-3)アーメン。

私たちはヨブ記から、本当に私たち人間の有様、陥りやすい罠を数多く学んでいます。前回、ヨブからのその言葉がありました。ヨブはテマン人エリファズからの正論、因果応報という世の中にあまたある哲学的な言葉に対して、「あなたは水なし川のようだ」と訴えました。砂漠の中を通ってきて、やっと水を見つけ、川のところにたどり着いたと思ったら、そこは全く水がない川だった、と。そこにヘッセド、つまり恵み、慈しみがないとするならば、その言葉は水が全くない川のようだ、と言ったのです。

ヨブは、日夜迫りくる痛みや痒み、また心の悲しみが、本流のように、津波のように押し寄せる、その辛さを友人たちに訴えたつもりでした。ところが友人たちは、その言葉を嵐のような正論で返してきたのです。ヨブは友人に慰めを求めた、ヘッセドを求めた、けれどもそれはなかった。四方八方が塞がれてしまったような状態です。

皆さんは、恨み、辛み、辛さが沸き起こって友人に電話をかけたけれども、友人が自分の思った反応をしてくれなかったとするなら、その訴えの矛先をどこに向けるでしょうか。また新たに別の友達の番号を探して、その友達に訴えて、それでもまだ望んだ回答が得られなかったら、また別の番号に訴える、ということをすぐにするでしょうか。私は皆さんに「いいえ」と言ってほしいのです。もし皆さんに訴えたい言葉があるとしたら、人にではなく、神様に訴えてください。神様は皆さんに真の回答をくださいます。そういう人は、第三者から見れば、「あの人、あんなに辛い目にあったのに、なんで自己完結しているの、なんで私たちに相談しないで、あんなにすっきりした顔になるの」と思うかもしれません。けれどもそれは、神様に訴えたら、神様が解決をくださるからなのです。

ヨブは6章までは、確かにたくさんの訴えを友人にしてきました。神様についてもたくさん語ってきました。けれども、それまでのヨブの神様に対する価値観は、どこか客観的な、第三者的な言葉でした。三人称的な言葉だったのです。むしろヨブの神様についての言葉は、6章まで全部、三人称だったのです。1章では「主が与え、主が取られる。主の御名はほむべきかな」と、神様に対してではなく、第三者に語っています。3章では、ヨブの訴え、苦しみ、恨み、辛みがあるのですが、それは全部「神様が苦しめたゆえに」という言葉でした。6章、前回のところでは、友達に対する言葉であって、神様についての言葉は一切ありませんでした。

ところが、このヨブの、神様について誰かに語る言葉が、なんとこの7章で大転換するのです。7章で彼は、ヨブ記の中では初めて二人称で神様に対して「あなた」と語りかけます。神様との一対一の関係が、この7章によって始まるのです。これはヨブ記全体の中で最初の瞬間です。あたかも赤ちゃんが生まれたかのような、それほどの転換点が、このヨブ記の7章にあるのです。それまで神様に対して客観的に「神は〜、神は〜」と言っていたのが、神様に向かって一対一であるかのように「あなたは」という二人称の関係が、7章で始まるのです。

皆さんが伝道して救われたばかりの生徒がいると思います。その生徒の信仰が大いに前進する瞬間、それはまさに、神様を「神様は」という三人称で呼びかけていたのが、「神様、あなたは」という二人称に変わる時です。その生徒が神様との一対一の関係を持った瞬間から、赤ちゃんが生まれたかのように、大転換を始めていくのです。私たちは本当に、この神様に対して二人称で語っていくべきなのです。

でも、まだこの7章の初めのほうでは、ヨブは友人たちに対して語っています。4節から見ますと、「私は横になる時に言う。いつ起き上がれるだろうかと。夜は長く、私は夜明けまで寝返りを打ち続ける。私の肉はウジ虫と土くれをまとい、皮膚は固まってはまた崩れる。私の日々は機の梭よりも早く、望みのないままに終わる。」(ヨブ7:4-6)ヨブはもう、夜も眠れない。体中が痒みと膿、またウジが湧いて出てくる。その中を転げ回るほかありません。睡眠も奪われるほどの苦しみの中で叫んでいるのですが、その矛先を友人に向けていました。すると友人はただ、言葉に対して言葉、正論で返してくるだけでした。

それが大転換するのです。もし皆さんが、人がいる間だけ「神様は〜」と言って、神様と一対一で向き合わないとすれば、それは貧弱な関係です。神様との一対一の関係を皆さんが持っていないとするなら、神様は苦しみをもたらしてでも、その関係を築こうとされることもあるかもしれません。私たちはそうなる前に、すぐにでも神様と一対一の関係を持つべきです。

続く箇所でヨブの言葉遣いがはっきりと変わります。今まで「神は」という三人称だったヨブの中の神様が、「あなたは」という二人称に変化して、主との直接の関係に入っていきます。7節から見ますと、「心に留めてください。私の命が息に過ぎないことを。私の目は再び幸いを見ることはありません。私を見る人の目は、もう私を認めることはありません。あなたが私に目を留められても、私はもういません。」(ヨブ7:7-8)この方は荒削りではあるのですが、しかし「あなたは」「心に留めてください」と言っています。

「心に留めてください」、新改訳第三版では「思い出してください」。これはヘブライ語のザカールの命令形です。ザカールは、契約の相手にしか訴え出られない言葉です。「思い出してください、契約を思い出してください」という、切実な訴えの言葉です。ですからヨブにとっては、この神様との関係は切れていないという前提で、この言葉をしているのです。もしヨブが、神様は見捨てた、神様とはもう無関係だと言っていたら、この言葉は出てきません。神様との関係は切れていないという前提で言っているのです。

続いて9節から、「雲は消え去ります。そのように、陰府に下る者は登ってはきません。その人はもう自分の家には帰れず、彼の家ももう彼のことがわかりません。」(ヨブ7:9)ヨブは、たとえ家に帰ったとしても、もう誰も家の人はヨブだと認めないとまでになってしまった。8節では、私を見る人間の目はもう変わってしまった、もう誰も私を認めてくれない、と。だからヨブは、矛先がどこに変わったかというと、神様に変わったのです。ヨブにとって、もう「神様、あなたしか訴える相手はいません」となったのです。

続く箇所、12節から、「私は海でしょうか、それとも竜でしょうか。あなたが私の上に見張りを置かれるとは。寝床が私を慰め、床が嘆きを負ってくれると私が思っても、あなたはいくつもの夢で私をおののかせ、幻によって私を怯えさせます。」(ヨブ7:12-14)ヨブは神様に向かって、「あなたが私にこんなにも見張りを置かれるとは一体何事ですか。私は竜なのですか。ドラゴンだから、こんなに見張るのですか。夜の寝床がせめて慰めをもたらしてくれるかなと思ったのに、あなたは夢でおののかせ、幻によって怯えさせます」と言うのです。もうこんなにも絶え間なく、神様からじっと凝視され、見つめられている、それは重荷にしか感じられない、と言うのですが、裏を返せば、神様は絶え間なく見ておられる、関心を持っておられるという証拠でもあるのです。

15節、「私の魂は窒息を、私の体ではなく死を選びます。もう嫌です。いつまでも生きたくありません。構わないでください。私の日々は虚しいものです。」(ヨブ7:15-16)そして、「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに心を留められるとは。朝ごとにこれを訪れ、その都度これを試されるとは。」(ヨブ7:17-18)「人とは何者なのでしょう」という問いに入りました。

皆さん、聞き覚えがあるかもしれません。詩篇でダビデが、「人とは何者なのでしょう。これを御心に留められるとは」(詩篇8:4)と言っていますね。ダビデがその言葉を発したのは、天の万象を見て、この自然界の荘厳さ、素晴らしさ、その秩序の素晴らしさを見て、この問いを発し、そして賛美へと進めていったのです。けれどもヨブは、絶え間ない苦しみの中から、ダビデと同じ言葉に行き当たったのです。出発点はまったくもって正反対です。

その正反対の出発点から、同じ問いかけに移行した理由、それは、神様が人に対して「私と一対一の、二人称の関係を持ちなさい」というところに行き着かせたいからなのです。ダビデは自然界の素晴らしさを見てそこに行き当たり、ヨブは絶え間ない苦しみからそこに行き当たりました。皆さんは、自然界の素晴らしさを見て神様と一対一になりたいですか、それとも苦しみの中で行き当たりたいですか。自然界の素晴らしさを見て、そこに行き当たりたいですね。皆さんはそうあるべきです。

17節の「人とは何者なのでしょう」からわかること、これはつまり、神様は人間を特別扱いしておられるということです。ヨブは苦しみの中から、「あなたはなんでこんなにも私を特別扱いしておられるのですか」と見出しました。ダビデは自然界の中のちっぽけな自分を見て、そこに行き当たりました。

ヨブはさらに20節から続けます。「私が罪ある者だとしても、人を見張るあなたに、私は何ができるでしょう。どうしてあなたは私を標的とされるのですか。私は自らを重荷としなければならないのですか。どうしてあなたは私の背きを許さず、私の咎を取り去ってくださらないのですか。私が今、塵に横たわらなければならないとは。あなたが私を探しても、私はもういません。」(ヨブ7:20-21)

このヨブの言葉は、決して礼儀正しい言葉ではありません。荒々しいです。食ってかかるような、神様に対する問いかけです。でも神様は、これを待っておられたのです。「いつまでですか」「なぜですか」「あなたに対して私は一体何をしたというのですか」「私は竜なのですか、海ですか」――そういう「なぜ」「あなたは、あなたは」という問いかけで満ちています。けれどもヨブは、こういう荒々しさの中でも、神様に対して二人称で向き合ったというのが、偉大な前進なのです。皆さんも偉大な前進をしてください。

ヨブは「どうしてあなたは私の背きを許さず、私の咎を取り去ってくださらないのですか」と問いかけました。この問いにあえて答えるとするならば、なぜ罪を拭ってくださらないのか。毎朝イザヤ書一章を宣言している皆さんは、その答えを知っているはずです。主と論じ合っていなかったから、罪が拭われていないのです。

主は仰せられます。「さあ、来たれ。논じ合おう。たとえあなた方の罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ紅のように赤くても、羊の毛のようになる。もしあなた方が喜んで聞くなら、この国の良い物を食べることができる。しかし、もし拒んで背くなら、剣に食い尽くされる。主の御口がこう語られる。」(イザヤ1:18-20)

主と論じ合う、主と向き合うならば、豊かに許され、火のような罪が、雪のように、羊の毛のように白くされる。けれども、もし拒むならば、剣によって食い尽くされてしまう。ヨブはあまりにも三人称で神のことを語る関係だったから、剣が迫ってきたのです。皆さんも、もし主と一対一で関わりを持たないとするならば、剣が迫ってきてしまいます。剣が迫ってきて、ようやく「ああ、主よ」と主と一対一の関係を持つ人は幸いな人です。

この「論じ合う」「言い争う」「主と議論する」、これを主は招いておられるのです。神様との対話は、綺麗な御託を並べる必要は一切ありません。綺麗に整えられた言葉でなければ神様と論じ合えない、というわけではないのです。ヨブは荒れ狂った嵐のような言葉でしたが、それでも主が望んでおられたのは、一対一の親密な関係だったのです。

皆さんが夫婦喧嘩をしたとします。その中で、「妻がこれこれだ」「夫がこれこれだ」と誰か友人にべらべら喋りまくったとしたら、その夫婦は健全でしょうか。あるいは、夫に、妻に、「あなた、なんでそうなの」と直接相手に言うとしたら、どちらが親密でしょうか。やはり三人称ではなく、二人称で「あなたは」と訴える夫婦のほうが親密ですね。相手に直接言わないで、友達に「ちょっと妻がね、ちょっと夫がね」と言うとしたら、どんどん関係が悪くなっていってしまいます。ですから、相手に対して直接的な関係を持つこと、これが肝心要なのです。

6章まではヨブは友に向かって語りましたが、この7章からようやく神様に対する語りかけが始まっていきます。まだ荒々しく、疑問に満ちた言葉、叫びです。けれども主は、「さあ来たれ、論じ合おう」と言われる主です。正しいこと、御託並べ、綺麗事よりも、むしろ主が求めておられるのは、親しい一対一の関係です。

先ほど祈りの中で、「人が主に向くなら覆いが取り除かれる」と言われましたが、その通りです。主に向くなら、覆いは取り除かれるのです。皆さんが本当に辛い時、主に向かって叫びましょう。人に愚痴っていては、神様は何も言われず、むしろ剣が迫ってきます。主と一対一の関係を持って、ますます主と親密になっていく。災いにあってようやくではなく、ダビデのように、何を見るにつけても、「人とは一体何者でしょうか。あなたが私に心を留められるとは」と、主と親密な関係を持っていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。

【結論】

ヨブは6章まで神様を「神は〜」と三人称で語っていましたが、苦しみの果てに7章で初めて「あなたは」と二人称で神様に向き合いました。荒々しくても、疑問に満ちていても、主はその一対一の対話を招いておられます。人に愚痴るのではなく、主に向かって直接叫び、論じ合う時、罪は雪のように白くされ、覆いは取り除かれます。三人称ではなく二人称で、主との関係を健全に、より高く、広く、深くしていきましょう。