ゴージャスにボタンをかけ違えてしまったエリファズ(ヨブ記5章)

執筆者:

カテゴリ:

 ゴージャスにボタンをかけ違えてしまったエリファズ(ヨブ記5章)

メッセージ音声

【概要】

ヨブ記5章のエリファズの弁論から、主の御名のない人間的な思い込みで人を裁くことの空しさと危険性を学び、御霊に聞くことの大切さを教えるメッセージです。

【聖書箇所】

  • ヨブ5:1-2

  • ヨブ5:3-4

  • ヨブ5:5

  • ヨブ5:8

  • ヨブ5:9-16

  • ヨブ5:17-18

  • ヨブ5:25

  • ヨブ42:7

  • Ⅰコリント4:5

【戒めの言葉】

先走った裁きを、人間的な思いや決めつけ、当てつけで行ってはなりません。前提が間違っていれば、どんなに麗しい真理の言葉も虚しく響き、ただ人を切り刻むだけで終わってしまいます。

【勧めの言葉】

文字は殺し、御霊は生かします。人を癒し養うためには、まず御霊に聞き、とりなしの祈りをもって主に問うべきです。他人の目のちりを取り除く前に、まず自分の目の中の梁を取り除きましょう。

【悔い改めの促しの言葉】

神様の言葉を混ぜて語る狡猾な言葉に騙されないよう、御言葉に記されているかどうかをしっかり見極め、神からのものか闇からのものかを仕分けることが必要です。

【***詳細***】

今日はヨブ記5章に入ります。はじめに1節と2節を宣言いたします。

「さあ、呼んでみよ。だれか、あなたに答える者はいるか。聖なる者のうちのだれのところにあなたは向かうのか。いらだちは愚か者を殺し、ねたみは浅はかな者を死なせる。」(ヨブ5:1-2)

素晴らしい主イエス様の御名をほめたたえ、賛美いたします。私たち人間は間違いが多いものですが、主は完全なお方です。私たちがこの御霊に満たされるのであれば間違えることはありません。けれども、主抜きで、御霊なしで、何か物事を解決しようとするならば、私たちはだいたい間違えてしまいます。ですから、このヨブ記から、いかに主の御名がないことが虚しいか、そして主抜きで何かを行うことがいかに間違いを犯しやすいものかを見ていきたいと思います。

4章から、テマン人エリファズの弁論が始まります。この5章に入って、エリファズの言葉はより一層深みに入っていくような格言なんですね。真実があり、またヨブの未来を言い当てているような内容でもあります。ヨブの未来、祝福が2倍になって返ってくる、ヨブが立ち直るということではあるのですが、でも、そんな言葉を発したエリファズは最終的に神様から叱責されてしまうんですね。

なぜ、麗しい格言、より深みに入った真理を解き明かしているにもかかわらず、神様から叱責されてしまうのか。その理由は、そもそものヨブに対する認識の前提が間違った形で格言や真理を語ったからです。前提を間違えているとするならば、どんなに御言葉が真理であったとしても、どんなに素晴らしい言葉を語ったとしても、そもそもが的外れなんですね。

エリファズの言葉を例えて言うならば、彼は本当に素晴らしい手術を行う執刀医の腕を持っていました。手術をするために肺を開きました。その手術の手法も技術も完璧でした。けれども、あいにく病巣は肺にはなかったんです。肝臓が悪いにもかかわらず、肺が悪いんだと言って、肺を手術して切り刻んで引き裂いた。その手法は完璧だったけれども、あいにくそれは的外れだったんです。思い込みで、肺に病巣があると思い込んでいたエリファズは、ヨブはこれこれこうだと決めつけて、言葉で切り刻んで、その後に癒しの言葉を投げかけました。けれども、結局は全くもって無意味だった。むしろただ単に切り刻んだだけで、その傷跡が残ったというだけだったんですね。

主の御名がない、思い込みの人間の言葉は、ただ単に人を切り刻んで、それで終わりにしてしまうだけです。ただ、主の御霊だけが人の奥深くを探ります。そして真の病巣を御霊が照らし出し、ただ御言葉だけがそれを取り除いて、人を癒し、人を生かし、また悪魔サタンを切り刻むことができます。

この5章のエリファズの言葉は、最初とてつもなく辛辣な言葉で始まります。辛辣な真理の言葉で切り刻んで、後半は「神様、悔い改めるならば豊かに赦して癒してくださるぞ」と神様の恵みを語るのですが、最初のボタンの掛け間違いで、的外れなことを言葉で切り刻んでいって、そして最終的に神様の恵みをどんなに語ったとしても、それはとても虚しく響くだけで、むしろ相手を切り刻んだだけで終わってしまうんです。

3節、4節を見ますと、もっとひどい当てつけの言葉があります。

「私は、愚か者が根を張るのを見て、直ちにその住まいを呪った。その子たちは安全からは程遠く、門で押しつぶされても救い出す者もいない。」(ヨブ5:3-4)

暗にヨブを愚か者に仕立てています。エリファズが愚か者の住まいを呪うと、その住まいが倒れて、子どもたちが門で押しつぶされた——ヨブの子どもたちは、家が倒壊して押しつぶされて死んだのですが、その子を失った傷がまだ生々しいヨブに対して、あまりにも酷な言葉ではなかったでしょうか。

辛辣な言葉で人を切り刻んで、痛い目に合わせて、それでその人の悪事を直そうとする、そういうパターンの人がおります。人を痛い目に合わせれば、この子は二度とそうはならないだろうと思っているんですね。けれども、辛辣な言葉で人を切り刻んだら、その言葉がその子に残るものです。腕力で人を殴って黙らせ、痛い目に遭わせて、あくどいことをしないように黙らせるのと同じですね。果たして暴力にしても言葉の暴力にしても、その人が心の底から「私が悪かった」と悔い改める方向に行く確率は、一体どれほどでしょうか。むしろ、傷を受けた痛みをバネにして、相手に対する憎しみを募らせてしまうという危険性のほうがはるかに高いんですね。

相手がなかなか悪の道から立ち返らず、むしろずっと同じ愚かさを繰り返しているとするならば、私たちは自分の言葉が刃じゃなかったかどうか、自分のしたことの動機が主ではなく、相手に対する憎しみが動機ではなかったかどうか、これを探るべきです。

「ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません。主は闇に隠れたことも明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。その時に神からそれぞれの人に賞賛が与えられるのです。」(Ⅰコリント4:5)

先走った裁きを人間的な思いで決めつけ、当てつけでしてはなりません。エリファズは先走って、ヨブは隠れた罪を行ったに違いないと、そもそもボタンの最初が掛け間違えていたんです。

エリファズは5節以降、また因果応報を持ち出します。悪いことをすれば悪いことが起きるよと。けれども、災いが起きたその原因が、そもそも本人の罪が原因だったとは必ずしも限らないんですね。良い人が災いを被ることもあります。ヨブの場合、まさにそうでした。パウロもそうでした。

エリファズはさらに続けます。「私なら神に尋ね、神に向かって自分のことを訴えるだろう。」(ヨブ5:8)けれども、ヨブはもうとっくの昔にそれをしているんですね。災いにあったその日その時に、ヨブは主の御名を最高の賛美で褒め称えておりましたし、奥さんからきついことを言われた時も、神様に任せることをしておりました。

9節以降、エリファズは神様がいかに素晴らしいお方かを語っています。「神は大きくて計り知れないことを行われる」(ヨブ5:9)、「賢い者を彼らの悪巧みで捕らえる」——この格言は使徒パウロが引用するほどの言葉なんですね。けれども、あれだけ刃で切り刻んで決めつけで圧倒した後にそういった言葉を並べても、虚しく響くものです。エリファズは真理の言葉を癒すために放ったのではなく、痛めつけるために使ってしまった後だから、その後にどんな言葉を言っても空虚に響くのです。

子ども教育に携わる私たちは、よく気をつけるべきです。子どもをまず痛めつける言葉で嫌味を言った後に、柔らかい言葉でどんなに言っても響かないものなんです。

「ああ、幸いなことよ。神が叱責するその人は。だから全能者の訓戒を拒んではならない。神は傷つけるが、その傷を包み、打ち砕くが御手で癒してくださるからだ。」(ヨブ5:17-18)この言葉だけ切り出せば、とても美しく真理です。けれども、もう後の祭りです。むしろその言葉が真理であるから、逆にイラつくんですね。

エリファズは25節以降、将来祝福されることをあたかも予言しているようにも語ります。「あなたは自分の子孫が地の青草のように増えるのを知る。」(ヨブ5:25)ヨブの結末そのものを言い当てております。ヨブは実際この後、2倍の祝福を受けて、長寿を全うして死にます。それなのに結局、神様はエリファズを叱責しているんですね。

「主がこれらの言葉をヨブに語った後、主はテマン人エリファズに言われた。『私の怒りは、あなたとあなたの二人の友に向かって燃える。あなたがたが私のしもべヨブのように、私について確かなことを語らなかったからだ。』」(ヨブ42:7)

エリファズの言葉は正しく聞こえ、真理の中にありました。主を褒め称えました。なぜ神様から正しくないと言われたのか。その理由の一つは、前提が間違っていたということです。神様はサタンに対して「お前は理由もなくヨブを陥れた」と言いました。理由がなかったんです。でもエリファズは理由をヨブの隠れた罪に求めました。前提が間違っていたんです。

そして、エリファズの言葉には主が一切ありませんでした。彼は弁論の初めに「私が見たところでは」と始め、今日の章の終わりは「我々が尋ね極めたところはこの通りだ」と締めくくります。始めから終わりまで全部、人間の知恵、人間の思ったところだったんです。そこには主ご自身は一つもありません。

文字は殺し、御霊は生かすんです。だから私たちは御霊を求めるべきなんです。御霊にある人こそが、他の人を養うことができるんです。イエス様は言われました。あなたがたは裁いてはなりません、裁かれないためです。あなたは他人の目のちりを覗こうとするけれど、あなたの目の中に梁があるじゃありませんか。まずその梁を取りのけなさい。そうすれば、人の目のちりを取り除くことができる、と。

私たちはこのエリファズの罠に陥りがちなものです。最初のボタンの掛け間違え、自分の思い込みが掛け間違いをさせます。どんなにボタンがゴージャスな金、銀、宝石でできていても、最初に掛け間違えてはめていくならば、みっともないゴージャスさになってしまいます。どんなに正しい格言、真理でも、前提が間違っているならば、全部が虚しいのです。

私たちは御霊に聞くべきです。御霊による慰め、そしてまずとりなしの祈り、これが肝心です。「主よ、この人はどこに傷があるのですか。示してください。癒してください。憐れんでください。」そうするならば、御霊が次になすべきことを教えてくださいます。御霊に導かれて、人を癒し、この世界に癒しをもたらしていく皆さんでありますように。

最も高慢な罪を犯している者、もっともらしい言葉で人を諭そうとする者、それがいかに忌まわしいかを主が教えてくださいました。エリファズはここで数回、神様の名を呼んでいます。神様を恐れ敬う者にとって、神様を入れていったほうが一番効果があるだろう——そういう狡猾なところが見えます。神様を混ぜて話をすると、人は騙されやすい。特に信仰にある人は。アダムとエバの時もそうでした。悪魔サタンは「神様」という言葉を混ぜて私たちに声をかけ、私たちの思いと心、感情を支配しようとするのです。

御言葉に記されていることかどうかをしっかり見極めて、神からのものか、闇からのものかを仕分けることができますように。黙り込んでこの言葉を聞かなければならなかったヨブが、いかに辛かったか、よくわかります。親しいと言っている人から延々とそれを聞かされる。このことはとても悲しいことです。だから、聞かなければならないことを仕分ける力をください。人のことを長い時間聞いて過ごすことのないように、あなたの御前にひれ伏して、私たち自身のちりに過ぎない口をちりにつけて、「主よ、語ってください。しもべは聞きます」の一辺倒でありますように。

【結論】

エリファズの言葉は真理を含み、神様を褒め称え、ヨブの未来さえ言い当てていましたが、その前提が思い込みで間違っていたために、神様から叱責されました。文字は殺し、御霊は生かします。私たちは自分の思い込みや人間的な知恵で人を裁くのではなく、御霊に聞き、とりなしの祈りをもって、神からのものか闇からのものかを見極め、御霊による癒しをこの世界に届けていく者となりましょう。