ビルダデの罠 − 身につけた知恵知識の押し着せ(ヨブ記8章
メッセージ音声
【概要】
ヨブ記8章のビルダデの言葉を通して、人を教える立場の者が陥りやすい「因果応報の押し着せ」という罠を学び、苦しむ人にはイエス様の性質と御霊によって寄り添うべきことを語るメッセージです。
【聖書箇所】
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ヨブ8:1-2
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ヨブ8:3-6
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ヨブ8:5-7
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ヨブ8:8-15
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ヨブ8:16-19
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ヨブ8:19-22
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ヨブ9
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ヨブ7:11
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ヨハネ9:3
【戒めの言葉】
新しい知識や解釈、神秘体験を身につけると、相手が求めてもいないのに押し着せたくなります。目の前で苦しむ人の身の丈に合わないことを語ってはなりません。知識は人を高ぶらせ、時に相手をもっと傷つけてしまいます。
【勧めの言葉】
人の災いや病を「誰の罪か」と問うのではなく、「この人に神の業が現れるため」と受け止めるイエス様の姿勢に倣うべきです。私たちはイエス様の性質を身につけ、人の心の奥底を探り極める御霊を求め、人を励まし、包み、救いへと導いていきましょう。
【慰め・励ましの言葉】
どんな罪・過ち・病であっても、それを上回って余りある神様の業・癒し・奇跡がイエス様を通して行われます。イエス様は一人一人を見出し、愛の糸をもって引き寄せ、命を捨てて贖ってくださいます。
【***詳細***】
それでは本日の御言葉です。今日恵みをいただく御言葉はヨブ記8章です。
はじめに、1節と2節を宣言いたします。
「次にシュアハ人ビルダデが答えた。『いつまであなたはこのようなことを語るのか。あなたが口にする言葉は激しい風だ。』」(ヨブ8:1-2)
では、一言お祈りいたします。
ハレルヤ。愛するイエス様。あなたの他に、私たちの主はなく、神はおりません。ただ、あなたにより頼みます。今朝もまた、あなたご自身、御言葉であられるあなたに向かい合います。どうか、我らにお降りください。私たちの思い、心、体、耳、すべてあなたに向けられますように。取り次ぐしもべの唇が清められ、ただあなたを大胆に正しく語ることができますように助けてください。初めから終わりまでのすべてを、あなたの支配の御手にお委ねし、我らの愛する主イエス・キリストのお名前によってお祈りをいたします。アーメン、ハレルヤ。主の御名を称え、賛美いたします。
今、ヨブ記から学んでいるのですが、本当に思うに、ヨブ記には私たちが陥りやすい罠、特に働き人、人を教える立場の人が陥りやすい罠をたくさん見ることができますね。
前回は7章を見ました。ヨブはずっと3人称で語られていました。つまり、それまでヨブ記が3人称で語られていたのが、前回の7章ではついにヨブが2人称で、すなわち神様とヨブの2人だけで語るようになったのです。その前は3人称、すなわち友人とヨブと神様で、神様は脇に寄られて第三の人になっていました。その3人目の神様について、ヨブと友人が語っていたのですが、ついにヨブが神様とヨブの2人称で語るようになったのです。
そして、それはとても荒々しいものでした。もう文句を吹っかけるような、そういう2人称の会話だったのですが、しかし、これはとても重要な第一歩でした。ヨブ記の中で、初めてヨブが直接神様に2人称で語りかけたのが、前回の7章だったのです。
そして、ヨブが神様に語りかけたら、神様が答えるかと思いきや、ヨブに答えたのはあいにく神様ではなく、このシュアハ人ビルダデでした。呼ばれてもいないビルダデが、いきなりしゃしゃり出て語り始めた言葉が、こういうものでした。
2節で「いつまであなたはこのようなことを語るのか。あなたが口にする言葉は激しい風だ」と。ヨブが神様に語りかけていたのを、しゃしゃり出て遮っていくのです。
ヨブ記は、その章を追っていくごとに、ヨブが神様に何度も語りかけるけれども、それを友人がしゃしゃり出て遮る、という展開になっています。そして、ついにヨブが切れるんですね。それはまた後の章のお楽しみになっていくのですが、ヨブ自身は、この神様に対して喧嘩を吹きかけるような言葉で語りかけていることを、ヨブ自身わかりきっているのです。
6章のところで、また先の7章11節でも、ヨブ自身がもう自分の言葉は荒々しい風のようだということは、もう分かりきっていることであり、ヨブ自身の口から出てはいるのです。そして、ヨブがなぜそんなに荒々しくなるのか。ヨブが見舞われたいろいろな災い、そのヨブの状況を見るに、ヨブが荒々しくならざるを得ないのは明白なんですね。自明の理です。
ですから、このシュアハ人ビルダデが、「あなたはそんな荒々しい言葉、まるで荒い風のようだ、嵐のようだ」と言っているのですが、そんなことは、例えば、ある人が風邪でひどく咳き込んでいる状態、もう本当に大変なのは見ればわかるのに、「なぜあなたはそんなに激しく咳き込むのか」というような、明後日な指摘をするのと同じようなものです。むしろ、そういう咳き込んで大変な人に対しては、咳き込んでいるその背景を見て、憐れんで、あるいは薬を持ってきてやるなり、そうするのが人としての優しさですけれども。しかし、ビルダデにはそういうことはなく、「あなたの言葉は激しい風のようだ」と指摘するのです。
そしてさらに続けます。3節からの言葉です。
「神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が義を曲げられるだろうか。もしあなたの子らが神の前に罪あるものとなり、神が彼らをそのそむきの手に渡されても」(ヨブ8:3-4)と言っていくのです。
新改訳では、4節、5節、6節が「もし」で始まるのですが、他の口語訳とか新共同訳では、もう明確に、ヨブの子供たちが神様に罪を犯したから、というふうに訳しております。原文のヘブライ語を見ますと、4節、5節、6節がいずれも「イム」というヘブライ語で始まっていて、この「イム」というヘブライ語は「もし」というふうにも訳せますし、また「見よ」というふうにも訳せるんですね。「見よ、あなたは罪を犯した」とも訳せますし、「もしあなたが罪を犯したなら」というふうにも訳すことができます。訳が分かれているんですね。
ちなみに、ある訳では結構激しく訳されています。4節は「あなたの子らが神に対して過ちを犯したからこそ、彼らをその罪の手に委ねられたのだ」と。結構辛辣ですね。前のエリファズは、「ヨブ、あなたに罪があったからこういう災いにあった」という、そういう決めつけをしたのですが、今度はシュアハ人ビルダデが、ヨブの子供たちに言及して、「ヨブ、あなたの子供たちは罪があったからこのように死んだのだ」というふうに、もう罪の決めつけを宣言しているわけです。本当に辛辣ですね。
自分自身が罪を犯したからこんな目にあっている、と言われるよりも、「あなたの子供には罪があったからこんなことになったんだよ」と言われる方が辛辣で、心にグサッと刺さりますね。ヨブはここで切れてもおかしくないのですが、でもヨブはまだ忍耐深いと言いますか、憐れみ深いと言いますか、まだ切れないんですね。徐々に切れて辛辣な言葉にはなっていきます。
5節を見ますと、「もしあなたが熱心に神に求め、全能者に憐れみを乞うなら、もしあなたが純粋でまっすぐなら、今すぐ神はあなたのために奮い立ち、あなたの義の住まいを回復されるだろう」(ヨブ8:5-6)。ここも「イム」というヘブライ語で「見よ」と強調しているんですね。
「もしあなたが神様に求めるなら、憐れみを願うなら、もしあなたが純粋でまっすぐなら、神様は速やかにあなたを回復される」というふうに言っているのです。もう因果応報の強調です。より強い表現をビルダデは言っているのですが、でもヨブは、もうすでに純粋でまっすぐに、神様に真剣に求めて生きているんですね。もう神様ご自身が太鼓判を押されました。1章、2章で「ヨブ以上に純粋なものはいるだろうか」と。あのサタンの前でも、神様はそういうふうにヨブを自慢したほどですから。
ですから、ビルダデが「もしあなたが純粋でまっすぐなら」と言うのは、お門違いなんですね。要は、もうとうの昔に、ヨブ自身が誰よりも義人であることにおいて努力し、頑張って、神様を認めていたのです。ヨブは確かに荒々しい言葉で発言しました。でも、熱心に憐れみを求めました。5節で「もしあなたが熱心に神に求め、全能者に憐れみを乞うなら」と言っていますが、ヨブはついさっきまで、前の章の7章で、神様に荒々しくあったけれども、神様に熱心に求めて憐れみを求めていましたね。それを遮ったのはビルダデの方です。
7節では「あなたの始まりは小さくても、あなたの終わりは極めて大きなものとなる」(ヨブ8:7)と言っています。神様は確かに罪に対しては罰をくださるが、しかし神様に求めるなら豊かに回復してくださり、あなたの終わりは大きなものになる、と言っているのですが、ヨブとしては、もうとうの昔にそれは実施済みなのです。ヨブには全然届きません、全然しっくりきません。
8節を見ますと、「先人に尋ねよう、先祖たちの探求したことを確かめよう」(ヨブ8:8)と、ビルダデは先祖に尋ねなさいというふうに言いました。エリファズは自分の神秘体験を基にしてヨブに言いましたが、ビルダデはこの先人の訓戒を基にしてヨブに迫るんですね。先祖伝来の格言や伝統を根拠にします。
9節から見ていきますと、「私たちは昨日からのもので、何も知らない。私たちの地上の日々は影に過ぎないのだ。彼らはあなたに教え、あなたに語りかけ、その心から言葉を発しないだろうか。パピルスは沼地がなくても育つだろうか。葦は水がなくても伸びるだろうか。まだ若芽の時に引き抜かれもしないのに、他の草に先立って枯れる。すべて神を忘れる者の道はこのようだ。神を敬わない者の望みは消え失せる。その人の確信はか細い蜘蛛の糸。その信頼は蜘蛛の巣だ。自分の家に寄りかかると、家はそれに耐えきれない。これにすがりついても、それは持ちこたえない」(ヨブ8:9-15)。
ビルダデは、蜘蛛の巣に寄りかかる家という、そういう先人の見事なたとえを用いてヨブを諭したのですが、でもビルダデにしても、エリファズにしても、ヨブを何か納得させたり、ヨブの心にかなうようなことは言えませんでした。このエリファズにも、このビルダデにも共通していること、それは、目の前にいるヨブを見ていないということです。目の前のヨブに見合ったことを言っていないのです。
エリファズが体験した神秘体験にしても、ビルダデが用意した先人の訓戒にしても、今、目の前で苦しんでいるヨブの身の丈が全然合っていないのです。皆さんは、身の丈に合っていない洋服を押し着せられて嬉しいでしょうか。いやですね。
なぜ、こういうことがビルダデにしてもエリファズにしても起きるのか。特に人を教える立場に立つと、こういうことが起きやすいですね。ちょっとでも知識を蓄えると、ちょっとでも世の中の優れたやり方を身につけると、それを披露したがるんですね。ちょっとでも機会があると披露したがるんです。
高級なダイヤの指輪を買ったら、途端にちょっとでも披露したくて、こうやってキラキラキラキラ披露したがるんですね。新しい電動ドリルを買ったら、「あの、ちょっと穴を開けるものはないか」と言って、早速試したがるんですね。何か新しい格言を身につけると、そういうふうに何か新しいことを試したがるんです。
新しい聖書解釈を身につけたと、それを聞くと、相手が求めてもいないのに、それをやたら披露したがるんです。ユーチューブで「水を飲めば健康になる」というのを見たら、相手が「ちょっと最近疲れてるんだよね」と言ったら、「水を飲みなさい」と。「ちょっと最近なんか疲れやすくなってるんだよ」と言ったら、「水を飲みなさい」と。もう何でもかんでも、相手に似合っていない押し着せをするんですね。新しい聖書解釈、新しい格言、新しい神秘体験。それを経験すると、相手が全然求めていないのに、それを押し着せしようとするようなものなんです。
本当に私たちは、人を教える立場になってくると、特にそういう罠に陥りがちなので、私たちはこのビルダデの罠に気をつけるべきです。
16節から見ますと、「神を敬わないものは日に当たって青々と茂り、その若枝は庭に生え出る。その根は石塚に絡まり、石造りの家に生え広がる。しかし、彼がその場所から取り除かれるなら、その場所は彼を見たことがないとそぶく」(ヨブ8:16-18)。
ここでもまた、「罪を犯したから災いが起きた」という、そういった公式の押し着せですね。これは、ヨブの友人たちだけのものではありません。私たちも本当に陥りやすいものです。「あの人が今こんな目にあっている。何の罪を犯したんだろうか。あのことが悪い、この方が悪い、あなた何をしたの」と、そういうふうに聞きたがるところがあるのが私たちであり、またイエス様の弟子たちもそうだったんですね。
「あの人が盲目に生まれついたのは、この人が悪いからですか、それとも親が悪いからですか」というふうに、弟子たちはイエス様に言いましたね。ヨハネの福音書の9章のところです。この弟子たちの問いは、まさにこのビルダデの罠であり、また私たちが陥りやすい罠です。「この人がこういう状態なのは、この人が悪いから、あの人が悪いから。誰が罪を犯した、どんな罪を犯した。罪を犯したら災い、因果応報。けれども神様に求めるなら神様は豊かに赦してくださる」。そういった押し着せです。
これに対して、イエス様はどういうふうに答えたか。冒頭で宣言しましたね。ヨハネの9章3節、「イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神の業が現れるためです』」(ヨハネ9:3)。
アーメン。あの人の罪、この人の罪、あの人の災い、この人の痛み、あの人の不健康、病気、事故、そうした諸々を、罪に求めてはなりません。たとえそうだとしても、神様の栄光がこの人を通して現れる、というふうに私たちは受け止めていかなくてはならないのです。
あの人がこういう状況だと、じっと目を凝らして、「何か罪を犯さないかな、過ちを犯さないかな、間違えた、やっぱりだ」と、それですぐに指摘する。こういうビルダデの罠に、皆さん陥ってはならないのです。イエス様に習うべきなんです、皆さん。
ケマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファル。この人たちは、七日間ヨブをじっと見つめ続けました。「この人は罪を犯した、過ちを犯した、それでこうなったんだ」と。そうやってじっと見つめ、あれこれ考えを蓄えた結果、こういう明後日な方向に向かってしまう働き人が陥りやすい罠に、彼らは見事に陥ってしまったのです。
そして、いわゆる「押し着せ」をしてしまいました。ヨブの身の丈に合っていない着物を無理に着せるように、自分が身につけた聖書解釈だとか、目新しい神秘体験だとか、そういったものを、相手に合っていないのに押し付けてしまったのです。
こういうことに陥りがちな私たちは、本当にこのイエス様のようになるべきです。神様の栄光がこの人を通して現れるため、アーメン。私たちはしっかりとイエス様の性質を身につけていくべきです。イエス様は、誰が罪を犯した、彼が罪を犯した、という問題ではなくて、どんな原因についても、その人独自の、その人を通してこそ現れる神の業のためだと見ておられました。
一人一人を通して神の業が現れるんです。ある人は病を通してかもしれない。ある人は自分の弱さを通してかもしれない。ある人は犯しやすい罪を通してかもしれない。そうした人間の罪、過ちを上回って余りある神様の業、神様の癒し、奇跡、それがイエス様を通して行われるんです。
ですから私たちは、単に罪をポイントして指摘するだけで終わってはなりません。イエス様へと導くこと。私たちがそこへ導いていく。そうしてこそ、あらゆる罪、あらゆる咎、あらゆる過ち、それを上回って余りある神様の栄光を現す機会にしていくべきです。私たちにはみんなそのチャンスがあるんです。このつくばみらいには、みんなそのチャンスがあるんです。
さて、ビルダデの話に戻ります。ヨブ8:19からです。
「見よ、これこそが彼の道の喜びである。その土からは他のものが生え出る。見よ、神は誠実な人を退けることはなく、悪を行う者の手を取ることはない。」(ヨブ8:19-20)
「見よ、見よ」。このビルダデに多いキーワードは「見よ、見よ」という強調です。自分の言葉を強調したいんですね。ヨブ8:21からです。
「神は、ついには笑いをあなたの口に、喜びの叫びをあなたのくちびるに満たされる。あなたを憎む者は恥を身にまとい、悪しき者の天幕はなくなる。」(ヨブ8:21-22)
以上がビルダデの言葉です。確かにビルダデは、神様に対してある程度の一般的な真理を語りました。けれども、目の前で苦しんでいるヨブには一切届いていません。ヨブは9章でも「そんなことは分かりきっている」という言葉で始めます。
ですから、ビルダデが言ったように、この神様は「あなたが誠実であるならば、誠実で返してくださいますよ」ということ。確かにそうです。けれども、そういった正しい知識とか経験とか、そうしたものは、痛みを覚えている目の前の人に見合ったことを言っていないとするならば、単なる押し着せに過ぎないんです。
新しく買ったドリルで、あれこれ何でもかんでも試しに穴を開けたがるような、そういうことをしてはならないんですね。私たちの知識は、確かに人を高ぶらせます。けれども、目の前にいる人をもっと傷つけたり、もっと飢え渇きをひどくさせてしまうようなことに、それを用いがちになってしまいます。
それは、目の前の人を見ていないからです。イエス様はちゃんと見ておられました。目の前のこの人には、この人なりの神様の栄光の現し方がある。この人にはこの傷があって、この渇きがあるから、この傷を癒さなければならない、と。これはですね、聖霊の導きによらなければ、一切そういったことはできません。人の表向きだけを見ていると、「この人はもう荒々しく猛り狂っている、それじゃダメだよ」という風になってしまいます。
けれども、主はその裏の裏をご存知であり、聖霊は人の心の奥を探り極めるお方です。皆さんは聖霊を求めるべきです。人を癒したいのであるならば、あるいは子どもの教育を正しくしたいのであるならば、ますます私たちは、人間の知恵や世の中のメソッドや方法ではなく、本当にこの御霊によって、御言葉に従って物事を進めていくべきなんです。
私たちの真の友であられるイエス様。先ほど98番を賛美しましたね。イエス様は私たちを見出してくださるお方です。「我が友主イエスは我を見出し、引き寄せたまい、愛の糸をもて」、アーメン。イエス様は皆さん一人一人を引き寄せて、見出してくださいます。イエス様、このつくばみらいを見出してください。アーメン。まだ救われていない魂たちを見出して、引き寄せてくださいます。愛の糸をもって。「御そばにはべれば何をか恐れん。今、主は我がもの、我は主のもの」、アーメン。「我が友主イエスは罪ある我を贖いたまえに命を捨てて」、アーメン。
イエス様ですね、もう身につけた知識や知恵だとか神秘体験とかではなくて、イエス様は命を捨てて私たちを友とし、罪なる私たちを引き寄せて贖ってくださるお方です。また、「我が友主イエスはいとも優しく、慰め励まし、また守りたまう」、アーメン。
本当に私たちは、人間の知恵ではなく、愛の主イエス様、また人の心を探り極めるイエス様を求めるべきです。イエス様を求めるのであるならば、一切飢え渇くことはなくなります。けれども、人の知恵は飢え渇いていきます。イエス様にあるならば、この最後に書いてある通り、「悩みも剣も飢えも裸も引き裂くあたわじ主より我が身を」、アーメン。
本当に私たちは、このイエス様の愛の糸に引き寄せられて、イエス様の愛に満たされて、そして御霊によって人を励まし、御霊によって人を包み、御霊によって人を救っていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。
【結論】
ビルダデの言葉は、目の前で苦しむヨブを見ず、因果応報の公式を押し着せるものでした。賢いと思われていた者たちが、ヨブをじっと見つめて下した判断は、すべて的外れだったのです。キリストがなければ、人は身分知らずの愚か者となり、測ってはならない人を測ってしまいます。私たちはもともと罪を犯すように造られたのではなく、しみもしわもなく、神に似せて造られた存在です。だからこそ主は「神の栄光が現れるため」と言われます。人を教える立場にある者ほど、自分の得た知識や解釈を相手の必要も見ずに披露したがる罠に陥りやすいのです。私たちは、災いや病を「誰の罪か」と問うのではなく、「この人に神の業が現れるため」と語られたイエス様に倣い、愛・憐れみ・赦し・恵みに立ち、人を裁くのではなく、聖霊に満たされてイエス様へと導いていく者となりましょう。