天に私の証人がいる − 真の慰めととりなし手イエス・キリスト(ヨブ記16章)

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天に私の証人がいる − 真の慰めととりなし手イエス・キリスト(ヨブ記16章)

メッセージ音声

【概要】

ヨブ記16章から、本当の慰めとは何かを学び、苦しみの中でも神と人との間に立ちとりなしてくださるイエス・キリストを見出すメッセージ。友人たちの空しい慰めに対し、ヨブは再び神に向かって嘆きの祈りを献げ、やがて天の証人・仲介者なるお方へと導かれていく。

【聖書箇所】

  • ヨブ16:1-3

  • ヨブ16:4-5

  • ヨブ16:6-14

  • ヨブ16:8-17

  • ヨブ16:18-21

  • 詩篇51:6,16-17

  • イザヤ11:1-4

  • 創世記17:1

  • ローマ8:31-35

  • ローマ8:35-37

【慰めの言葉】

  • 真の慰めは人間の知識や人格からではなく、すべてをご存じの神に聞くところから生まれる。

  • 主は倒れたかのように見える人を立たせることがおできになる。

  • どんなに理不尽な苦しみの中にあっても、天にはあなたを証しし、保証してくださるお方(イエス・キリスト)がおられる。

  • 神は人を見た目や外見で裁かれず、本当のあなたの有様を知っていてくださる。

  • どんな患難・苦難の中にあっても、イエス・キリストにあって若枝のように立ち上がることができる。

  • 神はどのような苦しみの時にも、私たちを慰めてくださるお方である。

【励ましの言葉】

  • 主に信頼する人は決して失望させられることがない。

  • 主のしもべは、主ご自身が弁護してくださるので立つことができる。

  • 神様に真実に向き合おうとする人には、神様がいつも真理を教えてくださる。

  • 罪を犯したからこそ、ますます神様に向かって包み隠さず述べるべきである。

  • イエス・キリストにある神の愛から、私たちを引き離すものは何もない。剣でも裸でも危険でも、ましてや死でもない。

  • 私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者である。

【戒めの言葉】

  • 正論や神学、学問をぶつけても人の慰めにはならず、かえって人を惨めにする。

  • 自分の知恵や力量、品性への思い込みで人に関わると、相手を傷つける側になってしまう。

【勧めの言葉】

  • まず神に聞く姿勢を持ち、とりなす人になりなさい。

  • 相手が理解できなければ、別の方面から論点を変えて伝える思いやりを持ちなさい。

  • 着飾った祈りではなく、本心を隠し立てのない清い祈りを神様に捧げよう。

  • 神様と関わりを持とう、交わりを持とうとする人にこそ、真理が開かれていく。

  • 取り繕った言葉や偽りの祈りではなく、正直な心でイエス様に訴え、包み隠さず心を打ち明けなさい。

  • 神様からいただいた慰めをもって、苦しんでいる人・痛んでいる人を慰めなさい。

  • ヨブの友人のようにではなく、真にイエス・キリストにあって人を立て直す者となりなさい。

【詳細(AIによる文字起こし)】

今日、恵みをいただく御言葉はヨブ記16章です。はじめに1節から3節までを宣言いたします。「ヨブは答えた。『そのようなことは、私は何度も聞いた。あなたがたはみな、人をみじめにする慰め手だ。虚しい言葉には終わりがあるのか。あなたは何に挑発されて答え続けるのか』」(ヨブ16:1-3)。

一言お祈りします。私たちの愛する主イエス様。あなたは私たちを励まし、慰め、また守り賜う主であられることを感謝いたします。我が友イエス、あなたが私たちの友となってくださり、私たちをあなたの永遠の御国へと引き寄せてくださいました。主よ、今朝もまたあなたが私たちをこの朝呼び覚まし、暁を覚ますものとして、今ここに備えられていることを感謝いたします。どうか今、我ら共々を整えてください。聞く一人一人の耳を清め、またこのみことばを取り次ぐしもべの唇を清めてください。初めから終わりまでのすべてをあなたに期待し、イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。

前回は、ヨブの友人のテマン人エリファズの2回目の弁論でした。おさらいですが、エリファズはヨブに対して「あなたは神に祈ることをやめている」と言いました。私たちはヨブがずっと祈ってきたことを知っていますが、エリファズにとっての祈りとヨブにとっての祈りは違ったのです。祈りを何か綺麗な言葉を並べることだと、静かなものだと思っていたかもしれません。でもこの「祈り」はシーハーというヘブライ語で、これは「不平をぶちまける」という意味にもなる言葉でした。祈りとも訳され、不平とも訳される言葉です。ですから、神様に向かって不平をぶちまけることも、これもまた祈りなのです。

神に向かわないで不平をぶちまける、これは祈りでも何でもなく、そういう人には近づきたくなくなります。けれどもヨブは神様に向かって心の嘆きを絶えず述べていました。また、ヨブが神様に祈ったとき、「この木には望みがある。たとえ切り倒されたとしても、その若枝がその根っこから芽生えてくる」という復活の望みを神様に申し上げていました。けれどもエリファズはそれをバシンと蹴って、「炎がその若枝を散らす」と言ってへし折るような発言をしました。

騒ぐ人をへし折ったら黙るだろうと思う人がいるかもしれませんが、へし折られてしまった人の心の中では、もっとグツグツと燃えたぎって、もっと反発することになります。ですから、騒いでいる相手に対して言葉でへし折るとか、嫌がらせをするのは、全くもって逆効果です。ヨブはもっと怒りを燃え立たせてしまいました。

でも預言者は以前は何と言ったか。「エッサイの根株から新しい命、イエス・キリスト」を預言して、その切り株から新しい命が、永遠に続く王国が芽生えると予言しておりました。このお方に信頼する人は決して失望させられることはない。その人はたとえ倒れたかのように見えたとしても、主はその倒れた人を立たせることがおできになるお方です。人がたとえ主のしもべに何か良くないことを言ったとしても、しかし主は弁護されます。主の御心はしもべを立たせること、しもべは立つのですと書いてあります。

今日の16章はこのテマン人エリファズに対するヨブの答えですが、ヨブは面白いことに、エリファズに対してはたった5節分しかお返ししません。エリファズは30何節も長々と弁論したのに、それに対してヨブはたった5節しか答えません。では残りの6節以降は何かというと、再びヨブは神様に向かって祈り、シーハーを始めるのです。

2節を見ますと、「あなたがたはみな、人をみじめにする慰め手だ」とヨブは言いました。相手を正論だとか難しい学問、神学で言っても、それは慰めにはなりません。むしろ人を惨めにするものになってしまいます。友人たちはもともとヨブを慰めるために遠くから示し合わせて来たはずですが、それが今や慰めるどころか、人の苦しみを増すような慰め手になってしまったのです。

さらに4節と5節。「私もあなたがたのように語ることができる。もしあなたがたが私の立場にあったなら、あなたがたに向かって私は多くの言葉を連ね、あなたがたに向かって頭を振ったことだろう。この口であなたがたを強くし、唇による慰めを惜しまなかったことだろう」(ヨブ16:4-5)。ヨブは、もし自分とあなたの立場が逆だったなら、私はあなたに唇による慰めを惜しまず、痛みを和らげてあげただろうと言うのです。慰め手というのは本来そういうものです。

友人たちの動機は良かったのです。けれどもいざヨブと対面してみたら、バッサリと相手を切ってしまう。相手を救うために来たはずが、相手を殺す側になってしまう。彼らは本気でヨブを慰めていると思ってやっているのです。でも実のところ、かえって傷つけるものになってしまっています。教会である人が傷ついている、あるいは悪魔、サタン、悪霊に囚われていると聞いて、「よし、私が慰めに行ってあげよう」と行ってみたら、怒ってバシンと相手を打ちたたく側になってしまう。これは働き人として本当に気をつけなければならないことです。

困窮している相手に対して、自分の知恵、力量、あるいは自分を良い品性の持ち主だと思い込んでいる、その思い込みで関わろうとすると、相手を傷つける側になってしまいます。ヨブの友人たちは、自分が身につけた知識や神学を披露するだけで、相手の言葉を全く聞きません。前回テマン人エリファズは、1回目の弁論と全く同じ原稿を持ち出してきて、同じことを披露しました。本当に相手の言葉をよく聞くべきです。

相手に何か説明しても理解できなかった場合、別の方面から論点を変えて説明したら相手は理解できるのではないか。それが思いやりです。思いやりがない人は全く同じ言葉で「あれ取って」と言って、相手が「あれって何」と聞いても「あれ」と主張する。相手はそれが分からなかったのだから、「黄色くて四角いものだよ」と言うべきなのです。テマン人エリファズは全く同じ言葉をヨブに言って、もっとヨブを怒らせた。だからヨブはたった5節しか答えなかったのです。

結局、本当の慰めというものは、人間の自分の知識や知恵、人格から出るものではありません。すべてをご存じであられる神様に聞いて、神様の御心を正しく伝えられる人が、本当に人を慰め、立て直すことができる人です。神様にまず聞く姿勢がある人は、自分が身につけた知識や世の中の哲学を披露したりアピールしたりする場にはしません。ただ神様にとりなす人になります。「神様、この人は今どういう状況でしょうか。御心が天になるごとくこの人になりますように」と、いつも神様に聞く姿勢を持つのです。そうして真のワンダフル・カウンセラーから、その人に本当に必要なことを言葉で励まし、慰めて立ち直らせることができるのです。

6節以降、ヨブは神様の方に向き直ります。「たとえ私が語っても、私の痛みは抑えられません。たとえ私が忍んでも、どれだけ私からそれが去るでしょう。まことに神は今、私を疲れ果てさせました。あなたは私の仲間を皆、荒れ果てさせました。あなたは私を掴みました。自分の痩せ衰えた姿が証人となり、私に向かって立ち上がり、面と向かって不利な証言をします」(ヨブ16:6-8)。

ここでヨブは、自分の痩せ衰えた姿が証人となって、自分に対して不利な証言をしていると言います。友人たちはヨブのこの姿を見て、「あんなにひどい目に遭っている、きっと何か悪いことをしたに違いない」と詮索し、そう思い込んでヨブに言うのです。惨めな姿は、相手に対して不利な証言をするものです。

さらに9節から。「神は激怒して私を責め立て、私に向かって歯をむき出される。私の敵は私に向かって目を鋭くする。彼らは私に向かって大きく口を開け、そしりをもって私の頬を打ち、こぞって私を責める。神は私を不義な者に引き渡し、悪しき者の手に投げ込まれる」(ヨブ16:9-11)。

この姿を見て、誰か思い浮かびませんか。イエス様です。ヨブがここで味わっている苦しみは、イエス様が味わわれる苦しみと驚くほど重なっています。ヨブは気づかないうちに、自分自身がこのイエス様が受ける苦しみを、先に先んじて描いていたのです。なぜ義人が苦しみを受けなくてはならないのか。これは本当に理不尽なことですけれども、最も不条理、最も理不尽なことをイエス様は受けられたことを表しています。ヨブは確かに義人です。けれども、もっと理不尽なことを受けられた義人、それがイエス様です。

さらに12節から17節を見ますと、ヨブは神様が徹底的に自分を痛めつけたということを吐き出すように並べております。そして17節の後半でヨブ自身は、「私の祈りは清い」ということを言っております。テマン人エリファズからすれば、このヨブの言葉を汚し事のように決めつけたのですけれども、でもヨブは「いいや、私の祈りは清い」ときっぱりと言っております。

なぜヨブはこんなにきっぱり言ってのけられたのか。確かにヨブの祈りは整えられたものではなかったかもしれません。けれどもヨブが神様に出したのは、本当に自分の中に何の偽りもない、隠し立てもない本心でした。だからそういう点においては清い祈りだったのです。着飾る祈りというものがあります。自分の本心はそうでもないのに、神様に向かって「何々します」という、本心ではない祈り。これは清い祈りではありません。でもヨブは言葉は激しかったものの、自分の中の本心を全部、隠し立てのない心を真に捧げたのです。

ダビデも言っています。詩篇の51篇で、「確かにあなたは、心のうちの真実を喜ばれます。どうか私の心の奥に知恵を与えてください。まことに、私がいけにえを供えても、あなたはいけにえを喜ばれず、全焼のささげものを望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ砕かれた心。神よ、あなたはそれをさげすまれません」(詩篇51:6,16-17)。これはダビデが罪を犯した時の詩篇です。罪を犯したら祈りは捧げられないんじゃないかと思って、ますます神様から離れていく人がいるのですけど、そうではありません。罪を犯したら、なおさら神様に向かって包まず述べるべきなのです。ダビデは本当に神様から愛され、また赦され、最も偉大な王になれたのです。

そして18節から、ヨブは祈りの中でどんどんと真理の核心に近づいていきます。「地よ、私の血を覆うな。私の叫びに休み場がないようにせよ。今でも、天には私の証人がおられます。私の保証人が高いところに」(ヨブ16:18-19)。何と、天には私を証しする人がおられるというふうに言っているのです。

先ほど8節ではヨブの見た目がヨブに対して不利な証言をしていると嘆きました。けれどもヨブは言います。天には私の本当の証人がおられて、私のことを見た目ではなく、本当に自分の有様を知って、保証してくださるお方がおられると。これはまごうことなくイエス・キリストのことを言っていると思われます。神と人との保証人、仲介者、それはイエス・キリストです。ヨブはイエス様を知らないはずです。けれども、どうしてこのような保証人の存在をはっきりと告白できたのか、不思議です。

神様に真実に向き合おうとする人に対して、神様はいつもこのように真実を教えてくださるのです。アブラハムもそうでした。年老いたしもべにイサクの嫁探しを命じて、「必ず御使いがあなたに先立って導いてくださる」と確信的に言いました。ダビデもそうでした。「私の主が私の右に立って、いつも私を支えてくださった」と告白しておりました。モーセも荒野でいつもこの民を導いておられたお方の存在に気づいておりました。

イザヤ書の11章を今一度開きます。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、思慮と力の霊、主を恐れる知識の霊である。この方は、主を恐れることを喜びとし、その目の見るところによって裁かず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって弱い者を裁き、公正をもって地の貧しい者のために判決を下す」(イザヤ11:1-4)。

まさに、目に見えるところによって裁かないお方。ヨブの友人たちは目に見えるところによって裁きました。けれども、耳の聞くところによって判決を下さない真の弁護者、真の神と人との間に立つ仲介者。この存在は、神様と向き合うことによって、その真理が開かれていったのです。真理が開かれる人というのは、神様に向き合う人です。神様に向き合わないで、人間の神学や哲学を述べている人は全くもって分からないのですが、しかし、神様と関わりを持とう、交わりを持とうとする人には、どんどん神様が真理を開いてくださるのです。

神様は99歳のアブラムに対して「あなたはわたしの前を歩み、全き者となりなさい」(創世記17:1)とおっしゃいました。神と共に歩む人が全き者になることができるのです。罪を犯さない人が全き人なのではありません。神と共に歩む人が、全きお方と共に歩むことによって罪を犯さないようになり、また真理がわからない人は真理がわかるようになっていくのです。

ヨブは神に食ってかかってでも神に向かっていきました。だから真理が示されていったのです。20節を見ますと、「私の友は私をあざける者たち。しかし、私の目は神に向かって涙を流します。その方が人のために神にとりなしてくださいますように。人の子がその友のためにするように」(ヨブ16:20-21)とあります。ヨブは友人たちから避けられた感じがしました。それで、この神と人との間に立つ仲保者、弁護者が人のために神へととりなしてくださいますようにと言いました。まさにそうです。イエス様は神と人との間に立って神にとりなしてくださるお方です。

この20節の前半、「私の友は私をあざける」と訳されていますが、ここはヘブライ語の読み方によって訳し方が分かれる箇所です。この「あざける」と訳された言葉は「メリーツ」という言葉ですが、元々は間に立って取り次ぐ者、AさんとBさんの間に立って言葉を取り次ぐ者、そういう意味です。そこから通訳者だとか仲介者、とりなし手も意味します。ですから20節は、「私のとりなし手は私の友、私の目は神に向かって涙を注ぐ」とも訳すことができるのです。イエス様はとりなし手であり、友なるお方。そのイエス様がいるから、私は神に向かって涙を注ぐと、そういうふうにも訳されるのです。

実際、英語のNIVは「my intercessor is my friend」、私のとりなし手は私の友と訳しています。地上の友人は私を嘲っている。でも天においては私の友なるお方が私のために神にとりなしをしてくださっているとヨブは言っているのです。まさにこれは真理です。21節でヨブは言っています。「その方が人のために神と論じてくだされば良いのに」。私たちは何と祈っていいのかわかりません。けれども御霊は私たちのために神に対してとりなし祈ってくださっております。

私たちが礼拝の始まる前に冒頭で宣言したローマ8章を読んでいきます。「では、これらのことについてどのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして御子と共にすべてのものを私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。誰が神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。誰が私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが神の右の座につき、しかも、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ローマ8:31-34)。ヨブが言った通りです。神の右の座についてとりなしていてくださるお方、イエス・キリスト。この方は、私たちのために死んでくださった方です。

ヨブは神をとても遠くに感じました。とても愛がないかのように感じました。けれども、神は御子を賜るほどに愛しておられる。しかも御子イエス・キリストは、私たちの身代わりになって死んでくださるほどに愛してくださったお方、そしてこのよみがえられたお方が私たちのためにとりなしてくださるのです。

さらに、ローマ8章35節以降。「誰が私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。あなたがたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です」(ローマ8:35-37)。ヨブは本当にひっきりなしの苦しみの中にありました。でも、神の愛は決して引き離されないと書いてあります。キリスト・イエスにある神の愛から引き離すものは、剣でもない、裸でもない、危険でもない、ましてや死でもない。神の愛から引き離すものはないのです。

地上においては諸々の患難があります。目の前のいろいろな物事が私たちを絶望に引きずり込もうとしてくるかもしれません。けれども、私たちをとりなし、私のために死んでくださった主イエス・キリストは、それらすべてに対して圧倒的に勝利してくださいました。人は見た目で判断しますけれども、イエス様は見た目では判断しません。皆さんの真実をご存知であられる方、このイエス様にあって皆さんは力づけられ、どんな患難、苦難の中にあっても、若枝のように立ち上がることができるようになっていきます。どうか、このお方にあって養われ、またこのお方にあって人を救いへと導き、人を立ち上げていく皆さんでありますように。イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。

(祈り)愛するイエス様、あなたが私たちのためにとりなしておられることを感謝いたします。イエス様がいるゆえに、私たちは力強くなれます。たとえ倒れたとしても、立ち上がることができます。主よ、どうか今、体調を崩しておられる先生を、あなたが癒し、再び立ち上がらせてください。また本当に病の困難の中にある一人一人がおります。絶望の淵にある人、主よどうかあなたが立て直してくださるように。また私たちも本当にこのヨブの友人のようではなく、真にイエス・キリストにあって立て直す者とならせてください。今日いただきました御言葉に感謝して、私たちの愛する主イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。

ハレルヤ。愛する天のお父様、あなたの御名をほめたたえ、感謝いたします。神様はどのような苦しみの時にも、私たちを慰めてくださるお方です。私たちも神様からいただいている、その慰めをもって苦しんでいる人、痛んでいる人を慰めることができますように。慰めているつもりが、かえってその人を決めつけたり、裁いたり、勝手に判断したりして、かえってその人の傷を深くするようなことがありがちなものです。イエス様、そうなってしまわないように、神様からの慰めをしっかりいただいて、痛んでいる人を慰めることができるように、どうか導いてください。私たちが神様に訴える時、不平不満を打ち明ける時も、イエス様がそれを祈りとして受け取ってくださることを覚えて感謝いたします。取り繕った言葉で、偽りの祈りをする者ではなく、正直な心でイエス様に訴えて、それを受け止めてもらうことができる私たちでありますように。イエス様に包み隠さずに心を打ち明ける時、私たちが真理へと導いていただくことができると、今日も教えてくださったことを感謝いたします。今日も私たちも、ヨブのように神様の御前に正直に生きる私たちでありますように。今日もイエス様がお言葉を持って私たちを諭してくださったことを感謝して、私たちの愛する主イエス・キリスト様の御名によってお祈りいたします。アーメン。

【結論】

本当の慰めとは、人間の知識・知恵・人格から出るものではなく、すべてをご存じの神に聞き、その御心を正しく伝えるところから生まれます。ヨブは苦難のただ中で、何の隠し立てもない本心からの清い祈りを神に捧げ、その真実な祈りを通して、見た目ではなく自分の本当の有様を知り、保証してくださる天の証人、すなわち神と人との仲介者・とりなし手であり友なるイエス・キリストの存在へと導かれていきました。苦難・迫害・死さえも、私たちを神の愛から引き離すことはできません。私たちは正直な心で神に訴え、神からいただいた慰めをもって、人を裁くのではなく、真に立て直す者とされていくのです。