あなたご自身が保証人に − 天で執り成すキリストと共にいる聖霊(ヨブ記17章)
メッセージ音声
【概要】
ヨブ記17章から、保証人(中保者)を求めるヨブの叫びを通して、私たちには天で執り成してくださるイエス・キリストと、共にいてくださる聖霊が与えられている恵みを語るメッセージです。
【聖書箇所】
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ヨブ17:1-3
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ヨブ17:2
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ヨブ17:3
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ロマ8:34
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ヨブ17:4
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ヨブ17:6-9
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ヨブ17:10
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ヨブ17:11-14
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ヨブ17:15-16
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ヨハネ14:18
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ヨハネ14:16-17
【慰めの言葉】
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イエス様は神の右に座し、私たちのために執り成していてくださる。私たちはヨブの叫びが叶えられた恩恵にあずかっている。
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「私はあなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます」(ヨハネ14:18)。
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もう一人の助け主、聖霊がいつも私たちと共におられる。
【励ましの言葉】
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どんな状況でも主に求めるなら助けが得られる。イエス様は弁護者であり、保証人であり、重荷を負い、癒し、必要を満たしてくださる方。
【戒めの言葉】
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自分の地位を高めるために隣人を貶め、告げ口する者の根は衰え果てる。
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土で造られ鼻で息をする人(人間)と向き合い、それに頼ろうとしてはならない。そこには希望がなく黄泉に下るしかない。
【勧めの言葉】
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何かあった時こそ、当事者や人間を味方につけようとするのではなく、御父の御前で豊かに赦してくださるイエス様に一切を下ろし、より頼むべきである。
【悔い改めの促しの言葉】
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自分に何かあった時、当事者と話したがり、自分の味方につけようとする「腐った根性」を私たちも持っている。土と語る者ではなく、土を造られた主に語る者となるよう悔い改めへ促されている。
【詳細(AIによる文字起こし)】
今日恵みをいただく御言葉はヨブ記17章です。はじめに1節から3節を宣言します。「私の霊は乱れ、私の日は尽き、私には墓場があるだけです。実に嘲る者たちが私と共にいます。私の目は彼らの敵意の中で夜を過ごします。どうか私を保証してくれる人を、あなたのそばに置いてください。他に誰か誓ってくれる人がいるでしょうか。」
一言お祈りします。私たちを保証してくださる我らの主イエス様、あなたがいますことを感謝いたします。あなたがいますゆえに我らは心強いです。どんなに義人のような人間であったとしても、保証してくれる人がいなければ本当に心もとないものです。今、あなたが私たちと共におり、御霊によって導いてください。取り次ぐしもべの唇を清め、御言葉にあずかる一人一人の耳を清め、通りよくしてください。イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
昨日はヨブ記から少し離れて、牛さんと馬さんの話をしましたが、思うにヨブは最初、牛さんだったのです。あんなにもひどい災いを下され、サタンがタッチしたにもかかわらず、それでも神様に向かって罪を犯すことはなかった。言葉で罵ることはしなかった。奥さんから「神を呪って死になさい」と言われても、牛さんのようにやんわりと耐えました。しかしヨブもついに馬のようになる時が来た。それは友人たちが、あまりにも自分のことを分かってくれず、慰めの言葉ではなく難しい哲学的な言葉で諭すということをずっと続けているからです。だんだん険悪になっていきます。友人たちは初めから馬のような言葉でした。
2節を見ますと、「嘲る者たちが私と共にいます。私の目は彼らの敵意の中で夜を過ごします」とあります。友人たちとしては心外だったでしょう。慰めに来たのに「その態度はなんだ」「この慰めが受け取れないのか」と。ヨブとしては、この友人たちは敵意を持ってきたと見ております。
ヨブの心は神様に対して、「どうか私を保証してくれる人を、あなたのそばに置いてください」と祈ります。これが3節です。父なる神様ご自身の隣に、その中保者、私を保証してくださる方を置いてくださいと願っているのです。このヨブ記17章においては、保証人が欲しい、取りなしてほしいという方面へと一歩進んでいきます。イエス・キリストを求めているような感じです。
私たちには、私たちを保証してくださる方が天におられます。その方は今、神の右に座して、私たちのことを取りなしておられます。ローマ8:34にこう書いてあります。「だれが私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座し、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」
イエス様は死なれました。なぜか。イエス様もヨブのように嘲られ、罵られて死んでくださいました。本来、私たちが嘲られ、罵られ、死ぬべきなのですが、イエス様が身代わりになって死んでくださった。そしてよみがえられた。死に勝利し、悪魔サタン、訴える者に勝利してくださった。そのイエス様が神の右に座し、私たちのために取りなしていてくださる。ヨブのこの願いを、神様はそのまま叶えてくださったのです。ですから私たちは、このヨブの願い、ヨブの叫びの恩恵にあずかっていると言っても過言ではありません。
けれどもヨブは、自分を保証してくださる方が誰もいないと感じているので、彼の心は再び闇の中に落ち込んでいきます。4節以降、ヨブはどんどん絶望に落ち込んでいきます。4節「あなたはあの者たちの心を賢明さから引き離されました。ですから、あなたが彼らを高く上げられることはありません。分け前を得るために友の告げ口をする者、その子らの目は衰え果てる。」ヨブは友人たちをそのように神様に訴えました。
友人たちがヨブを告げ口して何の分け前を得るのか。お金が得られるわけではなさそうです。どうやら、自分が人を教える側、諭す側という地位を得る、そういう分け前を得るためにヨブをネタにして告げ口する、そういう感じです。私たちも、自分の地位を高めるために隣の人を貶めることがあります。子供が誰かをいじめる、告げ口する、その動機は自分を高くするところにあります。自分がいじめられない側に、優位に立つ、リーダーに立つ、そういう動機で誰かを貶める。そうすると、その子らの目は衰え果ててしまいます。
6節から「神は私を人々の笑いものとされ、私は顔につばきされる者となった。私の目は苦悶でかすみ、私の体はどこも影のようだ。心のまっすぐな人はこのことに驚き、潔白な人は神を敬わない者に向かって憤る。」一見すると、十字架のキリストを彷彿させます。笑いものにされ、つばきをかけられ、苦悶で目はかすみ、体はどこも影のよう。まさしく十字架の上についているイエス様の状態です。
ヨブは義人だと言われていたにもかかわらず、このような目に遭いました。世界で一番の義人であったとしても、罪ある人間です。ヨブといえども罪があったのです。本来、私たちこそ罪人であり、このヨブのように嘲られ、罵られ、十字架につけられ、去らなくてはならない存在です。けれどもイエス様が私たちの保証人になってくださり、身代わりになってくださった。だから私たちには望みがあります。でもヨブには保証人がいない。友人もあんな風にあざける者になってしまったと絶望した。けれども私たちにはイエス様がおられます。イエス様は十字架の上でつばきをかけられ、罵られ、捨てられ、御父からさえも捨てられました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです」と言われ、さらに「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれた。私たちの代わりに捨てられたからこそ、私たちには希望があるのです。
10節以降、さらに絶望していきます。「あなたがたはみな、帰って来るがよい。私はあなたがたの中に知恵のある者を一人も見いださないだろう。」再び友人の方に向き直って、知恵のある者は一人も見つけられないと言いました。これは怒りだったのです。昨日の話では、馬が怒って壁を蹴り、柱を突き、ランプが落ちて燃え上がりました。まさにヨブも友人たちもこの怒りの火が燃え上がっていく状況です。
11節から「私の日は過ぎ去り、私の計画も、私の心の願いも砕かれた。夜は昼に変わり、闇のあるところに光が近づくと人は言う。しかし、私がよみを自分の住まいとして望み、闇に自分の寝床を広げ、その穴に向かって、あなたは私の父と言い、うじ虫に向かって、あなたは私の母、私の姉妹と言うなら。」墓に向かって「あなたは私の父」、うじに向かって「私の母、私の姉妹」と呼ぶほどに、人から見捨てられ、家族を失い、まるで孤児のようになった、そういう思いでした。どんなに義人であっても、真の保証人がいない状態では、このようになってしまわざるを得ないのです。
けれども私たちはどうでしょうか。私たちには希望があります。冒頭で宣言したのがヨハネ14:18でした。「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。」イエス様は私たちを孤児のようにはしないと約束してくださいました。今、皆さんはイエス様をその目で見ていないかもしれません。遠く感じるかもしれません。でもイエス様は目に見えなくても今共におられ、やがては目にありありと見える形で戻ってきてくださいます。
その直前の16節から、ヨハネ14:16-17「わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでもあなたがたと共にいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたはこの方を知っています。この方はあなたがたと共におられ、またあなたがたのうちにおられるようになるのです。」私たちにはもう一人の助け主、聖霊様が与えられており、この方がいつも私たちと共におられる。この力ある助け主が与えられているゆえに、私たちはどんな状況においても主に求めるなら助けが得られます。
ヨブは絶望するしかありません。15、16節「一体、どこに私の望みがあるのか。だれか私の望みを目にするのか。それらがよみの戸口に下ったとしても、私たちが共にちりの上に降りたとしても。」ヨブは自分を保証してくださる方がいないと言って絶望するしかありませんでした。でも私たちは絶望する必要が全くありません。ヨブの願いそのままに、神様は御自分の右に、私たちを保証し、取りなし弁護してくださる方をつけてくださいました。主はヨブを含め多くの人々の願いを、祈りを、叫びを聞いてくださって、満を持してキリストをこの世に送ってくださいました。
今、皆さんは助けを必要としているでしょうか。癒しを必要としているでしょうか。父なる神様の右に座したもう方に求めましょう。彼は弁護者、保証人、私たちのすべての重荷を負ってくださる方、癒し主、必要を満たしてくださる方です。この方に求めて、皆さんのすべての必要が満たされ、助けをいただきますように、イエス様のお名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
世界一の義人ヨブであっても、自分を保証してくれる者、助けてくれる者がいなければ絶望するしかありませんでした。しかし神様は、ヨブの「保証人を置いてください」という叫びそのままに、御自分の右に、取りなし弁護してくださるイエス・キリストを置いてくださいました。土で造られ鼻で息をする人間に頼れば希望はなく黄泉に下るしかありませんが、私たちには神の右に座し執り成してくださるイエス様と、共にいてくださる聖霊が与えられています。もはや孤児ではありません。どんな状況でも、人ではなく、豊かに赦してくださる主イエスに一切を下ろし、より頼む者となりましょう。