水しぶきを心に留めない − 牛と馬のたとえと愛の寛容(Ⅰコリント13:4-7)

水しぶきを心に留めない − 牛と馬のたとえと愛の寛容(Ⅰコリント13:4-7)

メッセージ音声

【概要】

第一コリント13章の「愛」の御言葉と、牛と馬のたとえ話を通して、人生で受ける「水しぶき」を心に留めず、怒りに遅く、愛と平和に満ちたイエス様の似姿となることへの招きです。

【聖書箇所】

  • Ⅰコリント13:4-7

  • 箴言14:30

  • 箴言19:11

  • 箴言16:32

【励ましの言葉】

  • 怒りを遅くするものは勇士に勝り、自分の霊を治めるものは町を攻め取るものに勝る。

  • たとえ水しぶき(悪口や噂)を受けても、心に留めない人は幸いである。

【戒めの言葉】

  • 激しい思いは骨を蝕む。妬みや苛立ちは自分自身の命を滅ぼしてしまう。

  • 疑いや警戒心にとらわれ、犯人探しをして怒りをぶつける馬のような生き方は、自らの人生を焼き焦がす。

【勧めの言葉】

  • 愛を身につけ、寛容・親切であり、人を妬まず、人のした悪を心に留めないこと。

  • 良い主人であるイエス様に仕え、平和を告げる者として歩むこと。

  • 平和でない国々、戦争や争いの中にある人々のために祈ること。

【詳細(AIによる文字起こし)】

今日恵みをいただく御言葉は、第一コリント13章4節から7節です。

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人を妬みません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます」(Ⅰコリント13:4-7)。アーメン。

メッセージを準備していると、だんだん心が痛くなってくることが多々あります。本当にここで私も足りなかったな、とか、これは一体どういうことだろうかと、準備はハードなものです。たまには新約の方からソフトに恵みをいただきたいのですが、今日はこういうお話があります。

昔、あるところに牛と馬を飼っている人がおりました。ある夜、その飼い主は水桶に大きな石を落としてしまって、バシャンと大きな音とともに水しぶきが飛びました。まず牛さんがその水しぶきを浴びました。牛はびっくりして目を覚ましましたが、それが水しぶきだと気づくと、「ああ、なんだ、水しぶきだったのか」と思って、気にも留めずにそのまま再び寝てしまいました。

馬さんも水しぶきを浴びました。すると馬さんは「ヒヒーン、ヒヒーン」といななきながら暴れまわって思いました。「なんだ、せっかく気持ちよく寝ていたのに、一体誰がこんなことをしたんだ。そうだ、あいつだ、あいつに違いない。あいつはこの間もそんな目で俺のことを見ていた」。そうして馬さんは暴れまわって、馬小屋の壁を蹴飛ばしたり、柱に頭突きをしたり、夜中にもかかわらず大騒ぎをしました。

するとその馬小屋のランプ、昔の火で明かりを照らすランプが地面に落ちて、火が馬小屋に燃え移ってしまいました。大変なことになり、いち早く逃げなくてはなりません。ところが馬さんは火を見て思いました。「ちきしょうめ、やっぱりあいつがこんなことをしたんだ。水の次は今度は火をつけやがって」。ますます暴れまわって、壁を蹴ったり、柱に頭突きをしたりして、怒りをぶつけていました。やがて馬小屋は焼け落ちて崩れ、馬さんは残念ながらそこで亡くなってしまいました。

皆さんはこの物語を聞いて何を思ったでしょうか。私たちの中にも牛さんのような性格が潜み、また時には馬さんのような性格が潜んでいます。牛さんのような性格なら、水しぶきを浴びても気にも留めず、「なんだ、水しぶきか」と言ってそのまま再びぐっすり休み、力を得て明日の新しい力を蓄えます。でも馬さんのような性格だと大変です。水しぶきがかかっては怒り、火が沸き起こっては怒り、右に行っては怒り、左に行っては怒り、結局自分の命を滅ぼしてしまうことになります。

聖書にはこう書いてあります。「穏やかな心は体のいのち、激しい思いは骨を蝕む」(箴言14:30)。穏やかな心でいる人は体のいのちをどんどん増していきますが、激しい思いは骨を蝕む。思いが激しいと、骨の真ん中から火が燃え立ってしまうのです。ヘブライ語で、キム先生がよく言っていますが、良い意味での熱情はいいですけれども、妬みは骨を枯らしてしまう。骨の中心から火が燃えてしまうと書いてあります。

それから箴言19章11節にはこう書いてあります。「人に賢明さがあれば怒りを遅くする。その人の栄誉は背きを見過ごすことにある」(箴言19:11)。背きを見過ごすということです。皆さんの周りの人が、もしかしたら皆さんに背きをするかもしれません。たとえ背きのつもりが隣の人になかったとしても、ちょっとした水しぶきで、「ああ、こいつ、俺のことを悪意を持って見ている」と思って怒り、ありもしないことを騒ぎ立てたり、壁を蹴ったり、ランプを落として火をもっと燃え立たせてしまったりすることがあります。

皆さん、人生、水しぶきを受けることはあります。でもたとえ水しぶきを受けたとしても、それを気にも留めず、「なんだ、水しぶきか」と受け止める。もともと悪意がなく、間違って石を水桶に落としてしまっただけの水しぶきです。誰も何の悪意もありません。牛さんはそれを水しぶきかと思ってそのまま寝て、翌日の力備えとして眠ることができましたが、馬さんはそれを「なんだ」と怒りで受け止めてしまいました。

馬さんの方が牛さんより速く走るでしょう。戦争においても牛より馬の方が役に立つでしょう。けれども、自分の怒りを収めないならば、結局牛さんに出し抜かれてしまいます。箴言16章32節にこう書いてあります。「怒りを遅くするものは勇士に勝り、自分の霊を治めるものは町を攻め取るものに勝る」(箴言16:32)。皆さん、勇士に勝るのです。町を攻め取るものに勝るのです。自分の感情は火が燃え立たせられそうでも、聖書にこう書いてあるからと自分の霊を収める。そういう人は町を攻め取るものに勝ると書いてあります。

今日の箇所は第一コリント13章でした。本当に私たちは愛で心をいつも満たしておくべきです。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人を妬みません。愛は自慢せず、高慢になりません」。いつまでも残るものは信仰と希望と愛と書いてありますが、この第一コリント13章は、たとえ人が人の言葉や御使いの言葉で話したとしても、たとえ天と地に通じる奥義の知識を持っていたとしても、愛がなければ何もならないというところから始まります。

馬さんは速いスピードで走れます。力があります。戦争では牛よりも役に立ちます。けれども、もし馬さんであったとしても愛がなければしょうがありません。もし馬さんに愛があれば、とても力強く心強い。皆さんは愛を身につけましょう。この愛は寛容、親切、また人を妬まない。妬みは骨を枯らすと箴言に書いてありました。愛を持っている人は人を妬まず、むしろ人を立て上げる。自慢せず、高慢にならない。

また、愛は礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、「人がした悪を心に留めず」。心に留めないこと、これが力です。これがいのちを増し加えるコツです。また不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。愛の反対が、耐えられず、信じられず、望まず、忍ばず、です。

本当に人生、水しぶきがかかってくることがあります。相手に悪意がないことも多々あります。悪意があることもあります。でも、たとえ悪意があったとしても、それを水しぶきだと言って心に留めない人は幸いです。悪口雑言だとか、あらぬ噂だとか、そういった水しぶきにいちいち心に留めて、馬さんのように壁を蹴ったり崩したりしていると、やがて火が人生を焼き焦がしてしまいます。皆さんはむしろ愛を身につけましょう。

冒頭で賛美したのが「弟子となしたまえ」です。イエス様の有様を見ていると、本当に心苦しくなって、自分はイエス様のようじゃないな、愛がないなと思わされます。「弟子となしたまえ我が主よ、愛を増したまえ我が主よ、清くなしたまえ我が主を」。この賛美をしているうちに、本当に自分は恥ずかしいな、愛に満ちた弟子になりたいなと思わされました。皆さんも愛が豊かで、心が穏やかで、怒りに遅く、むしろイエス様に倣うという志を豊かに身につけ、愛に満ちたイエス様の似姿になっていきますように。

(続く祈りにて)第一コリントのこの箇所が私たちに示していることは、神を愛し、隣り人を愛しなさいということです。愛するために、疑いという心を私たちの中から取り除かなければなりません。今日のたとえ話の中で、牛と馬の二つの心を示されました。両方とも私たちにはありがちなものです。でも牛さんには疑いがなく、「ああ、水しぶきか」で終わりました。普段から戦いに使われていた馬には警戒心があり、平和な時でも平和な思いがありませんでした。普段どういう主人に、どういうことに使われているかによって、水しぶき一つに対しても私たちの心がガラッと変わるのです。

私たちは良い主人であるイエス様に仕えています。イエス様が私たちを遣わすところに戦いや争いや死はなく、平和の君イエス・キリストにあって遣わされた場所で私たちがすべきことも、戦いではなく、神と人の間で平和を告げるという働きです。水しぶき一つで身を焼け焦がした馬にならず、「ああ、しぶきか」とすぐ平和を取り戻す牛さんのように、私たちの日常がありますように。

馬が死んだのは、自分に起きた都合の悪いすべてのことに対して、「誰々がやった、誰々がやったかもしれない」と疑いばかりがあって、「ああ、水しぶきか」という平和な心がなかったからです。何か起きると犯人探しをしたり、苛立ったり、自分の人生を足で蹴ったり、物言わない壁にぶつけたりすることがありませんように。平和の君イエス・キリストで満たしてください。良い主人に仕えて、安心して眠ることができますように。

最後に、世の中で私たちがどんなに平和に暮らしていても、どこかの世界では戦争や争いで人はまだ死んでおり、不安におののいて生きている人たちがいます。私たちが平和な時こそ、平和でない人々のために祈りなさいと主からのお願いがあります。平和をもたらしてくださるのはイエス様のみです。争い戦争している国々が、イエス・キリストの平和と正義によって治まりますように。

【結論】

人生には思いがけない「水しぶき」が降りかかります。それを疑いと怒りで受け止めて暴れまわる馬ではなく、「ああ、水しぶきか」と心に留めず再び平和に憩う牛のように生きましょう。怒りを遅くし、自分の霊を治める者は勇士に勝ります。人がした悪を心に留めず、すべてを耐え、信じ、望み、忍ぶ愛を身につけ、平和の君イエス・キリストに仕える者として、争いの中にある人々のためにも祈りつつ、イエス様の似姿へと変えられていきましょう。