ただ一人の仲介者 − 天を押し曲げて降りて来られたイエス・キリスト(ヨブ記9章)
メッセージ音声
【概要】
ヨブ記9章から、人はどうすれば神の前に正しく立てるのか、そして神と人との間に立つ仲介者イエス・キリストの恵みを語るメッセージです。
【聖書箇所】
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ヨブ9:1-3
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ヨブ8:6
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ヨブ9:14-20
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ヨブ9:28-31
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ヨブ9:32
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イザヤ1:18
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1テモテ2:5
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詩篇51:7
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ヘブル4:13-16
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ゼカリヤ3章(大祭司ヨシュアの汚れた服)
【慰めの言葉】
私たちには唯一の仲介者イエス・キリストがおられ、大胆に恵みの御座に近づき、折にかなった助けをいただくことができます。
【励ましの言葉】
イエス様にあって、私たちも揺れ動く大地のため、罪に染まる人々のために、とりなし祈る者とされています。
【勧めの言葉】
人の言葉ではなく、いつでも「来たれ、論じ合おう」と招いてくださるイエス様のもとへ、一対一で大胆に進み出ましょう。
【悔い改めの促しの言葉】
自分で自分の罪を洗おうとするのではなく、ダビデのように「私を洗ってください」と主にゆだね、雪よりも白くしていただきましょう。
***詳細***
今日、恵みをいただくみことばはヨブ記の9章です。まず初めに1節から3節を宣言いたします。
「ヨブは答えた。『そのとおりであることを私は確かに知っている。しかし、人はどのようにして神の前に正しくあり得るのか。たとえ神と言い争いたいと思っても、千に一つも応えられないだろう。』」(ヨブ9:1-3)
一言お祈りしましょう。ハレルヤ、我らの愛する主イエス様、あなたが私たちの仲介者となってくださって、神と人との間にあなたが立ってくださったことを感謝いたします。そのゆえに、あなたのゆえに、我らは恵みの御座に大胆に進み出ることができるようになりました。今、我はあなたの御前に進み出ます。どうか私たちに必要な恵みを施してください。どうか御言葉を与えてくださり、取り次ぐ者の唇を清め、聞く一人一人の耳を清めてくださり、あなたの命を命として豊かにいただかせてください。初めから終わりまでのすべてをあなたに期待し、我らの愛する主イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
ハレルヤ。素晴らしい主の御名をほめたたえ賛美いたします。
ヨブ記を見ていると、本当に人の言葉だけがはびこるところは、なんと心がどんどん冷めていくことかということと、本当に主がおられるところは、なんとどんどん心がほがらかに温かくなっていくかということが分かります。ヨブ記の、このたくさんの箇所を占める人間同士の議論、そこには主の御名がたった1回しか出てきませんでした。だから本当に心が冷めて冷たくなっていくのです。
昨日はおさらい的なところで、この1節から3節を見たのですが、ヨブが神様に向かって語りかけを始めていったのは7章のところからでした。ヨブはその時初めて、神様に対して二人称で「あなた」と呼びかけて、神様との対話を求めていきました。けれども8章においては、神様が答えたのではなく、シュアハ人ビルダデが出てきて、その語りかけを、ヨブの神様との対話を遮って、「いつまであなたはこのようなことを語っているのか」と言って、先祖の格言を押し着せていこうとしました。
今日の9章は、そのヨブのビルダデに対する答えなのです。この9章でヨブが放ったビルダデに対する第一声は、「そんなことは分かりきっている」ということでした。ビルダデが言っているのは一般論的なことです。神様は正しい方であり、悪い者は罰して、けれども神様に立ち返る者を神様は豊かに回復させてくださる、ということです。でもヨブにとっての問題はそこじゃないのです。
ビルダデが言ったこの一般論、「神は正しい、悪は罰する、神に立ち返るなら許してくださる、回復させてくださる」──そんなことはヨブは分かりきっているのです。ヨブの抱えている問題はそこじゃない。ヨブにとっての問題は、この2節以降にある通り、「人はどのようにして神の前に正しくあり得るのか」。3節では、「たとえ神と言い争いたいと思っても、千に一つも応えられないだろう」と言っています。
ヨブにとっての問題、それはこの神様と人との間の隔たりがあまりにも大きすぎるということです。そして、たとえ自分が正しいとしてもということです。ヨブはこの9章で2回も「たとえ私が正しくても」と言って、たとえ自分の方に言い分があるとしても、でも神様はあまりにも崇高すぎるお方で、天から見下ろして、人間のこの営みなんかもう何とも思っていないんじゃないか。そういうふうに、自分と神との間の隔たりがあまりにも大きすぎるかのように感じているのが、このヨブにとっての問題なのです。
皆さんは、言い争ったとしても到底勝ち目がない、そういう相手と出会ったことはないでしょうか。韓国において、甲斐先生とパスポートを初日になくしてしまったことがありました。その時、いろんなところに行きましたけれども、「私のところではこの問題を扱っておりません。どこどこに行ってください」と言われる。そこに行くと、また全く同じように「私のところでは扱っておりません、どこどこに行きなさい」と、たらい回しにされたのです。どんなに頑張っても、結局決定権がある人のところにたどり着けない。最終的にキム先生に電話したら解決の糸口が分かったのですが、結局韓国にさらに数週間残ることになりました。でも結局のところ解決ができたのです。本当に、神さんに近い人のところに行くのが一番手っ取り早かったのでしょう。
神様に対してあまりにも遠く感じている人がいます。ある救われた人の証を聞いたところ、「もう神様に対してずっと怒っていた。神、ふざけるな。なんで天の高く、お高く止まっているところで、この人間の有り様を見てるんだ、ふざけるな」と言っていたそうです。しかし、神様は人となって降りてこられて人と近くなられた、そんなイエス様を知ったからこそ、自分は神様に近く求めていくことができるようになったということでした。
ヨブはちょうど、それと同じ問題に行き当たっているのです。神様があまりにもお高くあらせられるお方だということが、この9章の前半から中盤までずっと続きます。9章14節から見ますと──
「ましてこの私が神に答えられるだろうか。神と交わすべき言葉を私が選べるだろうか。たとえ私が正しくても、答えることはできない。私を裁く方に対して、憐れみを乞うだけだ。私が呼び、私に答えてくださったとしても、神が私の声に耳を傾けられるとは信じられない。」(ヨブ9:14-16)
さらに19節を見ますと──
「もし力のことなら、見よ、神は強い。もし裁きのことなら、誰が私を呼び出すのか。たとえ私が正しくても、私自身の口が私を不義に定める。たとえ私が誠実でも、神は私を曲がったものとされる。」(ヨブ9:19-20)
ですから、この神に対して、自分がたとえどんなに正しいとしても、自分の中に罪が認められないと自分が思っていたとしても、それでも神様は自分の中に罪を認められるんじゃないか、不義にされるんじゃないか、ということですね。
ビルダデは8章6節でこう言いました。「もしあなたが純粋でまっすぐなら、今すぐ神はあなたのために奮い立ち、あなたの義の住まいを回復されるだろう。」ビルダデの言い分は、「もしあなたが正しいならば、うまくいく」ということです。しかしヨブが9章で言っているのは、「たとえ私が正しくても、私自身の口が私を不義に定める。たとえ私が誠実でも、神は私を曲がったものとされる」ということです。ビルダデは「あなたが正しければうまくいく」と言いますが、ヨブは「たとえ私が正しくても、神の前に正しく立つことができるだろうか」と問うているのです。
ここに問題があります。人は自分で正しいと思っています。ビルダデも自分は正しいと思っていたのでしょう。でも結局ヨブが言う通り、自分で自分のことをいかに正しいと思っていても、いかに誠実だと思っていても、結局自分の中には不義があり、誠実ではないところがある。その点だけではビルダデよりもヨブの方が一歩進んでいるのです。
ヨブは神様に対して、再び二人称で話しかけるようになっていきます。ずっとビルダデに話していた言葉が、やがて神様に対する言葉に変わっていきます。28節の後半から読みますと──
「私はよく知っています、あなたが私を潔白なものとなさらないことを。私はきっと悪しきものとされるでしょう。なぜ私はむなしく労するのでしょうか。たとえ私が雪の水で身を洗っても、灰汁で手を清めても、あなたは私を墓の穴に沈め、私が着る服は私を忌み嫌います。」(ヨブ9:28-31)
ヨブは再び神様と一対一で「あなたは……なんでしょうか」と話しかけていきます。けれども、このヨブが神様に語りかけた内容は、深い絶望と落胆に満ちた言葉でした。「たとえ私が雪の水で身を洗ったとしても」。ここで「灰汁」という言葉が出てきます。昔はこの灰汁が石鹸の代わりだったのです。たとえ私がそれで洗ったとしても、たとえ清らかな雪解け水で洗ったとしても、たとえどんなに優れた石鹸で洗ったとしても、あなたは私を墓の穴に突き落とされる、そういう絶望をヨブは示しています。自分で自分をどんなに清くしようとしても、絶対に神様の清いという基準、その白さには達しないんだ、という限界に突き当たって、この絶望の言葉を発しているのです。
そしてヨブの嘆きは、この9章の終わりの方で核心に迫っていきます。
「神は私のように人間ではありません。その方に私が応じることができるでしょうか。さあ、裁きの座に一緒に行きましょう、と。私たち二人の上に手を置く仲裁者が、私たちの間にはいません。」(ヨブ9:32-33)
ヨブにとって一番深刻な問題がここです。神様と私の間に立って両手をつないでくれる仲裁者がいないということ。これがヨブにとっての一番の絶望感の源です。この仲裁者、ヘブライ語の語根では「ヤカハ」と言います。このヤカハの意味は「論じ合う」、あるいは「裁定する」「是非を問う」という意味です。
この「ヤカハ」という言葉を、実は私たちは毎朝宣言しています。さっきも宣言しました。それは「論じ合う」ですね。神様は「来たれ、論じ合おう」と言われます。「たといあなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」(イザヤ1:18)毎朝宣言していますね。この「来たれ、論じ合おう」の「論じ合おう」、これがヤカハです。ヨブが求めた仲裁者と同じ語根の言葉なのです。
ヨブは仲裁者がいないことを嘆きましたが、皆さんは持っていますね。イエス様です。イエス様という仲裁者を私たちは持っています。第一テモテ2章5節にこう書いてあります。「神は唯一です。神と人との間の仲介者も唯一であり、それは人としてのキリスト・イエスです。」(1テモテ2:5)
アーメン。私たちは新約においてはっきりと、唯一の仲介者がおり、それはキリスト・イエスだと宣言しています。このイエス様が言われるのです。「さあ、来たれ、論じよう。」イエス様は「我のところに来なさい」とおっしゃっているのです。私たちがこのイエス様のもとに来るのであるならば、たとえ私たちの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなるのです。
さっきヨブが30節で「雪」というキーワードを言いました。「たとえ私が雪の水で身を洗っても」無駄であるかのように言いましたが、それは、呼ぶだけで、自分で雪の水で洗っても罪が消えないということです。当然のことです。どんなに人間が頑張って努力して、自分の罪を消そう、雪のように白くなろうとしても、消えません。ただ唯一、仲介者となってくださったイエス様が言われるのは「さあ来なさい、来て論じ合いましょう、来て事の是非を問いましょう」ということです。
ヨブは結局、ヨブ記の後半で神様ご自身が論じ合ってくださいます。ヨブが神様のもとに来始めたのが7章、その後ビルダデが論じ、さらにこの9章でヨブは再び神様のもとに来て、二人称で話し合おうとしました。だから神様の方から来てくださって、実際に論じ合ってくださったのです。その内容はとても崇高なものでしたが、結局ヨブは最後に悔い改めて、友人たちのためにとりなして、倍の祝福が戻ってきました。友人たちは最後まで神様を三人称として扱い、一対一の関係を結ばなかったのですが、ヨブは神様との一対一の関係を結んだゆえに、ヨブだけが友人たちのためにとりなす者となることができたのです。
私たちもとりなす者になるのです。先ほど大きな地震がありましたね。皆さん祈りましたね。祈ったらすぐに静まりましたね。本当にとりなす立場に皆さんがあります。この神と人との間にイエス・キリストにあって立つことができたから、この揺れ動く大地のためにとりなし祈り、また罪に染まっていく人々のためにとりなし祈ることができるのです。自分一人ではできません。ただ、イエス様という神と人との間に立つ仲介者がおられるゆえに、私たちは祈ることができ、また私たちの罪はこの仲介者のゆえに雪よりも白くなることができるのです。
ダビデも大きな罪を犯したとき言いました。詩篇51篇7節、これもよく宣言する言葉です。「ヒソプで私の罪を除いてください。そうすれば私は清くなります。私を洗ってください。そうすれば私は雪よりも白くなります。」(詩篇51:7)ダビデは取り返しのつかない罪を犯しました。けれどもダビデは自分で自分の罪を洗おうとはしないで、「私を洗ってください」と主に願い求めました。主に洗っていただくのであるならば、私は雪よりも白くなりましょう、とダビデは告白しました。だから、自分で何とかしようとしない。このイエス様に何とかしていただこうとする。これが正しい手順なのです。
もう一箇所、ヘブル書の4章を開きたいのですが、これは冒頭で宣言した箇所です。まず13節から読みます。「神の御前に、あらわでない被造物はありません。神の目にはすべてが裸であり、さらけ出されています。この神に対して、私たちは申し開きをするのです。」(ヘブル4:13)
この13節だけ読むと、あたかもヨブが絶望したように、私たちも絶望するしかありません。しかし14節以降が続きます。「さて、私たちには、諸々の天を通られた神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を固く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において私たちと同じように試みに遭われたのです。」(ヘブル4:14-15)
アーメン。イエス様は人となられましたが、神であられるお方です。この神であられるのに人となって降りてきてくださったお方こそ、唯一、私たちと神様との間に仲介者として立ってとりなすことがおできになるのです。このお方のゆえに、私たちは神様に近づくことができます。
続く16節にはこう書いてあります。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:16)
アーメン。皆さんは今、助けが必要でしょうか。必要ですね。折にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの御座に、イエス様を通して近づくことができるのです。
このヨブは今日の9章では、神様と自分の間に大きな隔たりがあることに絶望しました。仲介者がいないことに絶望しました。けれども、私たちにはいるのです。イエス様という仲介者が。そしてヨブは仲介者がいないと嘆いたのですが、それでも「来たれ、論じ合おう」の「来たれ」をしました。だから神様ご自身がヨブに近づいてきて論じ合ってくださり、恵みを施してくださいました。
イエス様は天を押し曲げて私たちのところに降りてきてくださいました。人となって来てくださいました。神と人との間の仲介者となってくださるために。ですから私たちはこのイエス様によって折にかなった助けを受けることができるようになり、またこのイエス様によって、私たちも世と神様の間に立つ仲介者として人々のためにとりなし、この揺れ動く大地のためにとりなし祈ることができる、この神の子としての立場をいただくことができるようになりました。
イエス様は私たちに同情し、神に対しては弁護してくださり、悪魔サタンに対しては「お前をとがめる」と言ってくださいます。たとえ私たちが汚れた服を着ていたとしても、あの大祭司ヨシュアのように、私を訴えるサタンに対して、「主がお前を責める」と言ってくださいます。イエス様にあってです。この素晴らしい恵みに感謝しつつ、折にかなった助けを得るために、今日も大胆にイエス様に近づいて、恵みの御座に近づいて、折にかなった助けをいただいていく皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福いたします。アーメン。
【結論】
ヨブは神と人との間の隔たりに絶望し、仲裁者がいないことを嘆きました。しかし私たちには、天を押し曲げて人となり降りてこられた唯一の仲介者イエス・キリストがおられます。「来たれ、論じ合おう」と招いてくださる主のもとへ、人の言葉に惑わされず一対一で大胆に進み出るとき、私たちの罪は雪よりも白くされ、折にかなった助けをいただき、さらには他者のためにとりなす者へと変えられていくのです。