ヨブ記の転換点 − 神との一対一の交わり(ヨブ記9:1-3)

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ヨブ記の転換点 − 神との一対一の交わり(ヨブ記9:1-3)

メッセージ音声

【概要】

苦難のただ中にあったヨブが、友人たちの的外れな指摘を受けながらも、初めて神と一対一で向き合い始めた「転換点」について語り、罪を追求する悪魔サタンとは対照的に、私たちを愛の糸で引き寄せ救ってくださるイエス様の姿を伝えるメッセージです。

【聖書箇所】

  • ヨブ9:1-3

  • ヨハネ9:3

【慰めの言葉】

イエス様は私たちの罪を指摘するのではなく、弱さを見出し、風前の灯火のような命を羊飼いとして引き上げ、救ってくださいます。たとえ罪ゆえの災いであっても、イエス様はそれを神の栄光へと裏返すことがおできになります。

【励ましの言葉】

神との親密な一対一の交わりこそが、すべての働きの土台であり、私たちを支える力となります。

【戒めの言葉】

  • 人を教える立場に立つ者が、少しの知識や体験、御言葉解釈を得ると、それを披露したがる罠に陥りやすいことに気をつけましょう。

  • エリファズやビルダデのように、災いにあった人に対して「あなたの罪だ」「あなたの子供の罪だ」と追求してしまう心が、私たちの中にもあります。

【勧めの言葉】

  • 傷ついている人と向き合うときは、自分の知識や体験を披露するのではなく、聖霊様に聞き、その人の本当の痛みがどこにあるかを見極めましょう。

  • 自分の手法や御言葉解釈よりも、まずイエス様に聞き、一人一人へのカスタムメイドの道をご存知のイエス様に導かれて働きをしていきましょう。

【***詳細***】

本日のメッセージです。今日恵みをいただく御言葉はヨブ記の9章1節から3節です。

ヨブ9:1-3をお読みします。

ヨブは答えた。「その通りであること、私は確かに知っている。しかし、人はどのようにして神の前に正しくあり得るのか。たとえ神と言い争いたいと思っても、千に一つも応えられないだろう。」

では、一言お祈りします。ハレルヤ、愛するイエス様。あなたがいますゆえに、我らは神に何事をも申し上げることができます。むしろイエス様、あなたが十字架につけられ、私たちの身代わりになってくださったゆえに、私たちは大胆に恵みの御座に進み出て、折にかなった助けをいただける恵みと幸いを感謝します。今朝も主よ、我らはここに集いました。久しぶりに、この宮において、あなたの愛されたこの場所、あなたの目を留めておられるこの場所において、共に早朝交われる恵みを感謝いたします。イエス様、あなたご自身が我らに今日必要な命の御言葉を、また示しを与えてください。初めから終わりまでのすべてをあなたの御手にお委ねし、期待し、イエス・キリストのお名前によってお祈りをいたします。アーメン。ハレルヤ。

久しぶりにこの場所において、本当に皆さんとこの御言葉の交わりができる恵みを感謝いたします。ここに来るとホッとするんですね。やはりつくばみらいは、外は寒いんですけども、中は暖かいですね。韓国の方は天気がカラッとしていたんですけども、本当にここ最近、日本においては雨の被害がたくさんあるということで、本当に自然界が悲鳴を上げているような、そういう状況です。人の罪が増し加わって、人の心は冷たくなっているけれども、本当にそのような中だからこそ、ますますイエス・キリストの光、またイエス・キリストの愛が際立って輝いていくと思います。このつくばみらい、このティアにおいて、イエス・キリストの愛が豊かに輝かされること、ますます祈り求めていきたいと思います。

ヨブ記ですね。久しぶりで、まあ3、4週間ぶりくらいでしょうか。久しぶりですので、今日はちょっとおさらいをさらっとしていきたいんですけども。

まずヨブは、皆さんご存知の通り、災難に遭いました。当時、世界一、もうヨブほどの義人がいないほどの義人だった。そしてヨブ自身も義人として頑張っていたんですね。誰よりも神様の御前において清くあろう、また自分の子供たちもなんとかしよう、そういう思いに満ちていたヨブですけれども、突然、ある日突然すべてを失ってしまいました。その発端になったのはサタンです。神様が好き好んで、このヨブを苦しみに遭わせようという思いは一切なかった。悪魔サタンは人を妬んで、人をつまずき倒し、人を滅ぼそうと躍起になって、そしてずっと伺っているんですね。

じゃあ神様は無力かというと、そうではありません。全部が、たとえ悪魔サタンが何かしようとも、全部が神様の許可のもとにあり、そして神様がすべてを作り変えて、こんなヨブに下された災いをも塗り替えて益としてくださるということを、これが聖書全体を見ればわかります。このヨブ記においてのその総括がヤコブ書の方にありましたね。神さんは恵み深く憐れみ深いお方であるということを知るために、この聖書の諸々のことが書かれてあるということです。

ヨブには災難が起こりました。そして、それを聞きつけた友人たちが示し合わせてヨブのところを訪れるんですけども、でもヨブのこのあまりのひどい有様に、ずっと7日7晩沈黙を続けておりました。でも人は、何かと黙っていると、心の中のその自分自身の方向性がどんどん増幅していくんですね。このヨブという人と話していない状態だと、相手に対して、例えば悪意があったとしたら、その悪意がどんどん増幅されていってしまいます。あるいは憐れみがあったなら、その憐れみがどんどん増幅していくところであるかもしれませんけど、人間というものは本当に罪に対して弱い。また何かと悪に走りがちなものです。本当に人の足は悪に走りがちな足であるものです。

友人たちは、このヨブを目の前にして、最初はヨブに対する憐れみが大きかったことでしょう。けれども、徐々に、もう3日、4日、5日経つうちに、果たしてこのヨブ、こんな尋常でない有様を見るに、一体何をしたらこんな風になるんだろう、何をしたら、って詮索が始まるんですね。そして7日7晩の沈黙が、ヨブの、この本当に今自分の神様を嘆く、そのもう自分の生まれた日を呪うという、そのような言葉が溢れ出てきたんですね。ヨブの口から、自分が生まれてこなければよかったんだ、自分の生まれてきた日は呪われよって、そういうふうに怒涛のように、この自分の本当に痛み、辛さ、ひどさ、それがどんどん口から押し寄せてきた。

その言葉を聞いた友人たちが、これは神様を呪ってるんじゃないかって。ヨブ自身としては自分自身の生まれた日を呪っていたんですけど、しかし、神様に対してやっぱり罪を犯していたんだというふうに、このヨブの友人たちにとっては、このヨブの言葉が攻撃材料になって、それでこのヨブと3人の討論が始まりますね。

まず切り出されたのが、テマン人エリファズのその答弁でした。ヨブの言葉に対して、こんな言葉聞いていられるだろうか。私が思うに、この神様は何の罪も犯してない人間はこんな災いに遭わせない。そして私の言葉を聞けということで、テマン人エリファズは自分が経験した神秘体験ですね。ある夜、この身の毛がよだった、その霊が言った言葉においては、これこれだ。人間は本当にちっぽけなつまらないものだ。もうそのような感じで、ヨブ、あなたもね、ちっぽけでつまらないんだ。そんな感じでヨブに言うんですけど、ヨブとしては全然答えになっていないんですね。

このテマン人エリファズがこのヨブに対して言ったことに対して、このエリファズにヨブが答弁をするんですけども、でもこのヨブは、ヨブ自身としてはこの友人たちにその答えをしていく最中において、いつしかその言葉が三人称から二人称に変わっていくんです。三人称というのは三人その場にいるんですね。神と私とあなたっていう三人ですね。神様についてあなたと私が討論する。これが三人称の討論です。神様はどこかにいて、そしてあなたと私が今ここにいて言葉を発している。そういう状況ですね。それに対して二人称というのはあなたと私しかありません。ヨブの二人称はね、友達と私ではなく、神様と私。神様に対してヨブが言うんですね。

とても激しい言葉でヨブは言います。祈りというと美辞麗句を思い浮かべるかもしれないんですけど、しかし、この時のヨブの祈りは決して美辞麗句ではありませんでした。もう荒削りな、そして荒々しい、友人たちからすれば嵐のようだと評価されるような、そういう言葉でした。それでこの神様に対して向き合う、そのような形にヨブがなっていったんですけども、ここがこのヨブ記の一番初めの転換点でもあります。ヨブが神様と一対一で向き合うようになった。その前まではずっとヨブは三人称としての神様を論じるような、そういう感じではありましたけれども、ここで初めてヨブが神様に向かって一対一で話すようになりました。

昨晩、ここに横浜組が到着した時ですね。祈り会をして、そして甲斐先生が最後に言ったこと。神様と親密に交わる時を持たないと、ずっと神様はただ言われたことをやるだけ、ただそういうタスクをこなすだけになっちゃうよっていうことでした。本当に神様との一対一の関係、神様との親密な交わり、これがありきで、そして神様との親密さの中において、神様は本当に愛と憐れみに満ちた、その恵みに満ちたお方、私たちの主イエス様は、私たちの身代わりになってまで、私たちの身代わりに痛まれ、愛された。そのイエス様のために私は何ができるだろうという、そういうところから始まるこの働きであるならば、イエス様のためにもうどんな労苦をも厭わない。

私が今、トイレ掃除を、このティアのトイレ掃除をしている。なんで私が便所掃除なのか。イエス様との交わりなしだったらそんな感じに、ただ仕事をこなし、つまらない仕事になってしまいますが、しかしイエス様にあってするのであるならば、教会はキリストの体、このつくばみらいキリスト教会の体、イエス様をきれいにするんだって、そういう愛のモチベーションが湧き上がってくるんですね。

ヨブの転換点、それは神様と一対一のその対話を、交わりを始めた。最初は荒々しかった、でも荒々しいなりでも神様とのその交わりを持ち始めたところ、ここがこのヨブにとっての転換点ですね。ヨブの友人たちはずっと神様との交わりはなく、ずっとヨブの言った言葉の言葉尻を捉えて、ヨブを責めるみたいな感じがずっと続いていたんですけども、まあでもヨブが最後、最後の最後で友人たちのために執り成しましたら、そしたら祝福が返ってきました。本当にこの神様との一対一の関係、交わり、これが大切です。

ヨブとしては神様に向き合うようになりました。そして神様に答えてほしかったんです。そしてヨブの神様に対する一連の言葉が途切れると、神様がこのヨブに答えると思いきや、答えたのは神様でなく、シュアハ人ビルダデという友人の一人がヨブに答えたんですね。しゃしゃり出てきて、そして前のその8章で、あなたの荒々しい言葉、まるで荒い風のようだ、嵐のようだというふうにビルダデは言うんですね。

ヨブとしては、ヨブに起きたことを考えるならば、ヨブの言葉が荒々しくなっても、ヨブの心が本当に嵐のようになっても仕方がないものではあるんですけども、でも、このビルダデとしては、あなたの言葉は激しい風のようだ、嵐のようだというふうに言ってですね、でも本当に辛い人、そういう状況にある人に対しては、その辛さを思いやるべきです。例えば、風邪がひどくて、もう咳がひどくて、もうゲホゲホやってる人に向かって、あなたの咳は嵐のようだなんてね、そんなのは全く明後日な言葉ですね。むしろその大変な状況にあるんだから、咳止めの薬をね買ってあげるとか、あるいは水を飲ませる、大変だねという言葉の一つもかける。それが人というもの、神様にある人というものですけども、でも、あなたのその状況は嵐のようだね、そういうふうに言って、それで神様はこれだよねっていうふうに言ったとしても、そんな言葉は響かないものです。

本当にイエス様は、私たちはイエス様にこそ倣うべきですね。このシュアハ人ビルダデも、あなたが神様に対して何か過ちがあったからこそ、これこれなんだっていうふうに論を展開していくんですけども、このビルダデの言葉が辛辣だった。その辛辣な点は、ヨブの子供に関して言ったことですね。ヨブ、あなたの子供に、何か罪があったから、だからこういうふうに死んだんではないか、そんな感じのことを、シュアハ人ビルダデはそういうふうに指摘するんですね。ヨブとしては、そんなこと言われたら、もうそこでもういつ爆発しても仕方がないような状況ではあるんですけども、でもヨブはここでまだ爆発しないで、この9章1節から3節の、そんなことはわかってる、でも、という感じで。

本当にヨブは忍耐深いと言いますか、義人の懐が深い、そういう感じなんですね。ヨブはこの時点ではまだ怒り爆発しません。怒り爆発するのはもっと書を下って20章、30章になってから。それまでずっと、ヨブはこの友人たちの明後日な指摘、責め、また一般的な因果応報のそういう論を、それを淡々と受け答えていって、そして神様に、神様、私はこれこれの状況ですというふうに、そういうふうに告白していくんです。

このシュアハ人ビルダデは、先人たちのその訓戒によると、これこれこうだというふうに言うんですね。テマン人エリファズが彼の神秘体験をもとにして、このヨブにこれこれこうだっていうふうに指摘していて、ビルダデは先人の訓戒をもとにしてそういうふうに言うんですけど、でもこの2人に共通していることは、ヨブの状況を見ていないということです。ヨブに見合った言葉を言わないで、単に自分の中にある自分の言いたい、先人の訓戒だとか、神秘体験だとか、そういったものを引用して、そしてこれが真実だ、だからあなたはこうすれば治るっていう、そういう状況です。

2人ともヨブを切り裂きました。けれども、切り裂いた中には何の益ももたらさないし、ただ傷だけを残しました。確かに、エリファズの言葉も真理をついているっていうのはありますし、ビルダデの言葉もそうですけれども、あいにく、それはヨブに対しては的を外していたんですね。2人とも、その例えて言えば、ヨブが病気だったとして、エリファズは肺を切り裂いて手術をした、そのメスさばきも完璧であり、またそのメソッドも完璧だったけれども、あいにくそのヨブの病巣は肺にはなかった。ビルダデは、じゃあ足だって言って足を切り裂いたけれども、ヨブの病巣はあいにく足でもなかった。そういう状況ですね。

私たちは本当に傷ついている人を目の前にするときに、本当にこの病巣は一体どこにあるのか、その聖霊様というレントゲンを持って見極める必要があります。私たちは、この御言葉という、これはいわばメスです。御言葉は両刃の剣であると書いてあります。関節と骨髄、魂と霊の境目さえも切り分けると書いてあります。だから私たちは、この一体どこを切り分けるべきか、魂と霊を切り分ける。そしてそれは、その病巣は一体どこにあるか。これは本当に、私たちの見た目、また思い込み、これでは見極められません。御霊が人の心の奥底を探り極めるお方でなければ、それは探り極めることはできない。だから私たちはいつも主に聞き、また御霊に聞くべきなんです。だから主との交わりが、いつも主との親密な交わりが、私たちにはいつも必要であるわけですね。

このビルダデ、またエリファズのその対処を見ていると、また、このヨブ記全体を見ると、本当に人を教える立場に立つ、その人が一番陥りやすい罠を見て取ることができますね。ちょっとでも知識を得ると、あるいはちょっとでも優れたやり方を身につけると、あるいはちょっとでも神秘体験をすると、それを披露したがるんですね。自分が身につけたことを、やたらそれを使いたがるんです。

今日のメッセージを、身近なたとえから始めたいと思います。ちょっと高級な腕時計を買ったとしますね。そうすると、その腕時計をチラチラ見せるために、あえて髪の毛をこういうふうにかき分ける仕草が多くなったりします。「今何時かな」「あ、何時か」と、わざわざ高級腕時計を見せびらかしたがるんですね。

いつぞや、なんか高級なドリルを買ったら、そのドリルを試したくて、「ちょっとなんか板を持ってきてくれる、見事な穴を開けてみせるから」と言って、やたらと披露したがるんですね。

本当に私たちは、ちょっとでも知識を蓄えると、あるいは先人の教えとか神秘体験とかを蓄えると、それを披露したがってしまうんです。そして相手が水を持ってきてほしいというのに、ドリルを持ってきたりする。そんな感じの、本当にあさってな、的外れなやり方です。

これはまさに、ビルダデやエリファズが陥っている罠だと思います。私たち人を教える立場に立つ人が陥りやすい罠を、ここに見ることができます。とにかく新しい聖書解釈だとか、新しい格言だとか、そういったもので押し着せるよりも、本当に御霊に聞いて、「この人に今一体何が必要であるのか、どんな言葉が必要であるのか」を、私たちは聞く必要があります。

エリファズやビルダデはこのヨブに対して、「罪があるから」、あるいは「あなたの子供の罪だから」というふうに指摘するんですけれども、これは本当に私たちも陥りやすいことなんです。「あなたのこれこれに罪があるんだろう」と指摘してしまうんです。

イエス様の弟子たちでさえそうでした。その生まれつき目が見えない人について、「この人が罪を犯したからですか、それともその親ですか」というふうに聞くんですね。けれどもイエス様はどういうふうに答えられたでしょうか。冒頭で宣言したのはヨハネの9章でした。イエス様は通りすがりに、生まれた時から目の見えない人をご覧になった。弟子たちは「先生、この人が盲目に生まれついたのは誰の罪のせいですか」と尋ねました。

イエス様が言われたのは、ヨハネ9:3です。

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」

アーメン。

確かに、人が災いにあうのは人の罪だったかもしれません。そういうケースは多々あります。けれども、たとえその人が罪を犯したから、その災いにあったとしてもです。神の栄光が現れる。それが神様の答えであり、イエス様の答えです。どんな罪のゆえの、身から出た錆であったとしても、イエス様にはおできになります。それを神の栄光に裏返しにすることがおできになります。

イエス様は、私たちの罪を指摘するのではなく、私たちの弱さを見出してくださり、また、私たちのこの命の、本当に風前の灯火のように、もう今にも絶え絶えない有様を見出して、羊飼いとして私たちを引き上げて救ってくださる、私たちの主、羊飼いであられるイエス様です。

メッセージ前に賛美したのは98番でしたね。「我が友、主イエスは我を見出し、引き寄せたまいぬ。愛の糸をもて」。アーメン。イエス様は愛の糸で引き寄せてくださるお方です。「御そばにはべれば何をか恐れん。今、主はわがもの、我は主のもの」。アーメン。このように書いてあります。

イエス様は私たちを一人一人引き寄せてくださるお方です。この地の、イエス様を知らない魂たちよ。またこの世の中で、イエス様を知らない、真理を知らない、真の神様を知らない、そんな一人一人を引き寄せたい、引き寄せたいと願っておられるのが、私たちの主イエス様です。

私たちは本当にこの働きをするにおいて、聖霊様に聞き、イエス様に聞くべきです。私たちがちょっと手に入れたその手段、手法、あるいは御言葉解釈によってよりも、まずイエス様に聞いて、そしてイエス様が一人一人を引き寄せたい、一人一人に対するカスタムメイドの道をイエス様がご存知だから、私たちはイエス様に聞いて、そして本当にこの働きをしていくべきです。

イエス様は私たちを、すべてをご存知、人の心を探り極めるお方です。今、私たちもこのイエス様と、ヨブのように、一対一の交わりを、たとえ荒削りでもいいので持って、そしてイエス様から聞いて、このイエス様の愛を、愛の意図を、本当に一人一人に投げかけて、イエス様の愛を届けていく私たちとなっていきたいと思います。

では一言お祈りします。愛するイエス様、本当に私たちはあなたなしにして、あなたを抜きにして何事もすることはできません。イエス様、いつでもあなたに聞いて、あなたとの交わりを持つことができますように。あなたなしでは、本当にこのヨブ記のような殺伐とした、主の御名なしの議論しかありません。イエス様、どうかあなたの愛の意図をもって我らを引き寄せてください。我らは本当にあなたから離れがちなものです。いつでもあなたと交わり、親密になり、そしてイエス様の愛を、こんこんと泉のように湧き出させて、そして潤していく私たちとならせてください。今日いただきました御言葉に感謝して、私たちの愛する主イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。

続いて、もう一人の兄弟姉妹の祈りです。我らを愛する主よ。あなたの御名をあがめ、感謝いたします。今日も私たちはこの場所を通して、いかにこの悪霊サタンが人の罪をしつこく訴えるものかということがわかります。私たち一人ひとりが神と人の前で犯した罪、それを神の御前においてしつこく追求して、そして御前において私たちを滅ぼしに至らそう。そういうのが悪魔サタンの願いです。

そのような容赦なしの状況の中において、私たち一人一人を顧みてください。愛、憐れみ、赦し、その恵みをもって私たちを育んでください。「この人がこのようになったのは、お前のせいじゃないか。これは火から取り出した燃えさしではないか」と、罪の根拠であった悪魔サタンを叱り、その餌食になった者に、主よ、あなたは新たな衣、新たなターバンをかぶせてくださり、傷ついた私たちをさっぱりと癒し、神のものとしてくださったことを感謝します。アーメン。

今日、このヨブ記をどうして、主よ、悟りました。人間は目の前に起きていること、今目の前に起きていること、それを偉そうに追求する。追求したことを偉そうに、またその人に吐いてしまう。でも、友人である彼らにも、このことを防ぐために前もってヨブやその子どもたちを育み導く力は一切ありませんでした。

主よ、悪魔サタンは訴える資格はありません。そして私たちも、出たその結果に対して「だからこうなんだ」と追求する、その資格はありません。神の前で人は、大きな罪人、小さな罪人、罪の大きさが違うだけです。救われる人は独り子によります。これが私たちの実態です。

主よ、根拠はわからず、私たちは時に「なんでこんなことするんだろう」と自分を責める。「なんでまだこんなことを続けているんだろう」と自分を打ち叩く時もしばしばあります。その背後にいて、その業をなしているのは悪霊サタンであることを、私たちを憐れんでください。ビルダデやエリファズのように、私たちもやってしまった時がたくさんあります。

イエス様に免じて赦してください。神から生まれたものとして、神様が私たちを愛、憐れみ、赦し、その恵みをもって顧みてくださったこと、助かっている私を、いつも思い出すことができますように。そして主よ、私たちも神から生まれたものとして、愛、憐れみ、赦し、その恵みの心をもって、私たちの目の前にいる一人ひとりをイエス様に捧げ尽くす。そして、必要な言葉で立て上げ、慰め、励ますことができますように。主よ、あなたが私たちを満たしてください。アーメン。

【結論】

ヨブ記の転換点は、ヨブが荒々しいながらも神様と一対一で向き合い始めたところにあります。私たちの働きも、神様との親密な交わりから始まるとき、どんな労苦も愛のモチベーションへと変えられます。一方、ヨブを追い詰めたエリファズやビルダデのように、自分の知識や体験、解釈を披露し、人の罪を追求し断罪する冷たい心は、私たちの中にもあります。しかしイエス様は「この人に神のわざが現れるため」と語られ、罪ではなく弱さを見出し、愛の糸で一人一人を引き寄せてくださるお方です。私たちは自分の手法や解釈に頼るのではなく、まずイエス様に聞き、御言葉というメスをもって、聖霊様に導かれながら、目の前の一人ひとりに神の愛と憐れみを届けていく者となりましょう。