整わない言葉も尊い祈り「シーハー」 − エリファズの決めつけを越えて(ヨブ記15章)

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整わない言葉も尊い祈り「シーハー」 − エリファズの決めつけを越えて(ヨブ記15章)

メッセージ音声

【概要】

ヨブ記15章から、テマン人エリファズの第2ラウンドの弁論を取り上げ、思い込みや一般論で人を決めつける高慢の誤りと、整っていない言葉でも心を注ぎ出す「シーハー(祈り)」の尊さ、そして主に根ざして豊かな実を結ぶ恵みを学ぶメッセージです。

【聖書箇所】

  • ヨブ15:1-3

  • ヨブ15:4

  • ヨブ15:7

  • ヨブ15:10-11

  • ヨブ15:14-16

  • ヨブ15:17

  • ヨブ15:25-26

  • ヨブ15:29-33

  • ヨブ4:17-19

  • ヨブ14(前回のおさらい)

  • ヨブ1:8

  • ヨブ10:1

  • ヨブ13、ヨブ14

  • ヨブ1、ヨブ2

  • イザヤ11

  • イザヤ53:2

  • 詩篇102(表題「苦しむ者の祈り」)

  • 詩92:14

  • 詩1:2-3

  • ローマ14:1-4

【慰めの言葉】

  • 整っていない言葉、つぶやきや嘆きであっても、心を包まず主の前に注ぎ出すなら、それは立派な祈りである。

  • 切り倒されたかのように見えても、神様は復活させることがおできになる。

  • 主にあって切られても若枝は伸び、より多くの実を結ばせるためのカットである。

  • 主に根ざす者は時が来れば必ず実を結び、その葉は枯れない。

  • しもべが立つか倒れるかは主人次第であり、主を主人とする者は必ず立つ。

【励ましの言葉】

  • イエス様は私たちを「友」と呼び、神の会議に加え、その御心を打ち明けてくださる。

  • 主に望みを置くなら、ヨブのように後には以前の二倍の実を結ぶ歩みへと導かれる。

【戒めの言葉】

  • エリファズのように、相手を思い込みや決めつけで裁いてはならない。整った言葉だけが祈りだと判断するのは誤りである。

  • 自分の言葉を「神の慰め」とするような、神の立場に立つ高慢に気をつけるべきである。

  • 人が握りしめている小さな望みを、イライラのゆえにへし折ってはならない。

  • 一般論や結果論をもって人を責めるようなことをしてはならない。

【勧めの言葉】

  • 心の嘆きを包まず述べて、負える重荷を主の前に注ぎ出す「シーハー」の祈りを、いつでもするべきである。

  • イエス様という真のぶどうの木につながり、接ぎ木されることで豊かな実を結ぼう。

  • 主の教えを喜びとし、昼も夜も口ずさみ、真の水源である主に根を張る者となろう。

  • 信仰の弱い人を受け入れ、その意見をさばかない。

  • 主にしっかりと根を下ろし、愛・憐れみ・赦し・恵みを人々、特に弱っている人に注ぎ出していく。

【悔い改めの促しの言葉】

  • 慈しみをいただいていたにもかかわらず、エリファズのようになっていたことを主の前に赦していただく。

  • 一般論をもって人を責め、人の過ちを探そうとした罪を悔い改める。

【詳細(AIによる文字起こし)】

本日恵みをいただく御言葉はヨブ記15章です。まず1節から3節を宣言いたします。「テマン人エリファズが答えた。知恵のある者は虚しい知識によって答えるだろうか。東風で腹を満たすだろうか。益にならない言葉で、役に立たない論法で論じるだろうか。」

お祈りします。愛するイエス様、今、我らは御前に進み出ております。命の御言葉をいただきたいからです。主よ、どうか私たちに命を豊かにいただかせてください。人の目には難しい論法であるかのように見えるこの箇所からも、恵みの落ち穂を豊かに拾わせてください。どうか語る者の口を、また預かる一人一人の耳を清め、通りよくし、天から流れ出てくる命の泉を豊かに汲み尽くさせてください。初めから終わりまでのすべてをあなたに期待し、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

このヨブ記は少し難しく見えますが、そこから私たちは陥りやすい罠、そして神様の恵みを見て取ることができます。前回は14章でした。ヨブは言いました。木には望みがある。たとえ切り倒されたとしても、そこからまた芽を出し、その若枝が絶えることはない。実際、天性のビルの前の木も切り倒されていて、初めはもうダメだと思ったのですが、今や茂っています。若い枝をどんどん伸ばしていきました。

イザヤ書11章においてエッサイの根株から出てくる新芽、これこそがイエス様です。たとえ切り倒されたかのように見えても、神様は復活させることがおできになるお方だということを、そこから知ることができます。そして私たちもこのイエス様、真のぶどうの木であるイエス様につながっている、このイエス様という木に接ぎ木されているのであるならば、私たちも豊かな実りを結ばせることができます。

ヨブは神様に問いました。人は死んだらまた生きるでしょうか。さらにヨブは、もし神様、あなたが呼んでくだされば、私は答えますと言いました。神様との会話のやりとり、会話のピンポンをヨブは求めています。ヨブは生きるのです。なぜなら神様につながっているから。たとえ切り倒されたかのように見えた私を、ヨブの口調が喧嘩腰に見えても、荒々しくても、それでも神様に望みを持ち、神様に食ってかかるように見えても、神様に顕現を求めているから、だからヨブは再び立つことができるのです。

このヨブはまさにイエス様へとどんどん近づいていきます。「私は私を弁護してくださるお方を望む」と言いますし、とりなし手を求める。また私を恵んでくださるお方を求める。これはまさにイエス様へと近づいていっているのです。ヨブが求めることは全てイエス様へと向かっていくということが、読み進めていけばわかります。旧約聖書はすべてイエス様へと導く養育係のような役割を果たしているのです。

今日の15章ですが、14章までを第1ラウンドとするならば、第2ラウンドに入っていきます。第1ラウンドはヨブの言葉から始まって、それに対してテマン人エリファズが答え、さらにビルダデが答え、ナアマ人ツォファルが答えて、それが第1ラウンドです。そして第2ラウンド、再びテマン人エリファズがヨブの言葉に対して口を開きます。第1ラウンドではエリファズはまだ理性的でしたが、今日の15章では言葉の節々に何かイライラする有様を感じ取ることができます。

まずエリファズは2節でヨブの言葉を、虚しい知識だ、東風だと言います。この東風は砂漠から吹いてくる熱風で、夏の熱風にさらされるとどんな人も植物も枯らされてしまう、そういう風です。エリファズはヨブ、あなたの言葉は東風だと決めつけました。さらに4節を見ますと、エリファズの決めつけの中心が分かります。「あなたは敬虔を不要とみなし、神の御前で祈るのをおろそかにしている」と言うのです。

しかし果たしてヨブはそうだったのか。神様ご自身が1章でヨブについてこう言っています。「私のしもべヨブのように誠実で、まっすぐな心を持ち、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいないのだから」とサタンに対して言っています。ですから、エリファズが決めつけている「あなたは敬虔を不要とみなし神の御前で祈るのをおろそかにしている」、これはまさに思い込み、決めつけです。ヨブは祈りをやめていたか。いいえ、その直前の章までヨブはずっと神様に対して二人称で「あなたは神様、あなたは」と語りかけていました。あれは全部神様に対する祈りでした。

面白いのですが、ここで祈りと訳されている言葉、これはヘブライ語でシーハーと言います。実はこれは、ヨブが10章1節で「私は不平をぶちまける」と言った、この不平、これも同じシーハーの変化形で、同じ言葉なのです。ですから祈りと訳されている言葉シーハーは、不平とも訳すことができる言葉です。祈りと不平が同じ語源、不思議に思えるかもしれませんが、シーハーというのは、胸の内にあるものをつぶやくかのようにして、思いのたけを神様に向かってぶちまけるようなもの、それがシーハーなのです。

エリファズはあなたはシーハーをやめていると言ったのですが、あいにくヨブは10章でもそうですし、13章でも14章でもずっとシーハーをし続けていました。ずっと神様の前にシーハーをし続けていたのです。ではなぜエリファズはあなたが祈りをやめていると指摘したのか。考えられる理由として、きっとエリファズにとって祈りというものは整えられた立派な言葉を並べ立てるものだったのでしょう。ヨブのこの荒々しい言葉は、エリファズには祈りとは全く見えなかった。だからエリファズはヨブ、あなたは祈りをやめていると言ったのです。

しかし聖書は、この心の嘆きを包まず注ぎ出すことをちゃんと祈りと呼んでいます。シーハーです。天声では詩篇の講解説教をしていますが、詩篇102篇を見ますと、その表題は「苦しむ者の祈り、彼が気落ちして自分の嘆き(シーハー)を主の前に注ぎ出したもの」と書いてあります。詩篇102篇はシーハーなのです。

またハンナも祭司エリに対して言っています。私はシーハーを神様に対して祈っていたのです、と。祭司エリはハンナが酔っ払っていると言いました。言葉にならない、顔を真っ赤にして心の底から吐き出す祈りをしていたのを、酔っ払っていると言ったのです。しかしハンナは「いいえ、私は主の前に心を注ぎ出していたのです。募る思い、憂いと苛立ちのために祈っていたのです」と、神様に注ぎ出す祈りをしていたのです。

ですから、祈りの言葉は整っていなくてもいいのです。エリファズはヨブの言葉が整っていないから、ぶちまけだ、祈りなんかじゃないと決めつけたのですが、つぶやきでも嘆きでも、それを主の前に包まず述べるのであるならば、先ほど487番を賛美しましたね。「心の嘆きを包まず述べて、などかは下ろさぬ、負える重荷を」。本当に包まず述べる、これがシーハーです。私たちはそれをいつでもするべきです。

さらに7節から、エリファズはヨブに対して、あなたは最初に生まれたのか、山より先に生み出されたのか、あなたは神の会議を聞いたことがあるのか、と問いかけで質問攻めしていきます。日本語で会議というと職場で議論を出し合う場面を思い浮かべますが、このヘブライ語を見ますと、もっと親密なニュアンスがあります。ごく親しい人たちが集まって、他には打ち明けられないような内緒話的なことも打ち明けられる、そういう意味なのです。

エリファズは「あなたは神の会議を聞いたことがあるのか」と言いましたが、このヨブこそ神々の会議の中の中心人物でした。ヨブ記1章2章を見ますと、神の子らが集まって、サタンもそこに加わって、そこで神様がこの会議をしておりました。ヨブに対する神様の評価は「あなたは私のしもべヨブに心を留めたか」とサタンに自慢しておりますけれども、エリファズはそれを知りませんでした。あなたは神の会議を聞いたことがあるのかと言いましたが、あいにく神の会議のその中心話題がこのヨブだったわけです。

主を恐れる者は、すべてこの神の会議の議題に残っています。アブラハムもそうでした。神様は「私の友アブラハムに対して、私がしようとしていることを打ち明けないでいてよいだろうか」ということで、ロトのいるソドムを滅ぼすというその意図をアブラハムに伝えられました。そしてアブラハムもこの神の会議に加わり、とりなしという形で加わっていきました。

私たちもイエス様によって、この神の会議の輪に入れていただくことができます。イエス様は弟子たちに「わたしはあなたがたを友と呼びました」とおっしゃいました。しもべに対しては自分の意図は告げ知らされないけれども、友に対しては告げ知らせる、と言われたのです。ですから私たちも、本当にこの神様との関係を持っているのであるならば、神様は私たちを友と呼んでくださり、神の会議に加えてくださり、神様がなそうとしておられる意図を私たちに教え、時には私たちがとりなし祈るようにと、その意図を教えてくださることもあるのです。

さらにエリファズは10節で「私たちには白髪の者も年老いた者もいる。あなたの父よりも年上だ」と言っています。要するに、自分たちのほうが年長者だから自分の言うことを聞け、ということです。でも、年を重ねたからといって自動的に知恵が身についていくわけではありません。知恵は主から来るものです。

さらに11節、「神の慰めと、あなたに優しく語られた言葉は、あなたにとっては小さなことなのか」と言っています。しかし不思議です。ヨブに災いがあって以降、神様の慰めが一体いつヨブに注がれたでしょうか。「あなたは神様の慰めをないがしろにしている、小さなことにしている」と言うのですが、果たして神様はいつヨブを慰めたでしょうか。ヨブとしてはずっと神様に対して「慰めが欲しい、慰めてほしい」と祈り続けていました。慰めが全くもって感じられなかったからです。どうやらエリファズは、自分たち友人の言葉を「神の慰め」だと言っているような節があります。自分たちが語ってきた言葉、それが神の慰めだ、あなたはそれを感じるのか、というわけです。

しかしエリファズの言葉はヨブの心には届いていませんでした。ヨブはむしろ友人たちに対して、慰めや憐れみ、また好意を求めていると言っていました。友人たちから一切慰めも好意もなく、自分はそれを求めているのに、「あなたがたは水なし川のようだ」と言ったのです。慰めを求め、憐れみを求めたけれども、あなたがたはそれを全く与えず、むしろ難しい神学や論法でねじ伏せようとして、結局ヨブの心には友人たちの言葉は何一つ響いていなかった。でもエリファズは自分たちの言葉を神の慰めと言う。本当に私たちは、このような高慢、自分たちが神の立場に立っているかのような高慢に気をつけるべきです。

さらに14節から16節、「どういう人が清くあり得るのか。女から生まれた者に、だれが正しくあり得るのか。見よ、神はその聖なる者たちをも信頼なさらない」と続きます。実はこの箇所は、エリファズが1回目の弁論で言ったこととほとんど同じです。4章17節から19節で言ったことと、15章14節から16節のことはほとんど同じなのです。同じ説教原稿をもう一度エリファズは読み上げたわけです。1回目の弁論から2回目の弁論までの間、ヨブは本当に、自分にとって必要なものを、また神様に対して心を注ぎ出しました。ですけれどもエリファズは全くもってそれを聞いていなくて、全く同じ説教原稿で、また「自分の言葉を聞け」という感じで言ったのです。

17節以降、「私はあなたに告げる。私に聞け。私が見たことを述べよう」とあります。同じ原稿をもう一度持ち出しておきながら、また「聞け」と言う。そしてどういう内容を述べたかというと、エリファズは悪者の一生を延々と語っています。悪者はこうこう、こういうふうになっていくのだ、と。その根拠は先祖の言い伝えです。ビルダデと同じです。エリファズが描く悪者像は、一生の間、悶え苦しんで、その耳には恐ろしい声が聞こえて、繁栄の時でも荒らす者が襲ってくる、というものです。直接「ヨブ、あなたのことだ」とは言っていませんが、聞いている誰もが「これはヨブのことを揶揄しているのだな」と分かります。本人に向かって「ヨブ、あなたは」とは言わず、遠回しに一般論的なことを言っているようでいて、相手をコテンパンにやっつけている。こういう、いやらしい論法なのです。

さらに25節、26節、「悪者は神に向かって手を伸ばし、全能者に向かって高ぶって、神に向かって突進する」と言っています。でもエリファズには、ヨブが「神様と論じ合いたい」と言ったことが、神様に対する突撃に見えて、神様に歯向かって牙をむいているように見えたわけです。ですからエリファズは本当に偏見で余分なことを見ていて、結局「悪者は瓦礫の山に住んで、消し去られた町に住むことになるぞ」と言うのです。でも結局、ヨブ自身は初めから、自分の子供がもしかしたら罪を犯したかもしれないということで、朝早く起きて全焼のいけにえを捧げるようなことをしていたヨブだったにもかかわらず、エリファズは決めつけているのです。後の章でヨブが主張しているのは、ヨブは一番貧しい者も、みなしごも、やもめをも助けた、盲人の目となり、足の萎えた人の足となった、そういう人でした。そういったことを一切飛ばし飛ばしにして、このヨブを悪者に決めつけていたわけです。

さらに注目したいのが29節から33節です。「ヨブ、あなたはもう華麗で、あなたの若い間ももう広がらない。闇から離れられない。炎がその若枝を、たとえ若枝が張ったとしても枯らして、全能者の息によって追い払われる」と言っています。ヨブは前回「切られた木にも望みがある。若枝は絶えない」と言いましたが、そのヨブの言葉に対してエリファズはへし折っているのです。主は傷んだ葦を折らず、くすぶる灯心を消さない方です。でもエリファズは、怒ったからといって、ヨブが「和解だ」と希望を伸ばした手をピシャンとへし折ってしまっているわけです。もうヨブのことを最初から悪者だと決めてかかっているから、ヨブが何を言ってももう戯言にしか聞こえないで、へし折るようにしています。本当に私たちがしてはならない、その事例がこのエリファズです。

エリファズは30節で「炎がその若枝を枯らす」と言うのですが、聖書は「主の前に若枝のように芽生えさせた」と言います。これはイエス様のことを言っています。イザヤ書53章2節でも、イエス様は乾いた地に出た根のようだと記されています。イエス様にある人は、たとえ切られても若枝が伸びていきます。エリファズは32節で「その枝は茂らない、青々としない」と言いましたが、詩篇92篇14節では「彼らは年老いてもなお実を実らせ、青々と生い茂る」と書いてあります。年をとっても青々と茂っていくことができる。主に望みを置く者はそのようになっていきます。またエリファズは33節で「ぶどうの木のように、熟さない実を落とす」と言っていますが、もし私たちが真のぶどうの木であるイエス様につながっているなら、多くの実を結びます。時にカットされます。ヨブのように。この瞬間的には、神様からいらない枝をカットされて、より多くの実を結ぶようにされたのです。私たちもそのようになっていきます。主は時にカットされます。いらない言葉、いらない手足。もし富を持っていて罪を犯すのであるならば、その富が取り上げられるというカットをなされてしまう。しかしそれは徹底的に滅ぼすためではなく、むしろより実を結ばせるためなのです。事実、ヨブのその後の年は、以前の二倍の実を結びました。ヨブは本当に主に望みを置いていたからです。だからその後には豊かな実を結ばせるようになっていきます。

詩篇1篇2節から3節で、「主の教えを喜びとし、その教えを昼も夜も口ずさむ。そういう人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える」と書いてあります。主に根ざしている人、主に対して「あなた」と二人称で主との交わりを持っている人は、このように根っこを、水路のそばに植わった木のように、真の水源である主にしっかりと張り巡らしているので、ちゃんと時が来れば実を結ぶことができるのです。私たちは本当にこの主に信頼する者となるべきであり、なおかつエリファズのようにならないように気をつけたいと思います。人が握りしめている小さな望みを、イライラしているからといって、「あなたのそんな若い間も、どうせ枯れるよ」などと言ってはなりません。

私たちは本当に、特に信仰が弱っている人を受け入れるべきです。信仰が弱っている人、あるいは初めから信仰を知らない人、生まれつき信仰なしで成人していった人を見ると、私たちはイライラしながら見てしまうものです。けれども、冒頭で宣言したローマ書14章にこう書いてあります。ローマ14:1から見ますと、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。ある人は何を食べても良いと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか、倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は彼を立たせることがおできになるからです。」アーメン。

エリファズは、しもべであるヨブをさばいておりました。けれども、しもべが立つか倒れるかは主人次第です。ヨブはあくまで主を主人としました。しもべは立つのです。主を主人としているしもべは必ず立ちます。アーメン。

ですから私たちは、主にしっかりと根を下ろしているべきであり、そして信仰の弱い人を、安直にエリファズのように「悪人はこれこれ、こういうふうになるんだ」と言うようなことをしてはなりません。エリファズは「悪人はこれこれだ」と、嫌味ったらしく言っているのですが、私たちは本当にそのようになってはなりません。しっかりと、この主の憐れみ、愛、憐れみ、赦し、その慈しみを降り注がせていくべきです。

私たちは「慈しみ深き」を賛美しました。本当に私たちは、その慈しみ深いイエス様に慈しみをいただいたのですから、私たちも慈しみを降り注がせて、主の業に励んでいく、そのような皆さんでありますように、イエス様の名前によって祝福いたします。アーメン。

慈しみ深いイエス様、本当にあなたから慈しみをいただいていたにもかかわらず、まさに私はエリファズのようになっていたことでしょう。あたかも自分が神の側に立っているかのような罪を、どうぞ赦してください。また、私たちが傷つけてきた一人一人を、あなたがその傷を癒してください。私たちも、イエス様、あなたから慈しみをいただいた者として、愛、憐れみ、赦し、その恵みを人々へと、特に弱っている人へと注ぎ出していく者とならせてください。今日いただきました恵みの御言葉に感謝して、私たちの愛する主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

ハレルヤ。主よ、あなたの御名を崇めて大感謝します。イエス様を信じていながらでも、私たちもこういう論争に陥りがちなものです。けれども主よ、この御言葉を通して、いつも私たちに御言葉について教えてくださっていることを心から感謝いたします。私たちはどんなことがあっても、キリストにあって赦される者として、自分の身も心も置くべきです。そして、どんなことがあっても、相手に対しても、キリストにある愛、憐れみ、赦し、その恵みによる赦し以外、私たちは一切知ってはならないということがわかります。

一方は、先祖代々の経験値、そしてそれによってなった結果、それをもってヨブを責めています。けれども主よ、どんなに先祖代々から由来していることだとしても、必ずしも当てはまることはありません。人はそれぞれであり、それぞれの時と場合があるからです。私たちは人の前に置かれているその様々を測る者ではなく、いつでも、どこでも、イエス様に立ち返り、イエス様にあって私たちがいただいている父なる神様の愛、憐れみ、赦し、その恵みに、私たちはいつも立ち返るべきです。

ヨブの友達は、言ってみると、いかにも何か正しいかのような議論をしているのですが、人の議論の中には、もうすでに起きてしまったことに対しての結果論しかありません。あらかじめ注意をして、あらかじめ促し、そしてヨブがこういう目に遭わないようにしてあげた様は、一切彼らにはありません。すでに起きたことを一般論として、彼らは自分のはかりに乗せて、ヨブに「悔い改めなさい」とか「あなたは良くない」とか、そういうことをずっと当てはめてきました。私たちにもありがちなことなのですが、今日のこの箇所を通して、さらに私たちがそういう議論に陥ることがないように気をつけて、イエス様にあって歩んでいきたいと思います。

イエス様、今まで私たちが一般論をもって人を責めるため、人の過ちを探そうとした、そういうことがあるなら、いいえ、きっとあります。主よ、赦してください。そしてこれからは、その一般論ではなく、起きてしまったことへの結論を見てその人を責めるということではなく、起きたこと、それによって苦しんでいる人を憐れんでくださる父なる神様の愛、憐れみ、その恵みにより頼む者となることができますように。主よ、あなたは私たちを助けてください。御霊を通してことごとく思い出させてください。その真実に立つことができますように。私たちを祝福してくださることを心から感謝して、私たちの王であり、主であられる、イエス・キリストの御名によって感謝して祈りました。アーメン。

【結論】

エリファズはヨブの整わない言葉を祈りと認めず、思い込みや一般論・結果論で裁きましたが、心の嘆きを包まず主の前に注ぎ出す「シーハー」こそが真の祈りです。詩篇の作者もハンナもそのように祈りました。私たちはイエス様によって神の会議に招かれた「友」であり、主に根ざす者は切られてもなお若枝を伸ばし、後には二倍の実を結ぶように豊かな実りを与えられます。エリファズのように人の望みをへし折る高慢を捨て、慈しみ深いイエス様からいただいた愛・憐れみ・赦し・恵みに立ち返り、それを人々、特に弱っている人へと注ぎ出していきましょう。主を主人とする者は必ず立たされます。真のぶどうの木であるイエス様につながり、昼も夜も御言葉を口ずさみ、主に信頼して歩んでいきましょう。