涙が恵みの雨に変わる人(詩篇84篇)
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【概要】
詩篇84篇を中心に、主を喜び慕い求める者の幸いと、主の宮に住まうことの喜びを、コラの子たちの歴史とともに語り、さらに説教者自身の苦難と癒しの体験を通して、祈りを妨げる「赦せない思い」を手放し、イエス様と一直線につながることの大切さを語るメッセージです。
【聖書箇所】
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詩篇84:1-5
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詩篇84:3
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詩篇84:4
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詩篇84:5
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詩篇84:10
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詩篇84:12
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詩篇42:1
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詩篇42-49
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民数記16章(コラの反逆)
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Ⅰ列王記19:4
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ローマ10:9-10
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エゼキエル33:11
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創世記45:1-8
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創世記33:1-11
【慰めの言葉】
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心の中に主への道が備わっている人は、たとえ涙の谷であってもそこを泉の湧くところとすることができる。
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主の大庭にいる一日は、他の千日にも勝る幸いである。
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神の祭壇のところで、すずめさえも住処を得る。イエスにあって礼拝を捧げる者には、安心できる住処が与えられる。
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神にとって許されない人は一人もいない。許されたくないと拒んだ人が許されていないだけである。
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あなたにとってどうしようもない人間であっても、神にとっては哀れむべき存在である。
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イエス様はいつも私たちを待ってくださっている。
【励ましの言葉】
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主を喜ぶことが、あなたの力である。主は世のものよりも力強い方である。
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主を信頼し、慕い求める人は、毎日が幸いに満ちる。主は決して色褪せない、良いお方である。
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主を慕い求める人は、わしのごとく翼をかって高く舞い上がり、力から力へと進んでいく。
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心が渇いていても、主に対する直通の道が敷かれているなら、そこは祝福の雨に覆われる。
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イエス様は答える気満々で、あなたの祈りが天と一つになる瞬間を待っておられる。
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心が許せなくても、まず口で許すと告白すれば、その言葉が力となって心の許しへとつながる。
【戒めの言葉】
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コラのように、高ぶって自分も偉くなりたいと願い、主に立てられた者に逆らうことは、恐ろしい滅びを招く。
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自分が立つ場所や与えられた仕事で自分の価値を測ってはならない。これはコラ族のやり方である。
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与えられた役割に不平不満を持つことは、神の御言葉への感受性を失わせる。
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「なんとかなるさ、少し耐える」と癖づいた横暴で無知な心が、これまで人生を滅ぼしてきた。
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福音を宣べ伝えること以外で苦しむことを、主は許しておられない。
【勧めの言葉】
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息を吐き切るほどに「イエス様、助けてください」と、絶え入るほどに熱心に主を求めて祈り続けなさい。そうすれば祈りが変えられていく。
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主を慕い求め、主との一対一の人格的な交わりを持ちましょう。
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祈る時は、ちらほらとよぎる思いに心を奪われず、一つのところへまっすぐ祈り進みましょう。
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人からしてもらった良いことを何一つ忘れず、祈りと思いで返すものとなりなさい。
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自分が今やっていることに不足がないかを点検しなさい。他者と比べて上か下かを測ってはならない。
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祈りの中に妨げが飛び込んできたら、その都度「イエス様、許します」と口で告白しなさい。許すのは相手のためではなく、自分の祈りがイエス様につながるためである。
【悔い改めの促しの言葉】
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命には寿命があり、それを与えてくださった方を尊重して生き抜くべきであり、自ら命を軽んじることは神の御前に言ってはならない。
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私たち自身も、覚えてすらいない仕方で人を傷つけてきた罪人である。自分が罪人であることを知った時、人の罪を赦す力が来る。
【詳細(AIによる文字起こし)】
ハレルヤ。今日も素晴らしい主の御名を褒め称え賛美いたします。主を喜ぶことがあなたの力です。アーメン。皆さん、今、主を喜んでダンスをしておりました。YouTubeの向こう側の皆さんもダンスをしていたことと思いますが、主を喜ぶこと、これが皆さんの力です。なぜなら、主は皆さんより力強く、世のものよりも力強いからです。この主を力としている皆さんには力がみなぎってきます。
今日は詩篇84篇です。ここには、本当に主を慕い求める、そういう人による詩が記されています。主を喜ぶ人、主を拠り所とする人がどんなに力を得ていくか、どんなに幸いを得ていくかということが書いてあります。詩篇84:1-2を宣言します。「指揮者のために。ギテトの調べに乗せて。コラ人による賛歌。万軍の主よ、あなたの住まいは、なんと慕わしいことでしょう。私の魂は主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も身も生ける神に喜びの歌を歌います。」アーメン。
一言お祈りします。主よ、我らもあなたを慕い求めて、今ここに参りました。イエス様、あなたを喜びたいからです。あなたから力を、助けを得たいからです。今、一人一人に臨んでください。この御言葉の時、イエス様と出会わない人が一人もいませんように。イエス様のお名前によってお祈りをいたします。アーメン。
今日の詩篇84篇、「あなたの住まいは、なんと慕わしいことでしょう」。この「なんと」という言葉が、今日の詩篇にいくつも出てきます。1節に、4節にも、5節にも、12節にも出てきます。本当に主はなんと慕わしいお方か。4節では「あなたの家に住む人たちは」、5節では「なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり、心の中にシオンへの大路のある人は」。最後の12節でも「万軍の主よ、なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼する人は」とあります。
主を信頼する人、主を慕わしいと願う人、主と共に歩みたいという人は、本当に毎日が「なんと幸い」なのです。初恋をした人は、その相手が近くにいること、自分のことも相手が好ましいと思っていること、それは本当になんと幸いな日々だろうと思います。初恋の人はやがて素性が明らかにされて、恋が冷めてしまうこともあるでしょう。けれども主は決して色褪せたり、「なんだ、神はこんなにひどいんだ」とそうなっていくことはありません。主は良いお方です。主は慕わしいお方です。
2節は「私の魂は主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです」。本当に絶え入るような祈り。先週、向井先生がメッセージの中で、祈る時に本当に息を吐いて、「イエス様、助けて。イエス様、イエス様」と、肺の空気を全部出し切るほどに吐き切る祈りを語られました。絶え入るほどに主を慕い求める。この「助けて」という熱心が、絶え入るほどの祈りに変わっていく。ぜひこれをし続けてください。本当に祈りが変わっていきます。
このコラ人による詩篇、本当に主を慕い求める詩が続く。礼拝の祈祷でも伝道師が「鹿が谷川を慕いあえぐように、私の魂はあなたを慕いあえぎます」と祈りました。それもコラの詩篇、詩篇42篇です。詩篇42から49まで、コラの子たちによる詩篇が続きます。
ではコラとは誰か。民数記16章に出てくるあのコラです。モーセとアロンに逆らって、代表者たち250人ばかりを呼び寄せて、陰でひそひそ話すのです。「あのモーセは生意気だ。なんであいつばっかり祭司職をやっているんだ。我々もみんな神の民じゃないか」と。けれどもモーセは人の上に立ちたいからではありません。もともと口下手で「どうか他の人をその職につかせてください」と言ったのがモーセでした。モーセが誰よりも謙虚な人だったから、神様が選んでくださったのです。
モーセが「もしコラとそれについた者たちが常ならぬ滅び方をしたら、それは神様が正しいさばきをなさったということだ」と宣言した途端、コラの天幕は地面が裂けて、その穴に落ちていってしまいました。神様は明らかにモーセとアロンに軍配を上げてくださったのです。
ではそのコラの子たちが、なぜ生き延びているのか。コラの子たちの性質は、主を慕いあえぐ性質でした。だから父であるコラの天幕から離れていた。だから助かったのです。主を恐れること、主を慕い求めること、これは滅びを避ける性質になります。しかもこのコラの子孫に、あの偉大な預言者サムエルも出てきます。
3節「雀さえも住処を、燕も雛を入れる巣を、あなたの祭壇のところに得ます」。今イスラエルに嘆きの壁があります。その嘆きの壁にツバメが巣を作っているのです。コラの時代からずっと、神殿の壁のところにツバメが巣作りして、何千年もその代々ヒナを育ててきたのです。4節「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつもあなたを賛美しています」。
本当に自分もツバメのように、主の宮に巣作りしたいのです。そこで家庭を築いて、子育てをして、子供たちが世に出て主の働きをして、また戻ってきて、そういう代々の営みを自分もしたい。この世の上に立って、あくどい政治をして、金だ、権力だと言って人々を神様から離れさせる、そういう人が栄えている有様を見ることはあるでしょう。けれども自然界にはそういうことはありません。ツバメは主の宮に巣を作って、代々代々、主を慕い求める人がこの幸いにあずかります。
詩篇84:5「なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり、心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉の湧くところとします。初めの雨もそこを大いなる祝福でおおいます。彼らは力から力へと進み、シオンで神の御前に現れます。」シオンとは礼拝する場所です。心の中に神様を礼拝する道がしっかり備わっている人は、たとえそこが涙の谷であったとしても、そこを泉の湧くところとします。皆さんの心の内に主に対する直通電話があるなら、さらに力に力を帯びて、有力者となっていくのです。
詩篇84:10「まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは、私の神の家の門口に立ちたいのです。」私は今は牧師ですが、もともと十三、四年ほどコンピューターの仕事をしておりました。世の中に出て行くと本当に乾いていくのです。当時通っていた教会は週に二回開放され、残業で水曜日に行けないときは心が悲しんで、土曜日にその教会で賛美をしておりました。「教会に泊まらせてください」とお願いした夜が本当に素晴らしかった。主の宮に住まいたいと祈っていたら、神様がその祈りを聞いてくださったのです。
ここからは私自身の体験をお話しします。私が四十を過ぎたとき、五十肩になりまして、腕が上がらないのです。ある夜、絶対に上がらない肩を上げて、「イエス様、直してくれなかったら、この手を下ろしません。イエス様、癒してください」と祈り続けました。本当に癒していただきたいと思ったとき、私の魂の中にあるのは「イエス様、癒してください。痛い、癒してください」これしかないのです。
でもお祈りしながら、ちらほらと、あの人がよぎったり、あのことがよぎったりする。この隙間に何かが泳いでくるとき、皆さんのお祈りも泳いでしまうのです。進んでいかなきゃいけないお祈りが、同じ場所をぐるぐる泳いでしまう。なぜここまで根本から祈り方を教えるのか。私があまりにもこっぴどい人生を生きたので、イエス様を呼ばずにはいられなかったからです。あまりにも辛い人生で、でも死ぬに死ねない。命には寿命があり、寿命を与えてくださった方を尊重しながら生き抜かなければならない。
Ⅰ列王記19:4にあるように、エリヤも「私を殺してください」と祈りました。私も一度ならず「私を殺してください」と祈ったことがあります。そうしていくうちに、私は気を失ったのです。細川さんのところに養女として来たガラシアという方は、イエス様を信じたから自害することができず、人に自分の命を差し出しました。キリストにあって生きる人は寿命を生きなければならないからです。
私が味わった地獄の味わいを一分でも皆さんが味わったら、今が天国だと分かります。全身をよぎる、毛穴一本までも苦しい、火傷の熱さのような痛み。私が「殺してください」と言って意識が戻ったとき、キリストなしで死ぬということ、罪の贖いなしで死ぬということが、どれほどの苦しみかを、霊魂の魂が全部体験したのです。十秒もしないうちに「許してください」という言葉が出ました。命を軽んじてはならないということを、イエス様から教えられました。
当時の現実は、子供が一人、私が一人、誰も顧みてくれる人がいない。母乳が出ないのに、ミルクを買うお金がない。残っているのは一円玉だけ。人に蔑まれて、胸の内を話せる人もいなかった。だからイエス様にしか言えるところがなかったのです。けれども祈っている最中に、裏切る者、夫の顔がふっとよぎる。心を込めて助けていた人が私を裏切る。その姿がよぎると、私の感情がそこに移ってしまう。
私たちはいつ一番怒るか分かりますか。心を込めて一生懸命仕えて、その人のために全身全霊を使い果たしたとき、どうしようもない裏切りをされ、さらに蔑まれ、嘲り笑われたときです。あんなに祈っているのに、祈りの答えがない。なぜか分かりますか。
お祈りをして、イエス様と私が一直線に結ばれようとしている時に、いろんなものがお祈りの中に入ってくるのです。自分が人に悪いことをしたことは入ってきません。それが入ってきたら悔い改めてしまうからです。自分が誰かに一生懸命誠実を尽くしたのに、その相手からどうしようもない仕打ちをされたこと、それがぐっと入ってきて、祈りを断絶させるのです。皆さんの祈りが答えられる時というのは一瞬で、自分と祈りが一つになる時があります。その時をイエス様は待っておられる。このつながるために祈りで距離を縮めていく。その時にいつも邪魔が入ってくる。
イエス様は天の御座を捨てて私たちのところに来てくださいました。私たちはしがらみを捨ててイエス様に行くのです。まだ祈りが本気になって出てこないのは、「なんとかなるさ、少し耐える、少し待つ」という横暴で無知な心です。キリストの福音を宣べ伝えること以外で苦しむことを、主は許しておられません。福音のために捕らわれたり鞭打たれたりすることはあります。けれどもそれ以外の諸々の苦しみは、神様の計画の中に一つもないことなのです。
私は一生懸命イエス様のために生きていたので、イエス様が一番喜ぶことは伝道だと。この教会もほとんど私が伝道した人です。なのに私が苦しくて死にたいということを誰にも言えない。私が伝道した人たちが試みに会うからです。だからイエス様にだけ言う。イエス様は答えようとしてくださっているのに、その前にいつも私が絶対に許せない人が来るのです。
しかし、神にとって許されない人は一人もいません。許されたくないと拒んだ人が許されていないだけなのです。エゼキエル33:11には「わたしは悪人の死を喜ばない」とあります。私にとってどうしようもない人間であっても、神にとっては哀れなものなのです。
とりなし祈れ、と最終的に命令されます。ある時、許しのとりなしに乗ったら、その相手が交通事故で死ぬのではないかと恐れた、という連絡がありました。そこで許しの力について教えます。皆さん、心が許さなくてもいいのです。まず口が許す。そして口で許した言葉が力になって、心も許しにつながるのです。ローマ10:9-10に「口でイエスを主と告白し、心で神がイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」とあります。この救いは、あらゆるしがらみから私を救うためにも、口で告白しなければならないのです。
敵が救われるのではない、私が救われるのです。「許します」と言うのは、そいつを許すためではなく、私の祈りがイエス様につながるために必要なのです。「許します」と言ったからといって、次の日から「さあ仲良くしましょう」とする必要はありません。そういう関係になるためには、イエス様が時間と空間を用意してくださる時があります。祈っている時に「ああ、また来た。イエス様、許します」ということで、この祈りを邪魔する力を取り除くことです。
ヨセフを見てください。創世記45:5-8にあるように「自分を売ったことを悲しむな。神が命を救うために、あなたがたより先に私を遣わされたのだ」と。余裕があるから、兄たちを許すことができたのです。エサウがヤコブを許したのもそうです。創世記33章にあるように、自分が神様の祝福で満たされていたから、ヤコブがラバンのもとで苦労したと聞いて「かわいそうだ」と思えた。私たちもお祈りを邪魔するものを片付けると、ヨセフのようになるのです。敵が水に流される。いいえ、私たちが水に流すのです。
水に流そうと思っても、どうしても思い出してしまう人がいるなら、こう祈りましょう。「主よ、私の脳のどこがそれをずっと思い出させているのですか。そこを少しいじってください。思い出せないようにしてください」と。私は人に対してやってはならないことをよく思い出すようにしてくださいと祈っています。そして、人が私に良くしてくれたことを、何一つ忘れないものになりたい。私は人から物をいただくと、使うたびにその人のために祈らなければならない。その責任を物で返すのはそっけない。だから私は祈りや思いで返そうとしています。
詩篇84:3に「あなたの祭壇のあたりに、すずめも住処を得、つばめもひなを入れる巣を得ています」とあります。安心できる住処は、神様と礼拝がつながっている人に与えられるということです。
ここで思い起こすのが、コラの思想です。「モーセとアロンだけが大祭司、預言者として用いられるのは良くない。私たちも神から選ばれた民だ。当番制にしてもいいじゃないか。あなたたちもたまには荷物を運べ」と。イスラエルの十二部族はすべて役割が分担され、神様の御前において与えられていたことだったのです。ところが彼らは「私だって祭司の装束を着れば祭司ができる。杖を持てば預言者ができる」と不平を言った。
モーセはこう言いました。「あなたたちの言っていることが正しいのなら、私に災いが下るように。どちらが正しいかを主に決めていただこう」と。その結果、モーセとアロンが上げられ、コラと手を組んだ人たちは、一斉に地面が割れて飲み込まれてしまったのです。その集まった者が250人。それをコラの子孫の幾人かが見て、「ここにいてはやばい、出よう」と、その場を捨てた人たちが生き残ったのです。
250人とは、神様が仰せられた御言葉に全然感受性がない人たちです。みんな長い服を着て、杖を持って、人の注目の場所に立ちたい人たちだった。自分に与えられている仕事に満足しないで、不平不満があったということです。私が便所掃除をしても、教会の掃除をしても、祭壇の掃除をしても、イエス様が「便所掃除をした者はあの辺に座りなさい」と言っていますか。言っていません。主に捧げ物としてしているという思いがあるならば、みんな同じなのです。自分が今与えられていることに不足がないかを点検する心が必要であって、あの人より勝っている、劣っている、そういう測り方をすることは一切してはならない。
牧師の立つ場所が欲しいのなら、その働きを支え、祈りで支えてください。やっていることの上か下かを測るというのは、コラ族のやることです。一切してはならない。
皆さん、覚えてください。一方的に傷ついたでしょうか。皆さんが覚えてもいないところで、皆さん自身が傷つけた人がいるのです。自分が罪人であることを知った時、我らの罪が赦されると同時に、彼らの罪をも赦す力が来るのです。イエス様は私たち罪人を救うために御座を捨ててまで来てくださり、「テテレスタイ(完了した)」と宣言してくださった神です。イエス様に赦されている自分が、自分だけ良ければよいと生きることはまともでしょうか。
心が赦さなくても、口で赦しましょう。口で赦したその告白を受けたイエス様が、心が赦す余裕の環境を作ってくださるのです。ヨセフがそうでした。自分を殺しかけた兄、売り飛ばした兄を赦すことによって、彼は上り詰めるべき場所に上ることができたのです。私たちにも、赦すことによって、主が備えられた上り詰めるべき場所があります。だからこの赦しのことを終えて、御前に行きますように。イエス様と一直線につながりますように。主よ、あなたが祝福してください。
【結論】
主を喜び、絶え入るほどに慕い求める人は、なんと幸いな者でしょうか。コラの子たちが父の滅びから離れて主を慕い求めたように、主を恐れ、主を慕い求めることは滅びを避け、その子孫にまで及ぶ祝福の道です。心の中に主への直通の道を敷いている者は、たとえ涙の谷や乾いた現実の中にあっても、そこを泉の湧くところとし、力から力へと進んでいきます。命は主から与えられた寿命であり、それを尊重して生き抜くこと、そして自分の立場や役割を他者と比べて測らず、どこで何をしていても主への捧げ物として生きることが大切です。そして、祈りがイエス様へ真っ直ぐつながろうとする瞬間に飛び込んでくる「赦せない思い」こそ、私たちの祈りと人生を妨げる最大の敵です。心では赦せなくても、まず口で「イエス様、許します」と告白しなさい。その告白を受けたイエス様が、ヨセフにそうされたように、心から赦せる環境を整え、私たちを上り詰めるべき場所へと導いてくださいます。赦しは相手のためである以上に、イエス様との関係を一直線につなぐ、自分自身の幸いのためなのです。