よく聞いてくれ、それが慰め − 聞くことの大切さと永遠の希望(ヨブ記21章)
メッセージ音声
【概要】
ヨブ記21章から、「よく聞いてくれ、それが慰めだ」というヨブの叫びを通して、話を遮り決めつけることが人の心にしこりを積み上げてしまう危うさと、地上の不条理に対する答えが永遠の希望とイエス様に聞くことにあることを語るメッセージです。
【聖書箇所】
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ヨブ21:1-3
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ヨブ21:4-6
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ヤコブ1:19-20
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ヨブ21:7-13
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エレミヤ12:1
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詩篇73篇
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マタイ13:1-23
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ヨハネ9:3
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ヨブ21:14-15
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ヨブ21:23-26
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ルカ16:19-31
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ヨブ21:34
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ヤコブ1:21
【戒めの言葉】
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相手の話を最後まで聞かずに遮り、「あなたはいつもこうでしょう」と決めつけていないでしょうか。言葉で打ち負かしても相手は納得せず、心の中にしこりが雪玉のように積み上がり、やがて爆発します。
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主の御名抜きの人間的な議論は、義人さえ低いレベルへと引きずり落とし、人を病ませます。
【勧めの言葉】
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聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありましょう。
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目に見えている言動は氷山の一角です。その下に何があるのかは、人の心を探り極める聖霊に聞きましょう。
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わからないことや疑問があれば、イエス様に持って行き、イエス様に聞きましょう。それが弟子のたしなみです。
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人間の言葉ではなく、心に植えつけられた御言葉を素直に受け入れましょう。
【慰めの言葉】
地上では不条理に見えることがあっても、永遠があります。神様は一切の不公平なく正しく報いてくださり、イエス・キリストを信じる者は死んでも永遠に生きます。
【詳細】
今日の御言葉はヨブ記21章です。はじめに1節から3節です。
「ヨブは答えた。私の言い分をよく聞いてくれ。それをあなたがたから私への慰めにしてくれ。まず、この私が話すのを許してくれ。私が話し終わってから、あざけるがよい。」(ヨブ21:1-3)
愛する主よ、私たちも何かと口が走りがちです。口よりもまず耳を使うことができますように。あなたは「聞け、イスラエル」と仰せられました。私たちもしっかりとあなたに聞き、人の言葉も聞いて、ただ真理だけを語る唇でありますように。御言葉を通して一人一人を養ってください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
今朝もこの御言葉との幸いなひと時を感謝します。ヨブ記は難しく恵みが少ないと思われがちですが、心から気をつけるべき教訓をたくさん得ることができます。
前の20章でツォファルは「悪い者は必ず滅び、その楽しみは長く続かない」と語りましたが、ヨブにはまったく響きませんでした。前提の「ヨブは悪人だ」という決めつけが間違っていたからです。ボタンを掛け違えた服を「ほら、着ろ」と押し付けられても迷惑なだけです。この後のエリファズの三回目の弁論でも、その押し着せが続きます。
今回の21章は、それに対するヨブの答えです。ヨブは「どうか現実をよく見てほしい」と言います。神様を恐れない人が長生きし、家庭も仕事も順調に見える。一方、神様を恐れて歩んできた自分は、すべてを失って苦しんでいる。この現実をあなたはどう説明するのか、ということです。
私たちも、真面目に働いている人がなぜ損をするのか、自分を傷つけた神を恐れない人がなぜのうのうと暮らしているのか、と思うことがあります。その時、ヨブのような「どうして」が湧き起こります。大事なのは、その問いをどこに持って行くかです。神様に「どうしてですか」と持って行くうちに、私たちは神様と親しくなっていきます。ヨブはずっと神様に問いを持って行ってはいましたが、友人たちから人間の言葉、人間の判断、哲学や宗教を押し着せられ続けるうちに、だんだん爆発していきます。義人力が高く、奥さんを素晴らしい忍耐で諭したヨブが、だんだんヨブらしさを失っていく。それを壊していくのが、主の御名なしの人間の議論と決めつけなのです。それは皆さんをも壊していきます。
2節でヨブは「私の言い分をよく聞いてくれ。それが、あなたがたが私にくれる慰めだ」と言います。ヘブライ語の原典では「シムウ・シャモア」で、「シェマ(聞く)」という動詞が形を変えて二回繰り返されています。最初は「あなたがたは聞け」という命令形で、それをもう一度繰り返して強調しているのです。「どうか聞いてくれ、聞き流さないで、しっかり注意を向けてほしい」という強い訴えです。前の19章では「あわれんでくれ、あわれんでくれ」と二回繰り返しました。今回は「聞いてくれ、聞いてくれ」です。ヨブの荒々しい言葉や尋常でない振る舞いの原因は、聞いてもらえないこと、憐れみを受けられないことにありました。聞かず、憐れまないなら、相手はますます暴力的になり、無秩序になっていきます。
私たち主の働き人は、相手に慰めをもたらすべきです。もし相手がますます荒れていくなら、自分の側が暴風のような言葉を浴びせかけていないか、相手の有様を見ずに「あなたはこれこれだ」と決めつけていないか、よく気をつけるべきです。話すよりも、言葉を受け止めることが慰めになるのです。
3節で、ヨブは「話し終わるまで待ってくれ。そのあとで、あざけるがよい」とまで言います。聞いてほしいという願いと、また嘲られるのではないかという恐れが入り混じった、ヨブの心が垣間見えます。
私たちは、相手がまだ話しているのに割り込みがちです。親しい人が「今日は本当につらかったんだよ」と話し始めたのに、最後まで聞かずに「あなたが悪かったんじゃないの。あなたはいつもこうでしょう」と遮っていないでしょうか。多くの人は口を閉ざしますが、それは納得したからではありません。「もういい、この人は何もわかっていない」とあきらめて黙るのです。そうして心のしこりが雪玉のように積み上がり、いつかヨブのように爆発します。弁の立たない人は、物を壊すなど別の形で雪崩を起こしてしまうのです。
冒頭で宣言した御言葉はヤコブ書1章19節と20節でした。「私の愛する兄弟たち、このことをわきまえていなさい。人はだれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くありなさい。人の怒りは神の義を実現しないのです。」(ヤコブ1:19-20)
もちろん、何でもかんでも相手の言葉を聞いていればよいわけではありません。話させることで相手に罪を犯させてしまう場合もあります。けれども、なぜこの人はこう言うのか、なぜこうするのか。表面に出ているのは氷山の一角に過ぎず、水面下に何があるのかを、私たち人間は計り知ることができません。人の心の底を探り極めることができるのは聖霊様だけです。だから私たちはいつも「主よ、これはどういうことですか。今、何をするのが最善ですか」と主に聞くのです。
4節から6節でヨブは言います。「この私の不平は人に向かってであろうか。なぜ私が苛立ってはならないのか。私の方を向いてくれ。驚き恐れよ。そして手を口に当てよ。私はそのことを思い出すと怯え、戦慄が私の体をつかむ。」(ヨブ21:4-6)
なぜこんなに苛立ち、激しい言葉を吐き出しているのか。その水面下には大きな氷山が眠っている。だから口に手を当てて黙って聞いてほしい、ということです。友人たちは「悪人は罰を受け、善人は報われる」という単純な因果応報を語りますが、ヨブは「そんな簡単なことではない。身を震わせるほどの不条理が、この地上にはたくさん起きている」と語り始めます。
「なぜ、悪しき者が生き長らえて年をとっても、なお力を増し加えるのか。その子孫は彼らとともに……彼らの家は平和で恐れもなく、神のむちが彼らの上に下されることもない」(ヨブ21:7-9)。家畜は増え、子どもたちは羊の群れのように遊び回り、タンバリンや竪琴に合わせて歌い、笛の音で楽しみ、幸せのうちに寿命を全うして、安らかによみに下る(ヨブ21:10-13)。悪い者が安逸をむさぼり、その子孫も楽しんでいるのに、その下で苦しんでいる人がたくさんいる。なぜなのか、とヨブは問います。
この疑問はヨブだけのものではありません。エレミヤも「主よ、あなたは正しくあられます。……なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者がみな、安らかなのですか」(エレミヤ12:1)と問いました。詩篇73篇のアサフの賛歌も同じ疑問を投げかけています。エレミヤは、主が正しいことを認めた上で「それでもお尋ねしたいことがあります」と祈りました。神様が正しく、すべてを許可しておられることは知っている。けれども理解できない。「なぜですか」と問うことは、不信仰とはまったく別物です。疑問を持つこと自体は不信仰ではありません。大事なのは、その疑問をイエス様に持って行き、イエス様に話し、イエス様に聞くことです。それを繰り返すうちに、皆さんはどんどん弟子になっていきます。
イエス様の種まきのたとえも、多くの人々にとっては難解なままでした。「何か良い話だったのだろう」と思いながら、イエス様に聞きもせずに去って行きました。けれども弟子たちは「あのたとえはどういう意味ですか」と尋ねたので、教えていただくことができました(マタイ13:1-23)。わからないことはイエス様に聞く。これが弟子のたしなみです。ヨブは主に尋ねていきましたが、友人たちはヨブ記を見る限り、主に尋ね求めたことは一度もありませんでした。
もちろんヨブは「悪人は一人残らず幸福だ」と言っているのではありません。「災いにあったという理由だけで、悪人だと決めつけることはできない」と言いたいのです。この世ではさまざまな不条理が起こります。けれどもイエス様は、生まれつき目の見えない人について「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです」(ヨハネ9:3)と言われました。罪を犯したにせよ犯さなかったにせよ、神の栄光がその上を覆うほどに、神様は力強く業をなしてくださるお方です。だから、誰かが災いにあっている時、「誰のせいだ、この人の罪だ、親が悪いんだ」と簡単に決めつけるべきではありません。むしろ、どうしたらこの人に神の業が現れるのか、その背後に何があるのかを主に聞くべきです。主は時に「原因はあなたにあるのだよ」と示されることもあるかもしれません。だからこそ、いつも主に聞くのです。
14節以降で、ヨブは神様を退ける人々の言葉を取り上げます。「彼らは神に向かって言う。『私たちから離れよ。私たちはあなたの道を知りたくない。全能者とは何なのか。私たちが仕えなければならないとは。私たちが彼に祈ったところで、どんな益があるのか』と。」(ヨブ21:14-15)
朝早く起きて早天礼拝をし、祈って何の益があるのか、と神様を知らない人は思います。皆さんはその益を十分に体験していますが、神様を知らない人にはまったくわかりません。ヨブがここで神様を捨てたわけではありません。ただ、「あなたがたは因果応報を言うが、世の中を見ればこういう現実もあるではないか」と指摘しているのです。
さらに23節以降でヨブは、二人の人の死を描きます。一人は十分に満たされ、安らかに生涯を終える。もう一人は何の良いものも味わわず、心を苦しめながら死んでいく。けれども二人とも同じちりに伏し、うじ虫が彼らをおおう(ヨブ21:23-26)。世の人の目から見れば、世の中は不条理に見えます。旧約においても、不条理に見えることが多くあります。
けれども皆さん、永遠があるのです。イエス様は永遠を示し、天国を示してくださいました。イエス様は金持ちとラザロの話をされました(ルカ16:19-31)。ラザロは地上で何の良いものも受けませんでしたが、死後アブラハムのふところで慰めを受けました。金持ちは目の前にいたラザロに施しをせず、律法を守らなかったので、死後よみで苦しみを受けました。世の中の不条理は、永遠の観点から見れば、神様が一切の不公平なく正しく報いてくださいます。そしてイエス・キリストにあって生き、イエス・キリストを信じて死んだ人は、死ぬことがなく永遠に生きるのです。新約の私たちには、この永遠の希望があります。
27節以降、ヨブは友人たちに矛先を向け、論破する方向に走ります。そして34節でこう締めくくります。「それなのに、どうしてあなたがたは、空しいことばで私を慰めようとするのか。あなたがたの応答は不真実以外の何ものでもない。」(ヨブ21:34)
友人たちの弁論を、ヨブはばっさりと切り捨てました。今回の21章で、ヨブは神様に向かった言葉を一つも語っていません。その代わりに、友人たちとの議論という低いレベルの土俵に降りていき、どんどん低い方へ向かっていきます。主の御名のない人間の議論は人を病ませ、義人さえも低いレベルへ落とし込んでいきます。もし義人を低いレベルに落としたいなら、人間的な議論を延々と続ければよい、と言いたくなるほどです。もちろん、そんなことを勧めているのではありません。たとえです。私たちは人間的な議論、主の御名抜きの言葉を発するべきではありません。
「人の怒りは神の義を実現しない」と先ほど引用しましたが、ヤコブ書はさらにこう続きます。「ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。」(ヤコブ1:21)
人間の言葉ではなく、御言葉、神の言葉をもって、自分を救い、人を救い、この地域を救っていく皆さんでありますように。
愛するイエス様、私たちは口で罪を犯しがちです。語るのに遅く、怒るのに遅く、私たちの唇がただイエス様に聞き、「イエス様、どうしてですか」と尋ね、イエス様から聞いたことを流し出す唇でありますように。今日ヨブ記からいただいた恵みに感謝して、イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。
【結論】
ヨブが求めたのは、「あわれんでくれ」に続いて「よく聞いてくれ。それが慰めだ」ということでした。話を遮り、決めつけ、言葉で打ち負かしても、人は納得せず、心のしこりが積み上がっていくだけです。目に見える言動は氷山の一角であり、その下にあるものは聖霊だけがご存じです。地上の不条理に「なぜ」と問うことは不信仰ではなく、その問いをイエス様に持って行くことで私たちは弟子とされていきます。そして私たちには永遠の希望があります。聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅く、主の御名抜きの議論ではなく、魂を救う御言葉によって人を慰める者となりましょう。