上からの知恵と下からの知恵 − 苛立ちと焦りから出たツォファルの言葉(ヨブ記20章)

Written by

in

上からの知恵と下からの知恵 − 苛立ちと焦りから出たツォファルの言葉(ヨブ記20章)

メッセージ音声

【概要】

ヨブ記20章のツォファルの二度目の弁論から、苛立ちと焦りに突き動かされた「下からの知恵」がいかに人を傷つけるかを学び、清く平和で憐れみに満ちた「上からの知恵」と御霊に教えられた言葉によって人を立て上げることを語るメッセージです。

【聖書箇所】

  • ヨブ20:1-3

  • ヨブ19:21

  • ヨブ19:25

  • ヨブ19:28-29

  • ヨブ20:29

  • ヤコブ3:17-18

  • ガラテヤ5:22-23

  • ヤコブ3:13-16

  • ヨブ20:4-11

  • ヨブ20:12-15

  • Ⅰコリント2:11-16

【戒めの言葉】

  • 苛立ちと焦りから出る言葉は「悟りを与える霊」のように見えても、上からのものではなく、地上の、肉的で悪魔的なものです。妬みや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れがあります。

  • どんなに正しい真理でも、当てはめる相手を間違えると、人を打つ石になってしまいます。

  • 怒りをモチベーションにしてはなりません。それは人を立て上げず、人に穴を開けるドリルのようになってしまいます。

【勧めの言葉】

  • 知恵がある人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しましょう。

  • 混乱した状況に出会ったら、怒りに火をつけるのではなく、まず人の心を探り極める御霊に「主よ、これはどういう状況ですか」と聞きましょう。

  • 決めつけと防御の応酬ではなく、愛の言葉の応酬で一日を満たしましょう。

【励ましの言葉】

私たちはこの世の霊ではなく神からの霊を受け、キリストの心を持っています。御霊に満たされるなら、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実が豊かに実ります。

【詳細】

ヨブ記20章が本日の御言葉です。はじめに1節から3節を宣言いたします。

「ナアマ人ツォファルが答えた。それだから、苛立つ思いが私に応答させるのだ。私の心の焦りのゆえに。私は自分への侮辱となる訓戒を聞く。だが、悟りを与える霊が私に答えを促すのだ。」(ヨブ20:1-3)

私たちを愛する主イエス様、私たちも苛立つ思いや心の焦りのゆえに、いらない言葉が口から出てしまいます。どうか主により頼み、主の御名を呼び求め、主の御名を宣言する唇でありますように。取り次ぐしもべの唇と、一人一人の耳を通りよくしてください。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

イエス様は良いお方です。イエス様の光に照らされると、悪い自分が浮き立たされることがありますが、そのたびにイエス様に立ち返り、良き恵みをいただく者でありたいと思います。

前回のおさらいです。ヨブは「私をあわれめ。私をあわれめ」(ヨブ19:21)と、二度繰り返して憐れみを求めました。そして「私は知っている。私を贖う方は生きておられ」(ヨブ19:25)という素晴らしい告白をしました。親族も、しもべも、妻さえも離れていきましたが、最も近い買い戻しの権利者、イエス様が生きておられるという告白です。この言葉でヘンデルの「メサイア」第3部が始まることもお話ししました。

では、ヨブの信仰告白と「あわれんでくれ」という叫びに対して、何が返ってきたでしょうか。それがこの20章のツォファルの言葉です。ツォファルは顔を真っ赤にして怒り心頭で立ち上がり、「苛立つ思いが私に応答させるのだ。私の心の焦りのゆえに」と言いました。そして「私は自分への侮辱となる訓戒を聞く」と言います。

ヨブは19章の最後でこう言っていました。「もし、あなたがたが『どのように彼を追いつめようか。事の原因は彼にあるのだから』と言うなら、あなたがたは剣を恐れよ。憤りが剣による刑罰をもたらすからだ。あなたがたは、さばきがあることを知るようになる。」(ヨブ19:28-29)

ヨブは初め、身に覚えのない災いのゆえに神様に向かって憤り、自分の生まれた日を呪いました。それを見た友人たちは「ヨブがおかしくなった、罪を犯すようになった」と言い、「神様は良いお方だ、罪を犯す者はこうなる」と言い続けたので、話がどんどんこじれていきました。そしてツォファルには、19章のヨブの言葉が自分への侮辱に聞こえてしまったのです。ヨブの「贖い主は生きておられる」という告白も、「あわれんでくれ」という叫びも、右から左へ素通りし、侮辱されたという思いだけが心に残りました。

それでツォファルは20章で、初めから終わりまで「悪人はこうなる、悪人はこうなる」と語り続け、最後の29節で「これが悪しき人間が神から受ける分、神によって定められた彼の受け継ぐものである」(ヨブ20:29)と締めくくります。直前のビルダデも同じことを言っていました。実に悲しいことですが、ここに私たちも陥りやすい罠があります。ツォファルはヨブの「剣を恐れよ」という言葉に反応し、それが自分に突き刺さったのです。

ツォファルは「悟りを与える霊が私に答えを促す」と言いましたが、その霊はどこから来たのでしょうか。2節で本人が言っている通り、その正体は苛立ちと焦りです。それは上から来たものでしょうか、下から来たものでしょうか。冒頭で宣言したヤコブ書3章17節と18節を見ましょう。

「しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。義の実を結ばせる種は、平和をつくる人々によって平和のうちに蒔かれるのです。」(ヤコブ3:17-18)

私は新改訳第3版で覚えていますが、そこでは「上からの知恵は、まず第一に純真であり、次に平和、寛容、温順」とあります。上からの知恵は協調性があり、憐れみに満ちています。ヨブが「あわれんでくれ」と言ったなら、「ああ、ヨブは憐れみを求めているのだ」と寄り添うのが上からの知恵です。けれどもツォファルは、苛立ちと焦りに基づく下からの霊で語りました。ヨブ記は偏見に満ちているからこそ、こんなにこじれて、20章、30章と続いていくのです。

ヨブ記は詩篇と同じ詩文体で書かれています。私は正直なところ、神様抜きの人間の詩はあまり好きではありません。ヨブ記の友人たちの議論も詩文体ですが、こじれにこじれて難しい。私はむしろ詩篇の詩文体の方が好きです。皆さんの人生は、どちらの詩文体になるでしょうか。ヨブ記の議論のようではなく、詩篇のようになりたいものです。そのためには上からの知恵に満たされる必要があります。御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です(ガラテヤ5:22-23)。

ヤコブはその少し前でこう言っています。「あなたがたのうちで、知恵があり、分別のある人はだれでしょうか。その人はその知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい。そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。」(ヤコブ3:13-16)

もし秩序が乱れているなら、私たちは気をつけるべきです。そこには妬みや利己的な思い、自慢があるのです。人を導き、人を教える立場にあるなら、知恵にふさわしい柔和な行いを、生き方によって示すことに本当に気をつけなくてはなりません。

ツォファルは4節から11節まで、昔からの真理を滔々と語ります。悪しき者の喜びは短く、神を敬わない者の楽しみは束の間であり、その高ぶりが天に届いても、夢のように飛び去り、夜の幻のように消えてしまう、と(ヨブ20:4-11)。それ自体は間違いではありません。けれども、神様が「地上には彼ほどの者はいない」と評価されたヨブに、それを当てはめようとしているのです。

どんなに正しい言葉でも、当てはめる相手を間違えると、高尚な真理が途端に人を打つ石に変わってしまいます。新しいドリルを買って試したくなっても、穴を開けるべき所に開けるのがドリルの本来の使い方です。開けてはいけない所に穴を開けるのは、良くない使い方です。皆さんが真理を持っているなら、それを当てはめるべき所に正しく用いなければなりません。

12節以降では、「たとえ悪が口に甘く、彼がそれを舌の裏に隠しても、それを惜しんで捨てようとせず、口の奥にとどめていても、彼が食べた物は腹の中で変わり、彼の内側でコブラの毒となる。富を飲み込んでも、彼はそれを吐き出す。神がそれを彼の腹から出される」(ヨブ20:12-15)と語ります。人から無理やり剥ぎ取ったものは、初めは甘い食べ物のように見えても、苦い毒に変わるということです。これを読むと、まるでヨブが貧しい者から奪って私腹を肥やしたことを前提にしているかのようです。けれどもヨブはそんなことはしていません。

なぜツォファルはこんな偏見を持ったのでしょうか。2節にある通り、怒りと焦りが根本にあったからです。焦りを前提にして議論を始めると、一方的な決めつけになってしまいます。的外れな決めつけによる無益な責め立てを受けた側は、防御し、さらに攻撃します。するとまた決めつけと責め立てが返ってくる。この応酬が延々と続いていくのです。皆さん、これから始まる一日を、テニスのラリーのような決めつけと防御の応酬で過ごすのではなく、柔和で、上からの知恵に満ちた、愛の言葉の応酬で満たしていきましょう。

結局20章は、ヨブは悪人だという決めつけを前提に、「悪人はこうなる」という容赦ない攻撃で終始しました。なんと的外れな議論でしょうか。ヨブ記は難しい、高尚な哲学が続いているようで好きではない、と言う人もいます。けれども、苛立ちに支配されると私たちの言葉もこうなってしまうという、本当に良い反面教師なのです。

私たちの職分は、人を真理へと導くことです。怒りや苛立ちの衝動を動機にしてはなりません。怒りがモチベーションの人は強そうで、言論も巧みそうに見えます。けれどもそれは人を立て上げず、人に穴を開けるドリルのようになってしまいます。ヨブのように絶望のどん底にある人を、どう助ければよいのでしょうか。何かが起きた時、怒りの方に火をつけるのではなく、聖霊の火をつける方に向かうべきです。この人はなぜこうなっているのか、この混沌とした状況はなぜ生まれたのか、まずすべてを探り極めるお方に聞くことから始めるべきです。

「人間のことは、その人のうちにある人間の霊のほかに、いったいだれが知っているでしょう。同じように、神のことは、神の霊のほかにはだれも知りません。しかし私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神からの霊を受けました。それで私たちは、神が私たちに恵みとして与えてくださったものを知るのです。それについて語るのに、私たちは人間の知恵によって教えられたことばではなく、御霊に教えられたことばを用います。」(Ⅰコリント2:11-13)

そして「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。……『だれが主の心を知り、主に助言するというのですか。』しかし、私たちはキリストの心を持っています」(Ⅰコリント2:14-16)と続きます。私たちは人間の知恵ではなく、御霊に教えられた言葉を語るべきです。

ヨブの友人たちは、怒りや妬み、決めつけや思い込みを前提にして、物事を険悪にしていきました。私たちは物事を見た時、まず怒りではなく御霊に向かい、「主よ、これはどういう状況でしょうか。人の心を探り極めるお方よ、私に教えてください」と聞くべきです。冒頭で賛美したように、聖霊は流れる川のように、主が与える平和で私たちの心を溢れさせてくださいます。御霊に満たされ、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を豊かに結ぶ皆さんでありますように。

愛するイエス様、ヨブの友人たちの罠に陥りがちな私たちです。ヨブ記にはなんと主の御名が少ないことでしょう。私たちの普段の生活も、なんと主の御名を呼ばないことでしょう。いつも御霊に聞き、主の御名を宣言し、イエス様のようにいつも御父に心を向け、主から賜る平和を泉のように湧き出させる私たちでありますように。イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【結論】

ツォファルは「悟りを与える霊」に促されたと言いながら、実際には苛立ちと焦りに動かされ、ヨブの憐れみを求める叫びも信仰告白も聞かず、「悪人はこうなる」という決めつけでヨブを打ちました。正しい真理でも、当てはめる相手を間違え、怒りを動機にして語るなら、人を打つ石、人に穴を開けるドリルになってしまいます。清く、平和で、優しく、憐れみに満ちた上からの知恵に満たされ、何かが起きた時にはまず人の心を探り極める御霊に聞き、御霊に教えられた言葉で人を立て上げていきましょう。